第7話

 


 ……この十年、ホスト業界で名を馳せ、夜の世界でしか物の尺度を測れなくなっていた。しかし、こんな俺にも就職活動に精を出した時期もあった。だが、どんな仕事も長続きせず、気が付いたら夜の世界に身を投じていた。


 人気が出るようになってからは、金銭感覚が麻痺し、女イコール金としか見られなくなっていた。そんな堕落した自分にさえ気付かぬままに今日まで来た。


 だが、この彩花という女が、熱かった若い頃の、あの思いを再び掻き立てた。このまま、虚飾の世界で生き続けたとて何になる。それより、まともな仕事で達成してみたい。第二の人生を生きてみたい。


 だが俺には、一昨年入籍した妻と、生まれたばかりの子供がいる。納得のいく慰謝料と養育費を払って離婚するのは簡単だが、戸籍には×が残る。何一つ資格を持たない三十過ぎのバツイチには不利だ。しかし、どうにかしてこのチャンスを活かしたい。……どうすればいい。



 野球帽を目深に被り、マスクをした和弥は代々木公園に行くと、ブルーテントが集まった場所で、同世代のホームレスを物色した。


 あっ、居た!


 条件にかなった男を見付けると、早速、仕事の話をした。男は半信半疑だったが、報酬の金額を知ると、どぶのような臭いがする口から黄ばんだ前歯を覗かせた。


 人目につかない路地裏にめておいた車の助手席に男を乗せると、真新しいセーターとズボンを手渡して、履歴書を書かせた。


「仕事は明日だ。ホテル代をやるから今夜はビジネスホテルにでも泊まって、その服に着替えてくれ。それと、先方は身元を気にするお方だ。何か身分を証明するものはあるか?」


 和弥はアウトローを演じた。


「……期限切れの免許証と保険証が」


 履歴書に書かれた一つ年下の〈斉藤英行〉が、手垢で汚れたリュックサックの中を漁った。


「先方は神経質だ。斉藤さんがホームレスだと知ったら、このもうけ話もパーになる恐れがある。金をやるから散髪に行って、髭を剃ってもらえ。そして、ゆっくり風呂に入って綺麗に垢を落としてくれ。あ、歯磨きも忘れるな」


「あ、はい」


 斉藤が手渡した免許証と保険証は間違いなく本人のものだった。いよいよ、架空の仕事を持ち掛けた。


「明日の十時、渋谷にあるビルに行って、永田という男に後ろにある袋を渡してくれ。住所を書いたものは後で渡す。……何、ジャブとかハジキじゃないから安心しろ。単に俺の顔見知りだとまずいだけだ」


「……はい」


 和弥が用意しておいた高級幕の内弁当を、斉藤は旨そうに頬張っていた。


「酒を呑むなら後ろにあるぞ。旨いか?」


「ええ。久しぶりです、こんな旨い弁当」


「履歴書には佐賀とあったが、いつ東京に?」


「高校卒業してすぐです。もう十年以上になります」


「なんでまた、ホームレスなんかに」


「六年勤めた工場が倒産して、負債を抱えた社長が、……自殺したんです。そのことがあってから生きる希望をなくし、働く気力もなくして。気が付いたら、公園のベンチに居ました」


「……親は?」


「俺が六歳の時に母が、二十歳の時に父が。母は病気でしたが、父は事故で」


「……天涯孤独か?」


「……はい」


「……寂しいな。妻や子は?」


「こんなつらじゃ、女も寄ってこないですよ」


 斉藤は苦笑いしながら、和弥が手渡したカップ酒をあおった。


「兄弟や親戚もいないのか?」


「一人っ子ですから。ま、親戚ぐらいはいるでしょうが、……故郷いなかに帰ってないから、……付き合いはないです」


 斉藤は欠伸あくびをすると、目を閉じた。――やがて、いびきをかき始めた。


 和弥は躊躇ためらった。斉藤に深入りしたことを後悔した。果たして、人を殺すだけの価値があるのか……。


①このままホストを続け、年老いたら年金で暮らす。


②彩花と結婚。社長の椅子という将来は保証されている。


 一条和弥の本名は妻の裕美以外、店の者は誰も知らない。「ラブリー」に入店した時も、以前働いていたクラブからの引き抜きで、履歴書というものを書いていなかった。水商売にはそんな特権がある。つまり、面接の時点で売れると見込んだら経歴など問題にしない。店側は実力重視なのだから。



 車窓から辺りを見回すと、夕闇に包まれたビルが要塞ようさいのように屹立きつりつしていた。


 斉藤をるのは、彩花との話が決まってからでも遅くない。だが、この件を斉藤が他言しないとは限らない。漏れるのはまずい。都合よく斉藤は眠ってる。今がチャンスだ。


 後部座席のドアを静かに開けると、用意していたゴム手袋をして紐を握った。


「……すまない」


 和弥は小さく呟くと、鼾をかいている斉藤の首に紐を回した。――そして、埼玉の山中に埋めた。



 裕美を納得させるために和弥は話を作った。


「……今の仕事を辞めようと思う。子供のためにも。建設の仕事が見付かった。だが、各地を転々とする。家には帰れない。お前には苦労をかけるが、毎月の生活費と養育費は振り込むから安心しろ」


 ホストを辞めてくれることが嬉しかったのか、裕美は涙目の笑顔を向けた。



 当夜、彩花から店に電話があった。


「急用で今夜は行けそうもないの。明日の午後四時に、成田にあるGホテルの五〇五にいらして。父が会いたいんですって――」


(ヤッター! 殺った甲斐かいがあった)


 和弥は天にも昇る気持ちだった。


(翔、悪いな。俺の勝ちだ。ハッハッハッハ!)


 珍しくお茶をいて、待機席でタバコを吹かしている翔の横顔に薄ら笑いを浮かべると、勝ち誇ったように顎を突き出した。

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