彼岸花と雨

天上 杏

第1話

 タカハシが就職決まったから祝えと言う。

 その日は姉貴の墓参りがあるから無理だと言ったら、なぜかついて来たいと言い出した。もちろんタカハシと姉貴に面識は無い。姉貴が死んだのは十年も前だ。けど断る理由も無いし、タカハシならいいかと思ってOKした。


「……お前なんだよその格好」

 新座駅の改札前で、タカハシは探す必要も無いほど派手な格好をしていた。

 緑と黄色のボーダーの、パイナップルみたいなズボン。それに、Tシャツが。

「アンチクライストスーパースターって……寺とはいえ墓に行くんだぞ」

「センセーに言われたくないす」

 鼻をすすりながら、タカハシは俺の胸元を指差した。

 見ると、スリップノットの白抜きロゴ。

 はあーと大きくため息をついて、俺は頭を抱えた。

「やらかした……黒いの引っ掴んでそのまま着たから気付かんかった」

「いいじゃないすか、寺だし」

 タカハシはニヤニヤ笑いながら歩き始めた。背中にはギターを背負っている。

 そういやコイツにマンソンを教えたのは俺だったなと思い出した。


「おめでとう。すげーじゃん、大手に決まって」

「子会社っすよ」

「やー、就活やったことない俺には眩しいわ」

 思えばタカハシは高校の頃から要領が良かった。難しいと評判の俺のテストも、常に八割以上をキープしていた。頭の中を読まれているのか? 裏をかいた出題をしてみる。そしたらそれも読まれていて、授業後にセンセーここ引っ掛けでしょ、とニヤつきながら言ってくる。要領も地頭も愛想もいい。こいつが塾を卒業した今でも、時々こうして俺達は会う。

「歩いて行きます?」

「や、バスで行こう。歩くと結構かかる」

 雑木林とせせらぎのあるまちにいざ。さあ、みなさん歩きましょう。……軽く言ってくれるね、看板の鉄腕アトムくん。住んでいた頃は、目もくれなかったが。


 残暑というには忍びないほど今日も蒸し暑い。

 バスロータリーの向こうでは水車のオブジェがくるくると回り、小さく水飛沫を上げていた。

 灰色のビルの間から空が見える。

 家を出た時には晴れていたのに、青空の半分を薄暗い雲が覆い始めていた。そういや予報ではにわか雨に注意って言ってたか。


 東久留米駅行きのバスに乗り込む。

「ひらばやしでら?」

「へいりんじ」

 前方の電光表示を見ながら俺達は一番後ろの席に座った。おばあさんが一人乗って、バスは発車した。


「センセーにお姉さんいたの全然知らなかった」

「まあ言ってないし。しかも死んだとか重いっしょ」

「いつ、亡くなられたんですか?」

「十年前。享年22。ちょうどお前の年だよ」

 そして俺はハタチになったばかりだった。

「……どうして亡くなったんですか」

「自殺。就活で病んでたみたいね」

 俺は窓の外に目を遣りながら言った。タカハシが小さく息を呑むのが聞こえる。

 ヤオコー、セイユー。そういやこの辺のスーパーはいちいちデカかったな。

 ……いや違う。俺達が子供の頃はまだこんな風にロードサイドにボコボコと建ってはいなかった。

 母のお使いで、姉貴に手を引かれて何度も行った店の名前を、俺はもう思い出せない。

「……落ちるたび、自分を全否定されてる気分になりますからね」

 ぽつりと零すようにタカハシは低い声で言った。経験者だけが持つ重みだ。しかし。

「決まってたんだけどな、外資のいいとこ」

 長いイギリス生活で身に付けた英語を生かし、姉貴は誰もが名を知るコンサル会社に内定を得ていた。

 日本に馴染めず、帰国早々不登校→高校中退のコンボをキメた俺とは何もかもが違った。

 真面目で優秀な、自慢の娘。


 ピンポン、と降車ボタンが光りバスが止まった。おばあさんがゆっくりと降りていく。その一部始終を、俺達は示し合わせたかのように見守っていた。

 ぐん、と再びバスが動き出す。

「じゃあ何で……」

「わかんね。遺書とか無かったし。それに俺、そん時留置所いたから」

「……え?」

「ヤクのプッシャーやってたんだわ。上にも気に入られて調子乗ってたんだよな。そしたら突然、練馬の路上で車押さえられて逮捕。……姉貴の自殺は弁護士通して知ったよ」

 バスが大きく角を曲がる。そんな当たり前の動きに少し驚いたような素振りで、目の前の手すりを掴んでみたりする。何でもねえよ、とでも言いたいのか俺は?


 保釈の足で向かった斎場の安置室で、俺は姉貴の遺体と対面した。ありったけの薬と酒を飲んで、風呂場で死んでいたらしい。会議室みたいに無機質な部屋で棺に入れられた姉貴の死に顔は眠っているようにしか見えず、どこまでも非現実的だった。

 姉貴が死んだことで、俺の逮捕は無かったみたいになった。

 姉貴が精神科にかかっていたのを、家族の誰も知らなかった。

 俺は今でも、姉貴が自殺したのは俺のせいかもしれないと思っている。


 平林寺のバス停で降りる。伸びる枝葉の緑がぐいぐいと、青と灰色が混じり合う空に迫り出していた。さっきまで街中にいたのが嘘のように、四方を木々に囲まれている。

 タカハシはぽかんと門の向こうを見上げていた。

「森じゃないすか」

「林だよ」

「違いあるんすか」

「知らねーけど。でもこれ国の天然記念物なんだよ。昔の武蔵野の面影を残す雑木林とかで」

「武蔵野って具体的にどこなのか謎っすよね」

 タカハシはヘラヘラ言って門をくぐった。

 コイツは生まれも育ちも調布だったか。あの辺も多分ギリ含まれるだろう。

 さっきまでの固い表情はもう無い。俺は少し肩が軽くなった気がした。

 拝観料を払って、中に入る。受付のおじいさんは俺達のブラックメタルな服装を見ても特に何も言わなかった。


 木の匂いに包まれる。土と根と皮と葉が醸成する、湿った匂い。

 静かに吸い込むと、

「マイナスイオンっすねー」

 とタカハシが伸びをした。

 風神雷神みたいな金剛力士像の間を抜けると、大きな仏殿が鎮座している。上からのし掛かるような茅葺き屋根の存在感がすごい。

 横道に入り、墓所に向かってひたすら歩く。

 木陰は途切れない。汗は滲むが、徐々に体温が下がっていくのが分かった。まだ青いイガ栗が所々に落ちているのを避けながら歩いて行く。

 タカハシは喋らない。背中で黒いギターケースが揺れている。


 蛇行する道の一際大きなカーブを曲がると、墓石が並んでいるのが見えた。瞬間、あそこだ、と俺は位置まで特定した。


 今藤家の墓。

 最後に来たのは三回忌だ。その後すぐに、俺は実家と縁を切った。切られた、と言った方が正しいけど。

 だが、思い出すのはもっとずっと昔。


「ヨシ!」

 入口に立った途端、後ろから甲高い声がして、俺は呼吸が止まった。


「こら、ダメだよ、走っちゃ!」

 灰色の墓石の間を、幼い俺が笑いながらすり抜けて行く。

 まだイギリスに行く前。小学校に上がる前の俺だ。

 そして捕まえようと手を伸ばす、少女。切れ長の瞳。おかっぱを揺らして、俺の真横をすり抜けて行った。

 姉ちゃん、と俺が叫び出しそうになった瞬間、前方で小さい俺が石畳につまづいて、転んだ。ずべっと派手に音を立てて。

 ぎゃーん、と突っ伏したまま小さい俺が泣き出す。

 声を失う俺をよそに、少女は小走りで近付くと、小さい俺を抱き起こした。白いワンピースが汚れるのも構わず。

「だから言ったでしょお」

 ハンカチを取り出して、小さい俺の顔を拭う。

 俺はずっと泣いている。いたいよう。どこ、足? おひざー。

「お母さーん、ヨシ、ひざから血が出てる!」

 お墓でついた傷は治りが遅いのよ、とあの時母は言っただろうか。だが母の声は聞こえない。そのかわり、少女は俺を胸に抱き締めて言った。

「だいじょうぶだよ、ヨシ。いつか治るからね」


 姉ちゃん。

 いつかって、いつだよ。

 馬鹿な俺の傷が治るのは。


「センセー? 大丈夫っすか」

 肩を叩かれ、俺は我に返った。

 360度、蝉の声が鳴り響いている。

「あー、悪い。ちょっと雰囲気に呑まれたわ」

「急に動かなくなるから怖かったす。どこっすか? 今藤家のお墓」

 あそこ、と俺は歩き出す。

 命日は明日なのに、墓石は綺麗に清められていた。両親が頻繁に来ているのだろう。

「やべ、花持ってくんの忘れた」

 えー、とタカハシが呆れた顔でこっちを見る。来ること自体に身構えすぎた。線香は持ってきたんだけど。

 あ、と俺は向こうの切り株の根元に目を遣った。

「これでいいや」

「それ彼岸花でしょ。不吉な花じゃないすか」

「いいよ、綺麗だし」

 根元でぷちん、と手折る。紙細工のように繊細な赤い曲線が、雫を散らすように揺れた。


 もう死んだんだ。

 それ以上の苦しみも不幸も無いだろ、神様。


「はい、お前の分も」

「……これ毒とかあるんじゃないすか」

「ねーよ。あっても根とかだよ、多分」

 タカハシは渋々受け取り、それぞれ右と左に一輪ずつ差した。

 線香に火を付け、静かに手を合わせて目を瞑る。

 

 姉ちゃん。

 俺、子供が生まれるよ。

 女の子。

 予定日は姉ちゃんの誕生日だ。

 もちろん、姉ちゃんの生まれ変わりなんかじゃない。

 だけど……。


 ぽつり、と頬に生温いものが落ち、俺はゆっくり目を開いた。

 世界は柔らかかった。木漏れ日という光のフィルター。


「……雨、降ってきたな。つーかお前長えよ」

 俺が脇腹を小突くと、タカハシは見たことのない真顔で俺を見た。

「お姉さんに、センセーを守ってくださいって頼んでたんすよ。さっき魂がどっか行っちゃってたから」

「なんだそれ、こえー」

 肩を揺らして俺は笑う。


 鋭いな、タカハシ。今日は全部俺の奢りだ。


「うどん食いてーな」

「あ、いいっすね」

「さっきバス停の近くになかった? つーかこれ強くなってる。お前傘持ってる?」

「持ってないっす」

「じゃあ走るぞ」

「墓では走らない方がいいっすよ」

「ギター濡れるじゃん」

「早足で行きましょう」


 墓所から出る直前。

 俺は足を止めて一度だけ振り返った。

 重なる枝葉の隙間から、シャワーのように細い雨が降り注いでいた。

 光が赤い花びらを濡らしている。

 

(了)

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彼岸花と雨 天上 杏 @ann_tenjo

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