犠羊の歌

 細い、しかしよく通る声が朗々と響き、付唱する柔らかな声がそれを追う。自分の声が開闢かいびやくの一矢となり、分厚く沈んだ空気のカーテンをひいて色を決めていくこの瞬間をエーベルは好きだ。自分の喉から発せられる歌は全ての祈りを具現する存在で、それが神の栄光と賛世を表現していると思うと、高揚は常に自分の背を温かに包み、庇護と恩寵を感じさせてくれる。

 神への讃辞をエーベルは歌う。自分が先陣切ってつけていく祈りの歌は無名神をあなたと呼びかけ、赦しを乞う。人の愚かさを。醜さを。争いを。怒りを。嫉妬を。強欲を。そして神は赦す。無名神は赦す神なのだ。

 やがてひときわ大きなうねりを迎えて歌は終わり、最後にエーベルの声だけが高い殿堂の空間へこだまするように消える。余韻の末尾が滲むように消えてエーベルが満足の吐息をついた途端、それが合図だったように司教ディーターが祈錫で床を二度、ついた。木の床が鈍い音を立て、完全に歌が消える。

 ディーターが祭壇に向き直り、神への聖句を始めた。他の司祭たちの列に戻り、エーベルは膝をつく。帝都ザクリアにいた頃に自分に膝をつけという者は勿論いなかったが、ここではエーベルは数いる司祭たちの一人に過ぎない。

 長く細く続く司教の祈りを、エーベルはじっと俯いて聞くともなく耳に入れている。自分は讃歌の歌い手として重宝されていても無名神の教えを導く者としては半人前で、それを自分でも理解しているのにやはり微かに不服を感じているのは何故だろう。

 自分が皇弟で、そもそも彼らの上に司祭長として君臨出来る身の上だからだろうか。それとも皇族の身分を捨てて帝都から離れたここメーリンの地方統一教会で、大人しく司教の訓示を聞いていなければならないからか。皇帝として即位した異母兄アルノー四世が最初の約束とは裏腹に、一向に自分を救い出してくれないからだろうか。

 兄は確かに言ったのだ。

(お前を教会にやるのは私の力不足、こらえてほしい、エーベル。けれどいずれ、私にも時が来よう。そのときは必ずお前を呼び戻すから、今は議会と両大公の意思を受け、教会へ行って欲しい)

 エーベルははいと頷いた。彼にとって異母兄とはひたすらまぶしくひたすら愛しく、彼を導く太陽であり癒やす月であり方角を教える星であった。

 せめて自分の母が貴族の出身だったらとエーベルは思うことがある。彼の母は北方ラストレアの裕福な商家の出で、皇帝行幸の際の祝宴の手伝いにとかき集められた少女たちの一人であった。十分に若く美しく、それゆえの無知な無邪気さを父である皇帝は愛したが、母の貴族としての素養などは入宮した後の付け焼き刃だ。どれも大して形になりはせず、それを皇妃たちは嗤った。母が必死になればなるほど嗤った。

 やがて母が夏風邪をこじらせて呆気なく世を去ったとき、エーベルはまだ六才で、父親の意向のもと正妃アリーセに養育を任されることとなった。アリーセは彼を煙たがりはしたが特別邪険にもせず、ほぼ無関心とはいえ一定の教育を施してくれた。養母の関心が薄いことがエーベルは悲しかったが、成長するにつれてそれも仕方のないことと諦めはついた。

 あまり正妃のもとに足を向けない父、無関心な養母と比べて兄アルノーはエーベルにとって唯一自分に笑いかけ、手を取ってくれる相手だった。年齢は十三離れている。滅多に顔を見せない父よりもよほど父に近い存在であったかもしれない。

 だから、兄の即位は嬉しかった。父の死に沈むより、エーベルにとって兄の神々しい臨御が全てだったのだ。

 兄の頼みだったから教会へ来た。いずれ兄がいうように自分は呼び戻されて帝都で何かの職を食むだろう。今の状況からすると司祭長の可能性は高い。それがいつになるかは分からないが、兄の即位から既に十年が経過している。

 自分は必要のない子供ではないのかという薄い疑念が最近胸の奥に不意に浮いてきて、エーベルはそれを振り払うのに躍起になっている。そんなはずはない、兄は自分を見捨てないと考えれば考えるほど、十年も教会に押し込められているという事実が声を上げるのだ。

 兄帝は去年の冬に感冒にかかり、高熱で苦しんだと聞いている。それなのに見舞いにも行けなかった。エーベルに出来ることといえば神へ祈ること、祈願のための聖句の典本の写しを捧げること、兄に向けて祈りの手紙を書くことぐらいで、それは身のよじれるような憔悴を表現するには全く足りない。

 兄がどうにか回復したらしいことはこの春が終わる頃にディーター司教から聞いた。身体から力が抜けてしまうのではないかと思うほどエーベルは安堵し、それから兄の手蹟一つないことに微かな不審を抱いた。兄である皇帝は細やかな神経を持っていて、エーベルが手紙で気遣ったことに対しては手紙で返礼をしてくるのが常だったのだ。

 ディーターからの通達だったことがエーベルを何気なく傷つける。兄から見捨てられたら、自分は全く要らない子供になってしまう──それだけは嫌だ。エーベルはぞっと眉をひそめる。

 鬼籍にはいった両親にも、勿論皇太后となっている養母アリーセにも、エーベルは執着がない。あるとすればそれは異母兄であり皇帝であるアルノー四世だけだ。兄だけが自分の肉親で、他は血のつながった他人であった。

 ディーターの祈りが終わり、錫杖の音がまた二回して月初の礼拝は散会となった。エーベルも礼拝用の肩掛けと重裾を外して自室へ戻るために歩き出す。

 と、その耳に不意に密やかな声が耳打ちした。

「……司教がお呼びです、閣下」 

 周囲には誰もいない。エーベルはそっと頷く。見えぬ相手ではあるが、それが自分を守護する者であることは知っていた。

「衣装を部屋に置いてすぐに伺うと」

 呟くと声ははい、と承知を告げて沈黙した。相変わらず姿は見えないが気配は遠くなったから報告のために消えたのだろう。

 部屋に戻りながらエーベルは溜息になった。一瞬後に、それが気鬱の溜息であることに気付いて自分でうんざりする。司教であるディーターをエーベルは苦手なのだ。また何かの説教なのだろうかと思うと心が沈む。

 あるいは、とエーベルは回廊から中庭を回りながら思う。

 彼が苦手なのは真実心の底から無名神に拝復していないことが知れてしまうのではないかという恐れがあるからだろうか。無名神の教義は非常に緩やかで、そもそも祈りと懺悔の前に全てを赦す神だ。真摯に救いを求めれば人の心の深さに見合った赦しをくれる。だから自分が今救われていないと感じているならば、それはまだ祈りが足りないということなのだ。

 エーベルは今度はそっと内心で溜息になる。神に恭順しているふりはしているが、毎日は単なる反復で、どこにも救いも楽しみも発見も見いだせそうになかった。単調で淡色の日々がただ巡り、日が沈み、星が来て、翌朝になる繰り返しだ。

 そこにエーベルは何も感じることが出来ない。だからきっと、ディーターは自分が嫌いなのだろう。彼は六十の声を聞く年齢の男だが、日々の祈りを深く信じているように見える。自分が表向き頭を下げながら教義と信仰に何の意味も感じていないことをきっと見抜いている。

 けれど他にどうすればいいというのだろう。自分は兄である皇帝その人の頼みでここへ来た。皇統にいる男子は兄と自分を除くと又従兄弟あたりまで血が薄まってしまう。即位時の兄に男子がなかったため、実質皇太子のような位置にあったエーベルだが、今後の血統継承の混乱を防ぐために教会にいるのだということは分かる。兄のところに皇子が生まれるまではきっとこのままだ。

 ──それはどれくらい待てばいいのだろう。自分は十年を望まない教会という籠の中で待った。更に十年待てと言われてしまえばその長さに薄い絶望を感じてしまう。

 あるいはもっと神の教えに耳を傾けて学ぶべきなのかもしれなかったが、エーベルはどうしても興味が持てない。教義そのものはそう嫌いではないのだが、とにかく細則が多く、作法が煩雑で、聖句一つにしてもその記一筆にしても、規則で頑なに編み上げられた繊細なレースだ。目一つ一つを丁寧に追っていると眩暈がするし、全体を見ればうんざりとしか感想が出てこない。

 そしてそれでも自分はここから離れて生きていくことが出来ない。兄の意思を無視することは絶対に出来ないし、万一自分がここを飛び出したとして、自分に一体何が出来るというのだろう。

 幼い頃から事情はあるにせよ絹でくるまれて育ち、この手で何かを生産したことなどないのに。だから自分は兄の救いがあるまでここにいるしかないのだ。変更は赦されていないこの環境で、興味を持てないということがどれだけ地獄に似ているのだろう。

 いつか、と思うことでそれを薄めることに執心しているが、そうでも思わないと自分を支えている意地が砕けてしまいそうだ。

 この、中庭と同じように整えられた優しい牢獄。神の声が聞こえる美しい地獄。自分はその中に投げ落とされた犠牲の羊なのだ。

 エーベルは唇をゆがめ、足早に歩く。自分を哀れむことがどれほど非生産的か知っていて、それでもその声を止めることが出来ない。それが何より胸にこたえた。



 舌打ちと共にエーベルは本を床に投げつけた。どさりと重たい音がして、絨毯の上に本が沈む。皮装丁は金糸のかがり糸が目立つように黒く染められ、金の糸が聖典書の篇名とエーベルの名を綴っている──この春二ヶ月を費やして完成させた教義書の写本を投げ捨て、エーベルは荒々しく呼吸をした。怒りと屈辱の攪拌されたものが胸の底から沸きあがってきて止まらない。

 ──部屋で着替えてから司教の呼び出しに応じて執務室へ顔を出すと、ディーターはちょうど手紙を書き終えたところのようだった。もうすぐ兄の即位十周年の式礼がある。メーリンの司教としてディーターは帝都での式典に参列しなくてはならないが、そのための書面や手続きは多い。今年は彼が各地区の司教を束ねる司教導者であるから尚更だろう。

 遅れまして申し訳ありませんとエーベルが言うと、ディーターは簡単に頷いた。相変わらず表情がなく、不機嫌なのかと一瞬身構えてしまうが、この男はいつもこうなのだとエーベルは気を直し、紋様板に手を当てながら礼儀に則り一礼した。

「エーベル司祭、発声よりも礼が遅れた理由を」

 だが声音は十分不機嫌だ。紋様板に手を当てた礼よりも遅れたことを謝罪した発声が先であったと咎められている。

「……大変失礼いたしました。司教閣下をお待たせした謝罪をせねばという気持ちのほうが先に立っておりました。今後気を払い、二度目がないように務めます」

 エーベルが言うと、ディーターは素っ気なく頷いた。礼儀としてはこの初老の司教の言うとおりで、まずは神の導きに感謝し同じ神に仕える者同士の祝福を込めて紋様板の聖礼からであるが、こんな作法、今時誰が守っているというのだろう。ディーター以外にこれを指摘する者さえいない。

 一事が万事ディーターはこの通りで、会えば会うたびに嫌われているのだという自覚を呼び起こす。特に細かな作法や礼拝の発音則や音便に関しては偏執的ともいえるしつこさだ。やれ発声の伸音の最後が下がっている、濁音と鼻濁音の使い分け、韻律の作法、言い回しの慣用礼法と階級による区別。もはや誰も覚えていないような詳細な音韻則。

 また些細な規礼かと俯いていると、ディーターはこれを、と一冊の本を差し出してきた。ちらりと見てエーベルは目を見開く。兄の即位十周年の記念式典が来月に迫っている。その時に献本するために取り組んでいた写本はつい先週完成し、同じように献本となる他の教義書と共に教会に納めておいたはずだ。

 それがディーターの手にあり、今自分に戻されてきたことそのものがまず信じられない。神への供物として既に祭壇にあるものを、この老人は持ち出しているのだ。

「何故これを返すか分かるかね、エーベル司祭」

「いいえ……不勉強で申し訳ありませんが」

 そうだろうなと低く呟いてディーターは写本をめくった。エーベルはそれをのぞき込み、苦く唇をかむ。彼が書き綴った聖句や聖条の上からびっしりと赤いインクで修正が書き込まれている。よく見ればそれは一部の文字の留めや撥ねの指摘であった。

 エーベルは眩暈をかろうじてこらえた。癖字と総括してもよいような些細な字の勢いを全て修正しろと言われているのだ。そしてそれは全て書き直しと同じ意味だ。二ヶ月をかけて写本したものを直すなら、殆ど同じだけの時間がかかる。

「……全て直せと?」

 思わず聞いてしまったのはその膨大な労力についてエーベルが素直に承服しがたいからだ。けれどそれは愚問であることも分かっていた。ディーターは返答をせず、じろりと彼を見ただけであったが、それは十分エーベルの愚問に対する返答であった。

「ご指摘、ありがたく痛み入ります。早速取りかかり、陛下の式典には是非献本叶いますよう努力いたします」

 言いながらエーベルは本を受け取り、退室の礼を取ろうとした。と、それを手で制してディーターが司祭、と低く言った。

「そなたは教会へ来て十年となる。その間、神の忠実な信徒であろうと務めてきたはずだ。だが、綴り一つ満足に書けないとは由々しきことである」

「は、肝に銘じまして」

 エーベルは顔がゆがむのを自覚し、深く一礼した。綴り一つではあるが、その綴り一つ指摘するほうも偏執的だ。しかしこれはなんとしてでも完成させなくてはならない。兄にも献本のことは手紙で知らせているし、自分が血統の力学のためにここにいることは皇族から神官族へ対する誠意でもあるらしいのだ。

 エーベルの礼にディーターは何故か深い溜息をついた。礼としては作法にのっとった正しいものであったはずで、エーベルは顔を上げる。ディーターはひどく難しい表情をしていて、それは一瞬とても悲しげにさえ見えた。

「エーベル司祭の生まれは確かに特殊だが、そなたの生きていく道は既に教会の中と定まっている。神の声を歌うことが出来るのだから、他のことも必ず覚えてもらう」

 還俗は出来ないのだと言われてエーベルは俯く。十年も経過すればそんな恐れは確かにどこかに巣くっていて、自分でも時折不安になる部分ではあった。けれどそれを他人、まして自分を目の敵のようにする司教に指摘されることは断じて受け入れることが出来なかった。

「──無論、神の道に添うことを第一信条としておりますので、ご心配にはあたりませぬ。しかしそう思わせてしまうのは私の不徳のいたすところにて、大変申し訳なく思います」

「だと、いいのだが」

 ディーターは呟き、長い嘆息となった。それに構わずエーベルは退出の礼をとり、このくどくどしい説教から逃れるために背を返した。

 そうして持ち帰ってきた本を床にたたきつけ、エーベルは苛立ちの余りに一つ震えた。口にするほど軽い屈辱でもなく、言葉に出来るほどの苛立ちでもなかった。

 エーベルは長い溜息をついて、長椅子に深く身体を預けた。不意に現れた黒い長衣がゆっくりと本を拾い上げ、軽く埃を払うような仕草をしてエーベルに捧げ持つ。

 苛々と爪をかみながら本を受け取り、エーベルは長い溜息になった。一度はき出してしまえばその後は深い自己嫌悪なのだった。

「……ディーター閣下は相変わらず厳しいお方ですなぁ」

 苦笑気味の声はヨルクだ。自分の座る長椅子の背後に立っていて、軽くエーベルの肩を叩いている。それは落ち着きなさいという仕草であったし、エーベルも自分の怒りが全く八つ当たりなのだと理解しているからその仕草を咎めない。

「しかし、意味のある指摘です」

 低く呟くのは跪いて本を差し出している方で、こちらの名をイェルクという。二人とも兄がこの春から自分に、と差し回してくれた魔導士である。魔導士の年齢はその掟によって厳しく守られており分からないが、声からすると二人とも自分よりはやや年齢が上の男だった。女魔導士もいるが、警護魔導士として任命されるのは基本的に同性である。

 イェルクの言葉にエーベルは忌々しく頷くが、ディーターの指摘が間違っているわけではない。あの老人が言うことはいちいち癇に障りはするものの、圧倒的に正しい。それがまた気に入らないだけで、正しさそのものはエーベルも認めている。

 但し、それに心情的に添うことが出来るかはまた別の話なのだ。

「ディーター司教は私がお嫌いなのだ」

 エーベルが苛々と呟くのにヨルクが再び苦笑した。まぁまぁ、と軽い声がして、イェルクの差し出している写本を手に取り、ぱらりと開く。魔導士は個人情報の秘匿のために銀の仮面をつけている。だから実際の目で見ているわけではないだろうが、なにがしかの魔導があるようで、びっしりと修正された写本にこれは、とヨルクが肩をすくめた。

「ディーター閣下もお時間のある方ですなぁ、いやいや、これは本当に恐れ入る」

 差し回されたイェルクが同じように写本の表面をさらえたらしく、溜息になる。

「……これは大変なお時間がかかりましょう。今日にでも始められた方がよろしいのでは」

 イェルクの言葉にやや頭が冷えた気がして、そうだな、とエーベルは頷く。写本そのものに二ヶ月かかっている。修正のみとはいえ筆記の分量はかなりのもので、兄の式典に間に合わせるつもりがあるならイェルクの言うことは正しかった。

「まったく、提出の際の検覧は終えているというのに……」

 エーベルの不服な呟きにヨルクがこらえられないというように笑いだす。他人事だと思うな、とエーベルはかなりぬるくなった溜息をはいた。すみませんとヨルクがまだ喉を鳴らしている。

 その様子にエーベルもようやく胸が軽くなるのを感じ、ヨルクの手から写本を受け取った。書き込まれた頁をぱたりと閉じる。

 と同時に再び溜息になった。修正が司教から直接入ってしまえばこれはやり直す他にない。ないが、一度は協会の検本も通過しているという事実がやはり面白くはなかった。ディーターもヨルクが笑うように暇ではあるまいが、百を超す献本の中から自分の本だけを抜いたように思えてならない。何故いつもいつも司教は自分を目の敵にするのだろう。

 ディーターは貴族階級の出身でさえない。故に自分を妬んでいるのだろうか? 貧しい漁村の末子として生まれ、口減らしに教会へやられて必死で教会にしがみつくしかなかった彼には、帰る場所が用意されている自分が羨ましいのだろうか……

 エーベルは目を閉じてその声を追い出そうとする。そんなことを考えてしまう自分も嫌だったし、考えさせるほど執拗に自分にあたるディーターも嫌いだった。

「これはすぐにかかろう……日々のことは多少お前たちに任せるからよいようにせよ」

 かしこまりましたとヨルクが腰を折り、イェルクは無言で頷く。

 二人が派遣されてくるまでエーベルは身近に魔導士を知らなかった。帝都で生活していた頃、兄や養母である皇妃には勿論帯同されていたがエーベルにはつけられていなかったのだ。

 だから二人が自分の下に来て初めてエーベルは魔導士を使う身となったが、性格があまりにくっきり異なっていることに驚きもしたし感心もした。考えてみれば元々は唯人ただひとである。同じ理念と技術を持っていても違う人間なのだ。生まれついた性格や癖もあるのだろうが、その驚きはエーベルには新鮮だった。

 魔導士は没個性と個人情報の秘匿のため、皆同じ衣と仮面をつける。仮面の眉間に掘られる刻印は階級によって異なるが、二人は同じ階級にあるらしく、仮面まで同じものだ。但し、彼らが話している口ぶりからするとどうやらイェルクのほうが僅かにではあるが年長者らしい。時折ヨルクがそうやってイェルクを尊重しているから分かる。

 多弁で陽気なヨルクと無口で物静かなイェルクはそれでもよい組み合わせとも言えた。同じ現実に対して助言を求めても、二人からそれぞれ返ってくる言葉は違う。その差異が却ってエーベルの思考を水平にしてくれる気がした。

 それと、とヨルクが切り出す。

「それとエーベル様、式典の衣装についてなのですが、裾の刺繍が天国鳥皇族紋でよいのか瑞鳳鳥準皇族紋とするべきなのか、工房より問い合わせが来ておりますが、どういたしましょう? 陛下から特にこれと指定がなければ臣下の礼として瑞鳳鳥とするのが無難ですが、十周年の祝賀として還俗させていただける件、どうも陛下も運動しておいでのようでして、意外と今回すんなり通るかなと──」

「ヨルク」

 黙っていたイェルクが同僚を遮った。

おのれの憶測や希望を話すな。……衣装については帝都へ問い合わせますので、回答をお待ちください。下手に二着などと指示してもつまらないことです」

 そうだな、とエーベルが頷くとイェルクはそのように、と呟いて姿を消した。見えないようにしているだけで実は側にまだいるらしいのだが、エーベルは詳しいことは分からない。見える、という意識の外へ出るのだという説明は聞いたことがあるが、それがどんな状態なのかを想像することは難しかった。

 では私も、とヨルクが消えるとエーベルは溜息をついて写本を手に立ちあがった。毎日の礼拝や修行などの隙間を縫って作業しなくてはならないため、写本は急がねばならなかった。



 その剣がエーベルに差し出されたのは式典を半月後に控えた頃のことだった。地方の教会から皇帝の長世を願い祝うための献上品は出すが、全てを賄うには信者からの寄進だけでは心許ない。結局各司祭たちがメーリン領の更に分権領主たちを巡っては寄進の奨励をしている。

 この寄進額はメーリン協会ではエーベルが一番良かった。僧職にあるとはいえ、今上帝の異母弟である。訪ねていくだけで大抵は気前よく持たせてくれたし、兄との思い出や帝都での生活の記憶などを話せば喜んでくれた。

 それと同時にエーベルはメーリン教会では無名神讃歌の一番の歌い手であった。高く澄んだ高音と、心地よく這う低音、両方を難なく歌い上げることが出来る者はそういない。それだけはあの気難しいディーターも認めているようで、礼拝の開幕歌はほぼ自分の仕事となっている。

 だから分権領主たちの司祭する地方教会で寄進の礼に賛歌を捧げると彼らは喜んで更に浄財を重ねてくれるのだった。その蓄積でエーベルの稼いでくる寄進額は相当なものらしく、メーリン教会の他の司祭たちは素直に賞賛を向けてくれる。……ディーターだけだ、これに慢心せず神の道を究めよなどと言わずもがなの事を口に出すのは。

 だが、この剣は特別だ。特別なのだということだけが分かる。鞘は落日を抜き出したように赤く、精緻な紋様が陰影を与えて影の部分が背をぞくりとさせるほど暗い。その落差が更に見事だという感想に変わる。

 細身の剣とそれに見合った鞘の意匠は鳥と花だが、紋様の細工は歴史の中に埋没した漢氏ハンシという民族の様式に見えるが、それもエーベルは歴史書の中で似たものを見たことがある、程度の認識でしかなく、鳥と花が何であるかを理解することは出来なかった。

「いかがでしょう、陛下へのお喜びに叶いますでしょうか」

 ロジオン子爵が伺うような目つきになる。老人にもこの剣の特別な素晴らしさは分かるようだった。ええ、と生返事をしてエーベルは手渡された剣をじっと見つめる。

 鞘の鳥紋様は羽が一対──では天国鳥ではない。皇族紋章天国鳥を臣下が勝手に意匠に彫り込むなどは言語道断だが、問題はないだろうと頷いて見せると、ほっとロジオン公は頬を緩めた。

「打たせたのですか?」

 刀工技術、刀剣彫刻技術としては職人や工房ごと国家で抱えておきたいほどの技術だ。剣も見事だが、これを作り出した者がいるのなら是非兄に紹介したいとエーベルが言うと、ロジオン公は苦笑になった。

「それは是非と申し上げたい所ですが……寄進のために各町村で宝物品の買い取りをしていた時に持ち込まれてきたものでございまして。持ち込んだ者も土地の者ではなく、どこからか流れてきたようだと官吏は申しておりました」

「このようなものが市井にあるというのですか?」

 エーベルはつい不思議そうな声を出したが、公は苦笑するだけだった。その疑問は公も感じるところなのだろうが、事実があるだけに何とも言えないということだろう。

 わかりましたとエーベルは頷く。出所がこれ以上追えないのならば追求することではなかった。剣を受け取り、いつものように公の個人祭壇へ賛歌を捧げて帰投する。

 剣と向き合ったのは夕餐と祈りが終わって部屋へ戻ってからのことだ。写本は先ほどから止まったままである。インク壺に蓋をし、エーベルは溜息と共に紅剣を包みからほどいた。くるんでいた布が剥がれ落ちた瞬間に、再び溜息になる。

 実際、これは見事な剣だった。幼い頃から剣など数えるほどしか握ったことがなく、ただ守られているだけで自分で振るおうなどと考えたこともないが、造形のよさ、目に焼き付くような鮮やかな印象は間違いなく名剣の類いに入る。

 自分の胸に所有欲があることにエーベルは不意に気付き、苦笑となった。神へ仕える立場の自分が持っていても仕方がないし、立場でなくても剣技など失笑にも遠い。だからこの剣は当初の通りに兄へ差し出さなくてはならなかった。

 ──ならない、と考えている自分の胸内にエーベルは唇をぎゅっと引き締めて首を振った。余計なことは考えたくない。兄へ渡すはずであった剣を自分が隠し持つことなどあってはならない。

 エーベルは剣を左手で水平に持ち、右手で剣の柄を握りしめた。これは兄へ送るべきものである。だからその前に、ほんの少しだけ、自分の目に入れておきたい……

 ゆっくりと刀身を抜き出していくと、白く細い銀の光が現れてきて、その形の完全に完成した様子にエーベルは目をすがめる。切っ先三割ほどから僅かに反り返った峰がまろく、反対側の刃が危ういほど細く、先端の研ぎ澄まされた風情が武芸など心得ない自分にも強く強く、訴えかけてくる。

 欲しい。胸の奥にわく言葉にエーベルは駄目だ、と一人呟く。けれど押さえなくてはと思う側から次々とその声は囁きかけてきて胃から駆け上がり、喉を溢れてくる。

 余りに息苦しくてエーベルは唇をゆるめ、吐息をこぼす──欲しい、と。

 その小さな声は夜の静寂の中ではひどく大きく聞こえた気がして、エーベルはぎくりと背を伸ばす。何に自分が怯えているのかも分からないが、欲しいと呟いてしまったことさえ誰かに知られるのが怖かった。

 けれど──欲しい……

 じっと見つめる刀身の素晴らしい曲線と直線の造形美。細い銀の輝き。何よりもこの、鳴り止まない衝動。欲しい、欲しい、ずっと呟いている。

 エーベルは抜いた剣を軽く振った。まるで芝居のように剣先が床に当たる直前でぴたりと止まり、震えもしない。エーベルは立ち上がってゆっくり剣を振り上げた。剣を振れば蝋燭に照り返す刀身の輝きが美しい光の軌跡を描き、それが目にしみるほど完璧で、微笑みさえ浮かぶ。

 ああ、と溜息になったとき、

「それを使う気があるのなら、君が新しい主人だね」

 突然声がしてエーベルは弾かれたように扉のほうを見た。誰もいなかったはずの部屋、扉のすぐ脇に黒髪の青年が立っているのが見えた。

「──誰だ……」

 問いただす自分の声が震えている。青年は唇の端をつり上げるようにして笑った。一斉に耳元で嘲笑がさざめいた気がした。背が震える。青年の微笑が明らかに冷笑であることを自分は知っている。遠い昔、同じ笑みを聞いていた──母を嗤う女たちの声。

 お前、と呻くとその声が老人のようにしわがれて乾いていることにエーベルははっとして喉に手をやった。この声は今唯一、自分が教会に所属する役割を担ってくれるものであった。

「声、……声が、ああ……」

 ごくりと唾を飲み込むのと同時に声の皹がなめらかになり、エーベルは吐息を落とした。長い距離を呼吸をつめて走ってきた時のように心臓が痛い。呼吸がうわずってくる。

 どうやら喉が干上がっていただけで声は無事なのだ、と悟った瞬間に涙が出る。安堵と怒りで感情をどこに振り分けていいのかさえ分からない。

「──泣いているの? 驚いた、僕に会えてよがり泣く奴なんて一体どれくらいぶりに会うだろう?」

 青年が笑いながら言うのが聞こえた。皮肉げにゆがめられた頬と、細くゆるんだ目元がやはり嘲笑を歌う。貴様、と呟いた瞬間に何の思惑も感情もないまま身体が青年へ駆け寄り一閃なぎ払った。それは繰り出した本人が驚愕するほど完璧な一撃だった。

 あたる、と思うと何より恐怖となった。

「あ──ぁああぁああぁ!」

 悲鳴を上げて目を閉じようとするより、剣が青年の腰あたりへ入るのが見え、次の瞬間ふっと青年が消えた。

 剣が虚空を切る。反動でエーベルはたたらを踏み、勢いが殺せずに肩から床に落ちる。思わず紅剣を手放してエーベルが呻いた時、青年の姿がやや離れた窓際に現れ、小さく笑い始めた。

「何、怖いの? それとも嬉しすぎておつむが抜けちゃった? いずれにしろ君は自分の闇の蓋を外すことが出来ない臆病者だね、よく分かった」

「なに──何を言って……」

「外れには教えない」

 意味は分からなかったが、それが自分を小馬鹿にした言葉だというのは分かった。エーベルは手からこぼれた紅剣を見る。こちらへ、と呼んでいるのが聞こえる。剣は待っている。自分が意思を持ってこれをつかみ、悪意を持って誰かに斬りかかるのを。

 エーベルは自分の手がふらふらとそちらへ差し出されていくのを呆然と見やる。

 ──嫌だ。

 涙が出る。手が伸びる。嫌だ。殺してやる。嫌だ。殺してやる。嫌だ。殺してやる、殺してやる、殺してやる……!

「止めろ、やめて、いや、殺せ、いやだ、助けて、殺せ」

 しきりと呟きながら自由になる方の手でエーベルは自分の胸の辺りをつかんだ。右手が指で剣ににじり寄り、柄に触れようとした時、柄を別の男が蹴り飛ばした。

 はっと顔を上げると自分の脇に夜の中では黒に見える長衣が二つ立っている。一人は自分の左にうずくまり、もう一人は右に立ち尽くしていたが、共にひどく緊張し、不用意に動くまいと身構えているように見えた。

「ああ、魔導士だね。君はそんなものを飼っているんだね。では剣などなくても破滅なら歩けるじゃない?」

「黙れ!」

 エーベルは叫んだ。男の口調も、声も、表情も全てが不愉快で僅かにも聞きたくなかった。自分の胸に無理矢理爪を立てて、何かを揺すり起こそうとされているようで恐ろしかった。

「お前の言うことなど信じない、お前は誰だ、わ、私が誰だか知っているなら無礼を詫びよ!」

「エーベル様」

 低い声が制止する。それでエーベルは魔導士たちが自分の側にいたことに思い至り、あれを、と青年を指した。

「奴を捕らえろ、私を害そうとした、何をしているのだ、早く」

 魔導士たちはうなだれるが、襲いかかろうとはしなかった。ヨルク、という声が再び低く聞こえた。自分の右脇に立つ魔導士がちらりとエーベルの傍らに膝をついているイェルクを見て、戸惑いながら短剣を抜きだすが、一向に動こうとしない。

「──同志カムラダ

ヨルクが困惑という声音で呟いた。イェルクの返答はないが、彼がゆるく首を振ったのは気配で分かった。

 青年がこれ以上ないというほど高らかに、喉をのけぞらせて笑い出した。

「無駄だよ! 魔導士は所詮、摂理の犬だ!」

 瞬間、ヨルクが肩を微かに震わせた。普段軽口が多く陽気なヨルクから蒼い凄味がふっと立ち上る。その凄まじい冷えた空気にエーベルは目を見開く。ヨルクが短剣を構えて低い姿勢を取るのと同時にイェルクがエーベルを庇うように立ちふさがった。

 そしてエーベルは目を疑う。窓辺にいたはずの青年の姿が薄く影のようになり、あろう事か窓の外の景色までが身体を透かして目に入る──消えていくのだ。

 青年の哄笑が聞こえた。魔導士たちが同時にたれたように震えたのが分かった。それは全く同じ、驚愕という反応だった。

「誰かいるのか? いるのか、同志、──いるのか?」

 ヨルクの声が混乱している。分からんと素早くイェルクが答え、声が、と呻いた。エーベルは消えゆく青年を指さすが、魔導士たちは潰れるような呻き声を上げて首を振るばかりだった。

「君は臆病だ。けれど、臆病な方がいい。無理をしないで、毎日お歌を歌っていればいいのさ羊ちゃん」

 笑う声に籠もる悪意にかっと血が頬に戻る。エーベルは蹴り飛ばされて部屋の端に転がる紅剣に飛びつき、握りしめた。じんと脳が痺れる。背を何かの力が駆け上がってきて、腕を操り、強く床を蹴って自分の身体がまっすぐに青年へ向かって突っ込むのが分かった。

 当たると思うとぞっと背中が毛羽立つ感覚がした。エーベルは目をきつく閉じる。絹を裂くような軽い音がして、切っ先が固いものにめり込んで止まった。柄の中を水のような粘性のものがうごめき、握りしめた手を撫でる。

 鳥肌が立った。強い歓喜か快楽けらくか、一瞬遅れて背を何かが駆け上がってくる。エーベルは喘ぎ、その吐息の艶と生々しさに眩暈を感じて手を離す。途端、意識の霧が晴れたように全身の感覚が戻り、その場に座り込んだ。

 紅剣は窓の木枠にめり込み、微かに震えながら滑り落ちた。

「……消えた」

 イェルクの呟きがした。エーベルが振り返ると、魔導士二人が呆然と立ち尽くしているのが見えた。ヨルクがまだ短剣を握りしめているのをイェルクが優しい仕草で促している。ヨルクは二呼吸ほどおいてから苦笑のような吐息を漏らし、短剣を納めた。

 イェルクが長い長い、溜息になった。

「お怪我はありませんか、エーベル様」

 気遣われて初めてエーベルは自分がひどく混乱して震えていることに気付いた。涙も止まらない。慌てて袖でぬぐいながら首を振ってみせると、二人は安堵の空気を放って頷いた。

 ヨルクが紅剣をつかみ、窓から差し込む月光に透かした。またあの青年の声がするかとエーベルは身構えるが、その声は無く、ただ清浄な光と蝋燭の柔らかなぬくい光が刀身に反射した。

 鞘に納めた紅剣をヨルクがどうぞ、とエーベルに差し出そうとするのをイェルクが止めた。

「この剣はどうしました」

 それが自分への問いであることを一瞬エーベルは気付かなかった。いや、とあやふやなことを呟き、それから寄進でと答える。

「どなたから? ロジオン公ですか?」

「ああ、そうだ、陛下へ是非と言われて預かったのだ……」

 言いながらエーベルは額に手を当てる。ひどい眩暈がしたし、動悸は強く打っていてまるで悪い夢からようやく現実へ戻った時のようだった。

「エーベル様、先ほど誰とお話に?」

 ヨルクが呆然の残り香を漂わせながら言った。エーベルは顔を上げる。イェルクが俯いたのが見えた。

「……お前たち、奴が見えなかったのか? いや、声は? 仮面があるから私が見るようにはいかないだろうが、見えず聞こえずなのか? あの男、黒髪の……まだ若い男だったが」

 魔導士二人が一瞬返答をためらったのが分かった。それが答えだった。まさか、とエーベルは首を振る。彼の笑い声、ひどく癇に障る哄笑がまだ耳の奥に残っている気がする。彼らがいつから自分の側にいたか分からないが、少なくとも隠遁を解いて目の前に現れた時にも青年はまだ自分を臆病と嗤っていたではないか。

「大変申し訳ありませんが、我々には見えませんでした。仮面のせいではありません、これは……視界を直接脳へ補うものですから、目で見ることと大差ないんですが」

 ヨルクが言い訳のような沈んだ声を出し、長い溜息になった。まさか、とエーベルは再度首を振る。

「しかし、私を守ろうと剣も抜いたではないか」

「……エーベル様がそう仰ったので。しかし、繰り返しになりますが、私には見えなかった。同志イェルクにも同じく見えなかったはずです。いるのかと聞いたとき、同志は分からないと言った、なぁ、イェルク?」

 ヨルク自身にも不可解なのだろう、声は沈んだままだ。それを引き継ぐようにイェルクが頷き、私にも、と続けた。

「私にも見えませんでした。しかし……おぞましいことに気配はあった。そしてが人なのか獣なのか区別すら出来ず、出来ないのに……が笑っている声だけは聞こえました」

「ああ同志カムラダ、それは私にも聞こえた──笑っていました、歌え犠牲の羊、と聞こえました」

 エーベルは顔を両手で覆った。確かに青年はそんなことを言った。臆病でいい、毎日歌っていればいい、供物の羊。

「私は……兄の犠牲ではない、兄がそうして欲しいと言ったから、だから望んでここに来たのだ……断じて犠羊などではない」

 魔導士たちの返答はない。沈黙が耳に痛くなってきた頃、じりっと小さな音を立てて蝋燭が尽きた。

「とにかく……剣を……」

 ヨルクが言いかけて黙り込んだ。剣の処理をどうしたらいいのか、咄嗟にエーベルにも思いつかない。本来寄進されたものであるからディーターへ預けて潔斎へ進捗させ、式典の目録に加えるべきなのだが、あの異変の後ではためらわれた。青年を魔導士たちは見ていないというが、声は聞いている。そのためエーベルの迷いも彼らは理解している様子であった。

「剣を……」

 迷いながらエーベルは口を開き、震えのとれた自分の声が普段通りに聞こえることに安堵した。揶揄はともかく、自分の声と歌がメーリン教会に役立っていることは確かだったからだ。ディーターのことは煙たいし、教義には興味が持てなかったが自分の居場所まで失いたいとは思わなかった。

 安堵した途端にまた、欲しいという声が弱く自分の中で呟くのが聞こえた。

「これは、私が潔斎とする」

 唇からこぼれた言葉にエーベルは自分で瞬きをした。恐怖と嫌悪のあの一瞬一瞬が不意にかき消えて、青年の臆病と誹る声と歌えと嗤う声が耳の奥に強く打ち戻ってくる。

 自分は臆病ではない。単に歌うだけの人形ひとがたでもない。そんな反発と共に、剣を振った瞬間の歓喜の感覚を身体が覚えている。それは自分で恐ろしくなるほどの快楽で、もはや苦痛に似ていた。

 けれど手放したくない。剣をどうするかは思案所であるし兄へ献上するのが良いとも思うが、この禍々しい出来事も付随してしまうかもしれないと考えるとそれもためらわれる。結論の先送りであることは理解しているが、今は時間をおきたかった。

 しかし、とイェルクが言いかけ、反論する立場でもないことにすぐに気付いたらしく沈黙へ戻る。ヨルクが布にくるみなおして剣をエーベルの机にたてかけ、新しい蝋燭を引き出しから抜いて灯りをともした。

「ま、何はさておきエーベル様は写本の続きをしなくては。とにかく怪我もなく無事でよろしゅうございました」

 机の上には開きかけの本が置き放されている。エーベルは苦笑し、蓋をしたままだったインク瓶を手に取った。では、という挨拶と共に二人が消えると、また静寂に戻る。

 エーベルは剣をちらりと見やり、快楽と悪夢の混じった幻想から目を反らすために写本に没頭しようとした。



 帝都に照会したはずの衣装紋の回答が来たのは二日後だった。写本は思っていたより順調に進みそうで、エーベルが安堵していた矢先、ディーターからの呼び出しがきたのだ。

「天国鳥は唯一至高の方々の特別な紋であることを知らないとは言わせぬ。確かに出身とはいえ、今そなたが身につけることが出来るなどと何故考える、エーベル司祭。不敬であり不遜であり、傲慢であるとしか言いようがない」

 ディーターの言葉は相変わらず容赦が無かった。エーベルはじっと俯いてそれをやり過ごしている。還俗の話が本当にあるのかを確かめたかったが、再度照会を出せばまた同じ話の繰り返しになるだけと思われた。

「大変申し訳ないことをいたしました。なんと申し上げてよいのか……私は悪い夢でも見ていたのでございます」

 エーベルの言い訳にディーターが不機嫌な溜息をついた。何かをまだ言い足りないという表情であるが、エーベルが完全に恭順の姿勢をとっているためにそれ以上深く追求も出来ずにいらだっているのだ。

 だがそれも一瞬だった。ディーターはすぐに話題を変える。

「十周年の式典への正式な招致が来た。以前から話あった讃歌の一番手もエーベル司祭で確定している。歌目録は後ほど届けさせるが、当日まで励み、決して粗相遺漏のないように」

「無論しっかりと励みます。当日までに一度司教にも聞いていただきましてご指摘あればと考えております」

 うむ、とディーターが頷いてエーベルは久しぶりに晴れ晴れとした気持ちで笑った。式典に教会から皇帝へ沢山の祝福を送るが、讃歌はその中でも重要なうちの一つだ。その一番手ということは、教会の捧げる祝歌の開幕と第一声を担うということで、素晴らしい名誉であると言えた。

 話が初めて来た時、本当ですかとはしゃいでしまい、ディーターに威厳が足りないと叱られたが、それは本当にエーベルにとっては教会での生活に殆ど見いだせない喜びというものであった。

 歌は自分のたった一つの神の祝福であり、それを兄へ捧げることが出来るのかという高揚は、歌の練習をしているときも発声の訓練をしているときも身近にある。

「司祭の歌はメーリン教会の代表としても披露されるのだから、必ずよいものに仕上げるように」

 司教のいつもの念押しにエーベルは何度も頷く。そもそも失敗するなど考えたことはないし、まして兄の式典である。勿論です、と頷くエーベルに、ディーターは微かに笑った。それは普段のような峻厳としたものではなく、小春のような暖かさがあった。

 けれどそれはディーターの言葉ですぐに消える。

「それと、ロジオン公から寄進された剣は、式典の際に必ず兄帝へお渡しするように」

「……かしこまりました。私で潔斎を行っておりますので、終わりましたら目録へ登録いたします」

 言いながら何故ディーターが知っているのだろうとエーベルは不審に思った。剣があると聞いている、という言葉では無く、剣があるということを知っている口ぶりであった。けれどディーターに聞くことも出来ない。自分がまるであの剣に執着していて手放すことを惜しんでいるようだ。

 退出のために深く礼を取りながらエーベルは唇だけを歪めて笑う。執着というならそれは確かなことのように思われた。自分はあの剣に未練があり、兄へ渡すにはためらいを感じている。それは事実だ。そしてあの怪異のために兄へ献上したくないのだという理由をどうしても自分で納得出来ない。自分の胸がその度に欲しい欲しいと呻くのが聞こえる。

 自室へ戻る道すがらにエーベルは胸の前で聖印を切る。剣の蠱惑に勝てない。けれど恐怖にもまた勝てない。剣の声は常に耳元に張り付いていて甘い吐息を吹きかけてくるが、背にあの時の思考が白く飛ぶような快楽と苦痛が甦ると全身が冷える。

 神がいるのならすがりついて一切の判断を委ねてしまいたいとさえ思う。けれどエーベルは盲目的に神を信じることも出来ない。教会へ来た経緯も、この巨大な鳥籠から抜けられない焦りも、神を無条件に信じさせてくれない。不運を嘆くばかりでは仕方ないと考えもするが、やはり自分は不遇なのだと考えてしまう。

 兄の閨房には正妃を含めて三人の妃がいるが、そのいずれも娘で未だに後嗣に恵まれないことも。

 けれど……

 エーベルはもう一度聖印を切った。思考は同じところを巡るばかりで何の発展も連れてこない。紅剣の声はこうしている間にもエーベルに囁きかけてくる。それが鬱陶しくてたまらないのに恋しくて、もっと聞きたいなどと愚かなことを感じてしまう。

 紅剣はそのエーベルの迷いのまま、潔斎もせず破棄もせず、あの晩ヨルクが布にくるんだままの状態でクロゼットの奥へ放り込んで見ないようにしている。けれど、いずれ結論を出さなくてはならないことは理解していた。

 部屋へ戻るとヨルクがいたらしい。隠遁からすぐに現し、エーベルの足下にひざまづく。

「衣装の件、回答が来たと伺いました」

 エーベルは頷き、瑞鳳鳥準皇族紋で、と呟いた。ヨルクが長く溜息となり、余計なことを申し上げましたね、と肩をすくめた。エーベルは首を振る。工房からの照会を伝えただけの彼に咎があるとは思わなかった。

「まぁ、帝都ザクリアへゆけば陛下のほうでご用意あるかもしれませんし。陛下がエーベル様を皇族として還俗させる準備をされているのは確かですからね」

「……そうだな」

 エーベルは頷き、溜息になった。ヨルクが口にするのが真実なのか、それとも気休めなのか判断する材料がなかった。帝都からの情報は彼の下には殆ど届かない。魔導士たちが月に数度、彼ら個人で属しているという魔導の研究会で帝都へ戻る折り、噂などを仕入れてくるに過ぎない。

 調査を命じれば二人とも従うだろうが、その結果が思うような内容でなければ心がくじけてしまいそうだ。この十年をそれほど長く感じている。

 あるいは直接二人を通じて兄の意向を聞きたい気がしたが、病床からようやく公務席へ戻ったという兄に、負担をかけることはしたくなかった。エーベルはその選択肢を見なかったことにして、別の疑問を口にした。

「あの剣を献上品の目録へいれるようにと司教が。お前、剣のことを司教に報告したか?」

 いいえ、とヨルクが不思議そうな声を出して首を振る。あの夜のことを知っているのはあとはイェルクだけで、剣が献上目録に入っているかをロジオン公が確認できるのはもう少し先だから、こぼれたとするならイェルクと思われた。

 同じ結論に素早く達したらしいヨルクが、確認しておきましょうと言い、少し迷って付け加えた。

「しかしあの剣は……正直に言えば得体が知れなくて怖い。同志イェルクが言ったように、人でも獣でもないものの気配はありましたがそれが何であるのか分からないし……魔導は斑紋痕跡という、喩えるなら砂浜の風紋のような跡が残ります。個人によって紋跡は違うので、知人であれば誰のものであるかも判別できますが、けれどそれがない、つまり魔導ではない。とすると、我々の手には余ります。本当は捨ててしまいたいくらいですよ」

 その意見の極端なことにエーベルは苦笑したが、確かにイェルクも剣を手放すべきであると主張しており、二人とも異口同音、怖いと言った。

「しかし、兄上に献上するために寄進を受けたのに、私で握りつぶしてしまうのは……」

 エーベルが困惑のまま呟くと、ヨルクは肩をすくめた。

「まぁ滅茶苦茶なことを言うと思ってらっしゃるでしょうが、あの剣はあなたには良くない。どんな理由をつけても放り投げるべき案件です、あ、これはイェルクも同じ意見ですからね、念のため。あなたはあの剣を惜しいと思ってるのでしょうけど、あれはそもそも神職が持つものではありません。いっそ古物商にでも売り払って、新しい歌集でも買ってしまえと思います」

「無茶を言うな、ヨルク」

 ついにエーベルは苦笑になった。けれど魔導士は大抵意見を言わない。彼らは魔導の塔から申請をした主人の下に派遣され、主命には絶対服従を誓っている。そして主命以外のことに口を挟んで失敗すれば処分──即ち死という掟のために、滅多なことでは自分の判断をしない。判断は全て主人に任せ、自分は主命に従う犬などと同じであると言う。

 だから、軽い調子ではあったがヨルクが本気であることは分かった。イェルクも同じというからには、それもエーベルに伝えて良いと彼が言ったのだろう。

 二人が同じ事を主張することは、魔導士から主君への具申としては異例中の異例といってよかった。複数の魔導士がついているときは大抵意見を分けて主人に選ばせるのである。それが彼らなりの責任回避なのだ。

 けれどそうやって思考しようとすると反射的に耳元で剣が不満の声を上げるのが聞こえる。その声は女の嘆きのようにこちらを無意味に怯ませ、戸惑わせる。エーベルがじっと黙っていると、ヨルクはまぁ、とゆるく笑ったようだった。

「今すぐに決めて欲しい、ということではないのです。けれどあの剣は本当に良くない。説明出来ないのが申し訳ないですが、しかしご容赦願いたいのですよ、本当に」

「お前たちにも恐ろしいものがあるのだな」

 からかうようなエーベルの言葉にヨルクは簡素な溜息になった。それは不服よりは戸惑いのような吐息だった。

「イェルクも同じ事を言うでしょう、ま、剣を売れとは言わないかも知れませんが……しかし、我々の意見は同一で、賭して、賭してお願い申し上げる次第にて」

 軽い口調ではあるが、何度も繰り返すのはやはりそれが重大な事であるからだった。エーベルは曖昧に頷いた。剣の怒りと不満の呻きがするが、それが聞こえる時、同時に胸の奥が安堵のためにほころぶのを感じる。魔導士が未知を恐れるのとは違う意味で、自分も恐れている。剣が開く道、心と身体が浮遊するような強烈な絶対感と愉悦が自分の前に現実のものとして現れてしまったら自分はどうしたらいいのだろう。

 してはいけないのだということは分かるのに、教会という堅牢な檻を破って外へ行けるかも知れないと考えてしまう。けれど自分には耐えられないはずだ。人どころか鶏一羽絞めたこともなく、血を見れば反射的にすくんでしまうのだ。

 自分の手で命奪うことなど考えられない。ちらりとそれが脳裏をかすめるだけで微かに吐き気さえする。エーベルが思わず口元を押さえたのを見たヨルクが大丈夫ですかと気遣う。それにようやく頷いて、エーベルは長椅子へもたれた。剣のことを思うとひどく疲れるのだった。

「──もしくはいっそ、陛下に直接お渡ししますか? この剣は本当に見事です。陛下の御手にあれば神性よろしいかもしれませんし、それにこっそりお願い事もお話も出来ます」

「お願い……」

「ええ、還俗をお願いしたら如何かと」

 エーベルは瞬きをした。ヨルクの囁きは淡々としており、あまりに重大ゆえに却って素っ気なかった。

 急に動悸が跳ね上がったのに気付き、エーベルは胸辺りで手を組んだ──剣の美しいわざと祝賀のしるしが自分を押し込める封印をようやく解いてくれるかもしれない! その考えは自分の中で瞬く間に大きく膨らみ、喘ぐような吐息になってこぼれた。

「……そうだヨルク、よく言ってくれた。それがいい」

 兄はきっとこの剣を喜び、自分に微笑み、手を取ってもう現世うつしよへ戻ってこいと言ってくれるに違いなかった。もう長いこと兄に会っていない。大きな病を超えて今助けのいる時期に自分が側に戻って兄の力になれたらと思うと胸が震える。

 そのために差し出すなら紅剣も惜しくなかった。

「それでは、段取りは私がいたします。式典の前がよろしいでしょうね、剣を帯びて御居座みくらにあがる陛下をエーベル様もご覧になりたいでしょうから」

 エーベルは夢中で頷く。兄に最後にあったのはいつだったろう。一回り年齢が違う異母兄だが、体躯は堂々として上背があり、威厳備えた姿を思い出すだけで喜びが沸き、その手に紅剣があることを想像すると感動のあまりに涙がこみ上げてきそうになる。

 慌ててそれを飲み込んで、エーベルは頼む、と言った。ヨルクは一瞬沈黙し、もったいぶった仕草で承知いたしましたと呟いた。

「……ヨルク」

 不意にもう一つ低い声がして、エーベルは虚を突かれて瞬きをする。ヨルクの側にもう一つ長衣がうずくまり、溜息をついた。

「妙な提案を……司教様から目録へ剣を入れるように指示あったはずだ。エーベル様も、軽々しく御品みしなを左右されることはいかがなものかと」

ディーターの名にエーベルは怯み、怯んだことを振り払うように強い声を出した。

「いや、ヨルクの言うことが尤もであると思う。剣は私から直接兄上へお渡しすることにする」

 イェルクの返答は無い。気に入らないのだろうと分かっていたが、ディーターへ紅剣の寄進の件をこぼしたのも彼だろうという苛立ちが口調をやや強くさせる。

「それは私が決めたことだ。兄上にも久しいし、ご快癒のお喜びも申し上げたいのだ」

 お気持ちは分かりますが、とイェルクは溜息をついた。

「しかし剣は寄進物としてお預かりしているもの、それをエーベル様個人の手柄とすり替えてしまうのは筋が違います」

「同志イェルク、それでもエーベル様のたった一人の血を分けた兄君の慶事よごとであるのだし、あまり些細なことは気にしなくてもよいのではないだろうか?」

 イェルクは首を振る。その頑なさに焦れてエーベルはもういい、と吐き捨てて立ち上がった。

「剣のことを司教に話したのはお前だな、イェルク」

「はい、私です。卿に聞かれたのでお答えしました」

「何故話すんだ、選択肢が狭まると分かっているだろうに」

「話すな、という命令は受けませんでしたので」

 エーベルは耳朶が震えたのを感じた。お前、と言いかけたとき、不意にヨルクが堪えられないというように、低くゆるく笑い出したのが聞こえた。

「ああ全くだイェルク、言われていないことはしない、正しいな」

 ヨルク、と軽くたしなめてイェルクが自分におもてを向けた。

「我々はそうやって使うものなのです、エーベル様。不服はおありでしょうが、それが魔導士という道具ですから。いずれもっとお立場が変わればご理解も出来るでしょう。けれど今は違うお話です。どうか剣についてはご再考を」

「断る。目録に加えるための赤い剣を探し、供物に混ぜよ、と命じればそれをするのか?」

「私はお断りします。しかし、そこにそういったことに抵抗のない者がおりますので望みは叶うでしょう」

 ヨルクが皮肉げに喉を鳴らす。それは確かに肯定だった。もういい、とエーベルが吐き捨てるとイェルクは軽く頭を下げ、それと、と言った。

「そのディーター司教からの新しい命令をお伝えしに参りましたので、それを」

 エーベルは長い溜息を落とし、天を仰ぐ。あの口喧しい老人の今度はどんな難題なのかと思うと先ほどまで兄との再会に浮ついていた神経が急に気鬱に変わる。

「司教はなんと仰ったのだ、イェルク」

 だが聞きたくないで済む話でもない。

「最近のエーベル様の修業の身が入らないこと顕著であるとのことで、三ヶ月の自律房潔斎を」

 エーベルは長椅子から立ち上がり、そして座った。頭を抱える。自律房とは修道中の神職が籠もる小さな独房である。小さな寝台と机、そして祈りの道具を入れる作り付けの棚だけの部屋で三ヶ月間他人と話さず、ただひたすら祈りと思索にだけ時間を使えという命令だった。

「そんな──それに、式典の歌は……」

「お役目が重すぎるため免除くださるそうですが」

 一瞬呼吸が止まる。言葉が出ない。

 それから全身が急に冷えた気がしてエーベルはぶるりと身を震わせた。脳天から血が引いていくのがわかる。身体が冷えるのと同時に限界まで凍った戦慄おののきが込み上がってくる。

 剣を献上せよというのは、まだいい。イェルクが言うようにそれが確かに筋でもある。けれど還俗の件を差し置いても敬愛する兄への祝いさえ許されず、栄誉として務めるはずだった役目さえ奪われ、写本のことも、細やかな規礼のことも、何もかもが遠くから高波のようにまとまって返ってくる。

「私は──兄の、しかし、そんな」

 意味の無いことを喘ぎながら呟き、エーベルは自分の胸ぐらをつかんだ。眩暈がする。胸の中をどす黒い渦が巻いて、ひどい吐き気がした。

 ──憎い?

 誰かが聞いた気がした。それはどこかで聞いた嘲弄と似ていた気がしたが、それを詮議している余裕など無かった。

 ──憎い?

 再び声がした。エーベルは首を振った。そんな言葉一つで片付くような闇ではなかった。自分の心に押し込めてきた塵芥が凄まじい勢いで渦巻き、融け合い、急速に大きくなっていく。一寸先さえ見えないような、それは完全な闇の色だった。

 ──憎い?

 エーベルは再び首を振った。飢えた野犬が呻るような低い囀りが聞こえると思い、それが自分の喉から紡がれていることに気付く。気付くとそれが弾けるように溢れた。

 自分は笑っている。笑うしか出来ない。憎い? いや、憎くはない。そんなものでさえない。今すぐに奴を追い詰め、生きながら肉を削ぎ皮を剥ぎ、凄まじい苦痛と末期の苦悶の中で滅茶苦茶に八つ裂いて食いちぎってやる──

 エーベルは右手を差し上げる。そうしろ、と誰かが言う気がする。来い、と呟くと手の中にすとんと重量がかかった。

 魔導士たちが弾かれたようにそれぞれ壁まで飛び下がった。同志という低い声、何故という声、エーベルは剣を掴み、抜き放つ。

 剣が細い光を放ちながら鞘から現れた瞬間、胸に痺れるように熱い塊がわき上がってきたのを感じてエーベルは喘いだ。直感のまま剣を握って走り出そうとしたとき、背後から凄まじい殺気を感じて振り返り、剣の迸りのままに打ち払う。

 繊維をさく音がして長衣が翻り、それは壁際まで下がった。同じような気配にエーベルは背後を見ないまま、脇から剣を突き出す。すると呼吸を飲む音がして、やはり衣擦れが飛びすさるのが分かった。

同志カムラダ!」

「分かっている、──」

 衣擦れの音だけが続く。敵はどうやら二人で、無言のうちに何かの意思疎通をしているらしい。近い方からとエーベルは床を蹴って剣を繰り出すが、長衣もまた自分の剣を必死でかわし、壁際を駆けて書架の最上段あたりまで一息に飛び上がった。

 もう一人、とエーベルは相手を探すが一瞬見つけられない。書架にいた一人が飛び降りて短剣を抜き、低く身構える。それに向かって打ちかかろうとしたとき、剣を握る右手を誰かが叩き付けた。手の甲が痺れ、剣が落ちる。

 ──落ちた、その瞬間に汗がどっと背を流れ落ちるのが分かった。エーベルは喘いだ。目線で探した剣が蹴り飛ばされて壁際まで転がる。目の前に暗い色の長衣がある。

 あ、と声をあげたとき、それが倒れかけた自分を優しく抱きとめるのが分かった。銀の仮面が見える。名を呼ぼうとしたとき、首が打たれ、目の前がじんと暗くなった。

「そこまでに、同志」

 そんな声が聞こえ、それを最後にエーベルの意識は無へ転がり落ちた。



 どれくらい眠っていたのかエーベルには分からなかった。目覚めのおぼろな視界の中でやっと認識できたのは天井が低いな、ということと喉が渇いたということだけだった。

 のろのろと身体を起こすと全ての関節がきしむようなひどい痛みがあり、ついで眩暈があった。寝台に座って額を押さえる。記憶があやふやで上手くつながらない。

 ──確か、衣装の模様の件で司教から呼び出されて、ヨルクから謝罪があって、赤い剣を探して目録と合わせろと指示をして、それから……

 そこまできてようやく自律房潔斎のことが思い出されてエーベルは周囲を見回した。天井が低いと思ったのも確かで、ここは彼の部屋ではなかった。小さな作り付けの机と棚、天井から下がるランプを掛けるための吊り環。机の上に本がある。手に取るとそれは彼の写本だった。再開の目印にかしおりがはさまれている。

 エーベルは溜息になった。目録の通りに剣を探せという命令を実際にしたかどうかも思い出せないが、それを最後に気付けばこの自律房に放り込まれているということだ。ここに自分で来たという記憶は無いのだが、ディーターの命令は確かに三ヶ月の自律房潔斎であった。つまり、写本しかすることがない。

「ヨルク……イェルク? いないのか?」

 そっと呼んでみるが返答は無い。自律房の間、他人と口をきくことも本来禁じられている。きっと魔導士たちは自分の側を離れているのだ。

 エーベルは机の上の本をそっと撫でる。書き慣れたペン、見覚えのあるインク壺、使い古した音律事典に歌集。歌集には記念の式典で歌うはずだった神への讃歌に折り目と抑揚や歌い回しを自分の字が赤く補記している。

 不意に涙が出た。兄との再会と、栄誉ある役目を心待ちにしていたのに、おそらく自分はこの房から出られないまま式典も何もかも見送らなくてはいけない。喪失感が肩を下げる。

 剣も見当たらないが、憑き物が落ちたように今は気にならなかった。以前耳元でしきりと何かを囁いていた薄暗い声も既に無い。剣は魔導士たちがどうにか処分したのかも知れないが、それに対する興味も執着も、既に心のどこにも見当たらなかった。

 魔導士たちは自分のこの境地を喜ぶだろう。エーベルは口元を寂しくほころばせる。彼らは剣を手放せと終始一貫して主張しており、エーベルがそれに頷くことを望んでいたはずだった。

 思うとおりになって喜んでいるのだろうか、彼らは。魔導士の使い方にはくせがあります、いずれ分かる──そんなことを言った頬を思い切り殴ってやれば良かった。

 エーベルは溜息になる。今が何日で、兄の式典まであとどれくらい残っているかも分からない。写本は意地でも完成させなくてはならないし、歌は……式典での歌は出来ないかも知れないが、鍛錬はしておかなくては声が出なくなってしまう。

 高い位置の窓から差し込む光はまだ強く白い。午前中なのだ。

 写本を一旦押しやり、エーベルは歌音律の事典を開いた。音階と声調の一覧に従って一つ一つ確かめるように喉をあけていく。毎日の訓練だけがこの声と歌の技術を確立する基本なのだ。高音は訓練が育て、低音は訓練が維持する。なめらかに音をつなげて表現する祈りと恩寵。

 赦しを乞うようにエーベルは歌う。無名神は人の祈りを聞き、そこに籠もる真実を見、そして赦す神だ。自分の声が紡ぎ出す音楽と流麗な世界に他人は一瞬神を聞く気がするという。歌い手の自分にはそんなものは訪れないが、唇が慣れた動きで音律をのせるとき、自分の中が空洞になる感覚はあった。

 一つの讃歌が終わり、エーベルは水を含む。声は空気の塊を腹あたりで押さえるようにして出すから喉にひどい負担と感じることはあまりないが、湿らせておかなくては次が出ない。

 夕方まで歌唱に時間を使い、夕飯が済むと写本に入る。灯油は専用の瓶を出せばいくらでももらえたし、細かな神経を使う仕事は夜のほうがはかどった。

 食事を食堂で同じ自律房潔斎の修道僧や司祭たちととり、また部屋に戻って日没までは歌唱とし、食事を挟んで写本と向き合うのが日課となった。食事は味のない押麦の牛乳粥と蜂蜜が基本で、三日に一度大豆の煮たものと魚か肉がついた。粗末なものだがこれも修行の一環であるらしかった。

 そんな生活が身体に馴染む頃、エーベルは全てを考えることをやめた。どうあがいてもここから出られないと理解は出来たし、兄のことも還俗のことも、式典の歌のことも考えれば辛く苦しいだけだったのだ。

 日々は淡々と過ぎていく。夏が来たのは蝉の声で知り、秋となったのはそれが消えたことで知った。

 写本は既に清書を終え、提出してある。戻ってこないから今度は合格したのだろう。今は歌の注釈と抑揚の本を書いている。

 食事の時に場にいる司祭が聖句を唱えるのが決まりだが、エーベルを含めて四名しかいないため頻繁に回ってきた。他の司祭の聖句を書き留め、自分の時は歌った。歌は確かに自分の中にもあった神への祈りかもしれなかった。

 秋も進んできた頃、昼の食前の祈りのためにエーベルは食堂の教壇へ立った。

「祝福歌、来迎篇第二章六節」

 神の降臨を願い、汚濁を嘆きながらも清浄へ向かおうとする人々の群れと、それを率いる聖導者の問答歌である。先日五節を歌ったので、この日はその続きであった。

 ふとエーベルは食堂の外を見る。入り口あたりのカーテンが風もなく揺れた気がしたのだ。けれど人の姿は見えない。当たり前かと気を直し、最初の音階を口に乗せた。

 この瞬間、やはり声は空気を切り開いていく一矢であった。するすると高音の一番頂上まで音程をのせ、微かに震わせて嘆きを表現し、また低音までなめらかに下げて人の営みを歌う。メーリン教会の儀式や礼典で歌ってきたときのような追唱も荘厳な金管の伴奏も無いが、声は生まれつきの楽器であった。

 そう長くも無い節を歌い終えてエーベルは聖印を切る。すると食堂の全員が同じ仕草して、いつものように食事が始まった。エーベルも自席へ戻ろうと歩き出すが、その裾が何かに絡まったように引かれてエーベルは振り返った。

 足下にうずくまる暗い色の長衣があった。エーベルは瞠目する。一瞬名前が出てこない。

「お久しぶりです、エーベル様。ご息災で何よりです」

 声がしてようやくそれがヨルクだったことに気付く。何かを答えようとしてエーベルは唇を開きかけ、潔斎中だったことを思い出して軽く頷いた。ヨルクは仮面の下で笑ったようだった。こちらへ、と手振りで案内されるままついていく。

 ヨルクは勝手を分かっているのか迷うこと無く回廊を回り、自律房の裏庭へ踏み入っていく。彼の長衣の裾に落ち葉が絡まりついてかさかさ、乾いた音を立てた。

 かなり奥まで来た頃、ヨルクは振り返り、エーベルの足下へ平伏した。ご無沙汰しております、と言う声がいつも聞いていたとおりに明るく暖かい。エーベルがどうしていいのか分からずに立ち尽くしているのに気付いたのか、どうぞ、と柔らかく言った。

「どうぞ言葉の禁もほどいていただいて。潔斎は明けとなりましたのでお気楽に」

 ヨルクの言葉にエーベルは曖昧に頷いた。潔斎明けはこの自律房を監理している寮長か、もしくは上位の決裁権者であるディーター司教から告げられるはずだった。それにヨルクが一人で来るというのはいささか不思議でもある。彼の主人は自分で、長く離れていたのは理解するとしても、潔斎明けをる資格はないはずだ。それにイェルクはどうしたのだろう。

「……ま、長くお側にいませんでしたからね、そんな疑い千乗って目で見ないでくださいよ、エーベル様。正確には明けていないけど、明けることになったってことです」

 ヨルクは膝をついたままでエーベルの背後に向かってそうですよね、と言った。エーベルは振り返る。枯れ葉を踏む音がして、木々の向こうから歩いてくる男に視線をやった。

「……あ……」

 エーベルは喘いだ。もう長いこと会っていないにもかかわらず、それが誰だかすぐに分かった。ぎゅっと胸がしめつけられるように痛んだ。悲しくなどない。あまりに強いために悲鳴をあげてしまいそうな歓喜なのだ。

「兄上……」

 呟いた声が潤んでいる。泣いているのかと思った瞬間に堰を切ったように涙が溢れた。エーベルは慌てて指でそれをぬぐうが、あまりに大量にこぼれてきて、こそげとることは難しかった。

「エーベル久しぶりに会うな。元気そうだ」

 はい、と頷いたつもりなのに声が形にならない。兄は苦笑し、エーベルの髪を丁寧になでてくれる。そういえば自分が教会へ来たのは十才の頃で、まだ子供だった自分に対する慰撫しか兄は知らないのだ。

 兄上も、と言いたいのに唇が上手く動いてくれない。涙もとまる気配が無い。子供のように泣きながら頷くしか出来なかった。

「エーベル、歌はとても良かった。式典で聞けなかったのが残念だが仕方が無いな」

 先ほどの歌をどこからか兄が聞いていたのかと思うとエーベルは震える。もっと丁寧に歌えば良かったと思うし、あれが普段の自分の一番よいものだということも言いたかったが、やはり涙にまぎれて言葉がつらい。だから単に首を振った。何をどう言えば自分の気持ちが伝わるか、考えてもまとまらなかった。

「兄上は、どうして、ここに、」

 途切れ途切れに紡ぐ言葉に皇帝アルノー四世は微笑んだ。

聖都ミシユアへの巡行の戻りでな。何にせよ、息災で安心した」

 はい、とエーベルは頷く。自分は兄にこれほど会いたかったのだ話をしたかったのだと思う。神の言葉も修行の日々も、結局この気持ちを胸から完全に消すことが出来なかった。

 兄の一言が、一呼吸が、自分に向けられていると思うだけで頭の中が白く塗りつぶされてしまいそうだ。

「私は、兄上にお会いしたかった、兄上に……」

 あとは声に出来ない。エーベルがそんな調子であることに皇帝は遂に苦笑した。

「泣くなエーベル。還俗の話も進んでいる。病んでからというもの私は議会とうまく折り合わないのだ、お前はきっと私の役に立ってくれるだろうな」

「はい、勿論、兄上のためなら何でもします」

 頷いていると頭が撫でられる。エーベルは泣きながらどうにか笑おうとした。

 不意にみぞおちに衝撃がきた。何が起こったのかよく分からない。胃が裏返るように締まり、喉を胃液が駆け上がってきてエーベルは兄にすがりつくようにして座り込み、横倒しになった。

 吐き気と眩暈を堪えていると、兄が溜息になったのが聞こえた。エーベルは必死で視線をあげて兄を見上げる。涙と眩暈で視界はかすんでよく分からないが、苦笑しているらしかった。

「お前の言うとおりだヨルク。教会も随分生真面目にしつけてくれたものだな」

「ディーター司教に腹芸などできましょうや? あのご老人はお役目を果たしているだけですからね」

 何の話をしているのかエーベルには理解できなかった。ただ腹にくらった一撃がひどく重く、身体を動かすにもままならない。呻いていると身体が起こされたのが分かった。喘ぎながら見ると、ヨルクが彼を抱いているのだった。ヨルク、と名を呼びながら長衣を掴む。彼をなだめるようにヨルクはその手を小さくさすり、殿下、と言った。

「ちょっと失礼しますね」

「……え?」

 ふっと身体から体重が消えたように感じる。抱き上げられたのだと気付いて困惑に兄を見るが、淡く微笑んでいるだけでヨルクの行動に口を挟むでもなかった。

 ヨルクが迷わずに裏庭の更に奥へ行き、ほんの少し奥まったところで足を止めた。エーベルはヨルクの足下を見る。

 黒々とした深い闇が四角くぽかりとあいている。ほんの僅か縁に石組みが崩れたような痕跡があるから井戸、今は使っていない涸れ井戸だ。

 何をするつもりなのかすぐに分かった。エーベルはヨルクの長衣に必死ですがりつこうとするが、その指を丁寧に剥がしてヨルクは彼を井戸へ突き落とした。

 井戸の壁に身をうちながらエーベルは下まで落ちた。深さは大人が二人半ほどだが、自分で上へあがることができるような手がかりは何もなさそうだった。石組みはどうやら上の方だけで、下はただの土だ。底はやや湿っているが、水はなかった。

 大声を上げようとしても腹の痛みが強くておぼつかない。枯れ草の音がして、ほんの数枚の落ち葉がはらはらとこぼれてエーベルの顔にかかった。

「何でもしてくれるなら、私のために死ねるな、エーベル」

 兄の声がする。兄上、と呻くと皇帝は笑ったようだった。

「私はどうやら子が持てない──これ以上は望めないと医者が言うのだ。議会は長女テレンティアにお前をめあわせて皇太子として立てろと言っている」

 兄の声は甘く枯れて、まるで子供の頃の他愛ない悪戯を叱られているようだった。けれど今、兄の言葉はどうやら永訣を告げているらしい。呆然の中でもそれくらいなら分かる。

 井戸の下まで鬱々と届く声は囁くようにさやかだ。どうして、と呟くとまた涙が出た。胸の中を苦く青い怒りと、それより強く暗い闇色の絶望が交互に回る。

「そんなことが受け入れられるはずがない。あの愛しい娘をお前に何故やらなくていけないのだ──卑しい女の血が入ると思うとぞっとする」

「兄上……」

 母の顔をエーベルは思い出そうとする。子守歌も。けれど今自分に起こっている出来事に塗りつぶされてすぐに消えてしまう。

「お前にやるくらいなら大公家から婿を入れる。皇太子などいらぬ、俺の死んだ後のことなど知ったことか──ヨルク」

 はい、という声がする。

「井戸に蓋をし、上がれないようにせよ。どれくらい持つか?」

「そうですね……潔斎でこの四ヶ月ろくなものを食べていないし、今日は昼飯抜きですから、ま、十日も要らないでしょう」

 死、という言葉は語られない。だが明らかにその話だった。エーベルは助けて下さい、と井戸の土壁を叩いて声を上げる。

「私は兄上のお邪魔になるようなことはしません、絶対にしません、皇女殿下との婚姻も立太子もお断りいたします、一生教会で結構です、お願いします、助けてください」

 返答はない。時間だなと声がして、枯れ葉を踏む足音が一つ、遠くなる。兄上、と怒鳴った声が井戸の中だけでにぶく反響して消えていくようだった。

 急に光が消え、闇になった。井戸をヨルクが塞いでいるのだ。

「ヨルク──助けてくれ、頼む」

 急いで口にすると、細く蓋があいて僅かに光が差し込む。すみませんね、と言う声は今まで聞いていたのと同じくらいに明るくて軽かった。

「私の主は陛下なのです。あなたはご自分だと思っていたようだが、それは違う。我々は主命に叛くわけにはいかない。どうぞご理解くださいますように──あ、そうだ」

 何かをヨルクが井戸へ放り込む。エーベルに直接当たらないように配慮したらしく、壁に当たって転がり落ちたそれをエーベルは拾い上げて首を振った。讃歌集だった。

「歌え犠牲の羊、でしたっけね。それではご息災で、殿下」

「待て、ヨルク!」

 お断りしますと声が聞こえ、再び世界は闇に変わった。エーベルは土を叩き、歌集をかかえて座り込んだ。



 いつの前にか眠ってしまったようだった。エーベルは薄く目を開けて、半身を起こした。井戸の中は座り込む程度の広さはあるが、足を伸ばして横になるほどでもない。窮屈な姿勢と土の硬さが身体を重くしている。

 喉が渇いた。エーベルは唇を噛む。気配程度の湿り気はあるが、水は探すことが出来なかった。放り出されていた歌集を拾い、溜息になる。

 歌え犠牲の羊、とヨルクは言った。自分は兄と皇家の犠牲としてまず自分を教会へ追いやり、そして情勢が決定的になった後にためらいなく捨てた。兄のあたたかな気持ちだけを頼りに十年を教会で過ごしてきたのに。

 それを考えると目の前が暗くなるほどの怒り、苦く激しい眩暈に襲われる。自分は兄の何に期待をし、何を見てきたのだろう。

 答えは分かっている。自分の見たいものしか見なかったのだ。

「歌え羊、か」

 エーベルは頬を歪めて笑おうとし、溜息になった。歌集を開き、闇になれた目で歌詞を読む。讃歌は神を讃え、救いを求め、赦しを乞う。エーベルは目を閉じた。

「天の神よ、名無き神よ、我ら犠羊の歌を捧げるがゆえに我らの罪を赦されよ」

 唇を震わせたとき、口をついたのは歌だった。囁くようにかすれた声が歌い、エーベルは涙をぬぐう。井戸の中は狭く歌は土壁に吸われていくが、微かに響くようでもあった。大聖堂で歌うはずだった歌をエーベルは紡ぐ。

 最初は小さく。次第に大きく。自分の声は朗々と響き、開闢の矢となって空間を支配する力だった。歌は自分の立場を教会に作ってくれた。今讃歌とするのは意地だ。兄のために死ねと言われた犠羊が歌う、最後の歌。

 涙が溢れてくる。憎いか、と声がする気がしたが、エーベルは首を振った。兄も、兄を追い詰めた議会も、憎くはなかった。哀れというなら自分が哀れで、そして兄も同じだった。

 あの方も犠羊なのだとエーベルは思う。自分は兄の羊、兄は国家の羊だ。どうやら自分が先に闇に食われるが、兄の行く道はきっと暗く壮絶な苦悶、もしくは議会が躍起になって皇太子候補選定の闘争を繰り広げるのを嘲弄しながら死へ歩く苦役であることはもう見える気がした。

「神よ我ら羊の祈りを聞き届けよ」

 エーベルは歌う。

「罪には赦しを、悲しみには安らぎを、苦しみには喜びを」

 一段音階があがる。この先を歌えるのはメーリン教会ではエーベル一人だ。高音階は訓練が鍛え、低音階は訓練が維持する。その毎日の積み重ねだけが歌の背骨を支えてくれる。

「我ら羊の歌を聞き届けよ」

 エーベルが更に一段高く声をあげようとしたとき、それが聞こえたように月の光が一条射し込んだ。闇になれた目にそれはひどく眩しく、痛みさえ感じた。

「──ご無事ですね」

 低い声がした。エーベルは立ち上がった。見上げると風に揺れる木々と、その向こう側の天空の星と月が見えた。では、井戸が開いたのだ。

 一瞬ヨルクが戻ってきたのかと思ったが、それはすぐに自分で否定する。兄がヨルクの主である以上、ここから救い出せとは命じてくれないはずだった。

 縄が下ろされる。どうぞ、という声がしてエーベルは歌集を井戸の外へ放り投げ、縄を掴んだ。このところの修行と粗食で確かに体力は落ちていて、どうにか上がった頃は呼吸の乱れがひどく、腕がだるい。

 差し出された水を受け取り、エーベルはそれを飲んだ。水が甘いと思ったのは初めてのことかも知れなかった。ありがとう、と呟くと仮面の下でそっと笑った気配がした。

「歌が聞こえました。美しい歌が」

 イェルクが低く呟いた。その声は静かで、夜の中に溶けるほど密やかだった。

「あなたの歌は素晴らしい。美しく、魂揺すぶる歌だ」

 エーベルはありがとう、と再度言った。言葉はヨルクに比べて短いが、イェルクの声には真実が宿っているような気がした。

「イェルク、しかし、兄上のことはいいのか」

 ヨルクが兄に逆らえないのなら彼も同じはずだった。いいえ、ともう一人の魔導士は首を振った。

「私の主人は陛下ではありませんので、大丈夫です」

 一瞬あっけにとられ、エーベルは瞬きをした。確かに意表を突かれたのだった。二人ともが自分では無く他の者に仕えていたのだという事実は多少皮肉にも見えてエーベルは苦笑になった。

「……ヨルクもエーベル様と同じように自分たちが同じ主に仕えていると考えていたので多少便乗はしましたが……ヨルクの主は陛下なのですね」

 ああ、とエーベルは頷く。イェルクは井戸口を手早く埋め、こちらへと手招いた。自律房のある寮舎の裏を回り込み、待っていたらしい小さな馬車へあがる。中はほどよく暖められており、着替えと簡単な食事と水があった。

 イェルクが御者へ出立を指示する。どこへとは言わなかったからあらかじめ言い含めてあるのだろう。どうぞ、と暖かい布が差し出され、エーベルは顔を埋めて長い吐息を落とした。

「少しお話をしましょう、エーベル様。陛下が何故あなたを脅威の無い行方不明にしたかったかはお話がありましたか?」

「兄は……子供がもう出来ないと、姪と私が婚姻するのは絶対に嫌だと、そう」

 イェルクは軽く頷き、陛下は、と言った。

「もうお子様を作ることが出来ない。けれど後嗣がいない。そこで議会はあなたを還俗させて皇太子にと陛下へ通達し、陛下は一度拒否をされました。けれど議会は再度同じ事を要求し、陛下は飲まざるをえなくなりました──一年ほど前のことです」

 そうか、とエーベルは頷いた。

「ヨルクは暗殺者だったのだろうか……」

 エーベルの呟きにイェルクは首を振った。

「そうならば私にまず話を持ちかけるはずですし、あなたがこれほど長らえるはずもありません。けれど議会が強引にあなたを還俗させてしまうことを防ぎ、陛下の手の内へあなたを戻すために陛下に直接お願いするように誘導してはおりましたね」

 エーベルはああ、と頷いた。そんなことを確かに言われたことがあったのだ。ヨルクは多弁で隠れた意図を掴み出すのには多少骨だったが、けれど兄との絆を結ぼうとしていた……

「ならばお前の主は誰だイェルク? ……ディーター司教か?」

 ヨルクとイェルクの主が違えば二人の意図は同じように見せかけながら別の方向を向いているはずだった。イェルクがディーターに聞かれたからという理由で情報を流していたことから考えるとそれが一番うなずける話ではある。

 イェルクは曖昧に頷いた。

「しかし、多少違います。私の主は議会です。そして司教はメーリンでの議会派の長老の一人です。司教はあなたに司祭として教会に恭順していると振る舞って欲しかったようですが。還俗に未練があるのだと皇統派に知られてしまうと面倒ですからね。しかし剣を譲って還俗をねだるなどとヨルクが入れ知恵したものですから、結局自律房へ放り込むしかありませんでした」

 エーベルは溜息になった。自分が何も知らないところで自分を中核にした権力の引き合いが確かにあったということであった。そしてヨルク──兄の囁きに頷けば自分は帝都での式典の前に命を絶たれていたのだろう。そのため一度は讃歌の栄誉を与えながら断念させたのだ。

 そしてふとエーベルは瞬きした。そのことをすっかり忘れていたのだが、紅剣はどうしたのだろう。自分の記憶もかなり曖昧で、実際自律房へいく直前のことは分からない。

 イェルクは複雑そうな溜息になった。

「剣は陛下へお渡ししました。あの剣は良くない、と申し上げたかと思いますが……ヨルクも同じ意見でした。ですから陛下へすぐに献上し、陛下は皇妃をお手討ちされましたので式典はなくなり、現在陛下は議会から御自裁を迫られている身です」

 自裁とは身分高い者の自決である。まさか、とエーベルはあやふやに笑った。昼間彼の前に現れて微笑んでいたのは確かに兄で、声も仕草も記憶に残る全てが本人だと確信できる。そう言うと、イェルクは首を振った。

「空間移動は可能です。ヨルクが運んできたのでしょう。陛下にお仕えしていることは陛下が御自裁の決意を待たれているとはいえ事実ですので、命じられればするしかない」

「……ヨルクは死ぬのだろうか?」

 分かりませんとイェルクは言い、しかし、と続けた。

「彼は論理のすり抜けが上手い。多弁の中に沢山の陥穽があり、それをもって自身の守りとしています。故におそらくは無事なのかと。会えたら礼を言ってやってください。あなたを救ったのはヨルクですから」

「お前ではなく?」

 はい、とイェルクは頷いた。仮面で表情は見えなくとも、彼が今嬉しそうに微笑んでいることは何故か確信が出来た。

「ヨルクは歌の暗示をかけていったはずです。この歌集からは彼の呪術の痕跡がする。そして陛下の殺せという言葉も避け、私にあなたを探せばいいと笑って魔導の塔へ戻ってゆきました」

 歌え犠羊。エーベルは頷く。暗示のことは分からないが、エーベルの歌を聞きつけてイェルクが来た──主人に仕えながらその主人を裏切り、尚且つ主人の命令に従うということをヨルクはやってのけたということなのだ。

 何故私を、と呟くとイェルクは首を振った。それは彼にも分からないことなのだった。だからエーベルは別のことを口にする。

「兄上は……御自裁されるのだろうか」

 はい、と簡単な答えがあった。

「暗示をかけるように魔導の塔へ要請が来ています。ですからそれは不可避です。議会の決めたことに陛下は逆らうことが出来ない。皇妃を剣でお手討ちあったとき、そう決まってしまいました」

 剣はよくない、と魔導士たちの言葉が甦ってきて、エーベルはぶるりと震えた。自分を笑った青年は兄も笑ったのだろうか。何か嘲弄の言葉を浴びせたのだろうか。自分の中に普段見えない闇の獣がいて、エーベルが神の善意を学ぶうちに堅牢に蓋をしていたそれを、兄は開けてしまったのだろうか……

 臆病だから、と笑う青年の声が耳奥でこだました。

「私は臆病なだけなのだ……きっと兄は、陛下はそうではなかったのだな……」

 自分の声は泣き出しそうに曇っていて、細く消えかけていた。肩をそっとイェルクが抱くのが分かった。それは慰めの仕草だとすぐに分かった。

「あなたはご自分を臆病だと仰る。しかし、それでいいのだと私は思います。帝位について後、あなたは議会との争いに倦むでしょうが、あなたの最大の味方は時間です。どうか長らえることをまず、お心にとめて良君となってください」

「お前は、議会に仕えているのではないのか」

 エーベルの言葉にイェルクはそっと吐息で笑ったようだった。大丈夫ですと言われているのだった。魔導士の言葉にも行動にも沢山の陥穽がある、使い方には癖があるのですということなのだろう──例えば、ヨルクが兄に、自分を殺せという命令をさせなかったことなども。

 エーベルは小さくありがとうと呟き、イェルクの肩に顔を埋めて泣いた。馬車はゆっくりとメーリンの街を抜け、帝都へ向かう街道へ乗る。この道の先にエーベルの即位と栄光が待っているはずであった。



 即位の宣言とした皇帝アルノー四世の国葬が終わって一息つくと既に新年となっていた。新年の祝いは先帝の喪が明けぬとして行わないこととし、その代わりに神への祈願の礼典を設けることを、神職から還俗して即位した新帝は指示した。

 教会は喜んでこれに従い、教会の権威が必要以上に高まるのでは無いかと警戒しつつ議会も否定する材料がなく賛同に至る。

 新帝は誰の意見もよく聞き、中庸に努め、あまり主張をしなかった。議会はこれを良しとして長く神職にあって政治に疎い新帝に優秀な教師をつけ、帝王学を施した。学ぶべき時期である、と新帝は頷いてひたすら書物と会議に埋もれている毎日だが、礼典には是非と望んで今、時間を待っているところであった。

「──剣はヴァリエーンの大使を通じてあちらに送りました」

 魔導士が隠遁したまま囁くのに新帝は頷き、苦笑した。

「あれは良くないと言ったのに、他国に押しつけるのだな」

 姿が見えないが魔導士は大抵近くにいる。耳元で小さな笑い声がして、だって、と続けた。

「遠くへ投げておけば戻ってくるにしても時間はかなりかかるわけでして。それに運良くあちらの王族とか不穏分子とかに渡って係争になればなったで北部の防衛が少し楽になるでしょ?」

 ヨルク、と新帝は再び苦笑する。侍従が膝をついて刻限を告げる。まだ若い新帝が立ち上がり、歌集を手に歩いて行く。

「ああ、そういえば」

 隠遁したままの魔導士が楽しそうな声で囁く。

「私が陛下をお助けした理由を知りたがっていたと、イェルクから聞いたので──私はね、あなたの歌が好きなんですよ。くだらないことですがね。あなたの歌は美しい。イェルクが聞いた井戸の底からの讃歌を私も聞きたかった」

「では、聞いているがいいさ」

 新帝は歌集の表紙をぽんと叩く。

「今日と同じ歌だ──高音が綺麗にでるといいのだが」

「毎日鍛錬しているから大丈夫ですよ、きっと。イェルクも聞いているはずだ、喜ぶでしょうね」

 そうだなと微笑み、新帝は祠祭専用の回廊へと進んでいく。

 やがて礼典の開始の合図の代わりに高い声が歌い始める。

「神よ我ら羊の祈りを聞き届けよ。罪には赦しを、悲しみには安らぎを、苦しみには喜びを、そして人の祈りには安息を」

 柔らかな光降る聖堂で、犠羊たちの長は歌う。

 祈りを。

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紅剣物語 -Basshrune chronicle- 石井鶫子 @toriko_syobonnovels

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