夢の檻
公暦一〇四一年、冬。それは雑多でありふれた陳情や請願を綴る沢山の書類の中に混ざって提出された。
溢れるほど届く書面をまずふるいにかける役目を負っていた官吏は、最初にそれを目にして首をかしげた。
ひどく斬新で画期的な何かが書かれている気がするのに、実体が何であるのかが分からない。ただ、それは今まで自分が知識として蓄えているどんな現象でもなく、全く新しいのだということだけは理解した。
彼はそれを上司に委ねた。上司もまた内容を読んで難しい溜息になった。これは新しい。新しい、ということは分かるのだが何を言いたいのかさっぱりわからないし、どう利用してどう至便であるのかの実像がぼやけすぎていて難しい。
けれどやはり感触としては最初に発見した官吏と同じく斬新の一言であった。だから彼は更にその上の上司へ判断を依頼した。これをどう処するべきなのか。うち捨てておくのか、それとも。
それはただの請願ではないと官吏たちは理解していた。研究費という名目で金を国から少しでも掠め取ろうとする連中は珍しくなく、そんなものの対処なら慣れているのだが、これには金額や研究のことは何一つ書かれていない。
けれど研究を重ねることで劇的に世界が変わるであろうと結ばれたそれを、難解で実像が曖昧でありながらもどうにか理解しようと官吏たちは噂し、競って読み、一様に内容に首をひねりながらも呟くのだった。
とにかく新しい。何かが変わる。
請願書の噂は宮廷を凄まじい速さで飲み込み、期待が後発のさざなみのように広がりきった頃、必然の流れとして実験が行われた。請願の著者である女も呼ばれたが、実験の実施者として立ったのは一人の男だった。彼は歌が上手く、音程の範囲が広かった。
女が指導するままに意味の分からない歌のような短い旋律を男が歌い終えた瞬間、男の指先にちかりと火花が散り、そこにあらかじめ置かれた蝋燭がぽんと炎の発生の音を立てて明るく輝き始めた。
一瞬恐ろしいほどの沈黙が下りた。それは全員が炎を望みながらもきっとそんな魔術はおこらないのだとどこかでたかを括っていたことを、根底から覆す出来事だったのだ。
呆然と全員が揺らめく小さな光源を見つめていた時、実験者だった男が無言で著者の女に歩み寄り、手を差し出した。女はその手を握り返し、ありがとうございます、と細い声で言った。
男は私こそ、と静かに答えた。
「この実験に余を参加させてもらえたことを心より喜んでいる。そなたに新しい名を与える──トアン・チャシティナ、今よりそう名乗るがいい」
小さな炎という意味の古い言葉を男は呟いた。女は表情無く男の言葉を聞いていたが、新しい名にようやく微笑んだ。
「ありがとうございます、陛下」
男は頷き返し、女の手の甲に軽く口付けして深い海の色をしたマントを掴む。慣れた仕草で肩に回すと皇帝紋である天国鳥が黒々と染め抜かれた模様が背に広がり、自然と観衆から皇帝陛下万歳の唱和が起こった。
男は軽く手をあげて応え、女に何かを囁いた。女は丁寧に腰をおり、皇帝の後を追って皇族専用の通路の奥へ消えていった。
この年『至便科学に関する上申書』は正式にシタルキア皇国において採用され、研究のために白く輝く塔の建設が始まった。キスティ二世はこの至便科学と呼ばれるものに魔導と名を与え、研究を命じたとされている。
これが魔導革命と呼ばれている一連の出来事の初端であり、魔導の時代の静かな幕開けであった。
──そして十年が流れた。
『おそらのほしは なにみてる?
すやすやねてる あのこをみてる
おそらのおひさま なにしてる?
ぽかぽかあのこを あっためる
おそらのことりは なんでなく?
かあさんかあさんと よんでなく』
小屋へ近づいていくと、いつもの子守唄が聞こえた。声の印象で今日の調子が分かるのにラスティスはつい苦笑になる。
今日はきっと、悪くない。童謡の優しい音程が、さほど飛び跳ねないまま安穏に日常を歌っているからだ。
母親が子供に歌う、優しくぬるい愛の歌。ラスティスは足を止めて僅かな時間、歌に聞き入る。決して上手い歌ではない。節をつけて呟くような小さな小さな子守唄だ。
けれど節をつけるのがこの歌は簡単で、子供の紐跳びやら石蹴りやらにも歌われる。田舎道の端々で村の子供達が集まってじゃれあっているとき、少女達が綺麗な小石や押し花を交換するとき、その折々に歌はある。どんな時にも優しく、暖かく。
それに混じって糸紬車の回る軋みもある。ではまた糸をまわしているのだ。指先を痛くするからやめなさいと何度叱ってみても、リベルはそれをやめようとしない。きっとくるくる回る糸紬が楽しいのだろう。
これは明日にでも指抜きを買ってこないといけないとラスティスはゆるい苦笑になる。そうでなければリベルは加減というものを知らない。きっと指を切ってしまうと思われた。彼女の指は繊細で美しく、労働を殆ど知らない者の手だとしてもやわやわと優しかった。
ラスティスはゆっくり小屋に近づき、リベルの歌を損なわないようそっと扉を開く。けれど古い小屋は木材の軋みが付き物のように微かな音を立て、背を向けてやはり糸を回していたリベルが振り向いてしまう。
だれ、と密やかな声を出したリベルはすぐにぱっと明るい顔になって、ラステーおかえり、とはしゃいだ声をだした。彼女はラスティスという自分の名を上手く発音できない。
リベルの年齢はよく分からなかった。四十代の半ばには達していないだろうとは思うのだが、本人はまるで五歳か六歳程度の表現しか知らず、知恵もそのあたりでどうやら止まっている。面差しは衰えが目立っているとはいえ目元などは整っており、若い頃は可憐であったと村の男達は口を揃えるが、彼らもリベルの身の上などは分からないようだった。
ラスティスがリベルを知ったのはシタルキアの帝都ザクリアからミシュアルへ出向してきたばかりの頃だった。夕暮れを過ぎても一人で蛍を追いかけている中年の女に異様なものを覚えてじっと目をやっていると、村人が彼に説明してくれたのだ。ある日ふらりと里に迷い込んできて、そのまま居付いてしまった女であると。
とはいえ最初は子供達のよい遊び相手として、村で何とはなしに居場所を確保し、それを認めた村人が交代で面倒を見てきた。ミシュアル管区は関税が無く、物価が安い。土地からの恵みが正常にあるならば女一人程度の食い扶持は用意が出来た。リベルも特に何かにこだわったり言い張ったりすることもない扱いやすい性質で、従順に大らかに身の上を任せてきたらしい。
肺病みにかかってからは違ってしまったが、彼らも子供のようにしか何もできない女を追い出すことまではせず、里から離れた場所へ小屋を与えて遠ざけるにとどめた。
……それまで子供達や女達に囲まれて毎日を安穏と暮らしてきたリベルは何が起こったのか最初は理解できなかったようだが、やがてそれにも慣れたらしい。一人で遊び、一人で楽しむことの出来る、幸福な女であった。
──一目見てラスティスは胸掴まれたことを、誰にも話していない。恋ではない。なんと説明してよいのかも分からない。けれど一人きりで蛍と会話をしていたリベルが満ち足りて幸福そうであったこと、その面差しに何かの幻をみるような懐かしさを感じること、そんなことがラスティスを足繁く村へ通わせ、リベルの面倒をみさせている。
何が欲しいのだろうとラスティスは思う。リベルが四十だとすれば自分は丁度十歳違うことになる。母子では当然無かったし、姉弟でもない。ラスティスには母親しかおらず、それも疎遠にしてもう何年にもなる。
けれどリベルの柔らかで優しい眼差しや幸福を容易くみつけてきてはラスティスへ与えようとする仕草にいつも自分は愛撫され、宥められていることは自覚していた。彼女といるといつしか自分が幼い子供に還っているような気がすることがある。そんなとき、何かの大きな優しい腕が自分をしっかりと抱きしめてくれている気がして嬉しいのだ。
ラスティス自身に殆ど残っていない母親の記憶と比較は出来ないが、そうあってほしいという理想を求めているのかもしれなかった。
ただいま、とラスティスは微笑んで、リベルの前髪をほんの少し指でよせる。髪が伸びたから後で切ってしまおうと囁くと、リベルはふふふと喉を鳴らして笑った。
「このまえ、かみ、ラステーがして、リベル、ほめたよ」
「そうだな、この前は上手く行ったから。けれどリベルが喜ぶならそれでいいのだよ」
リベルは邪気のない顔で笑い、リベルはいつもほめるよ、と胸を張った。ラスティスは優しく頷いて暗灰色の外套を脱ぎ、面衣をとる。髪をまとめている紐は赤い。これはラスティスの現在の位が上二位であることを示している。尤も、上一位は彼女だ。誰もそれに追随することは出来ないだろう。始祖であり全てである彼女には。
ラスティスは脱いだ装束を椅子にかけ、さあご飯にしようと声をかける。リベルはまた笑いながら糸紬の真似事に戻ってしまって、歌にあわせて足をぱたぱたと振ったり首をかしげたりで楽しそうだ。
帰宅途中で買ってきた鶏肉を処理しながらラスティスはリベルの歌を背後に聞いている。口元に笑みがこぼれる。リベルを包む雰囲気はまるで春の暖かな日差しのようで、いつでも淡く
食事が終わるといつも薬の時間になる。リベルを蝕んでいる肺の病を完全に治せるかは分からないが、一定の効果はあると医者の触れ込みだ。
子供に飲ませるのだと言うと、肺病を患う子供は間違いなく短命なためか医者はひどく同情し、糖衣薬へ変えてくれた。
リベルも案の定誤魔化されてくれたから、この薬は問題がない。リベルが嫌がるのはもう一つのほうだ。
夢を見ているような眼差し。淡く薄い自我と主張。どんな場所にあってもリベルはどこか現実を生きていない。記憶をしっかりと保持し、集中力を高めるという薬草を探し出してきては飲ませている。
草の根の苦味が強くてリベルは飲みづらそうにしているが、この調合薬を与えるようになってから、僅かながら言葉が増え、ふと何かを思い出そうとしているのか、遠くを見て真剣な顔をしていたりということが、ラスティスの諦めをつかなくさせている。
きっとリベルは年齢なりの賢さと穏やかな微笑を持った婦人になるはずだった。そう確信させるだけの本来の素直な性質を、もう随分ラスティスは知っているのだった。
ごりごりと乳鉢で薬草をすりつぶしていると、リベルが顔をぎゅっとしかめたのが分かった。ラスティスは駄目だと出来るだけ優しく言った。
「飲まないと駄目だ。リベルの病を良くしてくれる薬だからね」
「これ、まずい、へんなあじ、にがい、きらい……」
唇を尖らせるリベルにラスティスは首を振る。煎じ薬は確かに薬草特有の濃い臭いがあるが、高価なものでもある。定期的に交易でやってくる商人から手配をさせていた。
「さあ文句を言わないで飲みなさい。早く良くなって、また子供らと遊びたいんだろう?」
「リベル、こども、すき。あそびたい、のまないの、だめ?」
注がれた液体を犬の子のように臭いをかぎ、リベルは顔をしかめていたが、駄目だと強く言うと、観念したのか目をぎゅっと閉じて少しづつ啜りはじめた。
小さな虫の羽音程度の空気の震えが闇を裂いた。ラスティスはじっと手元の時計を見る。時計が狂っていれば実験は土台から組みなおしだ。またザクリアと長い時間をかけて手紙のやり取りをしなくてはならない。
それは面倒ではないがとにかく手間のかかることで、ラスティスはいささかうんざりする。ただ、この実験が成功すればその手間とやらを大いに省いてくれるはずで、至便科学とはよく表現したものだと声を立てずに密かに笑った。
そのとき空気がもう一度震え、聞き覚えのある細い声が自分の名を呼ぶのが分かった。
「始祖チャシティナ、おめでとうございます」
自分の声も僅かに上擦って震えている。あちらから聞こえる時計の音と自分の握り締める時計の針の動きが同じだ。一致している。素晴らしい。相対しなくても話が出来るというのはこんなにもよいものかとラスティスは笑みをこぼした。
(これは遠話と名付けましょう。きっとこれは、未来永劫使われる構成になるはずですね、ラスティス。多少面倒だけど同期と座標の問題は、どうにか糸口はある)
はい、とラスティスは返答する。
始祖チャシティナは既に五十の坂を越え、既に初老という年齢に達しようとしている。凛と整った顔立ちであるが、身についている空気は厳しく冷たい。怜悧な刃物のような女だと官吏たちは噂している。
現に遠話と名付けた遠隔の会話が初めて成功としたというのに、チャシティナの声は普段と変わらないか、やや不機嫌で物憂い。ザクリアで起こっていることはラスティスにはわからなかったが、最近彼女がひどく気鬱に沈み、倦み疲れているというのは本当なのかもしれなかった。
「始祖チャシティナ、お疲れのところを申し訳ないが、本日は一つご相談したいことがあるのです」
チャシティナの声が僅かに沈黙し、少ししてから何ですか、と呟くように言った。ラスティスは自分の持ち込んできた剣をさっと撫で、実は、と切り出した。
──ミシュアルは現在クルスト侯爵の治領下にあり、貿易と銀細工で富を築いてきた街だ。なだらかな丘の裾野にびっしりと商家が立ち並び、その向こうには青緑にきらめく南の美しい海が広がっている。近くには建国伝説の元になったオレセアル城の遺構もあり、観光客も多い。雑多な品物が行き交う街だから鑑定士も多いが、彼らに見せても一向に納得がいかないのだとクルスト公がラスティスに直接持ち込んできたのは一振りの剣だった。
「何か少し異様でね、君のその……何といったか、魔導? で何かの取り掛かりでも掴めたらと思うのだ」
そんなことを言いながらクルスト公が包みを解くと、剣はすらりとした肢体を現した。ラスティスは感嘆の溜息になった。
見事な剣だった。熟れた李のように赤い。鞘には蘭と思われる花と拡がる翼の意匠が彫られており、その手蹟も精緻で密だった。
そしてクルスト公が異様と評した理由も感じる。何かの強い引力がこの剣からは放たれていて、それがひどく色の強い悪意に思えてならないのだ。心の奥がひっかかれてかき回されるような。
けれどラスティスはそれが何であるのかをすぐには導き出せない。魔導の痕跡や意思ならば解析にかけなくてもうっすらと感じ取ることが出来るが、この剣からは魔導の残り香はしない。魔導士の数はさすがに十年で増えてはいるが全員が知り合いであり、つまりは知らぬ魔導斑紋はないということと同義だが、それも見出せなかった。
けれど気配はある。強烈な意思がこの剣には宿っていて、じっと見つめているとそれが強く訴えかけてくる気さえするのだ。
ラスティスは無理やり紅剣から目をもぎ離し、クルスト公へ首を振って見せた。
「公、ご存知のように魔導はまだ発見されて十年を数えたばかりです。理論はあっても実践には他が足りず、実証もできないことが沢山ある。制約もとても多い。必ず公のご期待に添えるかといわれると、実は自信がありません」
小さな実験や実証はすぐにでも可能だが、この剣に関してはラスティス一人で結論するよりは合同検討が相応しいように思われた。
「もしよろしければ私がお預かりして……本日の夜、実はザクリアの始祖チャシティナと合同実験を行う予定がありますので、始祖の意見を聞いてみましょう。けれどきっとこの剣には始祖チャシティナも興味を示すと思います。その場合、これをザクリアへ送ることとなりますが、差し支えはないでしょうか」
クルスト公は一瞬の間を置いて頷いた。特に何もないとの返答があれば自分の懐に収めようと思っていたのだろう。それがわかるほど、はっきりこの剣は強く訴えかけてくるのだった。
そんなことをざっと説明すると、思案するような吐息を女が漏らしたのが聞こえた。自分が興味を示すだろうと
(合同検証するしかないでしょう。魔導でどうにかなるものはやってみせなければ、信用が得られない。全く厄介なものを持ち込まれましたね)
「そう仰らずに、始祖。本日はまず一つ終了したではありませんか。次は複数遠話となりましょう。日取りと時間を決めなくては」
チャシティナの不満をするりとかわし、ラスティスは次の提案を口に乗せる。遠話は成功したばかりの新しい魔導だが、複数で可能であればまた違った使い方が出来るだろう。勿論、遠話もだ。声に限らず音声は空気の震える波形だが、その形を崩さずに遠距離を飛ばすことができるということに他ならない。理論は既に遠隔地移動の計算にまで踏み込もうとしているが、きっとその勢いにも役立つはずだった。
次の実験の日時をすりあわせ、チャシティナの声がでは、と呟いた。それを契機に空気の揺れるような音がして、異声は途切れた。
途端殴られたような酷い痛みが襲って、ラスティスは呻いた。こめかみの内側から激しく殴りつけられているようだ。
よろめくように椅子へ戻り、ラスティスは身を小さくする。目を閉じるとチャシティナとの会話が苦く思い起こされた。
チャシティナと話をするといつもいつも、後から何か言い足りなかったのではないかという思いがこみ上げてくる。彼女の頑なな態度も声音も、既に慣れきっていて今更寂しいでも不満でもないが、何かの形に胸に空いた穴がじくじくと疼くような気がするのだ。
記憶の中のチャシティナはいつも金髪をゆるく波打たせて梳き流し、静かにじっと遠くへ視線をやっている。それは何事かを深く考えるときの彼女の癖で、それをうっかり邪魔しようものならば烈しく怒り狂う女であった。
そしてそれ以外の時間は殆ど感情というものを現さず、人形のように座り続けながら思想と論理の枝の中から次の魔導を探している。慈愛や優しさなどというものを全く持ち合わせていないような冷酷な目だけが何度も目裏に甦り、まざまざしい悪夢のように思えて仕方が無かった。
そんなことを思うのは自分がチャシティナに何かの感情を抱いているからだろうか。まさかとラスティスは苦笑する。全く何も思い出せない。あの女は自分をを抱いたことがあったのだろうかとさえ思う。
それを皮肉の形に笑うため、ラスティスは鼻を鳴らして呟いた。
「……つまりはお手並み拝見ということですよ、母上」
『おそらのほしは なにみてる?
すやすやねてる あのこをみてる
おそらのおひさま なにしてる?
ぽかぽかあのこを あっためる
おそらのことりは なんでなく?
かあさんかあさんと よんでなく』
小屋の中からはいつもと同じ歌が聞こえる。
今日は少し調子が悪いらしく、時々咳き込んだり高音が掠れて飛んだりで、歌の継ぎ目が聞き取りにくい。
肺病の辛さを本人があまり深刻に受け止めていないのが、救いではあった。いたい、いたいよ、と訴えることはあるが、ラスティスには痛みを抑えることなど出来ない。
ただひたすら細く白い彼女の手を握り、大丈夫、私が付いているからねと繰り返す。そうすると喉ふさがれて苦しいはずの呼吸の下からか細い声が柔らかに吐息をこぼして言うのが聞こえるのだ。
(うん、ラステー、いる。ラステーがいなくても、いつも、リベル、わかるよ)
いつでも側に居ることは分かっていると精一杯伝えようとする言葉にラスティスはいつも心温まってしまう。微かに潤んだ瞳を察知したリベルがほんの少し戸惑ったように目をぱちぱちとしばたくが、やがてゆっくり笑ってラスティスの頬を撫でてくれるのだ。
(ラステーないちゃだめ、いいコ、いいコよ)
「私は泣いていないよ」
そんなことを言ってしまうのはただの強がりで、リベルはきょとんとするのだ。自分の知覚したものと言葉が違うのをどう理解してよいのかわからないのだろう。困ったように微笑むリベルにラスティスはいつも大丈夫だよ、と優しい声を出すのだった。
小屋の中ではリベルが一人で窓辺に佇み、外を飛ぶ羽虫を目線でおいかけながら歌っていた。中へ入っていくと嬉しそうに笑うのも同じだ。おかえり、といいかけた言葉が咳で消える。ラスティスは紅剣を食卓へ放り出し、あわててリベルを支えて寝台へ連れ戻した。
「気分が悪いときはここから出ては駄目だと言ったよ」
叱るとリベルはしゅんとうなだれる。でも、と言い募るときの言い訳も大体が同じだ。
「でも、でもね、ちいさなコ、いたの。リベル、そのコしるの。とってもちいちゃくて、かわいいコなの」
村の子供達と過ごしていた時期を忘れられないのだろうかとラスティスはいつも哀れを覚える。肺を病んでから、これが伝染する病であるために村人は彼女を遠巻きにしてしまった。自分たちの子に感染する可能性を考える親の恐怖も理解できるから理不尽とは思わないが、リベルには分からないのだろう。
何故自分が楽しく遊んでいた場所を追われなくてはいけないのか。何故極端に人が尋ねてこなくなったのか。けれど理解してしまえばそれはとても悲しい出来事だと思われたから、これで良いのかもしれなかった。
小さな子供などいない、それはお前の見ている幻影なのだと告げても誰も得などしないことも分かっていたからラスティスはそうだねと宥めるためだけに相槌を打つ。寝台へ押し込んで額で熱を見ると、やはり少しあがっているように思われた。
「頭がぼうっとするときはここにいなさい、リベル。私と約束して欲しい」
「やくそく、リベルわかるよ」
「そうか、いい子だね。約束できる?」
うん、と素直に頷くリベルにほっと頷き返し、ラスティスは食堂へ戻る。背に視線を感じて振り返ると、リベルがじっとこちらを見ているのが分かった。その目線にいつになく強い光を見たような気がして、ラスティスは不安に眉を寄せた。
紅剣の包みをリベルから遠ざけるように押しやり、寝ていないさいと声をかける。うん、と再びリベルが頷くが、やはり視線は紅剣へ向かっているように思われた。
「これは私の仕事の道具だから、触っては駄目だよ」
ラスティスの言葉に僅かに遅れてリベルは頷いた。だいじょぶ、と舌足らずな誓いが聞こえる。リベルは約束と口にしたことは生真面目に守るから心配はないだろうと思うものの、念のためラスティスは剣を丁寧に包みなおしてリベルの手の届かない棚の一番奥へ放り込んだ。
ザクリアへ行く定期船は明後日の昼の出港で、ラスティスは紅剣と共に乗り込む手筈になっている。
「リベル、私は明日の次の日から出かけてくる。一月ほどは戻らないから、その間はお前のことを誰かに頼んでいくから、無理を言ってはいけないよ」
うん、と素直にリベルが頷いている。それにほっと頷いて、ラスティスは面衣を付け直した。顔を見られて魔導が使えないなどということはないのだが、珍しい技を持っていると目をつけられて連れ去られた同胞がいないわけでもない。出来る限り素顔をさらすなとチャシティナも考えていて、薄い黒い布を垂らすだけの面衣より、もう少し完全なものをと試行錯誤しているとザクリアからの報告にある。
だから人の集まる場所へ出向くときは必ず面衣が要った。クルスト公からは今夜の交易商人を招いての晩餐会に顔を出すように言われている。シタルキアが手に入れた最新の技術とやらを披露させて点数でも稼ごうという腹だということは分かっているが、魔導の不思議を一度目にすると誰もが従順に投資したいと言い出すのだから無碍にも出来なかった。
それに理論は先走って空間の転移や時間の細分化などを次々と組み上げているが、実証実験はまるで追いつかない。実際に出来ることときたら小さな炎を起こしたり、水を空気へ拡散させたり、そんな程度のことだ。
手品とまるきり同じじゃないかと自嘲も聞こえるが、断ることは出来なかった。紅剣は人に預けるべきではないと考えたから戻ってきたが、リベルの具合を見ると今日は適当な口実をつけて早めに切り上げるべきだった。
──そして夜更けに戻ってきた時、ラスティスはすぐ異変に気付いた。小屋の明かりがついたままになっている。リベルにランプを扱わせないように油の量を調整して天井から吊ってきたのだが、それはもうとうに消えていないといけない時間だった。
リベル、と呼びながら近づいていく。歌が聞こえない。いつも幸せそうに彼女が口ずさんでいる愛の歌。
急な予感に駆られてラスティスは中へ走りこみ、そしてすぐに異変に気付いた。ランプは食卓の上へ移動し、そこで油が尽きて静かに佇んでいる。
寝台には誰もおらず、棚の上の荷物があらいざらい掻き分けた後のように落ちて乱雑に床にはいつくばっている。陶器の台座がついた詠唱用の拍長をはかるための振り子も落ち割れていて、ラスティスは首を振り、紅剣を包んでいた布を取り上げた。
剣がなく、リベルがいない。剣だけ持っていっても扱えないだろうと思う傍らから凄まじく黒い不安が胸をあっという間に覆っていくのが分かった。
とにかく探さなくてはとラスティスは面衣をはずし、苛立ちのまま丸めて床に叩きつけた。月光の下の捜索では、こんな布は邪魔になるだけなのだった。どこへ行ったのだろうという疑問はあるが、普段のリベルの生活の範囲はごく狭い。
村から遠く離れてどこかへ彷徨っていくことは考えにくかったし、第一、道も知らない上に彼女は字も読めない。知っている土地から出る可能性はとても薄く小さく思われた。
ラスティスはまっすぐ村のほうへ走り出す。剣など握ったこともないリベルがあんなものを持ち出すなどと考えられない。
誰かに連れ去られたのかもしれないとふと思い、むしろそうであって欲しいと強く思った。
月光の下で村は静かに佇んでいるように見えた。ラスティスはの井戸まで駆けてくると膝をつき、手を土へついた。土のぬくみが掌に伝わってくる。
目を閉じて神経を解放するための詠唱をラスティスは始めた。触覚や聴覚を飛躍的に高め、僅かな異変も見逃さずにまっすぐ駆けていくための措置だ。ただ、その代わりに視界が死んでしまう。薄暗い闇ばかりしか見えなくなるが、他の感覚が鋭く張り詰めると見えないはずなのに却って動きが的確になるのが不思議だった。
土が微かに振動を伝えてくる。耳も何かが割れる音を聞き、ついで井戸の水がゆれる気配を感じ取った。その方向へ向けてラスティスは走り出す。これが正解かどうかよりも、とにかく探すことからだった。
また何かが割れる音がした。家具が床をこすり、何か大きなものが倒れ、女が恐怖なのか歯を鳴らして喘いでいるのが聞き取れた。これがリベルでなくても大きな異変であることは分かったから、ラスティスは扉を叩かずそのまま飛び込んだ。
次の瞬間、悪意の塊が突風のように吹き付けてきてラスティスは反射的にとびすさる。髪がちっと音を立てて焦げる臭いがする。何だと思う間もなく風の音が鋭く落ちてきて、ラスティスはそれも横へ飛んでかわした。衣の端に刃物があたって布の悲鳴がした。
「あんた、魔導士の──」
女の声が言う。血の臭いがする。かなり濃い。はやく手当てをしないと手遅れになる、とラスティスは誰に向かうとも無く呟き、悪意の源の方向へ耳を向けた。
視界はまだ戻らない。一旦閉じると回復まで少しかかるはずだったが、気配や空気の歪みはいつも以上に感じる。だからまだ危機が続いていることは分かっていた。
「お前は誰だ」
ラスティスは微かに息を殺している相手に向かって言った。
「何を持っている、剣か? 金ならば私がやる、外へ出ろ」
先ほどの女があんた見えないの、と聞いた。ラスティスは軽く頷いて、それから女の声がリベルではないことだけを確認して僅かに安堵した。
早く逃げなさいとだけ言うと、それで我に返ったように扉から逃げ去っていくのが聞こえ、部屋に呼吸が二つだけになった。。
敵の息遣いが聞こえる。僅かに上下しているから息があがってきているのか。であればすぐに片をつけることが出来そうだった。
ラスティスは護身用の短剣を抜いた。相手の呼吸が一瞬荒くなり、すっと消える。来るはずだと身構えて、一瞬張り詰めた空気を、しわがれた咳が破った。肺を病んでいる者特有のかすれた咽喉鳴り。
それが突然心臓をわし掴み、ラスティスは動きを止めた。肺病みは今この村に一人しかいない。
一瞬巡らせた思考の隙をついたように風が起こる直前の空気の波が頬をよぎった。ラスティスは沈みこんでやり過ごす。弧を描くように空気が攪拌されて更に細い音が頭上から息もつかぬ速さで打ち下ろされる。ラスティスは咄嗟に横へ飛び、勢いで反対へ跳躍して壁に背をつけた。
そのままラスティスは微かに呼吸を整える。息が切れている状態では魔導など何の役にもたたない、ただの雑学だ。
そしてやっとぼんやりと光を入れるようになった目で相手を見やり、信じられないものを見た衝撃でラスティスは瞠目した。
「リベル……?」
一瞬聞いてしまったのは、あまりにも面変わりしているからだ。温かく、春のうららを思わせるような優しくあどけなかった女の面影はない。ラスティスを睨み据える目付きは冷静で、しかし烈しくたぎるような衝動も同時に存在しているのが見える。
それは目線でラスティスを射抜くように強く見つめていた。
不意に女の声が言った。
「お前は誰……どこかで、見たことがある気がするわ……」
それは病で枯れた喉を搾り出してはいるが、十分にしっかりとした、年月を重ねた女の声だった。リベル、とラスティスは呻いた。
それから彼女の握り締める剣を見る。どこかで予感していたのか、驚愕はやってこない。やはりという感想だけが浮かぶ。
鮮やかな赤い剣。
「その剣に触ってはいけないと約束をしただろう、リベル。さあ、いい子だからこちらへ寄越しなさい」
そっと差し伸べた手に向かって剣が振り下ろされるのを半ば予期していた反射でラスティスはそれを引く。かっと剣が床板にあたってのめりこむ音がした。切っ先を視線で追ってラスティスは唇をゆがめた。
「私がわからないのか、リベル」
リベルは胡散臭いものをみるような目付きでしばらくラスティスを見ていたが、やがて知らないと吐き捨てるように言った。その声が耳の奥に突き刺さるようで、ラスティスは頬を歪めて唇を噛んだ。
リベルからの強い拒否が胸を射抜いて心を縫いとめ、傷をえぐり掘る。 リベルが自分を見る目つきが、チャシティナのそれとあまりに似ているからなのか、胸が塞がれ、言葉が閉じ込められていくような気がした。
「剣を渡しなさい。正気を戻したのは良かったが、これからのことを話し合わなくてはいけない。さあ剣を」
必死にラスティスは手を伸ばす。事あるごとに剣を振りかざされては何も出来ない。地を這うようなリベルの声が重く呟いた。
「駄目、これがないと私はまたあの夢へ戻ってしまう……長くて、恐ろしい夢……夢は嫌、全てが乱れていて何も出来ない……」
リベルは苛々と頬を歪めて笑おうとした。童女のような無垢の笑みはもう思い出せないほど引きつり、歪んで面影すら追えなかった。
けれど剣がないととリベルが口走ったことで、ラスティスはじっと彼女が握り締めている紅剣を見つめる。あれをどうにかして引き剥がさなくてはと思うが、先ほどの剣撃も鋭く的確だった。無闇に飛び掛ってもいけない気がするが、このままにしているわけにもいかない。じりじりと機会をうかがう耳が、リベルの呟きを捉えた。
「夢はいや、夢はいや──たすけて、リベル、いや、イタいの、キライ、ラステー、リベル、ユメは、イヤ──何も見えない誰も助けない、私は戻りたくない、ラステー? 戻りたくない──」
柔らかな声と低くしわがれた声が交互に何かを繰り返している。剣を握る手がぶるぶると震え、今にも取り落としそうだ。
考えるよりも先に身体が動いた。ラスティスはリベルの懐に飛び込み、剣を握る手を捕まえて指をはがしにかかる。リベルは甲高い悲鳴を上げて剣を振り回そうと身をよじる。刀身が左右に大きく振れてリベルが剣を振り上げたのが分かった。
避けられないと瞬間理解したラスティスは、切っ先が落ちるその場所を首ではなく肩へずらした。焼け付く重い何が肩を貫通し、一瞬置いて激しい痛みが発火するようにあがってラスティスは呻いた。リベルの悲鳴が一瞬後に上がった。
ラスティスは上目にリベルを見上げた。表情は何かを耐えるように引き攣り、喘ぎ、瞳の中に明滅する光がふっと消えたとき、ラステーと心もとなく呟く幼い声を聞いた。
「ラステー、たすけて……」
涙がぽとりと自分の頬に落ちるのが分かった。
リベルを落ち着けるためにラスティスは痛みのために凍えたような頬を動かして微笑んで見せた。
「大丈夫、大丈夫、ゆっくり呼吸をして、歌を──いつもの歌を、歌ってごらん。お空の星は何見てる?」
すすり泣きながらリベルが歌う。
すやすやねてる、あのこをみてる。
「よく歌えたね、えらいね、リベル。もうおやすみ。星も月もきっといい夢を見せてくれるから、深呼吸をして、目を閉じて」
「ウン……」
言われるままに目を閉じるリベルの手からそっと紅剣をはずし、ラスティスは女を横たえて、自分の肩を貫く剣を一気に引き抜いた。激痛が背を走り、思わず喘いだ時、涙が滲んだ。焼け付くような痛みが左肩から二の腕を貫通し、血を吹き出させている。
よろめきながら剣の鞘を捜して収めると、ラスティスは座り込み、目を閉じた。血の流れがじんわりと意識を沈め、周囲は暗くなっていく。
ゆるく這うように、歌が聞こえる。柔らかで優しい愛の歌。子供の手を引く女が微かに呟くように歌っているのだ。お空の星は何見てる?
母の問いかけ歌に子供は笑っている。歌いながら足をあげ、跳ねるように歌う。すやすや寝てる、あの子を見てる。母は歌う。子は返す。ゆるゆると続く歌が耳に入り込んできて、子供は優しく嬉しい気持ちになる。
手が不意にきゅっと握られて、子供は僅かに不安を覚える。強く絶望的に冷たい温度の仕草だ。暗い呟きがする。
「お前は私を恨むでしょう。けれどお前は私の常に側にあって歌わねばならない。私たちが生き残る為にはそれしかないのだから」
「お母さん?」
「いいえ、私に聞いては駄目。天地の摂理の前にそれは無駄よ。無駄なことはすべきではないわ。さあ歌って、お空のお日様何してる?」
──ぽかぽかあの子を暖める。
母は唇だけを歪めるように微笑み、そっと自分の頭を撫でた。それがあまりにも機械的であったから、子供はおびえの為に立ち止まってしまう。母はそれに構わず子供の手を握りしめ、同じような速度で歩いて行く。引っ張られるように子供はついていく。母は歌う。子は返す。優しい歌を歌いながら二人は歩いていく。
やがて彼方に巨大な城壁が見えてきて、母は立ち止まり、溜息になった。じっとそれを見ている母の表情には何もなかったが、しばらくそうして子供が飽きてきた頃、ふと笑った。それは明らかに自嘲であった。
「お前は私を許さなくてはならない。私は摂理の奴隷となり、お前は摂理の犬となるでしょう。けれどこれは必要なこと。いつか地獄の中で摂理は人を救うから……」
母の言葉の意味は何も分からない。子供は母を見上げている。母は子供の視線などお構いなしにじっと城壁を見つめている。
「私は名を捨てることになるはずです。恐らく炎となるでしょう。星よ、私はきっとそれに耐えましょう」
母は誰かと話しているようでもあり、独り言のようでもあった。さあと促されて歩みを再開したとき、母の溜息が聞こえた。
左腕はもう使えないと医者は言った。チャシティナはラスティスにザクリアへ戻るかを聞いたが、ラスティスは断った。
「私はもう
それはトアン・チャシティナという名に雲隠れする前の、彼女の真実の名であった。遠い昔、まだラスティスと母子だった頃の。
チャシティナは返答しなかった。彼女の意識を埋めているのが今や魔導という巨大な体系とその開拓であって、自分のことではないことくらいはずっと以前に悟らなくてはいけなかったのに、何故あんなに拘泥し続けたのだろう。彼女は自分を見ていない。だから自分は見つめ返さない。
それだけのことだ。何故気付かなかったのだろう。
歌には歌を。愛には愛を。
だから、無視には無視を。
「もう解放していただけないか。私はもう嫌なのです」
「……お前には才能があるのです、ラスティス」
ようやく答えたチャシティナの声は強張り、いつにもまして冷たく凍えているように聞こえた。
「魔導には才能が必要です。努力も。私はお前を惜しんでいる」
「手駒としてですね、始祖チャシティナ」
老女は答えない。それが回答だった。
「私は下りる。もう嫌になったのです」
チャシティナは無言で遠話を切った。
ラスティスは溜息をついてゆっくりと家路を戻り始める。
リベルは今日も健やかで、少し舌足らずに歌いながら彼の帰りを待っているはずだ。正式に夫婦の籍を入れたとき村人たちは微かに嫌悪のようなそぶりを見せたが、ラスティスの持つ魔導の業と薬の知恵がそう邪険にもさせない。この村に身を
紅剣はザクリアへ送ったが、チャシティナはそれには触れなかった。ということは、あの剣については彼女も手を焼いているのだ。それを思うと唇が嫌な形に歪むことをラスティスは自覚している。
幻の子供。夢の中から手を伸ばしても届かない子供。もしかしたら彼女自身の子がいたことがあるのかも知れないとラスティスは思い、そしてゆるく笑った。
肺病みの薬は続けているが、記憶の補綴をする薬は捨ててしまった。
夢に棲んでいる彼女にはそれが現実か夢かを判断する能力が無く、記憶もおぼろで曖昧だ──だから、それでいいではないか。辛いことを無理に思い出すこともない。いつまでも夢に繋がれていれば、ラスティスのことだけしか考えない、可愛い女だ。
絡み合う身体も、融け合う魂も、内実虚構で構わない。
自分はあれが欲しかったのだ。自分を見つめ、自分に笑い、自分を見つめてひたすら自分だけを愛するための女が。
それが正気かどうかなど、どうでもいい。愛している、だから愛されている。それだけで何がいけない。何も足りないものがない。
つまり、これは檻の中の優しい愛だ。
小屋へ近づいていくと、いつもの優しい歌が聞こえる。その愛しさにラスティスは微笑み、ゆっくりと歩いてゆく。明日は彼女に指ぬきを買ってやらなくてはいけない。
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