夕日を背に、野は燃える
三衣 千月
夕日を背に、野は燃える
武蔵野には、天狗がいる。
鼻が長いわけでも、赤ら顔でもなく、鶯色の着流し姿をしているだけの。
吉祥寺駅南口から徒歩数分、雑居ビル地下一階の珈琲屋。確かに天狗はそこにいたのだ。
大学進学を機に東京に越してきて数ヶ月。地理地名には一向に明るくならず、地元から抜け出したい一心で勉強して、なんとか合格できた大学での生活はさほど充実したものでもなかった。
折悪く引越しと同時に体調を崩したのがその大きな原因で、頼る友人もいない中で一人寂しく己を看病し、ようやっと大学へ足を踏み入れた時には敷地内の桜はとうに散り、皆それぞれのグループを作って新生活を謳歌していた。講義に出ても遠巻きにされ、また自ずから話しかける気概もなく、春風までもが余所余所しく自分を掠めていく中で、覚えた人名といえば教授の名と大学事務棟の人達のそれだった。
日曜、軽装、午前十時。せめて地理には詳しくなろうと現実逃避ともとれる散策にあてどなく出かけてはみたものの、重たい曇天模様の空は殊更、心持ちを沈ませた。吉祥寺駅南口から出ると、着ているシャツ越しに、纏わりついてくるようなぬるい風が被さってきた。
開運に良いらしい、と聞きかじった知識を頼りに井の頭公園に行く最中、シャッターの閉まった雑居ビルの前、古ぼけた喫茶店の立て看板がやけに目を引いた。チョークで『営業中』と書かれたそれは、閉じているシャッターとどうにもそぐわないように見えたが、近寄ってみるとシャッターの隣に一人がようやく通れそうな地下への階段があった。
本当にこんな薄暗い階段の先に喫茶店があるのだろうかと疑ったが、存外、逆にそういった店の方が本格的であることも多い。それに、気分も空模様もどんよりとしているのだから、少しくらい陰鬱な感じの雰囲気はむしろ自分に似合いだ、などと自虐的な思いもどこかにあったのだろう。
ぽつ、ぽつ、と薄灰雲から落とされる雨粒が路面に斑を作るのを見て、なにやら追い立てられるように地下へと逃げた。
薄暗い階段を降り、いやに重たい扉を開ける。ドアベルが遠慮がちにからころと乾いた音を立てた。店の構えはしっかりと喫茶店で、使い込まれた木の香りに内心ほっとしたが視界に人の影はなかった。
遠慮がちに声を出してみるが何の応答もなく、ここでも自分は余所者なのかと静かに深く息を吐いた。やはり帰ろうと踵を返したところで不意に入り口の扉が開いた。目を丸くして「おうっと」と言った相手はすぐに破顔して席に案内してくれた。鶯色の着流し姿をした男性が店員であるとは思えなかったし、事実そうではなかった。自分もどっかりと向かいの席に座り顎に手を当ててこちらを見てきた。店馴染みの常連か何かだろうと思っておくことにした。
「お前さん、ここいらの人じゃあないね」
「はい、あ、いえ、春からこっちに引っ越してきました」
「まったくこれっぽっちも馴染んでないってえ顔してら」
「余計なお世話です」
「そう邪険にしなさんな。珈琲でもご馳走するから」
ひょいと席を立ち、奥に行ったかと思うとすぐさまカップを持って戻ってきた。
「怒られませんか、勝手に店のものを使って」
「かまわんとも。こちとら、天狗だ」
何も根拠がなく整合性が取れていない受け答えのように思えたが、当の本人は自信満々といった様子で、ずいとカップを目の前に置いた。どうにも変な人に絡まれてしまったとは思ったが、不思議と嫌な感じはしなかった。なので、カップになみなみと注がれた珈琲に口をつけることにそれほどの抵抗はなかった。
「それを飲んだら武蔵野を見せてやろう」
「いや、別に。近くに住んでるので」
「住んでいても見えているとは限らんさ」
なるほど、何を言っても無駄かと観念した。さっさと武蔵野見学とやらに付き合って解放された方が早いだろうとまだ熱さの残る珈琲を飲み干す。喉の奥がちりちりと熱かったが、頭の芯はしっかりと通った感じがした。
からからと笑った自称天狗はすっくと席を立って「そんなら、行こうか」と両の手を袖の中に引っ込めた。
「あ、あの、お会計は」
「気にしなくてかまわんよ」
「いやでも無銭飲食……」
「銭の心配なんぞ天狗には無用さ」
やはりよく分からないし、店員の姿も変わらず見えない。一呼吸の葛藤の末、既に姿の見えなくなっていた彼を追って店を出ると、辺りはいやに薄暗かった。手荷物の時計、街頭のそれらを急いで見て回る。どれもこれも、午後六時を指していた。
ついさっきまで、確かに昼だったはずなのに。想定外の出来事に何も言えずにいたが、鶯色の着流しの衿から手を出して顎をさすっていた彼はさも当然といったように「武蔵野を見るには、暮れ方に限るもんさ」と暢気に言い放った。
人が、誰もいない。
そんなことがあるのだろうか。日曜の、吉祥寺だというのに。異様な静けさと薄暗さが降りた無人の中で、鶯色の着流し姿だけがくっきりと浮かんで見えた。
「それでは、いざや」
ざば、と袖から腕を勢いよく出して、天狗は大きく一つ拍手を打つ。
途端に背筋がぞわりと震え、地に足が着かない心持ちがした。いや、事実、物理的に地に足が着いていなかった。ふわ、ふわりと体が浮いていたのだ。
「なんだ、宙に浮くのは初めてかい。ほれ、裾でも掴んでおきなよ」
溺れかけているが如く、あわあわと手足をばたつかせてなんとか鶯色の端を摘む。糸にでも引かれているように、するすると体は空へ運ばれていった。街の灯りは小さくなっていき、眼下には灰色のビル群が広がる。とてもではないが、遠くを見渡すような余裕は無かった。風がごうごうとうるさく、下を見ないようにと目をきつく閉じるいっそう音と風が強く感じられた。
天狗が二言、三言何か言ったようだが聞き取れず、なされるがまま、どこかへ連行されていることだけは分かった。しばらくして、感じる空気の音と流れが穏やかになり、足の裏に何か触れた感覚があった。きつく掴んでいた裾の先から「さあて、着いた。地面もある」と声がして、こわごわと目を開けてみる。
大きな石造りの建造物らしいもの、の上にいるようだった。
「最近見つけたが、いっとう良い場所だ」
「ど、どこです、ここ」
「さて、名は知らないね。ただ、ここから眺める武蔵野が気に入った」
岩の縁へと這っていくと、眼下にちょっとした森緑を敷いた土地があった。乗っているのは街中に作られた大岩のモニュメントか何かだろうか。高さにして二十メートルはありそうな気がして身が竦む。顔を上げた視線のその向こう、天狗が見ている先には、やはり都会の表情とでもいうようにビル群や街並みで埋め尽くされている。視界の果ては雲の薄灰色とそれらが混ざって境目がぼんやりしていた。これで武蔵野だと言われたとて、少し高い場所から都会の街を眺めているだけで、あまり納得は無かった。
「やはり、一望できる場所は良い」
「高い場所がいいなら、スカイツリーや東京タワーでよかったのでは」
天狗は強く首を横に振る。
「前に乗ったが、不自然に鉄臭くてかなわん。土と石の上で生きるのがええ」
「はあ」
「ようし、仕上げに一吹き、天狗風をば」
懐からおもむろに扇子を出して横薙ぎに大きく一振り。ごう、と一陣。思わず目を瞑る。
少しの後、開けた視界に入ったのは、雲ひとつない夕焼け空。今にも山の端に触れそうな赤々とした夕日。先ほどまで天を覆っていた雲は欠片もなく、再びの不可思議な出来事に後ろを振り返る。
大岩の上から、緩やかに、しかし広大に、原野が見えた。現代的な建造物は一つもなく、ただただあるがままの雄大な大地。沈みゆく陽に照らされ、燃えるように波打つ野の景色。地平からは、一番星が押しあげられてちりちりと輝いていた。
「これぞ、武蔵野。お前さんの住んでおる所よ」
天狗の声だけがはっきりと響いたが、視界のどこにも鶯色の着流しは見えなかった。
瞬きの後に、突如景色は現代へ戻った。日は暮れて空は暗く、街の灯りがいやらしいほどに光る。天狗の姿は、どこにもなかった。
後日、電車を乗り継いで港区にある愛宕神社を訪れた。石造りの建物に置き去りにされ、見事に警察沙汰となってしまった事に対して、一言、文句を言うためだ。あの建物は開館を控えたミュージアムだったらしく、警備の人に見つけてもらうまで非常に大変だった。
吉祥寺のあの喫茶店はいくら探しても見つからなかったが、あれこれ調べるうちに天狗を祀っている社が愛宕神社にはあると知り、武蔵野原野の端の端、東京湾の間近までやってきたのだ。別人ならぬ別天狗かも知れないが、同じ天狗なのだから文句くらいは聞いてもらえるだろう。
正面切って言いたいことを言うために、神谷駅からトンネルを抜け、少し遠回りして大鳥居から神社に入り、石段をしっかと踏みしめて登っていく。社殿の右側に、目的の小さな社があった。太郎坊社、と書かれたそれを見て、一つ頷く。二礼二拍手一礼の後に、ぽつぽつと声をもらす。
「えらい目に遭いました。警察、消防揃って大騒ぎ。運んでくれるのが片道だけなんて聞いてなかった」
しかし、あの時に垣間見た武蔵野の景色はしっかりと焼きついている。あれが、かつての武蔵野の姿だったのだろう。その土を踏みしめ、石を積み上げ、今があるのだ。それが、なんとなく分かったからだろうか。疎外感を感じることはもうなくなっていた。
頭を掻き、財布から五百円玉を取り出す。
「珈琲代、ここに置いときます」
枝から、はらり落ちた緑葉一枚。石畳に触れる間際、一陣の風に乗って小さな社をひとまわりして舞い飛んでいった。
見上げた空は青く、深かった。すっかり梅雨は明けたらしい。
夕日を背に、野は燃える 三衣 千月 @mitsui_10goodman
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