(約4000文字) その六 Valley 【完】
悲しさはある。死んでしまいそうになるくらい、心が痛い。けれど……これで、やっとこの悪夢が終わ……。
『あと10秒です』
突如として、断崖の中、暗闇の空間に声が響き渡る。ハッと少年は顔を上げた。この声は……? 謎の声が続ける。
『挑戦者ヴァレー、半径1キロメートルの戦場範囲から外に出ています。あなたと戦った刺客はすでに死亡しましたが、あなた自身、戦場範囲から外部に出ているので、まだ勝利したとは認められません。残り10秒以内に、戦場へと戻ってください』
この悪夢は、この『不条理』は、この『理不尽』は、まだ終わらないのか……?
「そんな……! あなたは、もしかして……⁉」
少年の言葉を無視して、声が締めくくった。
『ヴァレー、あなたの心が落ち着くまで待っただけでも感謝してください。それではいまから勝負を決める最後のカウントを始めます。……幸運を祈っていますよ』
タイムリミットまで、残り10秒。
いまの声が誰かとか。タイソンさんがもう死んでしまったとか。体力がもうすでに限界近くて指一本動かすだけでも大変だとか。そんな悠長なことは考えていられない。生き残るために、元の世界に帰るために、この枝をたどって戦場へと復帰しなければ……ッ!
タイムリミットまで、残り9秒。
つかんでいた枝をより力強く握りしめ、少年は断崖を上り始める。服が破れ、手の皮が破け、全身が汗でびっしょりとなっていく。しかしその
タイムリミットまで、残り6秒。
3秒もかけて少年が進んだのは、わずか数十センチメートルの距離だった。少年の体力と気力は限界を迎えつつある。それでもあきらめたくない! その一念だけで枝をつかんで進もうとしたとき、破けた皮膚から流れる血とあふれる汗で、手が滑った。
バランスを崩し、慌てて少年は枝をつかみなおす。命綱の代わりとして
タイムリミットまで、残り4秒。
……ダメだ……ムリだ……不可能だ……。疲れ切った少年の心にあきらめと絶望が忍び込んでくる。そもそも戦場までの距離がどれくらいか分からないのに、たった10秒で戻れなんて、どだいムリな話だったんだ。
「……俺がいったいなにしたっていうんだよ……こんな……こんなの……できっこない……【不条理】だ……【理不尽】だ……」
ここにおいて、少年の心は折れかけていた。残り2秒で戦場に戻る。そんなこと不可能だ、奇跡でも起こらない限り。だが奇跡など起こらない。幸運など頼りにならない。
……なあに、戻れなかったら戻れなかったで、この世界でただ野垂れ死ぬだけさ……死んだら天国にいけるのだろうか、あ、ここが天国だっけ? いや正確には神聖世界だっけ? なら俺はもう死んでるのかもしれないな……。少年の心は諦めかけていた。
タイムリミットまで、残り3秒。
そのとき。あきらめかけた少年の心に、語りかける声があった。
『あきらめてはいけないよ、ヴァレー』
この声には聞き覚えがある。以前も聞いたことがある。そう、タイソンさんとの戦いの中で。
『きみにはこの絶望を、【理不尽】を乗り越える力が、ほんのわずかだけど、まだ残されている。生き残りたいんだろ。生きて元の世界に帰りたいんだろ。その最後の『希望』に賭けないで、どうするんだ』
「きみは……フルーツ……?」
少年は自らが寄り添っている果物の樹の枝に耳を当てる。耳に直接聞こえてくるわけではない。だが、その声は、確かにその樹の枝から少年の心に語りかけていた。
『『幸運』は自分で呼び寄せるもの、『希望』は最後まであきらめないもの、そして『奇跡』は自分で引き起こすものだよ。ヴァレー。きみにならできる。わたしを、そしてきみ自身の『力』を信じるんだ……!』
その言葉を最後に、樹の枝からの語りかけは聞こえなくなった。
タイムリミットまで、残り2秒。
戦場までの距離は分からない。でも、やるしかない。フルーツの語りかけに、励ましの言葉に、少年の心はいま一度『光』を、『希望』を取り戻していた。残り1秒という短時間で、自分が何をすべきかも、直感的に。
「これが……正真正銘……最後の力だ……ッ!」
巻き付けていた蔓を外し、少年は手をかざす、暗闇に満ちた谷底へと。果物を作るためではない。樹や枝や蔓を伸ばすわけでもない。ジュースを降り注ぐわけでは、もちろんない。これから彼がすることは。これから彼がしようとしていることは。
この状況を打破できる、唯一の『希望』にして『奇跡』に他ならない。
「俺を吹き飛ばせ……『暴風』……ッ!」
葉緑素による光合成。その瞬間。すべてを飲み込み、吹き飛ばす暴風が少年の手からほとばしった。凄まじい勢いで、彼の身体を断崖の上部へと運んでいく。
タイムリミットまで、残り1秒。
わずか1秒という短時間でかなりの距離を持ち上げるが、まだカウントは止まっていない。
タイムリミットまで、残り0.8秒。
このままでは間に合わない。生存本能がそうさせたのか、少年はもう片方の手を谷底へと向けた。使い果たしたはずの気力を、もう一度だけ。たとえは悪いが、水で濡らしたハンカチや
「い、けエエエエエエエエ……ッ!」
タイムリミットまで、残り0.6秒。
少年のもう片方の手から、限界を超えた、最後の『
「ウ、オオオオオオオオッッッッッッッッ!!!!!!!!」
タイムリミットまで、残り0.4秒。
最後の暴風が巻き起こり、さらに速度を急上昇させて少年の身体が空中を突き進んでいく。残り時間はコンマ数秒とはいえ、この勢いであれば戦場範囲内に到達できるだろう。長かった悪夢がやっと終わる。谷底からの脱出を、元の世界への帰還を少年は確信していた。
だが。【不幸】は、【不条理】は、【理不尽】は最後まで少年を追い詰める。最後の最後、すべてが終了しようとする、この土壇場になって、【理不尽】は執念深く彼の身に迫ったのだ。
それは椅子だった。王様が座るような、立派な椅子。その椅子が少年の頭上、谷の上から、少年めがけて降ってきた。いまのいままで、まるで少年が改めて抱いた『希望』を摘み取るかのように、踏みにじるかのように、絶対的な【絶望】を突きつけるかのように、崩壊したミラーキャッスルの残骸として、空中に残っていたのだった。
「――――ッ⁉」
避けることはできない。音速に迫るような暴風の勢いに乗っている少年に、その椅子を避ける余裕などない。そもそも、もし避けようとすれば、断崖の横壁に激突するか、もしくは急減速によってタイムリミットまでに戦場範囲に戻ることができなくなってしまう。
同様にして、樹木やジュースレーザーなどによる破壊も、上昇速度の減速につながるため不可能だ。打つ手はない。正面衝突することしか、道は残されていない。
タイムリミットまで、残り0.3秒。
――万事休す……。すべては終わった。
少年は目を閉じた。ただ暴風の流れに身を任せるがごとく。もし彼のその様子を誰かが見ていたならば、すべては終わったと思っただろう。
しかし。少年だけは。その心だけは。
降りかかったこの最後の【理不尽】に直面しても、あきらめてはいなかったのだ。
(――避ける必要も、壊す必要もない……絶対に逃さずに、感じるんだ……その一瞬を――)
タイムリミットまで、残り0.2秒。
王の椅子が、少年へと直撃した。
その瞬間。より厳密に言うならば、少年の頭、その皮膚の表面に、王の椅子の一部が触れたその刹那に。
王の椅子は、一個の赤いリンゴへと変化した。
少年の異能は『果物や、果物由来のものを作り出す』程度の能力。
避ける必要も、壊す必要もない。
目の前に邪魔なものがあるのなら、フルーツに変えてしまえば、それで済むのだから。
自分を押し上げる暴風の勢いをまったく殺さないようにするために、目を閉じて、全神経を研ぎ澄ませて、自分に触れる王の椅子の存在を感じ取ったのだ。
タイムリミットまで、残り0.1秒。
赤いリンゴを暗闇の谷底の彼方へと吹き飛ばしながら、少年はゆっくりと瞳を開ける。天上の雲間に切れ目が差し、陽の光がその姿を覗かせ始めていた。
タイムリミットまで、残りゼ……。
カウントが終わろうとするその刹那。少年の身体は見事、半径1キロメートルの戦場範囲へと飛び込んでいった――。
断崖の縁に大の字になって倒れ、少年は死力を尽くし切った荒い息を吐いていた。
生きている。生き残っている。夢じゃない。俺は助かったんだ。
しかし死力を尽くし、体力と気力を完全に使い果たした少年は、その喜びを全身で表現することも、歓喜の声を上げることもできない。
ただ噛みしめるだけだ。自分が生き残ったという事実を。まぎれもない現実を。
そして……。
タイソンさんが死んでしまったことはとても悲しかった。顔中が涙でぐしゃぐしゃに染まり、その後悔の念はいまでも残っている。
しかしそれと同時に。
自分を生かすために助けてくれたすべてのもの――自らの命すら賭けてくれたタイソンさんと、【理不尽】に屈しようとしていた心を励ましてくれたフルーツたちに、無限に等しいくらい、ただただ感謝の言葉を、感謝の念を心の底から抱いていた。
――ありがとう、タイソンさん……ありがとう、フルーツたち……本当に……ありがとう……――
雲間から差し込んだ光が、少年の身体に優しく暖かく降り注がれる。
そして、少年の身体は淡い光に包まれて、この戦いで負ったすべての傷と体力、気力を完全に回復して、自分が元いた世界へと帰還していった。
【完】
ヴァレー @eleven_nine
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