ファーストフレンド・ラストフレンド

サトウ・レン

ファーストフレンド・ラストフレンド

 老人は、死を待っていた。生きたい気持ちもないわけではなかったが、抗いようもないものだろう。


 布団の上で横になりながら。

 死ぬ時は独りぼっちで死にたい、と若い頃は嘯いていたこともあったが、あれだけ群がっていた周囲の人間たちだけでなく、大切なひとたちまで、一人また一人、と自分のそばから離れていくと、自業自得な面もあったとはいえ、隠しきれない寂しさが込み上げてくる。


 この広い邸宅に住んでいるのは、自分だけ。住み込みの、信頼の置ける家政婦がひとりだけいるものの、雇う者と雇われる者の関係以上ではなく、家族の不在を慰めてくれるようなものではなかった。


 肺がんで余命半年を宣告されたのは半年前のこと。それからちょうど六ヶ月の月日が流れた。今もかろうじて生き永らえているが、自らの身体に限界が来ていることは老人自身が一番よく分かっていた。死ぬならこの場所と決めていたので、入院も、老人ホームへの入所も頑なに拒絶していた。


 独りか……。

 ふと老人は少年時代の記憶を頭に浮かべた。近い記憶はどんなに頑張っても思い出せないものばかりなのに、遠い昔の記憶は郷愁に浸りながらも、まるで、いま体験しているかのようにくっきりと描き出すことができた。


 老人はちいさい頃、貧しく荒れた家庭環境の気後れと、もともとの引っ込み思案な性格から、いつも独りだった。他者が作った輪にうまく入れない寂しさに苦しんでいた幼き日の彼を救ったのは、ちょっとしたきっかけだった。


 そして、きっかけをくれた人がいた。


 ふと思い出したのは、今の自分とあのひとが重なるからだろう。

 ……と、そんな考えを中断させるかのように胸の当たりが急に痛み出す。家政婦は買い物中で、この家には彼しかいない。胸を押さえてもがき苦しむ彼の存在に気付いてくれるひとは誰もいなかった。


 苦しい……、あぁもう、駄目だ……、


 そう思った時、

「だ、大丈夫ですか!」

 頭上から声が届いた。



     ※



 夏は終わりに近付いていたが、その日は真夏に感じるほど暑かった。ランドセルを担いだ少年は自分の手を帽子のつば代わりにしながら、その強い日差しに照らされた道をぼんやりと歩いていた。


 ぼんやりとし過ぎていたのだろうか……。

 見慣れた景色の中をずっと歩いていたはずなのに、気付けば少年は見慣れぬ景色にいた。辺りを見回してもそのどこにも見覚えがなく、さきほどまでよりも強くなった風に揺られる枝葉のかさかさという音が少年を不安にさせた。怖がりな、いつもの少年ならもと来た道を引き返して、何も見なかったことにしただろう。


 この先に何があるかも分からない。求めているものは、きっと何もないだろう。


 それでも少年は先へ先へと歩いていく。

 学校から家へそのまま帰りたくない気分だったのだ。


「金持ちは敵だ!」とそんな父親の言葉がよみがえる。金持ちだから、とか、そうじゃない、とか関係ない。ただ彼女と普通に話してみたいだけだった。


 少年は同級生の誰ともほとんど会話できず、学校ではいつも独りだった。クラスメートはそんな彼に何か嫌がらせをするわけではなく、しかし特別関心を持ってくれるわけでもなかった。


 少年には友達と呼べる相手がひとりもいなかった。


 そんな中で唯一、下校の時、よく少年に話しかけてくれる女の子がいた。同級生で、同じ団地に住む彼女のことは小学校に入る前から知っていた。誰とでも分け隔てなく接してくれる彼女と、少年はずっと仲良くなりたいと思っていたが、そんなことをあの両親が許してくれるわけがないだろう。


 決して裕福ではなかった環境だったせいか、両親は裕福な家庭を目の敵にしていて、彼女の父親のことを両親は特に毛嫌いしていた。少女の父親は地元では名の知れた議員の娘だったからだ。


 今日、校門の前で少女から「ね、家近いんだから。一緒に帰ろう?」と言われ、少年は首を横に振った。言葉はうまく出て来なかった。


「私のこと、嫌い?」

 悲しそうに言う少女の言葉に耐え切れず、少年は走ってその場から逃げ出してしまった。まだ小学校に入学して間もない少年に、ましてや彼のその性格で、その雰囲気に耐えられるはずがなかった。


 止まったはずの涙がまた頬を伝いそうになった少年は、慌てて空を見上げた。


 そんな少年の不安定な感情を一瞬、すべて忘れさせるような怒鳴り声らしき大きな音が少年の全身を震わせた。真横にある大邸宅の中からその音は聞こえた。地元の名士が暮らしていそうな和風の邸宅は、貧しい少年では一生住めないであろう立派なものだった。お屋敷、そんな言葉がぴったりだと思った。


 こっそりと少年は生け垣の隙間からお屋敷の中を覗いた。窓と障子が開け放たれていて、その先が見えるようになっている。そこには布団の上でもがき苦しむ、かなり高齢の老人の姿があった。


 少年は、慌てて生け垣を飛び越え、庭先からその苦しむ老人のいる部屋に入った。少年の祖父よりも、一回りか、もしかしたら二回りくらい年を取っているような外見をしていた。


「だ、大丈夫ですか!」焦ってつっかえたしゃべりになってしまう。

 少年はどうしていいかよく分からず、背中をさすることしかできなかった。それでもすこし落ち着きを取り戻したのか、


 荒い呼吸を残したままだったが、老人が、

「すまない……そこに水と薬があるから取ってくれないか……」

 と言った。


 部屋の隅に長机があり、そこには水差しと湯呑み、そして白い小袋に入った経口薬があった。少年が老人のもとに持って行くと、

「あり、ごほっ、がとう」

 とつらそうな口調で言った。すこし経つと、薬のおかげで落ち着いたのか、先ほどまでよりもしっかりとしたまなざしで、少年を見つめた。


「きみは?」

「いえ、あの、あっ、ぼくはじゃあこれで……」

 緊急事態だったから慌ててお屋敷の中に入ったけど、いつまでもいるのは申し訳ない気持ちになってくる。この大きな家に自分は場違いだ。そう思い出すと、少年は急に恥ずかしくなってきた。


「待ってくれ……」

 その重みのある低い声には、自分の周りでは見掛けないような威厳が含まれていた。柔らかいけれど、すこし怖い……。


「えっ、あの」

「いや、怒っているわけじゃないから、そんなに怯えないでくれ。礼を言いたいんだ。すこしゆっくりしていってくれないか?」


「は、はい」

「妻はもう死んでいて、息子夫婦とは別居中。家政婦が買い物に行っていて、な。私、ひとりしかいなかったんだ」


「こんなに広い屋敷に、ひとり……」寂しそうに呟いてしまった少年は、慌てて謝った。「ご、ごめんなさい」

 老人はちいさく笑った。

「いやいや。気にしなくていい。本当のことだしな。きみは、どこから?」


「隣のS町から――」

 実際のところ、少年はこの場所がS町の隣町なのかどうかも分かっていなかった。しかし、「そうか」と老人が満足そうに頷き否定しなかったので、合ってたんだ、と少年はほっとした。


「そうか……。実は私も幼い頃、あそこで暮らしていたんだ。子どもの頃、うん、今のきみくらいの年齢の頃だ。人見知りがひどくて、友達がひとりもできなくてな――」

「本当ですか!」


 少年は思わずその言葉をさえぎるように大きな声を出してしまった。


「何を、そんなに驚いてる? そんなにS町に住んでいたことがめずらしいのか?」

「あ、いや、そうじゃなくて」


 彼女の顔を思い浮かべながら、少年はずっと友達ができずに悩んでいることを伝えると、老人は少年の話が終わるまで口を挟むこともなく静かに耳を傾けてくれた。大人に、そもそも誰かにこんなこと話すのが初めてのことだった。初めて会ったひとなのに……。何故か、このひとなら分かってくれる、という気持ちになった。


 話が終わると老人は、

「そうか……。まぁ、この年齢になったら、友達なんて無理して作る必要もないなんて思うが……」と言った。


「でも……」

「あぁ、いや、そうだった。そうだよな。今の言葉は忘れてくれ。自分の子どもの頃のことなんて、すっかり忘れていた。いや、そもそも今の感情も。うん。私も、欲しかった。友達が、大切なひとが。ひとりは嫌だった。今でも、嫌だ、な」


「うん」と少年が頷くと、老人がその頭を撫でた。

「例えば……これが解決策になるかどうか分からないが……、きみを見ていると懐かしい感じがするんだ。私の子どもの頃の解決策を真似てみないか?」


「真似る……?」

「あぁ。私は子どもの時、きみと今の私くらい年齢の離れた友達を作ったんだ。どうだ」と老人は大きく口を開けて、笑った。「私と友達にならないか?」


「おじいさんと、友達?」

「嫌か? こんな、じじいは?」

 少年は首を横に振った。


「きみは名前なんて言わなくていい。私も名前は言わない。来たい時だけ来ればいい。きみに友達ができるまでの、その間だけの友達だ。私の最後の友達になってくれないか?」

「最後の友達……?」


「そう、きみにとっては最初の友達で、私にとっては最後の友達だ」


 少年はその帰り道、その場所への行き方を忘れないように、薄暗がりの街並みを目に焼き付けるようにして歩いた。


 それから数日間、少年は毎日、最初の友達のもとを訪ねた。と言っても大した話をするわけでもなく、老人の体調が日に日に悪くなっていたこともあり、すぐに帰ることが多かった。


 最後に老人のお屋敷を訪ねたのは、友達として少女と普通に話せるようになった日だった。その日の夕方、老人への報告のためにお屋敷に向かった少年は、家の前が騒がしいことに気付いた。お屋敷からすこし離れた場所で戸惑うことしかできなかった少年の姿に気付いたのは、顔見知りになっていたお屋敷の家政婦だった。


 そして涙の痕を残した家政婦が、老人の死を少年に告げた。


 それ以降、少年がそのお屋敷に行くことはなかった。実は一度だけ彼女を連れて、そのお屋敷のことを教えようと向かったのだが、辿りつくことができなかった。


 確かに道は合っているはずなのに、その街にさえ、辿りつくことが――。



     ※



 それから数十年の月日が流れ、少年はいつしか老人と呼ばれる年齢になっていた。


 幼い頃から大切にしていた友人関係は甘酸っぱい初恋へと変わり、やがてその恋は成就した。議員の娘婿となった彼は義父の力添えがあったことも事実だが、本人の努力や才覚とともに政治家として名の知れた存在となっていった。


 影響力を持った彼のもとには多くの人間が集まり、あるいは群がった。しかし影響力が翳りだすと、徐々に彼の周りからは人がいなくなり、ついには大切なひとまで、一人また一人、と自分のそばから離れていった。


 まず妻との死に別れがあった。紆余曲折は確かにあったが、最後まで心の底から愛していたと自信を持って言える。


 そして喧嘩の絶えなかった息子夫婦との別居もあった。息子がそれなりの年齢になってからは諍い続きだったが、お互いに憎しみとともに愛情があった、と彼は信じている。愛情があったからこそ関係がこじれたとも。


 医師から肺がんで余命宣告を受けた時には、もう彼は独りぼっちになっていた。信頼できるのは住み込みの家政婦くらいだが、雇う者と雇われる者の関係以上のものではなく、家族の不在を慰めてくれるようなものではなかった。


 独りか……。

 ふと老人は少年時代の記憶を頭に浮かべた。


 きっかけをくれたひと――。

 そうか……!


 あの数日間しか会えなかった最初の友達は、もしかしたら未来の――。そして今の――。


 突然の胸の痛みに、もがき苦しむ中で、

「だ、大丈夫ですか!」

 と頭上から届いたその声を、


 知っている。あぁその声は、これから最後の友達になる――。

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