第8話
――約束の時間より少し早めにドアを叩いた。ドアスコープで確かめたのか、中からチェーンを外す音がした。
開けられたドアの向こうには、バイオレットのワンピースを着た彩花が笑みを湛えていた。
「父から電話があって、少し遅れるって。酒でも呑んで、くつろいでいてくれって。何呑みます? ビールにウイスキー」
「じゃ、ビールを」
和弥はソファに腰を下ろすと、タバコを出した。
「……どうして、わざわざ成田で待ち合わせを?」
「父が明日の便でアメリカに行くの。ロス支社のジェームズからの誘いだから、たぶん、取引先との接待ゴルフだと思うわ。どうぞ」
プルタブを開けた缶ビールを、もう一方の手に持ったグラスに注ぎながら来て、それを和弥の前に置いた。
「ありがとう。……ゴルフか」
「ゴルフやるの?」
缶コーヒーを飲みながら、彩花が訊いた。
「ええ、たまに。お客さんの社長夫人と」
「ああ、駄目ね。ホストの件は内緒でしょ?」
「えっ、もう始まってるんですか?」
和弥が慌てて背筋を伸ばした。
「父から何を訊かれるか分からないのよ、注意しないと」
「あ、はい」
「じゃ、予行演習しましょう」
「えっ?」
台本を用意していなかった和弥は慌ててタバコを揉み消した。
「私が父になるから。いくわよ」
和弥の思考は整理されていなかった。
「名前は」
「あー、斉藤、……ヒデユキ」
和弥はしどろもどろになっていた。
「え? 斉藤?」
「ええ。……どうして?」
(まさか、本名を知ってるわけないよな)
これで一巻の終わりかとハラハラした。
「……一条じゃなかった?」
彩花が疑いの目を向けた。
(なんだ、そっちの方か。ビックリさせやがって)
「一条和弥は源氏名です」
「へえ、そうだったんだ。ご出身は?」
「佐賀の嬉野です」
「うむ……。これまでどんな仕事をしていた?」
「……訪問販売です。アクセサリーやランジェリーなどの」
ホスト業で身に付けた知識だが、貴金属や宝石の
「うむ……。それで、売れたかね?」
「はい。お陰さまで、売上はトップでした」
旨そうにビールを呑んだ。得意分野になると、水を得た魚のようだった。
「ほう。で、売る、何かコツはあるのか」
「そうですね、まず、女性の肌質や体型を見極めてから、その女性に合ったものをご提供させていただきます。中には金属アレルギーの方もいらっしゃいますので」
「うむ……。ハンサムだからモテただろ」
「いいえ、とんでもありません。誠心誠意、良い品をご提供するのが使命だと考えています」
「うむ……。畑違いの仕事だが、やれるか?」
「……はい。営業で……頑張り、……社長のお役に……立ちたい……です」
何度も欠伸をした。
「はい、オッケー。でも、父は何を訊いてくるか分からないわよ。墓穴を掘らないようにね」
「ああ。ごめん、……眠い。ちょっと横になる」
そのまま、ベッドに横たわった。
彩花は、そんな和弥の寝顔を軽蔑するような目で見下ろした。
「睡眠薬が効いたみたいね。……あなたの本名は斉藤ヒデユキなんかじゃないわ。自分で喋ったのを忘れたの? ……井上アツシさん。――あれは二年前、上弦の月が出ていた。あなたは、テレビの巨人×阪神戦に夢中になっていた。私の手料理に箸を付けながら、画面と料理を交互に見ていた。
『……一条和弥は本名だびょん?』
『バーカ。嘘に決まってるだろ』
『……そすたっきゃ本名は?』
『井上アツシ』
あなたは無意識のうちに名乗っていた。……斉藤ヒデユキさんて誰? 名前を買ったの? それとも、その男を殺して、本人に成り代わったの? そこまでする価値はなかったのに。……このお芝居に」
彩花こと大谷由紀恵はソファに腰を下ろすと、寝息を立てている和弥の顔を見ながらタバコに火を付けた。
「……二年前。あれから間もなくして会社を辞めるとアパートを引き払って池袋に行った。寮付きの風俗で働きながら話し方教室に通って、訛りを矯正した。風俗で稼いだ金を株に投資して大金を儲けた。その金で美容整形するとブランドに身を包んだ。
あなたに復讐するために今回の芝居を打ったのよ。野心家で金の亡者のあなたなら、私の書いたシナリオに興味を持つはずだ。案の定、あなたの頭には社長の椅子が思い浮かんだ。
あなたに妻子がいるのは、下調べして知ってたわ。独身かと訊いた時、あなたは思わず嘘をついた。さて、どうする? 離婚でもするのかと思ったら、なんだか思い切ったことをしたみたいね。斉藤さんになっちゃったんだものね。ああ、恐ろしい。もっと面白い復讐劇も考えたけど、これ以上あなたに関わる必要がなくなったわ。だって、あなたは自らの手で自分に復讐したんだから。大きな犠牲を払ってあなたは斉藤という別人になった。この先を井上アツシで生きるのか、一条和弥を続けるのか、それとも斉藤ヒデユキを
由紀恵は、和弥の寝顔を暫く見詰めると、
「……さようなら」
そうぽつりと言って、ソファの後ろに隠していた旅行カバンを手にした。
目を覚ました和弥が、ふと、テーブルに目をやると、カーテンの隙間から漏れる街灯が、一口かじった林檎を照らしていた。――
完
醜女の林檎 紫 李鳥 @shiritori
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