嫌われ勇者は復讐する

佐藤山猫

第1話

 突然だが、『黒歴史』という言葉をご存じだろうか。

 別の言葉で言えば、『消し去りたい過去』というやつだ。両親の故郷の言葉らしい。

 たとえば林間学校でおねしょをしたとか、入学式に遅刻したとかそういったのが該当する。

 俺の場合は──。





「おい、だれかいないのか!!!」

「衛兵を呼べ!!! それと医者だ!!!」

「ひいぃ、神様ぁぁぁ……」


 城壁に覆われたクリュートの街の中では、大勢の市民が阿鼻叫喚を描いていた。街全体から黒いオーラが靄のように漂い、一部は煙のように空に浮き上がっているようだ。

 俺は街で一番高く、そして街を一望できる物見の塔からそれを見ていた。何の感慨も湧かない。俺に関わりのない人や善人もいたのかもしれない。だが、俺には関係ない。


 教会に人が集まっている。救いを求めてやってきた市民たちだ。しかし聖職者たちもみな黒の瘴気に罹患しているからその声は全くの無駄だ。

 騎士詰所は、普段は街唯一の門を守るため数人の騎士が居住まい正しく立っている。だが今は門の前に黄金の鎧を着た騎士だった者たちの骸があるだけだ。

 貴族の屋敷は……やはり大勢の市民が集まっている。しかしどの家でも門は固く閉ざされていた。


 俺は背後で両手両足を縛られ猿轡をかまされている若者たちに目線を向けた。生気のない眼をした者、絶望し瞑目する者、狂ってしまったのか明後日の方向を見て痙攣しているもの、俺に血走った目を向けてくる者……。


「だから、言ったのに」


 俺は小さく呟いた。

 俺の言葉に、縛り付けられた四人の肩が震える。血走った眼が何かを叫んでいる様子だったので俺はそいつの猿轡を外した。途端に罵声が飛んでくる。


「なんてことしやがるんだ!!! てめえそれでも【勇者】か!!?? 俺たちを拘束して無関係の市民を巻き込んで……!!!」


 俺はその言葉をぼんやりきいていた。まるで他人に向けられた言葉のようだ。俺はいつもの眠そうな目をこすり言い聞かせるように言った。


「『黒歴史』って言葉を知っているか?」

「あ!?」

「俺にとっての『黒歴史』は、お前らを仲間だと思っていた、信じていたあの時間だよ」


 俺の言葉はもはや感情がこもっていなかった。俺はそれを自覚していた。





















「よく分からない特殊スキル持ちは基本的に勇者と呼ばれます。あなたもそうですね、アルベールさん」

「ええ、一応【黒の勇者】と言われています」

「【黒の勇者】さんはその勇者としての特殊スキルを発揮することなく実績を積んでこられています。これは珍しいことですね」

「ははは、ええ、まあ」


 そろそろいいですか、と仲間が記者と俺との間に入る。剣士のクラーク、魔術師のアレクサンドラ、回復術師のクオラ、狩人のルイ、以上四人が俺の仲間だ。


「悪いなあみんな」

「なあに、気にすんなって」


 クラークが俺の背中をバンッと叩いた。クラークは剣士だけあって力が強い。本人的には手加減しているのだろう。だが叩かれた俺はゲホゲホとむせた。


「大げさね」


 魔術師のアレクサンドラが小言を言う。俺はははは、と曖昧に笑った。


「大丈夫ですか?」


 クオラが軽く杖を振るってくれる。俺の身体が光に包まれる。回復魔法の一種、『ヒール』だ。「ありがとう」と俺はクオラに礼を言った。クオラはこのパーティーの回復担当だ。教会から派遣された彼女は、聖女に最も近い存在、と言われている。


「クラークも加減というのを覚えろ。そんなんでは騎士団長は務まらないぞ」


 ルイがクラークをたしなめる。クラークはクリュートの騎士団に所属している。将来は騎士団長と言われて久しい。騎士団長、花形だ。

 騎士団長は人気の仕事だが、そんなクラークもルイの甘いマスクには敵わない。ルイは狩人だ。弓矢の腕は一流で、命中率は百発百中。今までその精悍な身体と整った顔に傷一つ負ったことがないという。


「ルイはいいよな、女が切れたことは何だっけか?」

「そういうクラークも、騎士団長有力候補なんてすばらしいじゃないか。俺なんか【黒の勇者】なんて言われてるけど勇者の力は使えないしチビだから全然モテねえよ?」

「……よかったら今度いい店に連れて行ってあげようか?」

「「よっ、それでこそ最高の狩人!!!」」


 俺たちのバカ話に、クオラはあらあらと困った顔で眉を顰め、アレクサンドラは目を吊り上げた。


「なに馬鹿なこと言っているの?」

「いやあ、ははは。申し訳ない」


 俺の弁明にアレクサンドラはフンと鼻を鳴らした。


「そうやって曖昧に笑う癖は直したほうがいいわ。……さっきの記者にしてもそうよ。謝るくらいなら言い返したらどうなの? あなたのスキル、仲間の私たちにも教えてくれないじゃない」

「……死んだ親との約束なんだ。それに、俺自身があれは封印すべきだと思っている」


 俺のスキルは見境なく人を殺めることのできる能力だ。過ちを犯した日に一度と検証のために一度、それ以外は決して使わないし情報も漏らさない、俺はそう決めていた。


「一度でいいから見てみたいよな。【黒の勇者】の特殊スキル」

「やめておけ、と言っておくよ。自分でいうのもなんだが、あれは酷い結果を生む」


 クラークの言葉に俺は首を振った。クラークが「はあ」とも「あ゛あ」ともつかない低い声を漏らす。


「……ふうん、そうなの」


 アレクサンドラはつまらなさそうに俺を一瞥すると踵を返し、ひとりずんずんと屋敷に入っていった。

 ここは彼女の、正確にはアレクサンドラ・ヤーシャの家が俺たちに用意してくれたヤーシャ家別宅だった。アレクサンドラはクリュートの評議会筆頭のヤーシャ家の娘なのだ。




 【黒の勇者】こと俺──アルベール──はクリュートの都市圏にある小さな名もなき村で生まれた。

 両親は遥か東から流れ着いた少数民族の生き残りらしい。西──クリュート属するジャルマニア国と東──巴帝国の狭間に生き、戦災によってなくなった黒髪黒目の民族ラトゥス、その血を引く俺もまた、黒髪黒目の、この辺りでは珍しい容姿をしていた。


 俺は村の子どもにいじめられていた。金髪で彫りの深い顔立ちの中、黒髪で平たい顔の俺が際立っていたからだろう。「忌み子、忌み子! やーい、やーい」こんな具合だ。子どもの言葉は親の言葉遣いに強く影響されるという。村の大人たちが俺を、いや、俺たち家族を忌み嫌っていたのは間違いなかった。

 いじめを受けていた5歳のある夏、俺はその時、初めて【黒の勇者】の力に目覚めた。

 【黒の勇者】の能力は瘴気だ。俺はこのスキルを《マイス》と呼んでいる。幼い時の俺は無我夢中だったのだろう、やみくもに《マイス》を起動した。


 気付いた時には俺をいじめていた子供たちがみなネズミに体中を噛まれ、そして噛まれた箇所から黒い煙が吹き上がっていた。


 事態にいち早く気付いた両親がかけつけ適切な処置をとってくれた。父親が持っていたという薬を撒くとたちどころに黒い靄が消え、ネズミが苦しみながらどこかに消えていった。

 幸い子どもたちはみな全快した。この時に両親は俺に真剣な顔で語りかけた。「あれは二度と使ってはいけない」「人を殺める力だ」そう言っていた。だから俺はそれ以来、人のいるところで《マイス》を起動していない。ジャルマニア国の軍が村に来て俺を【勇者】として連れて行っても。

 いや、むしろ【勇者】となってからの方が、周囲に人しかおらず、起動する機会がなかったとも言える。


 子どもたちの誰かから伝わったのだろうか、俺が未知のスキルを発動したことが村からジャルマニア軍へと伝わり、俺は瘴気を操る【黒の勇者】として担がれ、クリュートに属する勇者として治安維持や魔物退治に当たることになった。


 勇者、とはいい響きだ。喜びのままクリュートに帰還した俺は、そこで衝撃的な事実を耳にする。


 故郷の村がなくなった。

 一夜にして焼失し、住人も建物も跡形もなくなったという。目撃者無し、生存者無し。両親は? 俺をいじめた村の子たちは?


 混乱する俺の肩に手を置き、領主のドボルブニク・ヤーシャ──アレクサンドラ・ヤーシャの父親にあたる──は同情と労わりのこもった声で語った。村のことは残念だった。君の苦悩は想像を絶する、ゆっくりと傷をいやすといい……。しかし覚えていてくれ。今回、故郷を、家族を守れなかったように、戦火に巻き込まれ、魔物に襲われ、家族や家を無くす人は後を絶たない。君の【黒の勇者】の力でそれを未然に防いではくれないか。


 クラーク、アレクサンドラ、クオラ、ルイ……当時俺とパーティーを組むことになった少年少女たちも口々に俺を慰めてくれた。


「みなさん……ありがとうございます……やさしくして……いただいて」

「なあに、気にすんなって」

「ぐすっ、クラークさん……」

「おいおい、クラーク”さん”ってのはやめてくれ。俺たちはアルベールより年上だけど、これから一緒に活動する仲間じゃないか。クラーク、でいいよ」

「な、仲間……」


 こんな具合である。



 【黒の勇者】になって十年。両親の教えを守って《マイス》を封印しながらもそれなりに剣技や魔法を覚え、俺はクリュートに【黒の勇者】あり、とされる活躍をしていた、と思う。

 さすがに剣の腕はクラークに、攻撃魔法はアレクサンドラに、回復魔法はクオラに、索敵や解錠や弓の腕はルイに劣る。ひとことで言えば『器用貧乏』。しかし俺はこの時、自分の評価を過信していた。【黒の勇者】でなければ、自分は全く需要がなく、【黒の勇者】であっても、《マイス》を封印し、もはや誰もその能力を覚えていない状況では、いつ何時切り捨てられてもおかしくないということを…………。













 ある日、俺は郊外の森をソロで探索中に一人の男に襲撃を受けた。


「はあっ……!」

「!!!」


 藪から飛び出した男は大上段に剣を振り上げている。大ぶりな攻撃だ。俺は飛びのくと同時に抜刀し、男との距離を取った。


「【黒の勇者】アルベールだな」

「そうだ」

「っ、故郷の恨みだ。死ね!!!」


 剣を中段に構え直し、突進してくる男。その刺突をかわしながら、俺は「故郷の恨み」という言葉に首をひねっていた。


「待ってくれ。俺は村落を守ることはあっても壊すことはなかったはずだ」


 時折、手に持った剣で攻撃を受け流しながら俺は尋ねる。賊を相手することより魔物を相手することが多く、対人戦を想定した剣筋は習得できていなかった。クラークに尋ねなければ、と感じる。


「ああ!? 貴様のせいで、村が焼かれただろうが! 覚えてねえのか!? この『忌み子』が!」


 忌み子、という言葉に俺は動きを止めた。男は隙を晒した俺を見逃さず、すかさず刺突を繰り出してきた。

俺は慌てて距離を取り、剣の柄を、無防備になった相手の鳩尾に突き立てた。


「ぐわっ」


 男は剣を離してしまった。そして地面に倒れ込む。

 俺のディパックには、縄と小さなボウガン、目眩しの閃光弾幕が入っていた。俺は男を縄で縛ると、静かな声で質問した。


「10年前の生き残りか」

「……ああ、お前のせいだ」


 先程までの威勢は消失してしまっていたが、それでも憎しみの深さは眼の奥から窺えた。


「俺はお前を許さない」


 俺はその言葉に待ったをかけた。


「待ってくれ。俺が火を着けたわけじゃない。それに、俺だって家族を焼かれているんだ」

「……そんなことは分かってんだよ。火を着けたのはクリュート軍だ」

「なんだって!?」


 俺は耳を疑った。


「ほ、本当なのか?」

「命じたのは評議会だ。特に貴族家──ヤーシャ家の強硬な後押しもあったそうだ。街の住民の9割が賛成した」

「ドボルブニクさんが……? あんなに優しい方が……馬鹿な……」

「そもそもの原因はお前が【黒の勇者】なんかになったことだ。子どもを自分のところへ拘束する一番の方法は、実の家族から引き離し、恩人のフリをすることだ。あの時っ──」


 側面から飛んできた矢に俺は気付けなかった。男の側頭部に狙い通り突き刺さった矢は、男を一撃で葬ってしまった。


「全く、手間を取らせやがって」

「……ルイ」


 俺は近づいて来るルイを睨みつけた。ルイだけではない。クラークもクオラもアレクサンドラもいる。明らかにただの偶然ではなかった。


「どういうつもりだ」


 俺はゆっくり立ち上がると剣を握り直した。そんな俺を見て、クラークが馬鹿にしたように笑う。


「いやあ、アルベール。悪いとは思ってるんだぜ。もう【黒の勇者】は要らないってな。【勇者】としてのスキルも使わない、剣も魔法も何から何まで中途半端、おまけにクリュートに新たに【黄の勇者】がやって来るっていうじゃないか。"ヤーシャ家のアレクサンドラ様”と婚約だってよ」

「卑しい『滅びた血』の忌み子風情と仲間のフリだなんて本当にもうウンザリ。こんな奴と最悪の場合結婚しないと行けなかったなんてお父様も酷いわ。【黄の勇者】ノイン様はその点格好良くてお優しい。家柄もヤーシャ家には劣るとはいえ貴族の末席、全く不満はないの。あるとすればアルベールが生きていることくらいかしら」


 俺は2人の豹変っぷりにその言葉が全く頭に入ってこなかった。


「え、いや、じゃあ、仲間だと思ってたのは俺だけだったってことか? お前ら全員俺のことを……」

「僕は単純に任務だったから、アルベールに特に思うところは無いさ。僕は命ぜられればどんな仕事だって請け負う。アルベールの故郷だって──」

「喋りすぎよ、ルイ」


 アレクサンドラの叱責にルイは「失礼しました、お嬢様」と慇懃に謝罪した。ふざけている様子はなく、まるで本当の主従のようだった。


「私も教会の命に従っただけです。全ては神のお導きなのです。アルベールさん、あなたがここで死んでしまうのも、全ては神の思し召し」

「なっ!」


 ルイに続いてクオラまで……。俺は必死に頭を回転させた。思うことは一つ、死にたく無い、こんな奴らに殺されたくは無い。


「これで騎士団長の座は確実って言うからよ、恨むなよアルベール。お前の首一つで俺たち4人が幸せになれるんだ」

「むしろ感謝して欲しいくらいだね」


 俺はそろそろと手を動かし、ディパックに手を伸ばした。閃光弾幕さえ貼れればその間に逃げることができる……。


「うっ」


 一陣の風が吹いたような気がして、気付くと俺の伸ばしていた左手の甲に矢が刺さっていた。ルイの仕業だ。奴は平然とした顔で弓を構えていた。


「いや、そう簡単に逃げられるわけないでしょ。アルベールがいつもカバンに閃光弾幕を入れていることは知っているよ」


 俺は悲鳴をあげた。

 激痛が走る。矢が刺さった左手が熱い。俺は自分の顔がいまどれほど歪んでいるか理解できた。


「覚悟しな」

「悪く思うなよ」


 俺は目を閉じた。そうだ、覚悟を決めないと、死にたくない……。


 俺は必死に頭を回転させた。いや、実際は答えを知っていたのだ。ただ、子どものころにしでかした惨劇、亡き両親からの教え、それらとの葛藤があり、覚悟が決まらなかっただけだ。


《マイス》


 俺は……。


 弓が引き絞られるギギギという音がする。血の気が引く。急に視界が真っ白になった。目を開けているはずなのに、照準を向けられた矢が見えない!

 

 俺は……。


 心の中で、プチッ、と何かが壊れた音がした気がした。


 《マイス》を。禁じられた【黒の勇者】の本分を……。


「起動する! 応えてくれ!」


 俺は10年来封じてきた【黒の勇者】の力、《マイス》を発動した。




 刹那、ドドド……と地響きが鳴り響いた。森の奥から、何かが──


「来た!」

「何?」


 クラークは剣を構え、俺から視線を離さず、しかし確実に音源に注意を向けている。アレクサンドラは不安そうに、クオラは結界を張り、ルイはアレクサンドラをかばうように立ち位置を変えた。


 やがて、土煙をなげながら、突進してくる大群が見えた。無数に光る赤い目、暗褐色の身体、キィキィと響くうなり声。そしてすべてが頭部から黒い靄のようなものを吐き出している。


「ネ、ネズミ!?」


 俺以外には、ネズミの群れが森の奥から突如出現し、こちらに向かって驀進してきているように見えただろう。クラークが剣を下ろし、アレクサンドラに駆け寄った。


「せ、殲滅魔法だ! 俺の剣にあれは手に負えない!」


 アレクサンドラはネズミの大群に焦燥と恐怖を浮かべていたが、クラークがガクガクと彼女の肩をゆすったことで正気を取り戻し、呪文を唱え始めた。


 俺は、10年前は理解していなかった──いや、使いこなせなかった──《マイス》の能力をフルに使った。すなわち、群れのすべてのネズミに働きかけ、指示を出し、動かす、だ。最優先事項はこの場からの撤退。そのためにすべきことは……。


 俺の指示に従い、ネズミの大群は進度をやや右に逸らし、アレクサンドラの方ではなく俺のほうへと進度を変えた。


「よし、このままアルベールだけを狙っちまえ!」


 クラークのあまりにも残忍な心の叫びがこだまする。クオラが、珍しく焦った調子で声を張り上げた。


「いえ、まずいです! このままじゃ逃げられてしまう……! アレクサンドラさん! 魔法を、詠唱を止めないで!」


 気付かれるか、そりゃ……。俺はまた指示を変え、群れの半数を再びアレクサンドラたちのほうに差し向けた。


「チッ! また来る!」

「詠唱を……。『遍く雷の聖霊よ! アレクサンドラ・ヤーシャの名において命ずる。我が言葉に従い、顕現せよ! ウィービング・サンダー!!!』」


 アレクサンドラが高圧の電流の網を展開し、自分たち4人をネズミの突進から防いだ。電気の網にネズミは次々突進し、感電して焼け焦げていく。獣を焼いたあとの、異様な臭いが鼻についた。ネズミたちには申し訳ない。だがそれでいい。

 俺は半分になったもう一つの群れに飲み込まれた。そのままネズミたちの背中に担がれる。俺がネズミに命じたのは「俺を担げ」というもの。ネズミたちの群れを台車のように使い、俺はからくもその場からの逃走を果たした。


「アルベールは!?」

「死んだか? いや……」


 《マイス》の影響で鋭くなった聴覚が、残されたクラーク、アレクサンドラ、クオラ、ルイの会話を捉えた。俺は歯を食いしばり、右手を強く握りしめた。矢に貫かれた左手は、《マイス》の黒い瘴気に覆われ、黒く変色──壊死を始めていた。


 俺は腰に差していた予備の剣を右手に握りしめると、呪文を唱え、刀身に『ファイア』をかけて熱した。両親の持ち物にあった医学書を一冊だけ、俺はひそかに持ち出すことができていた。そこで読んだ知識が生きる時が来るとは……。


 ネズミの背中はガタガタ揺れる。バケツリレーだから仕方がない。ネズミたちに『可能な限り遠く、人のいないところへ』と念じ、俺は熱した剣を左腕に添え、一気に振り下ろした。肉、骨、神経……。焼いて傷口をふさぎながら……、最も赤い血の流れる管は最後に……。痛みが鋭く走り、俺は絶叫した。痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い…………!!!!!!


 切断された左腕が最後尾を走っていた数匹のネズミに食べられるのを見たところで、俺は意識を失った。







 運よく俺は生き残った。


 目覚めると洞窟の中にいて、俺を囲むように何千ものネズミが体を休めていた。獣の臭いが洞窟に広がっている。不思議と不快とは感じなかった。

 焼き切った左腕は切断面がふさがっていた。よかった、熱で塞げた、と俺は安堵し、ようやく回復魔法をかけた。【白の勇者】ほどの回復術の使い手ならいざ知らず、回復魔法は部位欠損には効果がない。そして病──瘴気は病を齎す──にもだ。

 洞窟内に人の気配がする。誰かが入ってきたらしい。


「おい、ここに本当に【黒の勇者】が逃げ込んだっていうのかよ」

「ああ、間違いない。ネズミの大群を見たって農民どもが言ってたからな」

「へへ、これで俺たちも大金持ちだ。懸賞金は山分けだな」


 と声が聞こえる。追われているのか? 俺はきっとお尋ね者にでもされているのだろう。

 チュウ、チュウ? とネズミが一匹、また一匹と目を覚まし始める。赤い目、洞窟の闇に紛れる暗褐色の身体、黒い瘴気。やらなきゃやられる? そうだ。俺は生きたいんだ、奴らを許すわけにはいかない。故郷を、家族を焼いたクリュートを許すわけにはいかない!!!


 入ってきた冒険者らしき男どもを視認する。ネズミたちが毛を逆立て威嚇する。男たちは俺とネズミたちを見て、その数の多さと異様さに慄いたようだ。完全に怯えている。俺はにやりと笑った。


「やれ」


 一斉にとびかかるネズミたち。悲鳴はネズミの肉を喰らう音にのまれ、消音されていった。

























 半年後、クリュートの街で────。


 俺は旅の商人に紛れ、クリュートに忍び込むことに成功していた。借りた馬にそりのような荷車をひかせ、街に入城する。この街は城壁に囲まれ、街に入る時にも衛兵によるチェックを受けないといけない。身分を偽装するのに苦労したものだ。


 すでに調べはあらかたついている。あの時、俺の腕を食ったネズミたちは、人間の腕を食ったからなのか知恵がつき、ネズミとは思えない複雑な任務をこなせるようになっていた。彼らを街に潜入させ、情報を集める。あるいは俺の代弁者、あるいは俺の密使。今後はそういう使い方もできるかもしれない。

 さて、故郷を焼き、家族の命を奪ったのはクリュート軍──かつて俺の仲間だった4人もそこに従軍していた──だ。街の住民もそれを知っていた。【黒の勇者】として何も知らず育った子どもを見て、彼らは何を思っていたのだろう。蔑み? 憐憫? 無関心? もうどうだっていい。


「安らかに死ねると思うなよ」


 俺は唇を噛み、今夜から始まる惨劇を思い描いた。


「怖い顔してますよアルベールさん。ほら、笑って。スマイルですよ」

「ルーシー」


 俺の隣にルーシーが並び、おどける。彼女は俺と契約した『盟友』だ。そして【赤の勇者】でもある。俺よりも一回り小さい身体をいっぱいに駆け回る姿は、まるで歳下を庇護しているような感覚にさせる。実際には同い年なのだが。


「街ではアルベールはやめろ。俺はこの街で名前が知られているんだ」

「あたしと違って。でもあたしも偽名にした方がいいですかね。《スタディ・イン・スカーレット》がバレる心配はないと思うけど……」

「今も発動しているんだろ?」

「ええ。まあ覚悟はできているし、あまり意味ない気もしますけど。取り敢えず【黒の勇者】でフィルターかけてます……。あ、あれ美味しそう!」


 ルーシーはまるでボールが弾むように、あちこちの露店を見て回っている。短いズボンから覗く両腿は黒のタイツに隠されている。通りを行く男が粘着質な視線を送っているが、俺はどちらかと言えば無邪気さの象徴だと思う。


「ムルソー、これどうかな?」


 ムルソー、というのは俺の偽名だ。喋り方も普段とは変えてくれているらしい。俺はローブを着たままで店先に売っている果物を手に取った。店主が俺を見て一瞬顔をしかめた。大方、怪しい奴が入ってきて嫌だとでも思っているのだろう。


 俺は首を横に振った。


「そっかー。じゃあ教会には何を持って行こうか? やっぱり現金が一番かなあ。店主さん、何かオススメあります?」

「おう、教会はなんでも受け入れてくれるぜ。明日、礼拝があるから行ってみな。聖女様が拝める機会だからな」

「聖女様?」

「ああ、聖女クオラ様だよ。若くしてクリュート軍に従軍し、悪名高い【黒の勇者】のお目付役として活躍なさったお方だ」

「へえ。【黒の勇者】ですか。初耳です」

「そうか? 結構有名だぞ? 東方のラトゥスの血を引く忌み子でな。【勇者】だから奇妙な術を使うって噂だ。もう死んだんだけどな」

「死んだ? よく分からないけどじゃあ安心ですね?」

「ああ、それを倒したのもまたクオラ様だよ」


 ルーシーは店主に怪しまれない程度に眉をひそめた。


「『それ』だなんて……【黒の勇者】って人、なんか悪いことでもしたんですか?」

「ああ……。故郷の村を焼いたらしい。それからかつてパーティーを組んでいた騎士団長のクラーク様や領主家のアレクサンドラ様、今言った聖女クオラ様とクリュート一番の狩人で有名なルイ様を襲ったという話だとよ」

「……本当ですか?」

「ああ、あいつならやりかねない。俺は【黒の勇者】がまだこんくらいのガキだったころから知ってるんだが、気味の悪い子どもで、いつかやらかすと思ってたんだよ」


 店主が自分の腰くらいの位置に手を当てるなど身振り交えで語る。劇でも見ているような気分だ。ちなみに俺はこの店主を知らない。知っているというのは一方的に見たことがあるという程度だろう。その程度で何が分かるんだか、俺は呆れてしまった。


 ルーシーもいい加減言葉が継げなかったようで、へえ、とかふうん、とか曖昧に返事をするとそそくさと店を出た。


「嬢ちゃん、またよろしくな!」

「……はい!」


 俺は少し離れたところからルーシーを見ていた。どうやら彼女は俺が思っている以上に人の注目を浴びるらしい。店主との会話が終わった後も、そこらの露店の店主から声をかけられている。

 人の切れ間を見計らって、ルーシーは俺に近づき、へへへ、と笑った。


「ずいぶん人気があるじゃないか」

「大丈夫ですよ、あたしはアルベールさんだけですから」


 俺の発言をどう勘違いしたのか、ルーシーはにやりと白い歯を見せながらひらひらと手を振った。その手首には黒のネズミが描かれている。


「そういう意味じゃない」


 俺はため息つきながらルーシーを見つめた。俺の右手首のルーシーと同じ位置には、赤色の糸玉が描かれている。


「奴隷商、あいつにしなければよかったな。契約紋のデザインがこれか」

「あら? あたしは気に入ってますよ? かわいいじゃないですか、刺青フィクションのネズミは」

「ネズミはいいとして、糸玉ってのは」

「あ、それはあたしの提案です。ネズミさんもですね。いいもんでしょう?」


 俺はジト目でルーシーを見下ろした。ルーシーは自然俺を見上げる形になって、うふふ、としなをつくった。


「ルーシーに色気は似合わないな」

「なっ……」


 ルーシーは俺の発言に愕然とした。ブロンドの短い髪を揺らして俺に抗議する。


「ぬぅ、見ててくださいよ! あたしが男どもを骨抜きにしてやるんですから」

「ああ、期待しているよ……(別にひとりだけでいいんだが。クラークはもっとおねえさん好みのはずだ)」

「ふふ、お任せください」

 

 俺が付け足した心の声を知らずにルーシーは微笑んだ。自然な笑顔だ。わざとらしくない方がいい、俺は内心ドキッとした。







その夜、歓楽街で────。


「お姉さん、きれいだね。今夜、僕と一杯どうかな?」

「いえ、ちょっと……」


 首を振って足早に立ち去る女性を、声をかけた色男ルイは何の感動も浮かべぬ目で見送った。獲物に執着しない、それがルイのポリシーだ。


 ヤーシャ家の”裏”を任される狩人のルイは今夜もまた歓楽街に繰り出していた。【黒の勇者】アルベールを実質追放したことが知れ渡ってから、ますます市中での人気が高くなってきている。もとから柔らかい物腰と甘いマスクで女性から好かれていたのだが、今やクリュートでルイの誘いを断る女性などいないといっても良かった。

 

 ルイは今夜も歓楽街の行きつけの店を回り、今夜のお相手を探していた。見知った顔の店主や常連客、店員の着飾った女性に愛想を振りまきながら、ルイは内心不満だった。


(ほとんどのワンナイトできる女は食ってしまったし、不埒な貴族子女様とのいかがわしいパーティーにも飽きてしまったな……かといって市民は市民でバレた時が面倒くさいし、後腐れのない女はいないかな……)


 そんなことを考えながらルイが馴染みの店のドアを開ける。ルイが行きつけにする店には表の顔と裏の顔を使い分ける店が珍しくない。この店もその一つで、表向きにはオーセンティックなバーを装っていた。


「いらっしゃいませ」


 店主がルイの顔を認めて、いつもどおりのあいさつをする。サッパリと着こなしたスーツがよく似合っている。普段なら知り合いの客が二、三人はいるはずなのだが、今日は見知った顔はひとりもいなかった。

 代わりに初めて来たと思われる小柄な女がひとり酒を飲んでいる。ブロンドの髪を耳が隠れる程度に短く整えており、毛先はかろうじて顎につくほど。それでいて女であると思わせるふわりとした印象を与えている。小さな横顔は整っており、素朴でありながら目が大きく、美人というよりは愛らしさを与える顔立ちだ。フードのついたカーディガンは布地そのままの白色で、一見して旅人のようだった。ホットパンツから覗く黒いタイツが健康的なエロスを感じさせる。


「珍しいな」


 ルイは声を潜めて店主に尋ねる。ルイの目線で何についてか察した店主もまた声を潜めた。


「ええ、なんでも旅の方のようで。今朝街についたばかりだとか」

「ほう、それはそれは」


 ルイの目がギラリと光った。旅人ということは後腐れのない相手、しかも目の肥えたルイでも見かけることのなかったほどの上玉だ。少々少女趣味を感じさせ、熟した女しか好まない偏食な友人クラークならば食さないだろうが、ルイの許容範囲は広い。気付けば女性の隣に席を一つ空けて座り、女性が飲む酒と同じものを注文していた。


「綺麗な方ですね。お隣、よろしいですか」

「ええ、ぜひ」


 かわいらしい声と顔立ちに反して、その仕草のひとつひとつはコケティッシュであり、そのアンバランスさが得も言われぬ魅力を放っていた。店主が女性のものと同じ酒を出す。女性が飲むにしては少々酒精の強いカクテルだ。いや、旅先の店で酒を嗜むことからも、見た目とは裏腹に酒好きであることが分かるというものだ。


「僕らの出会いに、乾杯」

「乾杯」


 軽くグラスを合わせる。あとはいつもどおり、隙を見て懐に常備してある薬を酒に注げばいい。店主にさせてもいいが、彼はそういった行為を自分の店ですることを嫌っていた。ルイにとっては黙認してくれるだけでもありがたいが。


 鮮やかな色のカクテルをあおりながら、ルイは今夜も楽しくなりそうだ、とほくそえんだ。











「ちょっと失礼して……」


 コーカと名乗った小柄な女は中座すると店の奥にあるトイレに花摘みに行った。グラスには少し口をつけただけのマティーニが残っている。店主がわざとらしく目をそらし、マドラーをカウンターに置いた。ルイは懐の袋から粉薬を取り出すと、素早くグラスに投入しかきまぜた。慣れたものだ。


 果たして戻ってきたコーカは酔っているのかおぼつかない足取りで着席すると、ゆっくりとマティーニを口に含んだ。


(よし……!)


今夜のお楽しみを確信したルイは自然と笑顔になる。コーカが艶っぽい笑みを浮かべた。


「あら、何か楽しいことでもありましたの?」

「いえ、なんでもありませんよ」

「そうですか……。ああ、すっかり酔ってしまいました。これで今日は宿に戻ります……」

「おや、そうですか。ではぜひ送らせてください。クリュートの治安は最高ですが、夜にレディがおひとりというのはいささか不安だ」

「ありがとうございます。店主さん、お代はここに」


 そういって勘定をカウンターに置いたコーカの袖口から、白い手首とその透明な肌に相応しくない黒いネズミのタトゥーが覗き見えた。黒、ネズミ、そこから連想される人物──アルベールのスキル《マイス》に知名度は無く、知っているのはかつての仲間と街の指導者層以上だけ。店主はタトゥーとアルベールが結びつかず、すでに扉で待っているルイにはタトゥー自体が見えなかったようだ。


「どうぞ」

「ありがとう、お優しいのね」


 コーカとルイが連れ立って店を出ていく。店主はそれを見送ると、薬の入れられたグラスを丹念に洗った。




 宿屋に向かっていると見せかけて、実際はより歓楽街の奥の方へ。歴戦の経験があるルイにとっては造作もないことだったし、街に来たばかりのコーカを欺くなど、ルイにとっては赤子の手をひねるよりも簡単なことだった。

 空には今にも消えそうな弓張月が浮かんでいる。その頼りない光の下を、ルイはコーカの手を引くように歩いていた。


「あなたには全く感謝せねばいけませんね、ルイさん。おかげで楽しい夜になりそうです」


 コーカは少し前を行くルイに声をかけた。酔いのせいか、若干言葉遣いや呂律に怪しさがある。


「なんの、僕もおかげさまで、楽しいひと時を過ごせました」


 そしてお楽しみはこの後だ、とルイは内心でほくそえむ。


「ええ、本当に……あなた無しだと、こんなにすばらしい研究対象に出会うこともありませんでしたし」

「……なんですって」


 研究対象、という状況に不似合いな言葉が出てきたことにルイは怪訝に感じ、足を止めた。コーカはそんなルイの様子を気にすることもなく、まるで唄うように文章を紡いでいく。


「知っていますか? 人の営みはすべて既知の集積。未知に思われるものもきっと、世界のどこかでは既知なんです。ですから昨日は明日へ、未来はすべて過去から、今、この夜だってそうです……。《スタディ・イン・スカーレット》」


 コーカが呟くなり、結界が二人の周囲を覆った。狩人としての経験が全力で警報を鳴らす。咄嗟に走り出したルイだが、ぶよぶよした透明の壁に弾かれ、ルイは駈け出した勢い余って尻もちをついた。

 

「ふふふ、ヤーシャ家の裏の顔を務めるのに、趣味にうつつを抜かしすぎではありませんか? 手口がバレバレ……いえ。こういう『裏仕事』を務める方は、既知を変えることをなさいませんから、これは仕方のないことでしょう……。やはり未知を成し遂げたアルベールさんとは違いますね」


 『裏』のことまで? この女はどこまで知っているんだ? 酒の影響から完全に醒め、ルイは警戒を強めた。


「ア、アルベール? コーカ、き、君は一体……?」

「ここに落雁が二つあります」


 ルイの問いかけを完全に無視し、コーカは楽しそうな様子で語りかけた。


「ひとつは普通の落雁、もう一つは薬が入っています。一度飲めば二度と目覚めないという眠り薬。裁きを天に委ねましょう……。ああ、これはクオラという方にお伝えするつもりの言葉でした……」

「な、何を訳の分からないことを言っているんだ!!!」

「お選びください。どちらか」


 この時、ルイは完全にキレた。彼の頭の中には「この女を殺す」のみが残り、あとはすっかり欠落した。

 

「……黙れこのアマ!!」


 ルイは常に身に着けているダガーを抜き放ち、石畳を跳んだ。コーカまであと2メートルもない。


「仕方ありませんね」

「なっ!?」


 振るわれたダガーは一撃必殺の刺突だった。しかしコーカは目にもとまらぬ速さの一撃を少し首を振っただけで躱すと、突き出されたルイの右腕を持ち、ひねった。


「痛い痛い痛い痛い……」

「まさか、これくらいなんともありませんよ」


 コーカがルイの右肩に手刀を添え、軽く振り下ろした。ルイの右肩が脱臼する。ルイは絶叫した。


「では、おやすみなさい」


 ルイの口にコーカが落雁を詰め込み、ついで何処から取り出したのか、猿轡を噛ませる。口の動きが制限され、出口をふさがれた落雁は腹へ運ばれていく。

 ルイは目を見張った。コーカの右手首に黒いネズミのタトゥーがあるのが目に入ったのだ。コーカは視線に気付くと、頬を赤く染めた。白磁の肌が赤く染まり、一層コケティッシュな雰囲気が強調される。


「いいでしょう? この身はアルベールさんのもの、アルベールさんもあたしのもの。コーカではありません。あたしの名前はルーシー。【赤の勇者】、ルーシー・エスカルラータです。お初にお目にかかります。そして、さようなら。

 ……ついでです。あなたは女の敵ですから、顔と、あとこちらを焼きます。不能にして差し上げましょう」


 コーカ改めルーシーはルイをこれ以上なく蔑んだ目で見下ろしながら、詠唱無しに手の上に火の球を出現させる。ルイは思い出していた。詠唱もなく火魔法を自在に操り、しかしそのスキルを知るものは無い、溌溂とした見た目と冷徹な内面併せ持つ少女──【赤の勇者】ルーシー・エスカルラータの名前を。

 無数の火の球が自分の顔と下半身を包む。もはや温度を感じない。薬が効いてきたのか恐怖のあまりか……。ルイは意識を手放した。









 

 うわぁ、えっぐ……。


 建物の陰でルイとルーシーのやり取りを見ていた俺は絶句した。何をしていたかって? 《マイス》を展開し、他の人物が近くに来ないようネズミたちに警戒させていたのだ。街にだってネズミはいる。

 眼の前には、顔面と股間をピンポイントで焼かれたルイが倒れている。失神しているように見えるが、きっと眠り薬──ルーシーは大袈裟に言っていたが、ただの眠り薬だ──が効いたのだろう。そうであってくれ。そうに違いない。大事なトコロを焼かれて失神だなんて……。俺は憎き相手のことながら縮み上がった。


「アルベールさん、終わりましたよ」

「ああ、見てたよ……」


 ルーシーが笑顔で駆け寄ってくる。俺は心底、ルーシーと契約をしておいて良かったと思った。俺たちはお互いに危害を加えられない。望まない行為の施行は契約違反だ。そうでなかったら、そう思うと俺の身体は震えあがった。


「それにしてもルーシー、性格変わりすぎじゃない?」

「えー。これが素ですよ。あれは営業用」

「いや、そんなこと言われても……」


 二面性のある人物は珍しくないとはいえ、ルーシーの手口を初めて間近で見た俺からしたら普段の元気な彼女からは想像できない言動に驚きを感じ得ない。


 そんな俺の考えを知ってか知らずか、ルーシーは俺に寄り掛かるように身体を預けた。


「アルベールさん、あたし酔っちゃったみたい。それにお酒になんか変なもの入れられていたし……」

「ルーシー、毒物無効だろ?」

「……そこはエスコートしてくださいよ。ホテルまで。愛の巣はそこですよ。つまらないこと言わないで、ほらほら」

 

 ルーシーがいかがわしいホテルの看板を指さすが、俺はそれを黙殺した。

 彼女は酒精を含むあらゆる毒を無効化する。ルイの混入させた眠り薬もだ。そのため一切酔っていない。

 毒の無効化、酒を楽しめないのであれば不便だなと思うが、曰く、これは特殊体質のようで、自分の意思で発動/解除ができないらしい。

 薬だろうが香料だろうが、身体に害をなすものが毒である。《マイス》の瘴気も当然無効化できる──はずなのだが、ルーシーに言わせると「あれはガチでヤバい奴です。試したくないです。未知は歓迎ですが、自分が実験台になるのは勘弁です」ということらしい。


 俺はなおも寄りかかるルーシーの左手をとりつないだ。ルーシーの頬が朱に染まる。酒では染まらないくせに。


「宿に帰るよ」

「……はい」


 さっきまでの元気はどこへやら、急にしおらしく俯いたルーシーは小さくはにかんだ。


 俺は大型犬ほどの大きさに育ったネズミたちを招集した。俺の左腕を食べたことで異常成長したネズミたちだ。犬ぞりのようにして人を運ぶことができる。俺が持ち込んだ荷車を引いて。

 ルイはネズミたちに命じて使われていない廃倉庫──昼間に目星をつけておいた──に運び込ませておいた。瘴気を浴びせないよう注意しろと言ったが、守られているだろうか。






 ルーシーの《スタディ・イン・スカーレット》は多芸なスキルだが、大別すると2つの能力が複合されたスキルだ。

 ひとつは空間の限定。昨晩ルイ相手に発動させた結界がそうである。

 もうひとつに検索設定。その場所に記憶されている事象、とりわけ悪意の噴出を感知する。普通に使うと網にかかりすぎて情報酔いを起こしてしまうらしく、昨日は【黒の勇者】に関する感情の動きをフィルターにかけて街中を探査してもらった。


「知る覚悟はできてますか? アルベールさん」

「嘘は無しだぞ」

「この『契約紋』に誓って」


 宿に戻り、いまにも寝る直前。ふとルーシーから覚悟を問われ、俺は頷いた。


「では…………、全員赤ですね。悪意の色です。この街で【黒の勇者】アルベールに同情するものは皆無と言っていいでしょう」

「……そっか、踏ん切りがついたよ」


 ルーシーはおずおずと、俺の機敏をうかがうようにゆっくりと質問を発した。


「……どうしてそんなに嫌われるんでしょう。好意的なものはひとつもなかった……」

「まず、俺が異民族の血を濃く受け継いでいること」


 俺は指を一つ立てた。そしてまたひとつ。


「そしておおかた、この街で起こった不正のほとんどは【黒の勇者】かその仲間がやった、ということにされているようだ。クオラが聖女なりたさで教会への寄付金を横領し教会本部への袖の下にしていたこともそうだ。クラークやヤーシャ家がこの街の犯罪のほとんどは俺の息のかかった者の手によると宣伝していたっけな」

「そんな……」


 二の句が継げない様子のルーシーに、俺は首を振る。


「治安維持のために、共通の憎しみを用意するのは悪い策ではない──あくまで短期的にはな。ドボルブニク・ヤーシャはその辺おつむが弱い。それを疑うことなく信じている領民どももみんな、頭が悪い」

「アルベールさん……」

「……明日が勝負になるんだ。寝よう、ルーシー」

「わかりました。一応結界を張って……。おやすみなさい」

「ああ、おやすみ」


 部屋に静寂が満ち、やがてどちらともなく寝息を立て始めた。








 翌朝、気付けばベッドにもぐりこんでいたルーシーをたたき起こし、俺たちは教会へ向かった。


 教会にはすでに大勢の礼拝客が来ている。そしてそんなところで魔法の一つや二つ発動されては大惨事だと、騎士団が護衛に来ている。それは把握済み。だが想定外なことに、よりにもよって今日はクラークが護衛の中にいる。騎士団長は机に座ってふんぞり返っとけよ、とは思ったが、市民に向けたパフォーマンスの一環なのだろう。やつは顔がよく、背が高いからな。


 礼拝客は祭壇前の大広間、そこに設えられた木製の長椅子に座る。暗黙の了解で座る位置が決まっているようで、俺とルーシーは旅人の席──壁際で立ち見だ──に陣取った。最前列のひときわ仕立ての良い服を着た集団が座っている。その中にアレクサンドラ・ヤーシャを見つけ、俺はルーシーを小突いた。


「計画通りですね」

「聖女様を頼んだ。俺は騎士団長を」

「オッケーです」


 ルーシーは白い歯を見せた。


 ヤーシャ家のお嬢様は高飛車で外に出ることを好まない。そんな引きこもり魔術師も、月に一度の礼拝には必ず姿を見せる。信心深いところもあるのだ、と言いたいところだが教会と領主の結びつきを強める、という意味らしい。

 そして今日はアレクサンドラひとりだけのようだ。


 俺はルーシーと分かれると、外に出てクラークを探した。できれば騒ぎにならないうちに片を付けておきたい。


 はたしてクラークは教会の前で、礼拝そっちのけでやってきたクラークファンの婦人方に囲まれて頬を緩めている。正直需要と供給がマッチしているのでくっつけばよいのに、と半年前の俺は思う。しかしクラークは軽薄なノリに反して身持ちが固い。やつにとって、プライオリティの最も高いのはクリュートの安全であることは、とっくに調べがついていた。


 その愛を【黒の勇者】にも向けてほしかった、と俺は感じる。裏切りに会うその日まで、俺はあなたを尊敬していた……。


 俺は気配を殺してクラークの背後に忍び寄った。教会の鐘が鳴るのが合図だ。3,2,1……。


 ゴーン、ゴーン。


 鐘の音が礼拝の始まりを告げ、教会の門が閉ざされる。それを見届けるや否や俺は、待機中だった魔法を使用する。魔法というのは詠唱を必要とするが、その長さは短い方が良いとされる。詠唱破棄は理論上の行為だとされているが、詠唱破棄で火魔法を使う天才ルーシーが身近にいるため、実感は湧かない。そのルーシーの火魔法とまではいかないが、俺は半年で相当魔法の修練をしてきたのだ。


 「『眠れ ヒプノティック』」


 俺は教会の周囲半径500メートルに催眠魔法をかけた。教会内部は対象外だ。教会には結界が張られている。無理やり結界を割ってもいいが、その必要はないと俺は踏んだ。騎士も市民も全員が眠りに落ちる。例外はクラークだ。計画のためにはとっとと眠らせた方がいいが、俺は敢えてクラークを対象から外した。

 

 ゆっくりと振り向いたクラークは、驚いて目をしばたたかせる。そして倒れこむ人の中ひとり立っている俺の姿を認めると眉をひそめた。


「何者だ……? 貴様……何をした?」


 俺は今、元の黒髪ではなく、染料でルーシーと同様にブロンドに染めていた。目は変えていないし、顔もいじっていないのだが、気付かれないものなのか……。俺は怒りを通り越して悲しみを抱いた。


「気付かないかなぁ、クラーク……地獄から戻ってきたよ」

「……っ! その声は……アルベールか!!! 死んでなかったんだな……!」


 クラークは剣を構えた。対する俺も右手に剣を構える。左手のない俺は選択できる武器が少ない。クラークが両手で握る普通の長剣を構えるのに対して、俺は刀身が短くて軽い片手剣しか使えない。

 クラークは、まるで狩りの最中に格好の獲物を見つけた猛獣のような顔で舌なめずりをした。


「どういうつもりか知らねえが、俺とやろうってのか? 俺に勝ったことなんて一度もない癖に」

「……どうかな?」


 俺は地面を蹴った。クラークは俺の動きに瞬時に対応し、俺の跳躍した軌道上に、完璧なタイミングで剣を振るう。お見事だ、俺はその剣を自分の片手剣で受け止めながら、賞賛の言葉を呟いた。生意気を言いやがって、とクラークの顔がゆがむ。整った顔はいくらゆがんでも美形で、醜悪にはならない。俺は世の理不尽を呪った。

 とはいえ、剣の勝負においては、実はとっくに勝敗がついている。


 俺は返す刀で振るわれるクラークの剣裁きを、あるいは避け、あるいは受け流しながら、クラークの隙を窺っていた。別に眠らせてもいい、というか眠らせないといけないのだが、剣の腕でも圧倒的な力の差を見せねじ伏せておきたい。


「ふん、流石は【黒の勇者】といったところだな。片手だけの剣技とは、騎士に対する侮辱か? 堕ちた【勇者】はやることが違う」

「堕とした人に言われると説得力が違うね」


 クラークの挑発に軽口をもって返す。怒りのためか、クラークの剣筋が次第に大振りになってきている。


 仕掛けるならここだな。


 俺は自分の剣を振るい、クラークの剣の一撃を真正面から受け止めた。キイン、と甲高い音が弾け、二人の剣が火花を散らす。俺は片手、クラークは両手だ。

 一瞬、俺の剣に驚いたクラークだが、すぐに顔をにやけさせると両手にありったけの力を籠める。俺の剣ごと、俺を叩き斬るつもりだ。今は力が拮抗している。しかしこのまま力を加えれば、クラークが次第に俺の力を上回ることになる。そう踏んだのだろう。下卑た笑いはその考えを如実に顕わしていた。


 そう思ってほしかったんだよ。


 俺は全身のバネを使ってクラークの剣を下から思い切り払いあげた。クラークの顔が驚きに染まる。俺はその首筋、騎士の鎧で覆われた部分に刀身を当て、『ヒプノティック』を唱えた。


「おやすみ、クラーク」


 クラークが倒れこむ。その身体をロープで拘束し、待機していた荷車引きネズミたちに預けた。荷車にクラークを寝かせるが、起きる様子はなく、軽くいびきをかいている。


 あとは二人だけ。いや、もう一人だけになっているかもしれない。


 そんなことを考えながら俺は教会の扉に向かってゆっくりと歩いて行った。














 アルベールと分かれたルーシーは教会の奥に向かった。怪しまれないように気配を消して。


 果たしてそこには礼拝を前に精神を統一する聖女クオラの姿があった。


 クオラは突然入ってきたルーシーに警戒心を持ちながら、表面的にはにこやかに出迎えた。


「どちら様か存じ上げませんが、ここは教会の関係者しか入れませんの。お引き取りを──」

「《スタディ・イン・スカーレット》。結界を」


 ルーシーは部屋一面を結界で覆った。そしてクオラの柔らかな笑顔を見つめたまま、昨夜彼女の同胞にかけた言葉と同じ言葉を述べた。即ち「ここに落雁があります」と。

 


「罪を裁くのも、罪を赦すのも、等しく神の御業。あたしの罪もあなたの罪、いったいどちらが裁きを受けるに相応しいのか……」

「な、なんのことですか! いきなり入ってきて」


 クオラは狼狽しながら叱責した。実は、結界の解除を先ほどから試みているのだが、それが出来ないでいて、焦っていたのだ。


「教会の寄付金を横領し、賄賂として教会本部へ」

「なっ!?」

「無事聖女になれそうになり、アレクサンドラ・ヤーシャに偽証してもらい【黒の勇者】アルベールさんに冤罪を着せる……」

「なぜそれを……!!!」


 困惑、怒り、恐怖、その他感情が複雑に入りまじり、クオラは普段の温厚さが影もなく怒鳴った。ルーシーの結界に消音され、声は響き渡ることがない。


「ですから、裁きは天に委ねるべき。落雁が二つ。ひとつは薬が。さあ、どちらを選んでもいいですよ?」


 ルーシーはやはりまるでクオラのことを気にかけもしていない。それがまた聖女クオラの逆鱗に触れたが、彼女は努めて冷静だった。


 (ここで争って私が勝つ見込みはありません。先ほどあげてしまった大声も、聞きつけて駆けつける人がいないに、既に始末されたのか、あるいは結界に消音機能があるのか……。助けを見込めないならば、解毒をかけながら飲み込めば……)


「わかりました」


 意を決してクオラは落雁のひとつをとる。それを確認したルーシーも残った方を手に取った。


 (解毒魔法……。よし、これで大丈夫なはずです)


「じゃあせーので。せーのっ」


 クオラとルーシーが同時に落雁を口にする。異変が起きたのは……。


「っ!!! どう……して……。解毒……したのに……」


 クオラが昏倒する。急激な疲労感と睡魔に襲われ失神しているだけなのだが、当人は解毒したのにも関わらず毒にやられたと思い込んでいた。


「……眠り薬は、眠れない病人からすると毒ではないですからね」


 毒と言われている薬ならば解毒魔法も作用したに違いないが。それに『片方は安全』とも言っていないわけで。


「無効にできるあたしじゃないと立てられない作戦なんですよね……。いい加減手口も通じなくなってきたし、これも見納めですね」


 ちょうどそう呟いた時、礼拝の始まりを告げる鐘が鳴った。


 



















 ガチャ、とドアの開く音がした。


 時間になったのに礼拝堂に来ない聖女クオラを呼びに使用人が入室してくる。


「あれ? 聖女様?」


 聖女クオラがいない。代わりにブロンドの髪を短く揃えた小柄な女性がいた。部屋に入ろうとして、透明な壁に押し返される。


「な、何者?」

「どうしたの?」


 異変を察知して職員の後ろからひょこりと顔を出したのはアレクサンドラ・ヤーシャだった。彼女もまた、透明な壁を確認する。そして「面倒ね」と呟いた。


「高位の結界よ。きっと中の女の仕業ね。解除するからちょっと待ってなさい」

「わかりました。では私は聖堂に戻りこれを伝えてまいります。────あっ」


 その時、俺──アルベール──は二人のすぐ後ろに迫っていた。


 俺を認めた結界の中のルーシーが、飛び上がらんばかりの喜色を浮かべる。解除を始めたアレクサンドラへの気遣いもかけらもなく、結界を解くルーシー。ぐるぐるに巻かれたクオラを引きずり、俺に近づこうとする。

 だが、その進路上にはアレクサンドラたちがいるわけで。


「なっ、クオラ!? あなたクオラに、な、何をしたの?」

「何って? 眠っていただいているだけですよ。アルベールさん」

「こっちも片が付いたよ。クラークの奴、最初俺だって気が付かなくてさ。髪のせいかな?」


 会話を聞いて、アレクサンドラはルーシーと俺を忙しなく見比べ、思わず、といった感じで悲鳴をあげた。

 

「アルベール!? なんで? 生きていたの?」

「…………【黒の勇者】か! この背信者め!」

「ルーシー、この人たちどれだけ俺に悪意を持っているの?」

「……言う必要ありますか?」


 驚愕するアレクサンドラ、純粋な敵意を向ける教会職員、呆れた顔の俺とルーシー、三者がごく近い距離で対峙していた。


「どうして……? あなたはとっくにノイン様が始末したはず……」

「【黄の勇者】ね。確かに彼の《ジェネレーター》は面倒だった。なんだよあいつ人間雷雲かよ。しょうがないからあいつの家族を人質にとって……」

「家族? 私はなにも──」

「婿入りした方じゃない。実家の方だ。それで俺を始末した振りをしてもらったんだ。おかげで今でもあいつは実家に張り付いていないといけない。どこにだってネズミはいるんだ」


 アレクサンドラは「実家に帰っている」といってひと月経つ夫のことを思い出していた。『長くなったが【黒の勇者】をようやく倒した』という手紙をもらって以来だ。


「嘘よ! だってノインは……ノインは私を愛しているって!!! 血の繋がった家族よりも、私を一番に愛してくれるって!!!」

「知らねえよそんなの」

「だからすぐに帰ってくるって言っていたのに…………アルベールのせいね……。許さない。『遍く雷の聖霊よ! アレクサンドラ・ヤーシャの名において命ずる。我が言葉に従い、焼き尽くせ! エレクトロ・ディスチャージ!!!』」


 アレクサンドラを中心に放電が発生する。クオラを呼びに来ていたはずの教会職員は、白目をむいて倒れた。感電したのだ。死んだかもしれない。


「威力はまずまずですね。【黄の勇者】には遠く及びませんが」

「【勇者】基準に考えるな。あいつは常時微弱な電気を帯電させることができる化け物だぞ」

「そうでしたね」


 ルーシーの結界に潜り込んで放電をやり過ごす。直に魔力が尽きて、放電ができなくなるはずだ。


「あいつこのまま放電し続けて教会に着火させる気じゃないだろうな」

「さあ。あの魔法は自分の魔力を全て使い切ってしまいうるものです。後先考えていないのでは?」

「まさかここまで【黄の勇者】への依存度が大きいとは……。好都合だけど、正直今のあいつは鬼気迫るというか、気味が悪いな。とっとと片付けてしまおうか。『眠れ ヒプノティック』」


 魔法を発動する。対象は教会内すべて。俺とルーシー以外の全員。礼拝に来ているもの、教会の修道士、全員が眠気に襲われ意識を手放す。それは魔術師であり魔法耐性があるはずのアレクサンドラも同様だった。


「そんな……詠唱破棄……こんな規模で……なんて」


 放電を強制的に止められ、アレクサンドラは呆然としながら瞼をゆっくり閉じた。

 彼女も魔術師としてはそこそこ有能なので、使われている魔法がよくある睡眠魔法であることに気付いたのだろう。そして通常、この魔法は対個人に使用されるものだ。それを集団に援用するのは意外に難易度が高い。


「じゃあ運び込もうか。ルーシー、悪いけど手伝って」

「分かりました」


 クラークの隣にアレクサンドラとクオラを寝かせる。既にルイは目的地へ──物見の塔へ運び込んでいる。

 荷車に揺られながら、俺は総仕上げだ、と《マイス》を通じて街一体に散るように命ずる。対象は、この街の支配下にあるすべてのネズミたち。瘴気を蓄え、噛んだものに瘴気を患わせるネズミたち。


「アルベールさん、到着しましたよ。運びますね」

「……ありがとう」


 俺はクラークを右肩に担ぎ塔の螺旋階段を上る。常駐の兵はすでに眠らせている。


 塔の最上階、四方に壁がなく街を一望できる階にクラーク、アレクサンドラ、クオラの三人を運び込み、ルイの隣に転がす。ルイはひとり起きていたが、壊れてしまったのかケタケタ震えてしまっていた。


「結界は展開しました。この階は安全です」

「了解。じゃあ始めようか。『ネズミたちよ。噛みつくせ!』」


 阿鼻叫喚が始まった。
























 


 異変は街のあちこちで発生した。


 チュウ、チュウ


「なんだネズミか……。 うおっ、こんなにどこから……」


 下水道や家の床下、天井の裏や庭先など、街のいたるところからネズミが出現する。それは数を数える、という気力も起こさせないほど膨大な数で、そのすべてが喰らえるもの、喰らえと言われたもの──人肉も彼らにとっては食料となりうる──に群がっていった。


「店を閉めろ! 売り上げが無くなる!」


 食品を扱う店は街路からネズミが侵入してこないよう扉を閉めるが、既に侵入され、あるいは天井や床下に棲みついていたネズミたちには無力だ。


「あっちいけよコ゛ラ゛ァ」


 店の中から追い払おうと箒を手に取った店主。その脚に数匹がたかると、服の上から一斉に、そのくるぶしを噛んだ。


 ガブリ。


「痛っ……。ひぃ……」


 店主は噛んだネズミたちの口元から、黒い靄がこぼれているのを見た。それが噛まれた自分の足から吹き上げていることも。

 こいつはヤバい。店主は本能的に理解した。妙に患部が熱いし、酸でもかけられたかのようにシュワシュワと肉が溶け出してきている。


「お父さん、ネズミが……!」

「逃げろ!!!」


 子にそう叫ぶのが精いっぱいだった。



 教会の中は凄惨なものになっていた。

 既にアルベールの眠り魔法は解け、修道士や礼拝客は目を覚ましていた。そしてネズミに噛まれ、全身のあちこちから黒い靄を吹き出している。教会の中は恐慌状態となっていた。

 その中で唯一、大神父だけがこれを瘴気だと正しく認識していた。彼もまた、四肢をネズミに喰われ、あろうことか手首の先を失っていたにもかかわらず、である。

 文献にあった、ネズミによって媒介される病。感染者の体液に触れる事が病を広めると、その文献は記してあった。黒い靄の記述はなかったが。


 (このまま人を外に出せば、むやみに瘴気を広めることになる)


 既に街一体がアウトブレイク手前であることを知らない神父は、ここで一つの残酷な判断を下す。修道士やその他自分の部下を集め、大神父は命じた。


「門を閉ざせ! 誰も入れてはならんし、誰も出してはならん!!!」


 教会は教会自らの手で封じ込められた。既に手遅れであるにもかかわらず。



 街の出入り口を警備する騎士たちも事態の異常さを把握し、対応に追われていた。

 市民とは違い、彼らは鎧で顔以外の全身を覆われているので、いくらネズミといえど歯が立たない。

 しかし騎士たちもまた、数で勝る、しかも小さな相手に剣や槍で対抗するのに慣れていなかった。


「ちっ、騎士団に入って最初の獲物がこんな小さなネズミとはな……」

「おい新人! そのネズミにさわるんじゃねえぞ! 明らかにヤバい! こいつは多分魔物の類だ!」

「わかってます!」


 彼はここにいる騎士の中では最年少だ。

 ここに団長がいれば、と無我夢中で槍を突き立てながら若い騎士はクラークを思う。団長が既にアルベールに拘束されていることを、誰も彼も知らなかった。


 突き立てた槍がようやくネズミの身体を貫く。しかし息をつく間もない。槍をネズミから抜き、次のネズミを殺しにかかる。


 直後、ネズミが驚きの行動に出た。


 群れの中で少し体躯の大きい暗褐色のネズミが、今若い騎士に殺されたネズミの死体に近づく。そしてその尻尾を噛むと、身体を回転させながら勢いをつけて若い騎士の顔面に投げつけたのだ。

 ベシャ、という音がして若い騎士の顔半分が死んだネズミの血や体液でグシャグシャになる。当然、その体液は瘴気に汚染されているわけで。


「ぐえぇ」

「おい、新人!」


 若い騎士は思わず嘔吐した。その吐しゃ物もまた、黒い瘴気に汚されている。

 若い騎士はそのままうつぶせに地面に倒れた。既に瘴気にやられ、顔半分はどろどろに融けていた。


 さらに騎士団を絶望が襲った。街の外から、騎士の身長の二倍はあろうかというほどの大きさのネズミが一匹、のそりと姿を現したのである。暗褐色の身体、赤く光る眼、黒い靄、まるで今発生しているネズミをそのまま大きくしたような魔物だった。


「ひえっ」


 騎士が悲鳴をあげたのも無理はない。明らかに不気味、そしてこれまで討伐したことのない魔物──騎士団の仕事は治安維持であり、魔物は【黒の勇者】や【黄の勇者】、そしてその仲間たちが率先して狩っていたから、そもそも人以外を相手にしたことが殆どなかったのだ。


 ネズミがその巨体に見合わない俊敏さでとびかかり、大口を開ける。及び腰で突き出した剣や槍は、存外厚い毛で防がれ、皮膚には到達しない。


 たちまち出入り口を守る騎士は全滅した。

 巨大なネズミ──アルベールの腕を食べたネズミである──は命令のとおり、出入り口にすっぽりと身体をうずめた。簡単には出ていくことができないように。


 



 貴族の屋敷でも混乱が広がっていた。貴族の屋敷と言えど、いや、貴族の大きな屋敷だからこそ、ネズミの侵入・定住を防ぐのは困難だ。

 そのうちのひとつ、アレクサンドラの実家であるヤーシャ家では、当主のドボルブニクが腹立たし気に報告を聞いていた。


「街全体で突如大量のネズミが発生! 黒い靄を撒き散らし、噛まれたものは骨肉が融ける等の被害が!」

「ちぃっ!!!」


 評議会の筆頭であり、【勇者】を婿に擁するヤーシャ家はこの街で最も権力のある家だった。商売に成功したドボルブニクが貴族に叙せられ、【黒の勇者】の村を焼いたことで最有力となった。

 今、ドボルブニクは、半年前に国の執政官から聞いた情報を思い返し、これをしでかすことのできる人物のあたりをつけていた。


「【黒の勇者】め……」


 思い返すのは短い手紙。ジャルマニア国軍の機密文書であったそれには、アルベールが【黒の勇者】に任ぜられた経緯とその能力と思しき情報が端的に記されていた。


 (ネズミを支配し、人を襲わせる。ネズミは黒い靄を主に口部に蓄えており、それは瘴気である。毒ではあるが病の類であり、魔法による対策は一切通じない。だと……)


 だからこそ危険性を認識し、【黄の勇者】ノインを派遣した。娘アレクサンドラの希望をかなえ、アルベール殺害未遂を追認する前にこれを知っていたならば、ドボルブニクは全力で敵対を回避しただろう。あまりにも、対社会集団に特化しすぎた能力だ。


「ノインはどうした!!! あいつ、【黒の勇者】を確かに殺したなどと嘘の報告をしよって! やつ以外にアルベールを止めれるもんがクリュートにはおらん!」


 義理の息子となったノインは今クリュートにいない。彼の雷撃でネズミを大量に感電死させる必要があることは、ドボルブニクには痛いほど理解できていた。

 ドボルブニクは知らない。ノインの実家、そして実家のある町リウーの全てが今日と同じようにネズミに襲われ、死傷者こそ殆どなかったものの、今でも潜伏しているネズミの大量駆除に追われていることを。そして領民と実家の家族を実質的な人質に取られ、ノインがアルベールの意のままに嘘をついたことを。


「いかがいたしましょう、ドボルブニク様」


 執事の問いかけに、ドボルブニクは血管が切れそうなほど青筋を浮かべて怒鳴った。


「屋敷はすべて閉鎖! クリュート中の魔術師に広範囲な魔法の使用によるネズミたちの殲滅を命令! 王都にこれを伝える伝令を派遣! そしてアレクサンドラを呼び戻せ!」


 ノインがいない今、愛娘が最高の魔術師である。半年前も、ネズミの大軍を一匹残らず感電死させたという。


 (あれも嘘をついた可能性はあるがな)


 慌ただしく執事が出ていく。一人残された部屋で、部屋の隅に動く影を見つけ、ドボルブニクは戦慄した。

 

「まさか」


 チュウ、とネズミが一匹、棚の陰から姿を現す。暗褐色、赤く光る眼、黒い靄を蓄えた口。

 実は棚の裏の壁がネズミによって穴開けにされており、小動物は簡単に侵入できるようになっていた。

 そんなことを知る由もなくドボルベルクは、侵入してきたネズミから逃げ回ることになった。























 初めに目を覚ましたのはアレクサンドラだった。


「……っ。ルイ!?」


 俺たちよりも先に、無残な姿に変わり果てたルイの姿を認め、動揺を見せた。

 立て続けに目を覚ましたクオラとクラークも、変わり果てたルイの姿を見て絶句している。

 よくルイだってわかったな、服装か。俺の時は髪が変わっただけなのに……。


「アルベールさん、猿轡を」

「ああ、忘れてた」


 俺は手早くルイ以外の三人に猿轡をはめた。モゴモゴ、と抵抗する三人。

 俺は全員に語り掛けた。


「なあ、俺のスキルをさ、一度でいいから見てみたいって、クラークだっけか、言ってたよな。外を見てみろよ。こうなるんだぜ?」


 俺の言葉に、四人(既に廃人となっているルイを一応勘定に入れる)は街を見渡した。普段は消音しているルーシーの結界だが、今だけは音の遮断を解いてもらっていた。


「おい、だれかいないのか!!!」

「衛兵を呼べ!!! それと医者だ!!!」

「ひいぃ、神様ぁぁぁ……」


 城壁に覆われたクリュートの街の中では、大勢の市民が地獄絵図を描いていた。街全体から黒いオーラが靄のように漂い、一部は煙のように空に浮き上がっているようだ。

 

「【黒の勇者】。スキルは《マイス》。瘴気持ちのネズミの増殖・支配・操作という能力だ。良かったな、見たかった景色だぞ」


 急激に広がる曇り空が、街の終焉を象徴しているようだった。神様はいない、そう思わせるのには充分だ。


「アルベールさん、教会の諮問委員会が動いたようです。クリュートからの悪意がどんどん小さくなっていきます」

「よかった。これは感謝しないとな」


 《スタディ・イン・スカーレット》第二の能力で、教会本部の悪意を検索していたルーシーがそっと告げた。


「聞いたかクオラ。直に不正がばれるだろう。聖女の称号は剥奪だ。……分かっただろう? ここに、お前に笑う神はもういない」

「…………」


 沈黙のままクオラの目からハイライトが消えた。終わったな、と俺は直感した。次いで、アレクサンドラの心を折りにかかる。


「【黄の勇者】ノイン・リウー・ベルナルドはこうなることを解っていて、それでいてクリュートを、アレクサンドラを捨てた。彼は貧しくなった家のために、成金のヤーシャ家に婿入りしたんだよ。歴史あるベルナルド家を、リウーの街を経済的に救うため……愛? そんなの嘘だよ」

「っっっっっ!!!」


 敢えてノインの名を実家の名で呼ぶ。

 アレクサンドラが膝から崩れ落ちた。確かめたわけではないが、凡そ嘘は言っていないと思う。


 あとはクラークだ。騎士団長として、街に対する愛情、市民に対する愛情の深いこいつは、この状況に対して怒りを覚えていることが窺えた。俺に対する怒り、それはこいつにしてみればまあ当然といったところだろう。腹立たしいがそれはわかる。


 ルーシーがそんなクラークの様子に殺気立てている。「こいつ殺していいですか、ねえ!」と言わんばかりの目で俺に訴えかけてくる。


「まあまあ。落ち着いて」


 俺はルーシーを宥めた。むうっ、と膨らんでルーシーが不満げに一歩下がる。


「スキルを封印する。いくら役立たずの邪魔ものに思われようが。俺はそう決めていたんだ。使わないんだって。だから、言ったのに」


 俺は小さく呟いた。

 俺の言葉に、縛り付けられた四人の肩が震える。血走った眼が何かを叫んでいる様子だったので俺はクラークの猿轡を外した。途端に罵声が飛んでくる。


「なんてことしやがるんだ!!! てめえそれでも【勇者】か!!?? 俺たちを拘束して無関係の市民を巻き込んで……!!!」

「『黒歴史』って言葉を知っているか?」

「あ!?」

「俺にとっての『黒歴史』は、お前らを仲間だと思っていた、信じていたあの時間だよ。お前らがそうさせたんだ」


 とはいえ、と俺は二の句を継いだ。


「チャンスをあげよう。クラーク」

「なに?」

「まあ武器は没収させてもらうけどね。落ち着けよ、そう剣呑にされちゃあ、ね」


 俺は、なおも言葉を継ごうとするクラークに殺気を浴びせることで黙らせた。洞窟の奥に潜む古竜すらひるませる殺気だ。騎士団長ごときが歯向かえるはずがない。


「丸腰で。これをあげる」


 俺はクラークに錠剤の入った袋を渡した。


「瘴気の治療薬だ。飲ませれば一日で症状が引く。騎士団長として、みんなの命を守れるぜ。剣ではないけどな」


 俺の発言に、クラークは目を白黒させている。

 猿轡をとり、発言を許すと、クラークは怒りの中に戸惑いを見せ、いいのか、と問いかけてきた。

 俺はもちろん、と首肯する。


「一応、黒い靄とネズミの体液に触れるとダメだよって忠告しておくよ。特にネズミの血はダメだ。即死するよ」


 笑顔で告げる俺に、クラークは心底薄気味悪さを感じたのだろう。ビクビクとして部屋の隅、階段の方へ逃げ出していった。

 他の三人は、と見ると彼らは充分絶望している様子だった。もはやこの会話を聞いているかも分からない。逃げ出す心配は無いな。


「ルーシー、頼む」

「……分かりました。クラークの範囲外に結界を設定。《スタディ・イン・スカーレット》を再構築します」

「ありがとう。…………ほら、いつまでぼんやりしてるんだ。さっさと行けよ」


 俺の払うような手の動きで、俺が何を言いたいか理解した様だった。クラークはちらちらと取り残された三人を気にしながら、ゆっくり塔の階段を下って行った。


「よかったんですか?」

「今に分かるさ」


 俺はルーシーに微笑んだ。


「買収はもう済んでいるんだよ」





















 ひとり解放され塔を降りたクラークは、肩を怒らせながら街を歩いていた。通りにはネズミしかいない。鍛えた耳で気配を探れば、どうやら多くの市民がこの先の広場に大挙していることが分かった。ネズミに囲まれているようだ。


 アルベールの奴め……。クラークはアルベールへの怒りと恐怖でいっぱいだった。そもそもが、全力で戦ったのに剣技で屈辱的な敗北を負わされ、大切な街が瞬時に災厄にのまれる。これをすべて、薄ら笑いを浮かべたまま実行されたのだ。


「くそったれ!」


 クラークは広場まで走った。輝く騎士団のキズ一つない黄金の鎧がガシャガシャ音を立てる。不思議なことに、通りのレンガが見えないほど発生していたネズミたちが、みなクラークを恐れるように逃げてどこかに消えていった。



 円形の広場は、数万ものネズミで囲まれていた。悲鳴と怒声、すすり泣く声が聞こえる。


「どけどけぇ!」


 クラークは包囲の最後部にいたネズミを蹴り上げた。ネズミがくもの子を散らすように逃げ、クラークの行く道をつくる。

 

「あ゛?」


 クラークは訝しんだ。まるで貴族の一行が街道を行く際に庶民が街道の両端で礼をするように、クラークに対してネズミたちが心なしか道を開けているようだったからだ。


「おい、騎士団長だ!」

「クラークさんだ」


 市民の声にハッと我に返ったクラークは、足早に、薬の入った袋を握りしめて広場に向かった。速くこれを届けないと……。

 行くたびに、ネズミの群れがひれ伏すように道を開ける。まるで群れのボスがクラークであるかのように。


「おい、様子がおかしいぞ」

「ネズミが引いていく……それどころかクラークさんを通しているように見えないか?」

「ああ、あれはまるで……『ネズミの王』だ。クラークさん、いや、あいつがこのネズミ騒ぎの元凶だ!!!」


 市民の声が徐々に不穏な方向に変わっていく。悲しみや恐怖は怒りに転化し、その矛先は無傷で歩いてくる黄金の男──クラークに向いている。


「お、おい。みんな、どうしたんだよ」


 クラークが浮かべていた笑顔を引きつらせ、足を止める。最初に殴りかかったのは、気勢を上げたのは誰だったのか。


「裏切ったなてめぇ!!!」


 何百人もの市民がクラークに躍りかかった。歴戦の騎士とはいえ丸腰、しかも市民から人気のある自分が襲われるなんて露ほども考えつかなかったクラークは、あれよあれよというままに市民からのリンチにあった。


「ち、ちがっ。誤解だっ。俺はっ、くすっ、うっ……薬をっ!!!」


 守るべき、愛すべき市民に暴行され、言い分も聞かされず、クラークは次第に声ではなくヒューヒューとかすれた息しか口から漏らせなくなり、やがて冷たくなった。





















「……って感じになってくれないかな、って」

「……すばらしいですね。あたしの知る限り、これは未知のやり方です。アルベールさん、やっぱりすごい……」


 あの後、俺たちは急いでクリュートの街を抜け出した。一晩かけて街から遠く離れ、辿り着いた村の宿の一室で、『クリュートの惨劇』と名付けられた事件を報じた新聞を読んでいた。


 アレクサンドラもクオラもルイも死んだ。みんなネズミに噛まれた、という設定だ。ルイの火傷がひどい点については処理に失敗した、と街を抜けてから後悔したが、まあ、どうせネズミを殲滅するためにみんな焼かれてしまうだろうから変わらないと思う。


 収容できるだけのネズミは俺の影に収容し、出来ない分や元々クリュートにいた分は放置した。ネズミの増殖速度はえげつない。今頃ジャルマニア国軍が終わりの見えない殲滅作戦を立てていることだろうし、【黄の勇者】ノインは今頃戦々恐々として必死に街のネズミを感電死させていることだろう。

 ヤーシャ家の蓄えた資産はなるべく回収してリウーの街にいる【黄の勇者】ノインに届けた。勝手だが、それで手打ちにしてもらおう。


「で、これからどうするんですか?」

「どうしようかなあ」


 正直、目的を失ってしまった。深刻な顔で悩む俺の手を握って、ルーシーはまっすぐな眼差しを向ける。


「何もないなら、あたしの旅にお付き合いしてください。アルベールさんとなら、多くの未知に出遭える気がします!」

「……そうだね」


 考えてみたら『契約紋』がまだ失効していないし、俺の一族ラトゥスについても分らないことだらけだ。両親は俺に色々と遺す前に死んでしまった。だが、たとえば《マイス》に瞬時に対応し殺鼠剤を撒いた両親には謎が多い。散り散りになってしまったという一族の生き残りも、どこかで見つかるかもしれない。

 俺の返事をきいて、ルーシーの顔がぱぁっと華やいだ。


「じゃあ、今日はここに泊まって、明日また街に向かいましょう」

「そうしよっか」

「あと、夜のお世話もお任せください!」

「……それはちょっと……」


 ルーシーとの会話を楽しみながら、俺は明日からの日々を想像して胸の高鳴りを感じていた。

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嫌われ勇者は復讐する 佐藤山猫 @Yamaneko_Sato

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