(約2700文字) その五 destruction

「な…………ッ⁉」

 慌てて起き上がり、少年は男に近寄る。ドクドクと、男の身体から大量の血がにじみ出て、床に血だまりを作っていく。自分でも気付かないほどに涙を流して、悲痛な表情を浮かべて、少年は叫んだ。

「そんな……こんなことって……待っててくださいタイソンさん、いま助けて……」

 男を助けるために能力を使おうとする少年を、かろうじて生きているといった様子の男が、血反吐を吐きながら制止した。

「……やめろ、どうせオイラはもう助からない。自分で分かる、これは致命傷さ。オイラはもうじき死ぬ……」

「そんなこと言わないでください! とにかく十字架をどけて……」

「いいから聞くんだ!」

 たとえ死ぬことになってでも伝えなくてはいけない。そんな鬼気迫る男の雰囲気に、少年は気おされる。最期の力を振り絞って、光を失いかけた瞳で、男が言った。

「この戦場はオイラを輝かせるために特別に作られた城――ミラーキャッスル。だからこそ、オイラはこの城のなか限定で、自在に鏡やミラーボールを作ることができた」

 これが脳震とうを起こすパンチと催眠ダンスを持つ男の、三つ目の特技だった。ゲホッ、再び血反吐を出しながらも、男が続ける。

「この城はオイラが戦うことを、相手を殺すことを手助けするために作られた。だけど、オイラがその意志を失ったいま、この城はその存在意義をなくして、崩壊しようとしている。この十字架は、その始まりに過ぎない……」

 その言葉を裏付けるように、周囲の無数の鏡が剥がれ落ち、その下にあった本物の壁や天井が崩れていく。二人の近くにも、それらの破片が降り注いでいた。少年が言う。

「だったら……なおさら早く助けないと、タイソンさんが……」

「いいから聞け。実はユーにまだ話していないことが、もう一つある。戦いのルールとして、半径1キロメートルの戦場の範囲内から10秒以上出た場合、その者は敗北するというのは知ってるね」

 涙に濡れた顔で、少年がうなずく。

「この城はそんな戦闘から逃げ出すような行為すら禁止するために、切り立った断崖の中心に浮かんでいるんだ。完全にこの城が崩壊したとき、オイラたちは二人ともその底までまっしぐらというわけさ」

 二人がいる床に亀裂が走り、身体を貫く十字架ごと、男が断崖の暗闇の中へと落ちていこうとする。少年が手を伸ばし、男の手を取った。

「タイソン……さん……」

 傾く床に身体を押し付けながら、少年が何とかして男を持ち上げようとするが、その巨漢と十字架の重さによって、少年自身がズルズルと徐々に一緒に落ちていってしまう。

「離すんだ、ユー! このままじゃ、ユーまで死んでしまうぞ!」

「……でも、俺にはタイソンさんを見殺しにするなんて、この手を離すなんて……」

 やれやれと、男がかすかなため息をついた。

「まったく、本当にユーは、正真正銘の良いバカやつだな。いいだろう、きみがそこまで言うのなら、オイラに秘策がある。実はあと一回くらいなら、能力を使えるんだ」

「……それなら……!」

 助かる。助けられる。喜びの声を上げる少年の、男の手をつかんでいる手に、鋭い痛みが走った。男が手のひらサイズのミラーボールを出現させて、細く小さなレーザーで少年の手の甲を撃ち抜いたのだ。

 あ゛あ゛っ゛……!

 激痛が駆け抜けるが耐えなければならない。でないとタイソンさんを下に落としてしまう。そう思っているのに、手の甲だけでなく、その下にあった指の骨や筋肉まで傷付いたのだろう、力を込めようとしているのに、手に力が入らない。

 そして……少年は手を離す。離してしまう。

 男の身体が光の届かない谷底へと落ちる。落ちていく。

「じゃあな……ヴァレーくん……生き残れよ……」

 完全なる真の闇の中に消えゆく刹那、男は口元に笑みを浮かべて、握りしめた拳の親指を立てた。

 その光景は、少年の瞳に、網膜に、脳裏に焼き付いた。

 少年は嗚咽おえつを漏らす。涙で濡らした顔を傾く床に押し付ける少年は、本当に口に出していったのか分からないくらい、かすかな声で、

「……生きなくちゃ……タイソンさんの気持ちをムダにしないためにも……俺は……ッ」

 少年は気付きもしないが、この殺し合いには明言されていない、もしもの状況が存在する。それは『何かしらの理由によって、殺し合う二人ともがほとんど同時に死亡した場合』だ。このような状況はよほど特殊なため、まず起こり得ないとして、処理方法は明言されていない。

 しかし、もしそのような状況が発生した場合、どうなるのか。あくまで推測に過ぎないが、おそらくは、『生き返らせて再戦させることはしない。対戦者二人が互いに殺し合い、両者死亡』という結果として、処理されるのだろう。

 つまり何が言いたいかというと、少年の対戦者だった男は谷底に落ちていったとはいえ、『まだ死亡が確定していない』。この状況で少年までが谷底に落下し、二人がほとんど同時に死亡した場合、女神や天使によって二人の死が確定し、再戦させるために生き返らせるという面倒なことをせず、そのまま戦いが終了するということだ。

 少年がいる床が完全に垂直になった。彼の身体が真っ逆さまに谷底へと落下していく。その最中、少年は暗闇で見えないが、確かにそこにあるはずの断崖の横壁の方へと顔を向け、手をかざす。

「届け! フルーツ」

 一本の細長い、けれどしなやかで丈夫な樹の枝が、その見えない空間へと伸びていく。一秒、二秒……。しかしまだ突き刺さらない。こうしている間にも、少年の身体は谷底へと確実に落下していく。

 三秒、四秒……。伸ばし続ける木の枝はすでに何十メートルにもなるだろう。しかし、まだ届かない。このままでは枝の先が断崖の横壁にたどり着く前に、谷底へとたたきつけられるか、あるいは少年の気力が限界を迎えてしまうだろう。『フルーツや、フルーツ由来のものを作り出す能力』を行使できなくなってしまうだろう。

 五秒、六秒……。

「届け! 頼むから! 届いてくれよオオ……ッ!」

 まさにいま、少年の気力が、能力が限界を迎えようとした、その刹那……。

 樹の枝の先が断崖の横壁へと突き刺さった。

 樹の枝が横壁からはがれてしまわないように、その岩壁の内部へと縦横無尽に根を張り巡らしていく。

 しなやかで丈夫な樹の枝は、たとえ細くとも、少年一人の体重くらいなら支えられるくらいの耐久力を持っている。つかんでいる手がずり落ちないように、その手首につるを巻きつけながら、ブラブラと、少年は断崖の半ばで揺れていた。

 揺れながら、完全な真の闇で見えない谷底を見下ろし、いまはなき者の姿に、ボロボロと大粒の涙をこぼしていた。

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