壺中天

 壺中天という話がある。

 中国の後漢の頃、市場の役人である費長房という男が壺の中に入っていく老人の姿を見た。この老人が仙人ではないかと思った費長房は、後日老人に頼み込み壺の中へと入れてもらうと、そこにはこの世とは別天地のような楽園が広がっていた。この話から、壺中天という言葉に「別天地」という意味が生まれたという。


「だからこのお店の名前は『壺中天』だって言うのかい?」


「ここがお客さまにとっての『壺中天』になればと、毎日思いながらお店に立っていますわ」


 カウンター席に差し向かいで立つこのバーの女主人は、グラスを拭きながらにっこりと微笑んだ。私は彼女を見上げるように少し身体を前に出して、その顔を指差す。


「店長みたいな美人がいるなら、ここはもう私の『壺中天』さ」


「あら、お上手ですこと」


 仕事帰りにふらりと立ち寄ったこのバーに、私が足繁く通うようになったのはそれが理由だった。

 彼女は美人だった。それも普通の美人ではない。それは白シャツに黒ベストという、あまり女性が着る姿を目にしないバーテンダーの服装をしていることもあるだろう。しかしそれ以上に、彼女のその凛とした白い肌が、月のように冴えざえと光るこの青白い店内の照明に照らされている姿を見ていると、「なにを気取って」と笑う向きもあるかと思うが、私の目にはまるで一夜に咲き枯れてしまう月下美人の花が、人のかたちをとってこの世に姿を現したかのような神秘的なものに映るのだった。

 特に彼女の魅力はその表情だった。常に涼しげなまなざしを浮かべる切れ長の目元。絶えず薄い微笑を湛える薄紅色のふくよかな唇。その表情はいわゆるアルカイックスマイルと呼ぶべきものなのだろうか。ギリシャ彫刻の女神像が見せるようなその微笑は、どこか謎めいた印象を与え、私の心をひどく惹き付けて止まなかった。


「金谷さんはお上手ですから、そう言って他人に気を持たせてしまうんでしょう。罪な人ですね」


 彼女はグラスを拭く手を止めて、その魅力的な微笑で私をたしなめる。しかし私は手に持ったカクテルグラスを軽く傾けて首を横に振った。


「いやいや、私はお世辞が苦手なんだ。だから出世とはずっと無縁で、いつも一、二杯のカクテルしか頼めない。店長には悪い話だよ」


「また、お上手なこと」


 私の冗談に彼女がくすりと笑みをこぼす。そのやわらかな微笑みを見ながら酒を飲むことが、この店での私の楽しみだった。


「――しかし、壺中天とは不思議な話だね。それで壺の中に入ったその男はどうなったんだい?」


 カクテルグラスを置こうとしたとき、手の影にコースターに描かれた店名のロゴが見えた。私は先ほど聞いた壺中天の話を思い返し、その続きを促した。


「楽園で遊んで、帰ってきたあと老人に口止めをされました」


「へえ、それで喋っちゃったんだ」


 なるほど、よくある話である。何かを得る代わりに禁忌を与えられ、最後にその禁忌を破り罰を受ける。教訓譚としてありそうな話である。


「いいえ」


 しかし彼女は首を振る。


「おいおい。それじゃあオチがつかないじゃないか。普通は鶴の恩返しみたいに約束を破った報いを受けるもんじゃないのかい?」


 喋るなと言われ、最後まで喋りませんでしたでは話にならない。私の呆れた顔に彼女は例の微笑で答える。


「オチのない話というのもあるのですね」


 そういうものなのだろうか。よくそんな話が故事成語として残ったものだ。彼女は私の釈然としない表情を見ながら笑うと、シェイカーを取り出し、カクテルを作り始めた。


「でも不思議だと思いませんか? 男は口止めをされました。ではどうして、この話を私たちは知っているのでしょう?」


 シェイカーにリキュールを入れながら彼女が聞く。そう言われると疑問である。誰にも話さなかったらこの話が後世に伝えられることもなく、ここでこうして酒の席の話題になるようなこともなかったはずである。


「じゃあ、やっぱり喋ったんだ」


「ですが男が約束を破った報いを受けたという話は伝えられていません。ということは喋ること自体は問題ではなかったということになります」


 そこまで考えると確かに不思議だった。私が疑問に沈黙すると、彼女がシェイカーを振り出す。


「ではどうして老人は口止めなどしたのでしょう?」


 答えられない疑問である。他人に話してはいけないが、話してしまっても構わない。まるで禅問答のようである。カクテルグラスを揺らしつつ首をひねっている間に、彼女のシェイカーを振る手が止まった。


「ここに特別なカクテルがあります」


 彼女はそう言ってグラス棚からお猪口ほどの大きさの小壺を取り出すと、その中にシェイカーの中身を注いだ。金色の液体が小壺の中へと一筋の線となって流れていく。


「名前は“壺中天”。金谷さんには毎晩お越しいただいているので、これは私からのささやかなお礼です」


 彼女が小壺を私の前に差し出す。青白い店内の照明の光に、小壺の中の液体が月を浮かべる小波のようにきらりと揺れた。


「なにか不思議な匂いだね」


 手にとって鼻先で揺らすと、バニラに似た甘い匂いが鼻腔をくすぐった。けれどその匂いは決して甘いだけでなく、その下にどこかミントのような、鼻から頭へとすっと抜けていく清涼な香りを忍ばせていた。なにか人の脳を直接に刺激するような、今までに嗅いだことのないなんとも不思議な匂いだった。


「特別ですから。お飲みいただければその名の通り、別天地のような心持ちにさせてくれるカクテルですわ」


「それはまた強烈そうなカクテルだね」


 ウオッカやテキーラでもベースにしているのだろうか? なるほど、そういう意味でも“壺中天”と呼べるだろう。私が笑うと、彼女と目があった。彼女の目が私の目をのぞく。あの例の謎めいた微笑で私の目をじっと。私は少し自分の頬が赤くなるのを感じた。


「えっと……、いいのかい、いただいて?」


 照れ隠しに小壺に目を戻して訊ねた。彼女がうなずく。


「ええ。……ただし」


 そう言って彼女は口元に人差し指を立てる。


「このことは他の人には秘密です」


 私は破顔した。彼女がなぜ今夜、“壺中天”の話を始めたのか理解したからだ。


「ああ、もちろん秘密だ」


 小壺に口をつける。舌に触れた酒はやわらかくその上を流れ、口に甘い香りを残しながら喉の奥へと落ちていった。



  *****



「泣いていますの?」


 妻の差し出すハンカチを受け取り、私は目尻にたまる涙を拭いた。


「早いものだと思ってね」


「そうですね。もう娘が生まれて二十三年になります」


 ウエディングドレス姿の娘が、今、花婿と並んで座っている。二人は次々と祝福に訪れる友人たちにむかって、にこやかな笑顔で応えている。


「キミと結婚してからは二十五年か。私たちも二十五年前はああやってあそこに座っていたんだよな」


 娘の結婚式。披露宴会場の末席から望む二人の姿に、私はなんとも言えない時の流れを感じていた。


「二十五年ですか……。あなたが私のバーにお客様として訪れてから、もうそんなに経つのですね」


 妻の言葉にその馴れ初めを思い出す。そう、妻はバー「壺中天」の女主人で、私はその常連客だった。


「今、思い返しても、キミがこうして私の横に座っているのが、夢のように思えるよ」


「あなたがとてもご熱心でしたから」


 妻がにこりと笑う。出会ったときから変わらない、あの謎めいた透明感のある魅力的な笑顔で。


「それはキミの魅力がそうさせた」


「変わりませんね、そういうセリフは」


「キミの魅力と同じにね」


 二人で笑った。しかし、それは事実だった。妻はもう五十を過ぎたとは思えないほど美しかった。当然シワは増えているし、肌のつやも衰えている。それでも妻の持つ独特の雰囲気は変わらず私を魅了し続けていた。


「キミと出会えてなかったら、こんな幸福な人生なんて送れなかった」


 キャンドルサービスの時間になった。照明が落ち、娘夫婦がキャンドルを手に賓席をまわる。私はその暗闇に紛れて、妻に感謝の言葉を述べた。

 この二十五年、順風満帆の人生だった。妻と出会った頃から仕事もうまく動き出し、今では会社の役員にまでなった。家に帰れば美しい妻に、かわいい娘。明るい家族の風景が私の心を常に満たしていた。その娘も私と同じようにこうして幸せな出会いをし、また新しい家族を作ろうとしている。私は幸せだった。その感慨が私にこの感謝の言葉を述べさせた。


「まだ、先は長いですよ」


 妻がそっと私の手に触れる。その手の温度に私は妻の手を握り返した。


「あら、ラブラブじゃない」


 娘が私のテーブルにキャンドルを灯しに来た。手を握り合う私たち夫婦を見て娘が笑う。


「私たちも負けていられないわね」


 そう言って娘は新郎に腕を寄せる。私が照れて顔をかくと、新郎も同じように顔をかく。それを見た妻が口元を押さえて笑った。


「やあ、金谷さん。おめでとうございます」


 娘夫婦が別のテーブルへ移動すると、入れ替わるように隣席から新郎の父親が訪ねてきた。


「さ、一杯」


「ありがとうございます」


 ワインを注いでもらいながら頭を下げる。新郎の父親は少し小太りで、太い眉毛に大きな丸い目が印象的な男であった。


「仲のよいご様子で、うらやましい限りです。私の妻とは大違いだ」


 そう言って大きな声で笑う。先ほどの娘とのやり取りを見られていたらしい。私はワインを飲みながら内心に苦笑する。


「しかしお美しい奥さまだ。どちらでお口説きになられたのです?」


 新郎の父親は近くの空いたイスを引いてきて、私の横に座った。少し無遠慮な態度に話題かとも思ったが、祝いの席であるし私も少し酒が回っていたので、特に気にせず私はその話題に応じた。


「妻は昔、バーを経営していまして。そのバーの女主人と客です。だいぶ足繁く通いました」


「ほう、それは。ではだいぶお熱い言葉でお迫りになられたのでしょう?」


 ワインを手酌でグラスに注ぎながら、彼はその丸い目をくりくりと動かして私に訊いた。そう問われて、私は妻との馴れ初めをひとつずつ思い返していく。


「いえ、確かに好意は示していましたが、恥ずかしながら最後には妻の方から……」


「こんな美しい奥さまから! 果報者とはこのことですね。どういったご経緯で」


 彼の大仰な驚きぶりに苦笑いを浮かべながらうなずいた。確かに妻に好意を抱いて私は店に通いつめたが、ある日をきっかけに妻の方から私を誘い、それからすぐに私たちは結ばれたのであった。


「ははは……。そうですね、今、思い返せば……あのときだ。ほら、キミが私にカクテルをおごってくれた夜。確か“壺中天”という名前のカクテルを飲ませてくれた夜。その日、私が酔いつぶれてしまって、それをキミが介抱してくれたときから、私たちは……」


 記憶を確認するように妻の方を振りむこうとしたとき、私の耳にすべての音が聞こえなくなった。


「……え?」


 食器の鳴る音、人の歩く音、場内に流れる音楽、そして人の話す声。なにも聞こえなくなった空間は、時間の止まったように完全な静寂に包まれていた。いや、「時間の止まったよう」ではない。止まっていた。目の前にいる新郎の父親が、ワインを飲む姿勢のままで止まっていた。傾いたグラスのワインはこぼれない。口に流す傾きのまま、ワインの流れも止まっているのだ。

 どういうことだ。困惑が混乱に変わる。すべてが止まっていた。腕時計の秒針も動いていない。場内のすべての人が、物が停止していた。時間という概念そのものが失われたような空間に、私だけがただ一人取り残されて、その光景を見ているのだ。

 恐怖が足元から震えとなって立ち上ってくる。そのときだ。その声が天井から聞こえてきたのだ。


「……さん。金谷さん……」


 私を呼ぶ声。その声を私は知っていた。


「……金谷さん……金谷さん……」


 妻の声だ。けれど妻は私の隣にいるはずだ。なのにこの声は天井から聞こえてくる。

 私は恐る恐る天井を見上げた。


「金谷さん」


 天井に円い穴があった。青白い光の差し込む、大きな円い穴。十メートルはあろうかという、とても大きな穴。その穴に顔があった。二つの顔。私はその顔を両方とも知っていた。


「私だ……」


 穴を覆うように私の顔があった。それも若い、二十年以上前の私の顔がそこにあった。青白い光を影に、目をつぶって眠る私の顔が。そしてその私を揺り動かす人の手ともうひとつの顔が、その穴から見えた。


「妻だ……」


 私と同じように若い、私と出会った頃の妻の姿が。バーテンダーの服を着た、あの頃の妻の姿がそこにあった。彼女が穴のむこうで首をうなだれて眠る私を起こそうと、声をかけているのだ。


「なんだ……」


 理解ができなかった。できるわけがなかった。


「なんなんだ、これは!」


 叫ぶしかなかった。こんな意味不明な、井戸の底から空を見るような光景、壺の中から外を見るような光景……。


「……壺……」


 そのイメージは直感のように私の頭の中で渦を巻いた。それは戦慄となって、私の背筋を走り抜けた。

 壺。壺だ。そうだ壺なのだ。

 私は気づいてしまった。この夢のような光景がなんであるか。しかしそれは私には認められなかった。いや、認めたくなかった。なぜって、それを認めてしまったら、私は……。


「話してしまいましたね」


 隣から妻の声。私の愛する妻の声。私が過ちを犯したときに聞く、静かに私を諭す妻の声。

 私は隣に座っているはずの妻に振りむくことができなかった。怖かったのだ。もし振りむいてしまったら、きっと私は、私は……。


「そろそろ目を覚ましますね」


 残酷に告げられたその言葉とともに、穴のむこうの私がゆっくりと目を開ける。


「私は……」


 その瞳に私の顔が映った。



   *****



「……さん……金谷さん」


 肩を揺すられ、うっすらと目を開けた私の前に、バーの女主人の顔があった。


「ここは……」


「お目覚めですか?」


 青白い光に照らされた、静かなバーの店内。ぼんやりとあたりを見回す私に、彼女が水を差し出す。


「少しお酒が強すぎたようで、途中でお眠りになられて」


 視線を下にむけると、そこに小壺があった。確か“壺中天”という名前のカクテルを入れた小壺。暗いうろと化したその小壺の中には、もう一滴の中身も残っていないようだった。


「大丈夫ですか?」


 受け取った水を一気に飲み干す。ひどく喉が渇いていた。それは長い夢から覚めたときに感じる、夢を忘れさせ、自分に身体という現実があることを思い出させるために、自然と身体が発する喉の渇きだった。


「……どれくらい寝ていたんだ?」


 水を飲み干した私は、口元を拭いながら店の時計に目をやった。


「三時間ほどです。とても心地よくお眠りになられていたのですが、先ほどから急にうなされだしまして」


 よく時計を見れば閉店時間はとうに過ぎていた。彼女は眠る私を介抱するために、店を閉じずにいてくれたのだ。


「こんな時間まで私を……?」


「あまりに心地よさげなお顔でお眠りになられていたもので。つい、付き合ってしまいましたわ」


 彼女が微笑む。しかしその微笑みを見る私の心には、手足を震えさすほどの強烈な戦慄が生まれていた。


「もう終電の時間も過ぎてしまいましたね」


 私は知っていた。このセリフを。そして次の、彼女が私にする問いかけも。


「どうされますか?」


 ああ、そうだ。知っている。この言葉の意味までも私は知っていた。この先がどうなるか、私はすべて知っていた。それは夢に見た記憶。二十五年分の夢の中の記憶。その完全に符合する断片が、彼女の口から発せられた。


『キミの側にいたいから、このまま朝までここにいるよ』


 私はその夢の中でこう答えた。そして夢の中で彼女は微笑み、私の頬に手を触れて、こう言うのだ。


『金谷さんのそういうセリフ、好きですよ』


 すべてうまくいく。私はそれを知っていた。夢のように選択すれば、すべては確定した事実をなぞるようにうまくいくことを、私は確信をもって知っていた。

 だからこそ私は、こう答えるしかなかったのだ。


「タクシーを呼んでくれるかな?」


 私は暗闇に沈む小壺の中を見つめながら、そう答えた。






「またのご来店を」


 私は呼んでもらったタクシーに乗り込み、いつもと変わらない彼女の微笑に見送られながら、店を後にした。

 七色に灯る街のネオンが揺れるタクシーの窓に映る。その光景が、私にはなにかすべて色褪せた夢のような、乾いたものとしてしか感じられなかった。


「壺中天か……」


 流れる景色を見送ると私は顔を下ろした。膝の上で組んだ手を組み直す。私は彼女と交わした壺中天の話を思い返していた。

 なぜ話していけなかったのか。老人が費長房に壺の中での出来事を口止めした理由。その疑問が頭の中で繰り返される。


「今ならわかる気がするな……」


 それはきっと、他人に話してしまえばその自分という内の中だけに秘められた感動が、外に漏れてしまうからだ。おそらく費長房という男も、他人に話した瞬間、壺の中であった体験が色褪せた夢のようになってしまったことだろう。自分だけの特別だったものが、他人の酒の話題となる。それはつまらない、ただの風変わりな現実。そのことを嘆いても、そんな懐中の後悔なぞ誰にも知れない。ただ、客観化された現実がそこに残るだけだ。だから老人は誰にも話すなと言ったのだ。


「夢か……」


 しかし、私は話してしまった。あの二十五年を私は確かに体験した。だが、それはもう色褪せた夢だった。すべてが既知の、無感動な現実。客体と化した、覚めると知れた夢。それはあの小壺の中のように狭く、すべてに手が届いてしまう小さな壺中天。だから私は彼女の好意を無下にするしかなかったのだ。


「お客さん、不景気そうだね」


 私の沈鬱とした様子が気になったのか、タクシーの運転手がバックミラー越しにそう声をかけてきた。


「ずっと顔が下をむいているよ」


 そう言って笑う彼を、私はうらやましく思った。

 もし、また空に円い穴が現れ、私が私と目を合わすことがあったなら、この現実が、また壺中天の中で見る長い夢の一幕に過ぎないとしたら、私にはもう上をむくなんてことはできないかもしれない。

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少し怖い話でもしましょうか ラーさん @rasan02783643

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