恐怖の終わり、あるいは始まり

サトウ・レン

恐怖の終わり、あるいは始まり

「大丈夫、大丈夫。こんなミス誰にでもあることだから。気にしないでもいいよ」〈余計な手間取らせるんじゃねぇよ。役立たずが〉


「ごめん。明日までにこの資料、完成させておいて欲しいんだ。俺は、ちょっとこれから用事があって……えっ、今日は用事があるから残業できないって? ふーん。そっかまぁそれなら仕方ないね。別の人に頼むから。いいよ、いいよ。気にしないでも」〈普段まともに仕事も出来ねえんだから、こういう時くらい仕事優先しろよ。馬鹿が。死ねよ〉


 いつだって俺の頭の中で、誰かの言葉が補足されていく。後に続く実際には放たれなかった言葉がいつも俺を苦しめる。優しい人間なんて俺の周囲には誰もいない。どんなに優しい言葉も俺が呪詛に変換してしまうからだ。時に現実と妄想の言葉の区切りが分からなくなる俺にとって、その言葉が現実かどうかなど意味を成さなくなる時がある。


「死ねよ。死ね。死ね」

 そんな同僚の子供じみた今日の罵倒が現実か妄想だったかなど、どうでもいい話だ。実際に聞こえたという俺にとっての真実があるだけだ。


 死んでやるよ。

 帰りの駅のホームで頭に死がよぎらなかった最後の日はいつだろうか。もう思い出すこともできない。学生時代にまで遡れば、一度くらいはあっただろうか。すくなくとも今の会社に入ってからそう思わなかった日は一度もない。世界中のすべてのひとを敵に回すことしかできない俺の思考で、孤独にならないわけがない。物理的な孤独ではなく精神的な孤独だ。いつも俺は精神的な孤独に苛まれている。


 駅のホームから赤茶けたレールに飛び降りて、俺は寝転がる。悲鳴のひとつも聞こえない。誰も声ひとつ上げない静寂に包まれた人混みの中で俺はゆっくりと死を待つ。災厄の日々が落ち着き、距離を取ることが奨励されるようになった世界で嘆きの声は後を絶たないが、そもそも俺の近くにいる者はすべて敵で、誰かと近くにいたいと思ったことなど、元から一度もなかった。


 殺せ、死ね。殺す、死ぬ。


 俺は殺されることを願っていた。壊れることを願っていた。誰も俺の存在に気付かない。世界中のすべての敵たちは俺に興味ひとつ持たない。そう、それでいい。どうせ俺はもう死ぬだけ、なのだから。


 轢け、潰せ――――。


 知っている。

 夢の中で覚醒しているように途中から夢だと気付いていた。


 眼を開けてまず飛び込んできた景色が澱んだ夜の黒だった。そうか……俺は、電車に乗っていたのか、と今更思い出す。成長の過程のどこかで他者への配慮というものを置き忘れてきたのであろう勤務先の上司に押し付けられた膨大な仕事による残業が、いつまで経っても終わらず、終電にぎりぎり間に合ってほっとした途端、睡魔が襲ってきた。そうか……それでそのまま眠ってしまったのか……?


 自分以外、誰もいない静かな空間は眠るのには最適だった。降りる駅は終点で、そこまではまだ距離がある。もうすこし寝ようか、と目を瞑るが一度起きてしまうと中々眠れない。


 それから数分経ったくらいだろうか、耳元に、

 くちゃくちゃ

 という不快な音が聞こえた。


 薄目を開けると、俺のすぐ眼の前に大男がいた。広々とした空間で男は何故か俺の至近距離に立ち、吊り革にも掴まらず、俺を見ていた。何を考えているのか分からないような無表情だった。


 なんだよ、こいつ……。

 普段の俺なら軽く会釈しながら場所を移動して、関わり合いになろうとはしなかっただろう。


 同僚の女性に「石橋を叩いて渡る、っていう言葉が誰よりも似合うひと」と言われたくらい慎重で、同じくその女性が陰口で「超事なかれ主義」と言っているのを聞いてしまったくらい面倒事が嫌いだった。


 いらいらが募っていたのかもしれない。


 席はいくらでも空いていて、俺の近くにわざわざ来る理由なんて見つからない。ガムを噛みながら、くちゃくちゃくちゃくちゃ、嫌な音を立て続ける感じも腹が立つ。


 耐えられなかった。

 くちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃ

 思わず舌打ちが出た。


「どっか行けよ、デブ」とちいさな声で呟き、後は無視するように眼を瞑った。

 くちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃ

 ガムの咀嚼音のテンポが早くなる。それも異常に。

 くちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃ

 やめろ、やめてくれ……俺が何をしたっていうんだ……いや、したよしたんだが……元はと言えば、お前が先だろ?


 手を出してくる様子はない。何故手を出してこないのかは分からないが、とりあえず無視しよう。


 俺はふたたび眼を瞑って、終点までそのままでやり過ごすことに決めた。電車に乗っている間の我慢だ。


 終点に着くと、俺は相手の顔も見ず、早足でその場から立ち去ることにした。最後まで手を出されることもなければ、声を掛けられることさえもなかった。ただ威圧的な雰囲気を醸し出し続けるだけで、それがあまりにも不気味だった。


 くちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃ


 耳障りな音が脳裏に貼り付いて、離れない。逃げるように駅から離れ、家路へと向かう道で俺は立ち止まり、俯く。そして深い息を吐く。


 これだけ離れれば、もう心配はないだろう。

 それでも激しい動悸が収まる気配はない。


 自分の軽率さを反省しながら、顔を上げると、

 くちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃ

 またあの音が聞こえてきた。


 追い掛けてくるようなその音は幻聴だ……幻聴に決まっている。だが夜闇に混じって聞こえてくるその音が幻聴ではない、と俺の第六感が告げていた。


 振り返ると、真後ろにあの男が立っていた。

 その時の俺は半泣きだったと思う。俺はこの男から何もされていない。だが何もされていないことが何よりも不気味だった。

 くちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃ

 もう味の残っていないだろうガムを噛み続けるだけの男の無表情さも不気味だった。


 俺はとにかく走った。

 俺は普段使わない道を使い、場所を悟られないようにしながら、自宅のマンションを目指した。


 ようやく自宅まで着いた時、自分の視界に男の姿はなかった。


 安心はしないまま、部屋に入る。独りの部屋がこんなにも不安に感じたのは、人生で初めてのことだった。

 ピンポンピンポン

 呼び出し音が聞こえる。

 ピンポンピンポン

 部屋の中からオートロックになっている玄関前の映像を見ると、そこには誰もいない。えっ、と誰もいない部屋で思わず声が出た。しかしその戸惑いの声はすぐに悲鳴に変わる。


 映像いっぱいに男の顔が映ったからだ。


 ピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポン


 ガムの音は聞こえないはずなのに、

 くちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃ


 耳に纏わりついてしまったせいか、いつまでも止むことなく鳴り響く。

 警察……。

 でも自宅がばれてしまっている今、これ以上、怒りを買う事態は避けたい。警察が来たところで、男は大した罪には問われないだろう。


 どうしよう、どうしよう……、


 そんな俺の焦りを嘲るように、スマホから愉快な着信音が鳴った。

 俺に仕事を押し付けた件の上司だった。

 焦りと不安が瞬発的に怒りに変わった。


「そもそもお前のせいだ! お前が自分で出来もしねえ仕事を俺に押し付けるから、こんなことになるんだ!」と、それから思い付く限りの罵詈雑言を電話越しの相手に浴びせ掛けた。上司の声をひとつも聞くことなく、とにかく自分の感情だけをぶつけた。


 電話も、そして電源も切り、スマホを叩きつけた。

 明日の仕事のことなんて知るか。今は命さえ危ない状況なんだ。


 玄関前の映像をもう一度見ると、そこにはたくさんのひとの姿があった。

 どうなってんだ……?

 そこには警察の姿もあり、どういう経緯かは分からないが、男が警察に連れて行かれる姿が目に入り、とりあえずほっとする。


 警察のひと数名が部屋に来て事情を聞かれた際、俺は正直に男の標的が俺だったことを伝えた。そして事の顛末を話すと、自分と同い年のくらいの警察官に軽率な行動を注意されてしまったが、その彼は最後まで俺を気遣ってくれた。


 彼の話によると、別の部屋の住人がマンションから出ようとした際にあの男の姿が目に入り、その尋常ではない雰囲気に「不審なひとがいる」と通報したらしい。


「今度何かあったら、すぐに連絡ください」という彼の言葉を最後に、警察のひとたちは帰っていった。ほっと落ち着くと同時に、不安が現れる。冷静な感情を取り戻すと、当然、先ほどの上司への暴言が気になってくる。


 疲れのせいだ。今日はとにかく軽率な行動が多すぎる。

 まぁでも、とりあえず、いま一番の危機は乗り越えた。あの脳裏に貼り付いた音も離れつつある……。これ以上の恐怖はもう――。


 恐る恐るスマホの電源を入れると、

 異常な数の着信履歴。それはすべて上司の名前だった。


 とにかく謝ろうと、上司に電話を掛けると、電話越しから聞こえてきたのは、

 くちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃ


 ひとつの恐怖が終わり、新たな恐怖が始まる瞬間だった。


 何だよこれ……。ふざけるなよ……。


 もううんざりだ。

 もうどうでもいい。

 俺を、轢け、潰せ――――。さもなくば相手を――。

 轢け、潰せ。壊せ。死ね。殺せ。

 殺してやる。



     ※



「あなた、どうしたんですか? 顔が青白いですよ」

「あ、あぁいや……。最近ちょっと部下の様子がおかしくてな。もともとあまり真面目じゃなかったのに急に不必要に残業をしたりしててな。女性の社員にいきなり怒鳴ったとか、狂ったようにギャンブルに手を出してるって話を聞いたりもしてたから、ちょっと心配になって電話してみたんだが……怒鳴り散らされてしまったよ。……うん。明日、彼としっかり話し合ってみるよ」

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恐怖の終わり、あるいは始まり サトウ・レン @ryose

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