ルンペルシュテルツヒェンの恋人

月庭一花

ルンペルシュテルツヒェンの恋人

 ……わたしの名前を当ててください。チャンスは三回です。

 彼女はわたしの手の甲に軽く触れたまま、静かな声で言った。


 朝、起き掛けに確認するとスマートフォンにスケジュールの通知が入っていて、なんだろうと思って開いてみたら、なんのことはない。いなくなってしまった恋人の誕生日だった。光の少ない、雲の多いような朝だった。

 わたしは充電器のコードに繋がれたままのスマートフォンを枕のあたりに投げ、小さな声で唸った。そしてそのまま再びベッドにぱたりと倒れこんだ。

 顔がやわらかな羽毛布団の中に沈んでいく。彼女の登録情報を消去していなかった自分にも呆れたし、そんな通知一つで落ち込んでしまう自分にも呆れた。

 引きずっていたわけではない、とは思う。現にそんな通知が来るまで彼女のことは忘れていたのだから。登録だって消し忘れていただけなのだから。けれどそんな心の中の言い訳も、今日が彼女の……青の誕生日だと気づいた瞬間に、様々な思い出がどっと溢れてきて、止まらなくなってしまった。楽しかったこと、喧嘩したこと、いなくなってしまった日のこと……。そんなことを思い出していると朝から気が塞いでしまい、だからというわけではないが、夕方、久し振りに紫さんのお店を訪ねようと思った。

 日中、家でテープ起こしの仕事をしているあいだもずっと悶々としていて、夜まで独りでいるのに耐えられなかったから。お酒でも飲まなければやってられない、と思ったのだ。友人たちにも会うかもしれない……というかそれが目的でもあったので、それらしい格好に着替え、白杖を手にしてアパートを出た。杖がアスファルトをこする、かりかりという音が小気味よかった。布製のお守りが時々持ち手に当たった。そういえばこのお守りをくれたのも青だったな、と思う。いつもは気づかないふりをしていたのに。一度思い出すともう、駄目だった。

 沖縄生まれのせいか、南国の気質でいつだって明るかった青が、さよなら、とだけ書かれた点字のメモを残して消えた。意味がわからなかった。部屋には彼女の荷物がほとんど残されたままだった。

 わたしは彼女に、何か取り返しがつかないことを、したのだろうか。メールや電話も無視された。連絡さえとることができずに、わたしたちは別れた。まだ桜の咲き始める前の、肌寒い春の日のことだった。

 あれから季節が二つ巡った。

 今はかすかにマリーゴールドの香りのする道を、ゆっくりと歩いている。十月の終わりのやわらかい空気が、その静かな匂いが、頬に当たるのを感じながら。

 大通りに出る一本前の道。交差点の信号機の補助ボタンを押して、待っているときだった。ぱっぽー、ぱっぽー、という間の抜けた音が一度途絶え、とおりゃんせのメロディーに変わった、そのときだった。

 あがっ、という小さな女性の声と、それに続けて自転車がブレーキをかける音、横倒しになるガシャンという音がした。それから男の人の痛えなっ、と怒鳴る声が聞こえた。事故だろうか、と思い、わたしはそちらの方に意識を向けた。交差点の反対側で起こったことのようだった。

「信号無視したのはそっちじゃないですか」

 女性の声が聞こえた。

「知るかよ。見ろ、スマホの画面が割れちまったじゃねぇか。弁償しろ弁償」

 随分とガラの悪い男だな、と思った。わたしは交差点を渡り、

「事故ですか。警察を呼びましょうか」

 と声をかけた。警察、という言葉に男の気配が揺らいだ。

「関係ない奴は引っ込んでろよ。第一、目が見えてないんだろ。どっちが悪かったのかなんて、あんたにわかるわけがないじゃねえかよ」

 本当にガラの悪い男だな、と思った。自転車を引き起こす男の方から、小さな、シャカシャカという音が聞こえていた。

「見えなくてもわかることはあるんですよ」

 努めて冷静な声で、わたしは言った。

「人と自転車の接触事故ですよね。そして自転車に乗っていたのはあなたですよね。大方音楽を聴きながらスマートフォンでも見ていたんでしょう。音楽プレーヤーの音漏れが聞こえるわ。大体、どうしてスマートフォンの画面が割れるの。手で持っていたから落としたんでしょう? それともスマートフォンで音楽を聴いていたから、かしら。どちらにしたってよくないけど。それにね、この交差点の信号は補助ボタンを押すと音楽が流れるのだけれど、南北と東西でそのメロディーが違うの。事故が起こったときはとおりゃんせのメロディーが流れていたわ。あとはどっちからあなたが突っ込んで来たのか警察に調べてもらえば、信号無視をしたのくらい、簡単にわかるの」

「なんだよそれ」

 男の声に焦りの色が浮かぶ。

「そもそも、自転車が人にぶつかって、どちらが悪いかなんて、そんな馬鹿な言い草はないでしょう。人身事故なのよ? 道路交通法も知らないの?」

 わたしがそう言うと、男がなめてんじゃねえぞ、と言いながら、わたしの襟を掴んだ。しまった言いすぎた、と思った。心臓がどくんと大きく跳ねた。

「ほっ、本当に警察を呼びますからねっ」

 女の人がひときわ大きな声を出した。男はチッと舌打ちをすると、自転車に乗ってどこかに去って行ってしまった。わたしは大きく息をついた。指先が少し、震えていた。

「あの、ええと、ありがとう、ございました」

 戸惑いを含んだ声で、女性が言った。

「あんな怖そうな人に、……勇気があるんですね」

「まあ、外づらは見えないし、ね。でも、手に汗かいちゃった」

 わたしが苦笑すると、彼女も少しだけ笑った。

「そうだ、怪我は? 大丈夫?」

 体の方は大丈夫です、でも。

「……傘の骨が、折れてしまって」

「傘?」

「これから雨だっていうから、持ってきたんですけど」

 わたしは少しだけ鼻をひくつかせた。……雨?

「降るの?」

「天気予報では夕方からって」

 そんな会話をしているうちに、ぽつり、とわたしの頬に何かが当たった。水滴だった。

「ほんとだ、降ってきたみたい」

 わたしは左手を差し出した。てのひらにも雨を感じた。すぐにそれは大粒のものに変わった。本格的に降り出したのだ。

「傘、ないんですよね」

 彼女が言った。

「よかったら、入っていきませんか。骨が何本か折れちゃってますけど」

「そうさせてもらえると嬉しいな。少し先に知り合いのお店があって。そこまで、いい?」

 わたしは軽く、杖で地面を探った。持ち手にくくったお守りが揺れた。いいですよ、と言った彼女の声が、それに合わせるようにどこか不自然に揺れた。

 きっと、さっきの恐怖感がまだ残っているんだろう、と思った。事故に遭った直後だもの。わたしだって彼女の立場なら、平常心じゃいられないと思う。

「肘を貸してもらえますか」

 わたしは少しだけ明るい口調で言った。

「右腕の、肘のあたりを持たせてもらえると、ありがたいです」

 いいですよ。そう言って彼女が、わたしに腕を差し出した気配がした。わたしは手を伸ばしてそこに触れた。一瞬、ひくんと彼女の体が震えた。

「ごめんなさい、くすぐったかった?」

「いえ。……行きましょうか」

 ワンタッチの傘が開き、わたしを雨から遮った。ぱらぱらと音がした。それはますます強くなっていった。天気予報を確認しなかったわたしもわたしだけれど……こんなに本格的に降るだなんて、思ってもみなかった。

 歩き出す。ゆっくりと、でも、しっかりした足取りで。

 手引きをしてもらうと、ううん、その人に触れると。なんとなく触れている人のことがわかる……というか、伝わってくることがある。それは気持ちだったり、それ以外の雰囲気だったりするのだけれど、なんとなく、本当になんとなく、この人は今日悲しいことがあったんだな、とか、少し苛々しているな、とか。そういう様々が伝わってくることがある。青と一緒に暮らしているときもそうだった。波長も合ったのだろう。青に触れながら歩いているとそれだけで色々なことがわかった。彼女の勤めていた病院で誰かが亡くなったときは、だから、青は決してわたしには触れなかった。

 ……いけない、いけない。今日は青のことばかりが頭に浮かんでしまう。わたしは軽く頭を振り、今触れている彼女の腕に、意識を集中させた。

 彼女は、ひどく戸惑っている。

 わたしは伝わってくるのその感情を、どう受け止めたものかと考えていた。

 いったい、何に戸惑っているのだろう。

 そんなことを考えながら、歩き続けた。あるいはそれは、わたしが迷うそぶりも見せずに歩いているから、だろうか。歩数や周囲の音や足裏から伝わるあれこれや白杖ごしの感触で、大体の位置は把握できる。どこで曲がればいいのかも、ちゃんとわかる。

 なので、

「本当に目が見えてないんですよね」

 と彼女に訊かれたときも、そうだよ、と。わたしは軽く答えた。

「ほとんど見えてない。視角はトイレットペーパーの芯から覗くくらい。それも白く濁っていて、ぼんやりとしか見えない」

 でも、そんな風に人に話せるまで、随分かかったのだ。少しずつ視力を失っていく恐怖を、まだ、全部は受け止めきれてはいないのだ。やがて全て見えなくなるかもしれない。それは、ものすごい恐怖、それ以外の何物でもなかった。ただ、必死に隠しているだけ。

「まるで……霧の中を歩くように?」

 彼女が不安そうに訊ねる。

「そうね、そうかもしれない」

 わたしは答え、小さく苦笑した。

 アスファルトが濡れる、埃っぽい匂いが立つ。雨がわたしたちを世界から、覆い隠している。

 傘の骨が折れていると言っていたけれど、……わたしに雨が降りかかる様子は微塵もない。わたしだけ濡れないように気を使ってくれているのかもしれない。もしもそうだとしたら。彼女も濡れていないといいな、と思う。

 しばらく歩くと、紫さんのお店に着いた。通りに面した雑居ビルの二階。窓の外のプランターには、わたしには何も見えないけれど、ミントの鉢植えが置いてあるはず。

「あの『Seals』って……ここであってます?」

「うん」

「バー?」

「そう。お酒を飲むところね」

 わたしは軽く頭を上げ、そのお店がある方を見つめた。かすかに光るネオンの、青い灯を感じた。なんということもない会話。わたしたちの交わす傘の中の言葉が、どこにも行かずに雨の雫と混ざり合い、地面に流れて落ちていく。わたしたちは二人きりで雨の中にいる。なぜかわたしも彼女も、その場から動けない。何かが、わたしの中から小さなシグナルを発していた。わたしはそれを確かに感じていた。彼女の言葉の抑揚が、とてもとても、懐かしかった。

「……一緒にどう?」

 思わず、わたしは言った。言ってしまってから、自分の口からこぼれ落ちた言葉の意味に、気づいた。

 え。……小さく、彼女がそう言ったのがわかった。

「雨宿りを、しませんか。なんとなく……独りでいたくない気分なので」

 それは、嘘じゃないけれど、嘘だった。お店には紫さんがいるはずだし、連絡はしなかったけれど、友達だっているかもしれない。でも、そういうことではなかった。

 この人と、ここで別れるのが、嫌だ。そう思った。そう思ってしまった。誰かに対してそんな風に感じたのは、随分と久しぶりのことだった。それは彼女の言葉の中にある、あの懐かしいような言葉の波が、原因ではあったかもしれない。けれどでも、別れたくないというわたしの感情は、嘘ではないと思う。

 もう少し、彼女と一緒にいたい。

 ちらりと気配を伺う。彼女は押し黙ったまま、わたしの隣に立っている。

 雨の音と、通りを行き交う人の足音。そして、彼女の小さな呼吸だけが、わたしの耳に届いた。

「実は」

 と、彼女が言った。そしてまた沈黙した。わたしはその次の言葉を待った。

「……わたしも、同じことを考えていたんです」

 わたしはいつの間にか止めていた息を吐き出した。よかった。心の底からそう思った。彼女が、傘をたたんだ。雨がわたしたちの上に降りかかった。

 階段を上り、店の扉を押し開けると、取り付けられたカウベルがからん、と鳴った。

「あら、K。久しぶりね。元気にしていた?」

 店のオーナーである紫さんが静かな声でわたしに言った、そのときだった。

 並んで立っていた彼女の気配が、大きく揺れた。ひどく乾いた声で、K、と。呟いた。

「ん? なにか」

「あなた……Kさんというの?」

「ええ」

 それが、どうかしたのだろうか。とりたてて珍しい名前ではないと思うのだけれど。

「そう、そうなんだ」

 彼女が小さな声で呟くのが聞こえた。わたしはよくわからないままスツールに座り、果実酒のソーダ割りを注文した。彼女もわたしの隣に座り、同じものを、と言った。

 おしぼりを手渡してくれながら、紫さんが、

「もう少しマメにいらっしゃいよ。右と左も心配していたわよ」

 と言った。心配していたと言われたのが、少し、嬉しかった。

「あの双子たち、今日は来る?」

「さあ」

「月先生と夜さんは?」

「どうかしら。みんなあなたと一緒で気まぐれだから」

 紫さんはそう言い、くすくすと、鈴のように笑った。

「それより、そちらの方はどなた?」

「え? ああ、ええと……」

 そういえば、名前をまだ聞いていなかった。わたしがわたわたと困っているのを見て、彼女は取り成すように、

「自転車にはねられてしまって。Kさんに助けてもらったんです」

 と答えた。とてもとても、淀みのない口調で。

「まあ、そうだったの。それは災難だったわね。怪我はないみたいだけれど……よかったらあなたもゆっくりしていって」

 紫さんがコースターをカウンターの上に敷き、その上に飲み物のグラスを置いた。音だけでも、ちゃんとわかる。わたしは鞄の中からメンソールのショートホープを取り出して、口にくわえた。

「……たばこを吸うの?」

「うん。あ、嫌だった? 嫌ならやめるけど」

「いい。……吸っていいですよ」

 彼女はカウンターの上に置かれたわたしの左手に、灰皿を差し出した。金属の冷たい感触が、てのひらに触れた。

「ありがとう。ところで、訊いてもいい?」

 わたしはたばこに火をつけて、

「あなたの名前、教えてもらえると嬉しいな」

 彼女はそれには答えず、そっと、わたしの手の甲に、触れた。ひどく苦しそうな、悲しそうな気配が、指先から伝わってきた。そして。

 その底にある薄暗い焔のような嫉妬と怒りを感じて、思わず息を飲んだ。

「ねえ、Kさん。ゲームをしませんか」

 驚いているわたしを尻目に、囁く声が、耳に届いた。


「……わたしの名前を当ててください。チャンスは三回です」


 彼女はわたしの手の甲に軽く触れたまま、静かな声で言った。

「あなたの、名前?」

「ええ。もしも当てることができなかったら」

 と、彼女はそこで言葉を切った。そして揺らめくような声で、

「あなたが白杖につけているそのお守りを、わたしにください」

 一瞬。空気が薄くなった気がした。わたしはごくんと唾を飲み込み、じゃあ、もしわたしが名前を当てられたら、と訊ねた。

「わたしには何がもらえるのかしら」

「……わたしの一番大切なものを。Kさんに差し上げます」

 静かな、とても静かな声だった。

 わたしは何度か呼吸をして、そして。

 いいわ。ゲームをしましょう、と答えた。彼女の一番大切なものが何なのかなんて興味はないけれど、それを欲しいとも思わないけれど。

 でも。なぜだろう。

 ……逃げるわけにはいかない、と思った。

「ヒントは?」

「ありません」

 取りつく島もなかった。わたしはしばらく考えるふりをして、

「……ルンペルシュティルツヒェン」

 と答えた。

「あなたの名前はルンペルシュティルツヒェンよ」

「……それ、なんですか」

「グリムの童話。知ってる? 藁を黄金に変えるのと引き換えに、王妃になった農夫の娘に小人が……」

 すると彼女はわたしの言葉を遮るように、あと二回、と言った。

「ふざけていると、わたしの名前、当てられませんよ」

 季節がもう一つ巡ったかのような、底冷えのする声だった。

 わたしは目をつむった。視界が完全な闇になった。

 そして考えた。ヒントはあるはず。今までの会話の中に、彼女の行動の中に、ヒントになるものが、必ずあるはずだ。

 そもそも。どうして彼女はこんなゲームを提案したのだろう。

 わたしが白杖につけているお守りは、青にもらったものだ。青の生まれ故郷である那覇のもので、わたしには見ることができないけれど、紅型のとても色鮮やかなお守りだ。確かに珍しいとは思う。でも、古い。しかも他人のお守りを欲しがるなんて、普通はあり得ない。だから、お守りそのものではなく、そこに込められた何かに、彼女は意味を見出したのだろう。なら……それは何?

 考える。考える。

 最初の出会いから。違和感があった。それは、どうして彼女は自転車と衝突したのか、ということ。確かにわたしが男に言ったように、自転車側の不注意が原因であるのは間違いないのだけれど。

 男は音楽プレーヤーのイヤホンのせいで周囲の音が聞こえず、スマートフォンを手にし、信号を無視した……。

 でも、そんな存在が迫ってきているのなら、なぜ彼女は避けなかったのだろう。

 わたしと違い、見える目が彼女にはあるのだから。近づいてくるのなら、当然わかるはずだ。

 考える。考える。

 避けなかったのではなく、避けられなかった、としたらどうだろう。男が急に角を猛スピードで曲がってきた、彼女も男と同じようにスマートフォンを見ていた、あるいはただぼーっとしていた、それとも……何かに気を取られていた? だとするのなら、それはいったい何に?

 そして彼女が自転車にぶつけられた際にあげた、悲鳴。彼女の言葉の中にある、南国の匂い。それらが示すもの。それは、

「あなたの名前は」

 わたしは目を開けて、小さな声で言った。


「雨。……青の妹の。雨さん」


 違うかな。そう訊ねると、

「正解」

 と彼女は言った。

「本当に目、見えてないんですよね」

「うん。見えてないよ。種明かし、いる?」

「お願いします」

 わたしは結局、最初の一口しか吸わずにたばこをもみ消した。

「あなたのことは青から聞いたことがあった。雨という名の妹がいるって。会うのは初めてね」

 彼女……雨は黙っていた。わたしは苦笑して、先を続けた。

「最初に、あなたが自転車とぶつかったとき。あなた『あがっ』って、言ったの。あれ、痛いっていう意味よね。青もよく足をぶつけたときとかに、言っていたわ。そういう咄嗟のときの言葉って、変わらないものなのね」

「それだけ、ですか」

「あなたの言葉には少し訛りがあるの。青と同じように。だから喋っていると懐かしかったわ。わたしの知っている沖縄の人は青しかいないし、わたしを知っている沖縄の人も、青しかいない。もしあなたが青と同郷の人なら、青に関連のある人に違いないと思った」

 わたしは雨に向かって微笑んだ。彼女の表情は、わからない。

「あなたはわたしを最初から知っていたんでしょう。姉と……青と同棲していた、わたしのことを。ううん、それが確信に変わったのは紫さんがわたしの名前を呼んだときかしら。あなたはあのとき、まだ疑っていたのね。わたしの顔までは知らなかったのね。だから白杖をついて歩いていたわたしを見ていたんだわ。もしかしたら道の反対側にいるあの人が、そうなのかもしれないと思って。あの交差点で。自転車を避けられなかったのはそのせいね。あなたが気を取られていたのはわたしを見ていたから。違うかしら」

「違いません。その通りです」

 と雨は言った。

「姉からよく聞かされていました。目の見えない女の子と一緒に暮らしていたと。Kという名前も姉から聞きました。写真はあなたが嫌がるから一枚もないって。だから……こうしてお会いするまで、顔がわかりませんでした。お守りや、目が見えない女性というだけではまだあなただと確信できなかったし。でも、Kという名前を聞いて、やっぱりそうだったんだ、と」

 雨が、過去形を使って話している。わたしと青がすでに終わってしまったのだともう一度言われている、別れが繰り返されているようで、胸が痛かった。

「どうして、お守りなんて欲しがったの?」

 雨は答えない。

「青は……元気にしてるの? 今日が二十六歳の誕生日よね」

「生きていれば、そうですね」

「……え」

「死にましたよ。夏の終わりに」

 どうして。口を突いて出た言葉は、まるで自分の声に聞こえなかった。掠れて、震えて、それはたぶん、冬の隙間風か何かだった。

 死んだ? 青が……?

「今日、本当はわたし、あなたに会いに来たんです。アパートを訪ねて姉の遺品を届けるように、生前、言われていたから」

「ちょ、ちょっと待って、嘘でしょ? ねえ、青が死んだなんて、そんなの嘘でしょう?」

「……嘘なんかじゃないっ」

 押し殺した声で、雨が言った。それほど大きな声ではなかったはずなのに、わたしは身を竦ませた。そして、雨の言葉が嘘じゃないって、信じた。信じるしかなかった。

「あなたと別れたときにはもう、身体中に病気が広がっていて、手がつけられなかったんです。姉は……本当は弱い人でした。いつも強がっていたけれど、明るく振舞っていたけれど、……あなたを想って、入院中によく泣いていました。最後、強い麻薬を使用して意識が朦朧としているときにも、口に出るのはあなたの名前ばかり。ねえ、そんな姉を見ていて、わたしがどう思ったか……あなたにわかりますか」

 わからない。そんなのわたしに、どうわかれというのだ。

「今日は姉の誕生日なのに、もう、姉はどこにもいないのに。あなたは平然としていた。平然としているように見えた。それが、悔しかったんです。そのお守りだって姉が渡したものですよね。なんだか、それを見ていたら……」

 最後は涙声になってしまって、うまく聞き取れなかった。心にぽっかりと穴が空いてしまったようだった。ううん、違う。違うのかもしれない。もともとの空隙を、わたしはただ理解しただけだった。

 青がいなくなって、必死に忘れようとして、忘れたつもりに、実際に忘れたと思っていたけれど、でも違った。孤独を埋めようとしてこうやって知り合いのお店に出てきたりしたけれど、そんなものでは埋まらなかった。青。青。わたしは彼女の声を、触れたときの感触を、必死に記憶からかき集めた。

 さよなら、という手紙だけを残して青は、どんな思いでわたしの部屋から出ていったのだろう。

「どうして、青はわたしに言ってくれなかったの? そんなに辛いなら、苦しいなら、どうしてわたしを頼ってくれなかったの? わたしの目が見えないから? わたしじゃ頼りにならないから?」

 雨が答えてくれるわけもないのに、わたしは彼女の手を掴んで、そう訊ねていた。

「……どうして」

「愛していたから」

 雨が、静かな声で言った。

「あなたを、Kさんを愛していたから。だからきっと、姉は何も言えなかったんです」

 そんな。そんなことって、ない。ずるい。そんなのずるい。

「……姉が言っていました。あなたは勘が鋭いから。だから、一緒にいるとあなたにはきっと迷惑をかけてしまうと。わたしの不安や恐怖を共有させるわけにはいかないと。ごめんなさい。本当は、病気のことは伏せておくように言われていたんです。亡くなったことも。あなたには絶対にしゃべらないで、って。でも、……わたし、意地悪をしました。ごめんなさい。本当にごめんなさい」

 雨が頭を下げたのが、気配でわかった。

「約束です。わたしの、一番大切なものをお渡しします」

 しばらくして頭を上げ、そう言って、雨がわたしの手に、何かを握らせた。細い鎖のようだった。手繰っていくと、何か硬い粒が、指先に触れた。爪で固定された、小さな石のようだった。

「……ペンダント」

「Kさんは六月の生まれですよね。ペンダントトップは、誕生石のダイヤです」

 これが、雨の一番大切なもの?

「もしかしてわたしに渡す予定だったっていう、青の……遺品?」

「ええ。姉の遺灰で作ったダイヤです。そう言ったら……信じますか?」

 ……雨が店を出て行ったあともわたしはずっと独りで、そのペンダントを指先に、感じ続けていた。細かな鎖の連なりと、鋭い光を放つ、石の姿を思った。やがて店が混み始め、ざわめきが幾重にも、わたしを押し潰すように重なり合った。まるで澱のように、足元の床には悲しみが広がっている。

 わたしにはそのありようが、とてもはっきりと見えた。

 そしてぼんやりと、最後の疑問について考え続けた。

 どうして、今日だったのだろう。なぜ青は今日を、わたしの誕生日ではなく自分の誕生日を指定して、雨を使いに出したのか。

 忘れて、と言いながら、忘れて欲しくはなかった。そういうことなのか。わたしを忘れないで、という、ことなのだろうか。

 正直、思うところは色々とあった。いっぱいあった。全然納得もできない。したいとも思わない。青を思うこの気持ちにどう折り合いをつければいいのかもわからない。でも、

 目を閉じ、わたしは小さな石に向かって囁いた。


「お還りなさい、青」


 嘘でも、本当でも。何が真実でも。


 今はただ、それだけでいいと思う。

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