最後の小鳥

 明花の元に至急の知らせが届いたのは秋深い日の夜半だった。もう寝ていたのに、とややふて腐れながら扉を開いた明花に、これを、と使いが差し出したのは油紙に包まれた書簡で、夜露を微かにまといつかせている。

 返事は要らないとのことでしたと使いが明花に一礼して足早く闇へ消えていくが、僅かに馬のわななきが聞こえたから、今夜はこの町のどこかで宿を探すのだろう。

 扉を閉めて油皿の近くへ寄ると、手蹟が兄のものであることが分かった。明花の兄である青衛の字はいつ見ても澱みなく流れるようだ。一般に漢氏文字は難しいと言われているが、兄の簡潔で美しい字を見ればその意識も変わるのではないかと思ってしまう。

「どうしたメイファ? 手紙?」

 軽い音を立てて上階から上着を羽織りながらシエルが降りてくる。そうね、と明花は頷いて兄からよ、と付け足した。シエルは軽く相槌をうちながら水差しを傾けて、水を直接喉に流し込んでいる。ちょっとやめてよ、と明花は苦笑しながら彼を軽く睨んだ。まったく、何度注意しても適当な仕草を彼は抜かない。

「いいじゃないか、腐るものじゃなし。神経質だぞ、メイファ。もっとおおらかにならなくちゃ」

 言いながらシエルが笑っている。明るく人好きのする笑顔についメイファも渋面を続けることが出来ず、仕方ないと笑い出してしまう。

 多分、こういうことが彼の適当さを助長しているはずだと分かっていたが、仕方がない。シエルのゆるく甘い包容の中で自分が随分助けられていることは承知している。

 漢氏の名門に生まれ、漢氏のために生きろと養育されてきた身にまといつくものは多く、ひどく自分を縛りあげてきた。

 けれどそれを辛いと思ったことは無かった。それが当然のことだと刷り込まれてきたからだと気付いたのはシエルと恋しあうようになってからのことだ。彼の腕の中で穏やかな夢を見る幸福を知っている。

 そしてそれは兄が自分を解放してくれたからだということを明花は正確に理解していた。漢氏のために婿をとり、子を産むことだけを考えろという長老達の言葉に頑迷に、今はそんな時代ではないのだと抗弁し、兄が婚約することで明花を自由にしてくれたのだ。

 だからその兄の至急とやらを無視することは明花には出来ない。

 油皿から蝋燭へ灯火を移し、食堂の椅子で明花は手紙を広げた。ちらりとシエルが目を紙面に走らせたのが分かるが、どうせ漢氏文字は彼には読めない。

『明花、元気なら嬉しい。お前の力を借りたい。すぐに長綉へ戻るように』

 手紙はごく簡潔で何の表情もない。何の用事だろうと明花は怪訝に眉を寄せる。その微かな不審が伝わったのだろう、シエルが明花の後ろからゆっくりと肩を抱き、どうしたの、と言った。

「あんまり考え込んでると額に皺が寄るよ、可愛いメイファ」

 シエルが歌うように言いながら首筋に口づける。くすぐったいわ、と明花は笑い、振り返って軽く唇を合わせた。

 彼のことを、好き。それはどんな激情や高揚の中にあるときよりも、こうした日常の隙間に溢れている。

 兄の緊急とやらも気になるが、明日出立すればよいだろう。

 そう思うのは、ふざけながらついばんでいた口付けが次第に深くなり、吐息だけの会話が続いているからだ。シエルの手が自分の素肌にもぐりこもうとするのをそっと押さえ、明花は上に行こう、と囁いた。

 少しかすれた声音が情欲を素直に表現しているようで、明花はシエルの肩に顔を埋めてしまう。シエルはいいやとこちらも曇った声で返答し、たまにはいいでしょ、と付け加えた。蝋燭が少し離れたところへおかれ、そのまま食卓に倒される。

 彼の重みと汗の臭い。決して良い香りではないはずなのに、心穏やかに満たされた気持ちになる。

 それが恋で、不変ではないが自分を満たしてくれるものだと明花は知っていた。身体の交わりは心に付随するもので、その二つが揃って初めて浮遊するような解放をつれてくるのだと教えてくれたのも彼だ。

「大好き……」

 明花は呟き、あとをシエルの情熱のままに任せた。

 翌朝シエルの腕の中から目覚めたとき、明花は自分が溜息になったことに気付いた。長綉へ帰らなくては、という事実は意外に自分に圧迫を加えていたらしい。

 長綉へは馬で二日といった旅程で、移動そのものは大したことではないが、あの街に暮らす一族たちがどうにも明花は苦手だ。漢氏の姫として慎み、ひたすら夫を待って生きよと明に暗に囁き続けてくる。

 兄は、と青衛の細面を明花は思い描こうとする。

 別れたのはもう六年も前だ。もう帰ってこないほうがいいと言われて自分は頷き、兄からいくつかの宝石や当座の現金を渡されて逐電に近い状態で長綉を出た。

 結婚しろとあてがわれた笙老爺笙当主は六十を過ぎようかという年齢で、あの老人と夫婦となるなどひどくおぞましく、薄気味の悪い感情しか浮かばなかったし、明花もまだ十五歳だった。

 ザクリアの建築学校に決まったばかりであったこともあり、まだよろしいでしょうと兄が庇ってくれなければ今頃明花は年若い未亡人として一生を籠の中に過ごす覚悟を求められているところだったはずだ。

「メイファ、あまり溜息つくなよ」

 目覚めたらしいシエルが明花の背をなぞりながら言った。彼は敏い。決して腕が立つわけでも目端が利くわけでもないが、他人の感情をすぐに感じ取り、それにふさわしい言葉を選ぶことはとても上手かった。

 うん、と答える自分の声はまだ気乗りしない不安のままだ。

 兄は帰ってこないほうがいいと言った。それを翻してまで戻るように、緊急だと告げる手紙に、他の事情も書いていないことが気にかかる。兄は繊細な文人肌で、何くれと気を遣い、丁寧に言訳するのが常なのだ。

 これは兄の通常ではないと明花は薄く察している。通常ではないと感じるとき、通常ではないことが起こっているのが常で、それが何かわからない不安が胸の奥を離れない。

「俺も行こうか? 君のお兄さんにも挨拶しとかないといけないだろ」

「ああ……そう、ね……」

 気伏せるばかりの明花を慰めるつもりなのか、シエルは宥めるように笑い、明花の腰に腕を回してそっと抱き寄せてくる。

 ね、と肩までをすっぽりと包まれると、それだけで安堵してしまう自分も単純で、明花は少し笑った。

 けれどそれは悪くない提案に思えた。また縁談だとしたら気鬱としか言いようがない。漢氏の中の縁談などもうかなり限られているから、笙老爺が他界した後は候補はいないはずだと明花は自分を納得させるために刷り込んでみる。

 漢氏の数はもう、かなり少ない。名のある家はいくつかあるが後継者を得るだけで必死で、遠い歴史の物語のように繁栄や提携のため、家と家をつなぐかすがいとして婚姻を執り行うことは出来ないのだ。……単純に、人間がいない。

 明花たちのような黄色い肌に黒か黒に近い濃い色の髪、暗い色の瞳を持つ民族を漢氏、それに対して白い肌に様々な色の髪や瞳を持つ民族を胡氏と呼ぶが、胡氏との混血が進んだ血筋ならまだ傍流に持っている。だが漢氏の純粋な血をひく人間が殆ど皆無と言ってよい状況だった。

 四名家と呼ばれた家々も最早瓦解寸前で、人が残っているのも明花と青衛の属する翰家以外には馬家の少女と笙大人のみのはずだ。……但し、笙大人は既に七十を迎えようとする老人であった。

 シエルを連れて行けば騒ぎになることは分かっているが、明花に釣り合う縁談など湧いてくることはなさそうだった。何しろ男がいない。年をとっていても若くても、どちらにしてもいないものはいないのだ。

 胡氏混じりの傍流から血の濃い者を選んでくるかもしれないが、明らかに明花のほうが立場が上だ。対面を重んじる漢氏の中でそれはなかなか無いことであったし、それまで頑なに血筋と漢氏の混じりない子を遺すことを至上としていた老人達がすぐに変節するとも思えない。

 明花は再び溜息になる。婚姻の話と決まったわけでもないのだが、最後に長綉を出てきたのがその揉め事のおかげだったせいで、そのことばかり考えてしまう。

 けれどシエルを連れて行けばさしあたって揉めはするだろうが、諦めてくれもするだろうと考える。兄は婚約を整えて馬家の少女との婚儀を待っている状態だったし、もしかしたら日取りが決まったのかもしれないとやや前向きに明花は考えてみる。

 その最後の考えはやっと明花に安堵の苦笑を連れてきた。やっと笑ったとシエルが明花の頬に柔らかなキスをして、さあ朝飯だといいながら裸のまま階下へ降りていく。その背を追いながら、明花はようやく見えた明るい光に眩しく目を細めた。




 長綉へ戻ったのはそれから三日後の夕方だった。相変わらず胡氏の町並みとは明らかに違う朱色の柱と白い漆喰壁が続く町並みに、シエルのほうは珍しげにきょろきょろと周囲を見回している。

「もうそろそろだから、本当にお願いね」

 明花は何度目かも分からない念押しをした。シエルは勿論と明るく笑う。彼のくすんだ金髪が夕暮れに映えてほんの少し豪華な色味に代わり、白い肌も自分たちの黄色味かかった肌よりも赤く見える。

 肌の色や習慣などの細かな違いは感じることがあるが、気持ちの根底が同じ場所にあることは単純に信じている。それに長綉でも既に明花の黄味がかった肌のほうが珍しい。混血は凄まじい勢いで進み、漢氏という民族を歴史の中へ埋没させていこうとしている。

 遥か遠い歴史の中で、漢氏は有色人種として時には珍しく時には少ないという理由で侮られながら、独自の言語と文化を保持し続けてきた。長綉もその遺産というべき町だ。

 既に純粋な漢氏の血を継ぐ者は名前を出して数えることが出来るほどとなっており、人種としての終焉が近いことは明花も理解している。

 漢氏も絶えず国家の中に足がかりを作り、居場所を求め、試行錯誤はしてきた。最もそれが成功した事例がシタルキア建国にあたっての伊嘉芳と蘭花の兄妹であろうが、その伊家の政治的失脚から続く伊景定の大逆事件などを経て、気付けば広く壁を這い拡がりながらも枯れた蔦のようになってしまった。

 今でも老人達はことあるごとに初代の皇后が漢氏出身であったこと、継承君が漢氏の血をひく皇子であったことを誇りとして語るが、もう千年近く前のことであれば鼻白むしかない。

 今更明花を後宮に上げるだけの力も無く、かといって他の手段で成り上がるでもなく、ただ朽ちるのを待っているようにしか思えなかった。

 遠くに翰家の門扉が見えている。あれよ、と明花が指し示すと、シエルは感嘆の声を上げた。

「すごいね、メイファ。俺の実家の十二倍くらいの敷地見当に見えるよ」

 シエルの言い方に明花はくすりと笑う。シエルは土木技師で、測量にも通じている。農業用の灌漑水路の建設予定地で出会ったのが最初だ。

 土に汚れ、日に焼けた顔で測量と図面起こしをしている彼は建築学校の生徒たちに丁寧に、自分の今している作業と今後の予定を説明してくれたものだ。優しい声がよかったのかもしれないし、声に滲む職人としての自負と誠実さが良かったのかもしれない。

「あれは見えてるだけでもっと奥に長くて幅もあるのよ。庭も広いわ、自分で言うのも何だけど、翰家は漢氏の総代を務める総領宗家だもの」

 伊家が滅亡した後、火生土の思想に基づき総代は笙家へ移ったが、その後笙家でも当主の相続が途絶えたことで金行の馬へ、馬が途切れたことで水行の翰へ、総領宗家が代わっている。翰家の現在の当主は明花の兄である翰青衛で、畢竟つまりは兄が漢氏の総代なのだった。

 何度かシエルには説明はしてきた。自分が漢氏の総領宗家の唯一の女子であり、名門の出であること。兄が総代を務めていること。出身の自慢ではなく、知っておいてもらわないと今後のやりとりの難しいことといったらない。何しろ兄は婚姻を当然の義務だと考えていて、明花にそれを押し付けないという選択を六年前には提示してくれたものの、老人達の意見に押し切られてしまうことも在り得る。

 兄自身は馬玲麗という少女と婚約を既に整えており、ただまだ十歳にもならない子供であるために空房を囲っているような状態だ。

「本当にお願いね、シエル。もしかしたら……ううん、多分一度叩き出されるかも知れないけど、そしたら長綉の境界門のところで待ってて。私もすぐ抜け出していくから」

「分かってるって。お兄さんに、メイファを僕にくださいって言えばいいんだろ。既成事実がありますって宣言するだけなんだから、簡単簡単」

 当初傷物という言葉に不服気だったシエルだが、何度か説明するうちにそこは理解してくれたようだった。漢氏の世界観と思考癖を胡氏に理解させるには根気強い説得が必要なのだと明花は学んだ。自分が胡氏になじんでしまうほうが早いと思ってしまうのは、きっとシエルと上手く行っているからだろう。

 馬を下りて翰家の赤い門扉を押すと、奥から小間使いが飛んでくる。肌は白い。胡氏との混血が相当進んでいるのだとわかるが、衣装は頑なに漢氏様だった。

「お嬢様お戻りなさいませ。老爺だんなさまが奥でお待ちでございます……」

 言いながら小間使いの目線がちらりとシエルを見る。明花はお客様よ、と強い声を出した。

「私の大切なお客様だから、粗相のないように部屋を整えておきなさい。まず彼はお兄様に紹介するから、私が共に連れて行きます」

 小間使いは一瞬迷ったようだった。当主への面会には沢山の手順が要る。明花の一存で折れたことが服務違反になるのでは考えているのだろう。明花はだから少しぬるんだ優しい声を出した。

「大丈夫、お兄様には彼のことは前に知らせてあるの。お前が心配することはないわ。馬をお願いね──お兄様はいつもの房室へやに?」

 小間使いが頷くのを確認し、明花はシエルに合図して歩き出した。シエルが小走りに明花を追い、すぐに並ぶ。

 秋の庭は紅葉の赤と、池の緑と、孔雀草の金波が美しく整えられ、冥滅へ向かっているとはいえ名門の庭に相応しい風情を保っていた。シエルは漢氏邸が初めてなのだろう、庭に視線が行ったまま戻ってこない。彼が普段手がけている工事は主に農業設備にかかわるもので、その設計主としても最近売り出そうとしているが、目線がしきりとあちこちへ飛ぶことで分かる。彼は何か得るものがないかと探しているのだ。

「シエル、あとでちゃんと案内してあげるから」

「あっ、ごめん、そうだったね。ねぇ、建物もあとでゆっくり見せて貰っていいかな? 図面があれば図面も見たいんだけど」

 図面は分からない、と明花は答える。

 この翰邸が建築されたのは二百年ほど前のことだが、以後沢山の改築や増築を繰り返しており、建築当時のものは殆どないはずだ。図面も初期のものは恐らく紛失しているだろうし、一番最近の工事は恐らく明花が生まれる前の回廊の補修であった。

「でも漢氏の屋敷は大体同じような作りよ。奥の一番大きな建物が当主の居館で、回廊でぐるっと館をつないでいるの。回廊の中が中庭、回廊の外には大体池と庭、庭の隅に書庫と倉庫、そんな感じ」

 指で示しながら明花は概要だけをシエルに教える。実際の建物はもっと多いのだが、真実は使用人のほうが恐らくよく知っているはずだった。

 兄はその当主の居館の更に奥、以前から好んで使っている書斎で帳面の仔細を確認しているようだった。漢氏総代という立場は即ちこの長綉の領主ということでもある。全体が没落へ向けて転がり落ちていく中でも生真面目に務めを果たそうと兄がしていることを、明花は痛ましくも誇らしくも思う。兄は総代としてはここ近年では相当若く、その期待もあるだろう。沢山の人々の切なる希望を背負うということの重みを、兄の細い美貌が暗く溜息をつくたびに明花は感じながら育ってきた。

 そしてその通りに兄の印象は疲労のせいなのか少し虚弱で、顔色も青白い。おかえりと笑う頬は六年前よりもやや削げているようにさえ思い、明花はお兄様お加減は、と聞いた。

「大丈夫、お前はいつもそんなことを言うね。私は……少し痩せているのは分かっているが、すこやかではあるのだよ。あまり私のことばかり気にしなくていいんだ明妹。そちらは?」

 明花は目線で会釈したシエルの背を押し出し、お兄様に紹介しておこうと思って、と強く言った。

「初めまして、カドシェルク=ボウと申します。土木技師です。メイファからお話は色々と伺っています」

 シエルがいつもの明るく涼しい声で挨拶をしている。よろしく、とシエルから差し出した手を、兄は立ち上がって握り返し、こちらこそと微笑んだ。

「姓を翰、名を宇、字名を青衛と申します……ああ、胡氏名はカンセールとしておりますので、どうぞそちらで。慣れない方に漢氏の発音は難しいはずですから」

 どうぞ、と兄がシエルに椅子を勧める。シエルが軽く一礼してから腰を下ろす仕草がいつになくぎこちなくて明花はつい苦笑になる。シエルも緊張しているらしい。好きだという気持ちはこんな不意に胸にあがってきて、どんな緊張のある瞬間でもほころばせてしまう。これはどんな魔法なのだろうといつも思う。けれど虹色の綾なす魔法だということは分かっていて、それが決して美男子でもなく突出した何かがあるわけでもない相手を彩ってきらきら、眩しかった。

「明花がいつもお世話になりまして、兄の私からも厚く御礼申し上げます。何しろこの育ちですので、迷惑をかけたとは思いますが」

「いえ、俺のほうこそ彼女にはいつも手間をかけさせて……男所帯で育ってしまうと万事適当でいけません」

 生真面目に返答するシエルについ明花はそっぽを向く。この後兄はきっと家事についての説教を延々と明花に垂れ、シエルはそれを根拠に自分をからかうに決まっていれば面白くない。憮然とした明花の表情に気付いたのか、青衛が苦笑した。

「これは家事は殆ど出来ないはずです。そう躾けていない。翰家の女主人として使用人の差配さえ出来れば問題なかったものですから、あなたにご迷惑をおかけしてしまった。妹に代わり、私から謝らせてください」

 着席したまま頭を下げる兄に、明花は不機嫌に溜息をついた。出来ないのはわかっているし理由は兄が説明した通りなのだが、改めて認識させられると面白くはなかった。

「本当に妹がご迷惑をかけてすみませんでした。あなたもとても好ましい方で、私は状況が許せばこれからもお付き合いいただきたいと考えています──が、残念ですが、ここまでです」

 突然兄の口調が固くなったのを感じ、明花は視線を兄へ戻した。青衛はやはり薄く唇で微笑んでいたが、目元は真剣なまま崩れない。落ちた奇妙な沈黙を、シエルのあの、という声がおずおずと破った。

「ここまでというのは、どういう……」

 青衛はさっと立ち上がり、房室の扉を開いた。明花はお兄様、と声を荒げる。それは帰りを促す作法だったのだ。

「彼女は婚姻が決まりました。あなたには大変申し訳ないと思うが、ここまでです。追ってご迷惑をおかけした分に見合うものを見繕って届けさせますのでどうぞお受け取りください」

「え、いや、俺は」

「──お兄様!」

 明花は椅子を蹴って立ち上がり、シエルを庇うように兄との間に割って入る。やはり、という納得の声も自身の内側から聞こえるが、兄が強行な態度に出ることが信じられない。いつもいつも優しく穏やかに明花を包んでくれた兄だったのだ。

「私は嫌よ、婚姻なんて絶対に嫌! それにもう私と釣り合う縁なんてないはずでしょ? まさか笙老爺じゃないでしょうね!」

 言いながら明花はぶるりと震える。七十近い老人に嫁がされ、その子を産めなど、生理的に受け入れられない。ぞっと背が冷え、鳥肌がぽつりぽつりとあがってくる。嫌、と再度あげた声は自分の中の嫌悪の悲鳴だった。

「私は嫌、絶対に嫌よ! お兄様だってそう思ったからザクリアへ出してくれたんでしょう?」

 明花の叫びに青衛は苦く笑った。その目はやはり静かで、兄が淡々と事実を語っていることは信じられた。信じられないのは内容のほうだ。明花とすぐに釣り合い婚姻できる縁など笙家の老人しかいなかった。

「落ち着きなさい、明花。お前の相手は彼ではない。それに彼は去年亡くなったよ」

 え、と明花は聞き返した。老人との婚姻という事態が消えたという言葉を飲み込んだ後、更に疑問が浮いてくる。何故なら漢氏の男子など他にいないからだ。

「でも、もう相手なんていないじゃない……笙老爺以外に漢氏の純種の男子なんて他にお兄様くらいしか……」

 言いかけて明花は言葉を飲み込んだ。ぽろりとこぼれた自分の言葉に自分が一番驚愕している。嘘、と明花は唇に手をあてる。嘘、嘘、という呟きだけが脳裏を駆け回り、胸が急に打ち始めて明花は喘いだ。

 まさかという疑問を追いかけるようにいくつもの疑念が疑心の沼からわいてきて、肺を満たし喉をあがる。何故まさかと笑ってくれないの? どうして否定してくれないの? どうして、どうして! 

 その疑問が喉をごぼりと押し上げたとき、自分の唇が震えながら嘘、と呟くのが聞こえた。青衛が暗く翳った視線を明花に与え、微かに唇を歪めて笑おうとした。

「嘘よ、──嘘でしょう? お兄様、ねえ、」

「いいや、そのまさかだ」

 兄の声が苦く低く、うつつを射抜いて明花の耳を刺した。

「お前の相手は私だよ、明花」




 ことは青衛の婚約者である少女の死から始まった。馬玲麗は馬家の当主の血を引く最後の一人であった。母親は馬家の傍流から先の馬大人に見初められて妾となった張蘭玉である。秋に入って少し涼しくなってきた頃、少女は喘息の発作を起こし、呆気なく世を去った。棺には少女の愛していた沢山の人形が共に収められたという。

 少女の死は即ち馬家の直系の終焉であった。馬家の男子は少女の父親を最後に途絶えており、少女の血筋だけが後へ続いていく最後であっただけに、馬家の落胆は大きく、婚約をあてこんでいた翰家でもまた新しい婚姻を探すという振り出しに戻されて困惑しきりであった。青衛は今年二十五歳になる。まだ若いとはいえ、これから子を生して漢氏の嫡流を維持していくことを考えると婚姻の代替は早いほうが良かった。

 少女の次に白羽の矢がたったのは少女の母親である張蘭玉である。馬家の傍流の端に連なる家の出身で、馬本嫡とはとても言える血筋でないが、ともあれ漢氏の血濃く、馬大人の妻亡き後は本妻代わりとして馬家を切り回してきたのは事実であった。これが漢氏総代を務める翰の家に入っても、恐らく女主人としての働きに不足はないと思われた。

 更に重要なことは彼女はまだ三十を幾つか越したばかりで、兄との年齢的な釣り合いも辛うじて取れている上、彼女が子を生せる身体を持っていることは玲麗で証明されている。いまだ愛人の一人も持たない青衛にもよい相手ということになったようだった。

 ──そして、その蘭玉が消えた。翰家と馬家の間で調整も済み、婚姻の様々な支度も整い、あとは式を待つばかりとなったある晩、ふらりと出かけてそのまま帰らなかったのだ。

 行き先を誰も知らず、捜索はしたもののどこにも見当たらないとなったとき、選択肢は極端に数を減らした状態で兄の前に提示された。

 つまり、漢氏の血脈を維持することを諦めて胡氏との混血に踏み切るのか。明花との最も色濃い婚姻か。……そして兄が選んだのは明花との婚姻であった。

 明花は頬を歪め、書架にもたれて座り込んでいた脚を組みなおす。シエルは無理矢理どこかへ連れて行かれ、庇おうとした明花も捕り込められて書庫へと放り込まれてしまった。

 だから明花は抗議のために食事を断り続けている。先ほども小間使いが明花の手をつけていない膳を溜息混じりに下げていったところだ。

 窓はあるがとても高い位置にある上、飾り格子を全て切り崩したとしても明花の頭が通るのがやっというほどの大きさで、そこから脱出は出来そうにない。食事の時に脱出しようと試みてはいるが、小間使いだけではなく衛士が共に来ることになっているらしく、あまり上手く行かなかった。 明花は座り込むのにも飽きてぶらぶらと書庫の中を歩き回る。古い家の書庫は非常に雑多なものであふれていて、黴臭い匂いで微かに頭痛がする。蓄積された様々な書籍や、使い道もなくただ放り込まれているようながらくたの鄙びた匂いだ。

 それでも無為にぼんやりするのは明花は苦手であったから、時間潰しと何か武器を探すことを兼ねて書庫の中を適当に検分してみている。シエルが図面を欲しがっていたから、そんなものでもあればいい。

 そうやって棚をぐるぐる回っていると、鍵の跳ねる金属の音がした。明花は扉を見やる。先ほど食事が下げられたばかりだから、兄だろう。ここをたずねてくるのは小間使い以外には兄しかいない。

 扉が細く開いて入ってきたのはやはり青衛だった。明花は慌てて扉へ駆け寄ろうとするが、二日ほど水だけで過ごしてきた身体は重く、数歩駆けただけで目の前がじんと痺れて暗くなった。

「ほら、だから食べなさいと言っているのに明妹。意地を張っても何も良いことなど起こらないよ」

 苦笑交じりの声がして、兄が明花を床に座らせてくれたのが分かる。明花は目を押さえながら平気よとうそぶくが、兄の返答はやはり柔らかな苦笑だった。

「あまり皆を困らせるのではないよ、明花。そうそう、この前入った厨房の手伝いに蒸パンを作らせてみたのだけど、味見をしてくれないか」

 いいながら兄が自分の手にまだ暖かく柔らかいものを乗せた。甘い匂いがして、兄の言うとおり、これは片手間の菓子であった。

 眩暈の静まってきた視界をやっとあけると、卵色の優しい色をしたパンが自分の手に収まっている。塩豌豆がぽつぽつと入っているのが見える。明花の好物だった。

「いらないわ」

 パンを手に乗せたままで明花は知らぬほうを向く。こんなものと投げ捨ててしまうほど青衛に対して悪意など持てない。だから要らないとだけ繰り返す。

「そんなことを言わないで、明花。食べないと体力がつかない。お前が何をしたいかを私は多分知っていると思うけれど、いちいち立ち眩みなんて起こしていたら何も出来ないよ」

 明花は唇を尖らせる。兄の言い草に乗ってしまうのも悔しいが、理屈は兄の言うとおりであった。自分に言い訳をしなさいと促されているのも分かる。それに素直に乗ってしまうのにはまだ抵抗があったから、返答はしない。けれどやっとパンをちぎって口に押し込むことはしてみせた。

 兄がほっとしたような吐息をこぼしたのが聞こえた。一つ口にするとあとは止まらない。二日ぶりの食べ物である。すぐに消えて胃の中にほっこりとした熱だけが灯る感触がした。

 明花が食べ終わるのを待っていたように青衛が膝をついて明花の髪を撫で、これからは食べなさいと言った。

「お前は頑固に拒んでいるけれど、婚姻は執り行う。食べて体力をつけなさい。衣装もそうだけが歩瑶も櫛が鼈甲になっているから重いはずだ。倒れてしまうよ」

 嫌よ、と明花は答えた。食事はともかく婚姻に関しては譲る気など全くなかった。同母の兄妹で婚うなど獣の仔同然で、明花の中にもある倫理が強く強く拒否を叫んでいる。

「私は絶対に嫌。お兄様はお兄様よ。夫じゃないわ」

 シエルの優しい眼差しや肌の温みを思い出し、明花はぞっと首を振った。それと同じことを兄に求められても無理だとしか言い様がない。

 おぞましいとも醜悪とも思うのに、兄本人は嫌いではない。けれどそれは家族としての情愛であって、シエルとの間にあるような男女のものでは決してなかった。

「おかしいと思わないの? お兄様も漢氏の長老会も皆おかしいわ。普通じゃない。兄妹で娶わせるなんて、鳥篭に小鳥をいれてつがわせるのとは訳が違うのに」

 兄は明花の前に座りなおし、そうだねと優しく頷いた。眉間に微かに淡い皺がより、目元がゆるむ。兄は寂しく笑っているのだった。

「私もおかしいとは思うよ、明妹。けれど、私はそうでしか生きていけない。私は漢氏の血脈を保つために生まれ、そのために大切に育てられた。今更嫌だとか理不尽だとか、そんなことを叫ぶことが出来るはずもないのだ。それに蘭玉はもう帰ってこないのだから」

 蘭玉の名前に明花は苦々しい溜息になる。彼女を決して明花は好きではなかった。あまり多くはないが、他の家との交流は時折あって何度か言葉を交わしたこともあるが、それで十分とうんざりする。

 元々馬の傍流とは家系図ばかりの末端の生まれで、幼い頃から手を動かして小銭を稼いできたせいなのかひどく吝嗇で気が強く、常に癇癪を起こしているか苛立ちを噛み潰して不機嫌であるかのどちらかだ。

 叱責も強く、下僕にもすぐに手が出るとのことで、馬家は常に緊張感のある空気が漂っていた。玲麗は大らかで朗らかな少女であったが、その彼女でさえお母様は少しお心が弱いのとしょんぼり肩を落としていたのが思い出された。

「蘭玉はどうしていなくなったのかしら」

 不意にあがった疑問を明花は素直に口に乗せた。彼女の持つ自尊と虚栄の心は兄との婚約をむしろ歓迎するはずだった。馬家の末端に生まれ、馬大人の目に留まって襲名子であった玲麗を生んだことを常に自慢にしていたのだ。

 子を失って本来は馬家の中で朽ちていかなくてはならない身の上が、総領宗家の嫡男である翰青衛との婚姻を歓迎しないはずはない。それに馬大人が彼女を迎えたとき既に馬の総領は六十を越した老人であったが兄はまだ若く、細面ではあるが繊細な美貌を持っている。彼女の望みばかりを固めると兄の形になるはずなのだ。

「あの女の考えなど私には分からないよ」

 さっと青衛が語気を強めた。そうね、と明花はそれには頷く。蘭玉の思考など理解したいとも思わない。本来は同情するべき身の上のはずなのだが全くその気にならないのが蘭玉という女に対する明花の評価で、恐らくそれは青衛も同じなのだった。

「ともかく明後日には式だ。明日衣装を合わせるからそのつもりで」

 明花は怪訝に顔を上げる。衣装は通常花嫁に合わせて織られ、縫われ、刺繍される。装身具も何もかも、花嫁の家格や意匠と揃えて特注するものだ。それがこんなに早く揃うはずがなかった。

 自分は蘭玉の身代わりなのだという結論は早かった。彼女に用意した衣装をそのまま明花に転用するつもりでいる。兄と蘭玉の婚姻は恐らく近日中であったのだろう。漢氏の総代として兄は沢山の家に招待を送り、長綉の領主としても同様にしているはずだ。花嫁を入れ替えて体面を図り、重ねて明花を漢氏という鳥篭の中へ押し込もうとしている。

 嫌よ、という言葉は今度は強く、低く、そして重かった。

「お兄様とつがうなんて無理よ。お兄様だっておかしいと思うでしょ?」

「思うよ、けれどそれがどうしたというの明花? 私は私の義務を果たさなくてはいけない。私はそのために生かされているのだ。選ぶことなど出来はしない」

「逃げればいいのよ、お兄様だけが背負わなくてはいけない話ではないでしょうこれは。もっと昔から、皆薄々分かっていたはずなのに、誤魔化したり幸運が続いたりでここまできてしまっただけのことだもの。お兄様一人でこの斜陽を食い止めようなんて無茶だわ」

 けれど言い募る言葉にも兄の返答は無かった。青衛を見ると彼は淡く苦く口元だけで笑っていた。

 兄に手酷いことを言ってしまったと明花は胸のあたりで拳を握る。兄が今にも泣き出しそうな顔をしていると思い、ごめんなさいと呟くとそっと髪が撫でられたのがわかった。けれど言葉は硬い。

「それは無理というものだ、明妹。観念を決めておきなさい」

 明花は溜息になった。会話は出来るのに言葉が通じていないような苛立ちがあがってくる。意図して話をそらしているのかもしれかったが、いずれにしろ兄が明花と婚姻するつもりだという意思に関しては動かすことが出来そうになかった。

 だから明花は別の方向から兄をゆすぶってみる。

「私はシエルが好きなの。お願い、お兄様」

 ね、と畳み込むと青衛は肩をゆるめて苦笑した。

「彼はとても好い人だ。私だって彼が憎かったり気に入らなかったりでこんなことを強いているわけではない。……私はね、明花。不思議に彼を嫌いじゃない。恋敵のはずなのにね。むしろ好ましいとさえ思うのだ」

 恋という言葉を兄が口にしたことに明花はすっと背が冷えるように感じ、僅かに後ずさった。

「お兄様は私を恋してなんていないわ」

 ようやく返すことが出来たのはそれだけだった。兄は首をかしげ、ゆるゆると首を振った。恋などという言葉を信じていないのは兄自身であったかもしれなかった。

「でも、彼は漢氏じゃない。それが全てだ。諦めなさい明花。私たちは明後日には鴛鴦の契りを交わして夫婦になるのだ」

 嫌、という悲鳴が喉をあがる。宥めようとしたのか兄が明花の頬に触れようとしたのを払い返し、明花は嫌よともう一度叫んだ。

「私はつがいの小鳥じゃないし、漢氏は鳥篭じゃない! お兄様のことを夫として迎えるなんて無理よ! どうして私なの、胡氏の血が入ったっていいじゃない! 漢氏なんて早く滅びてしまえばいいのに!」

 叫んでしまってから明花は口元を押さえた。兄は一瞬顔をゆがめ、さっと立ち上がった。待って、と明花は裾を掴もうと手を伸ばすが、青衛は素早く身をかわし、書庫の扉をあけた。鍵がかかっていなかったことに、明花は初めて気付いた。

「分かっている、明花。私たちはいずれ滅びる。けれど私はそれを見たくない。そのためには何でもする。何でもね」

 兄が扉を閉めながら言うのを明花は待ってと遮りながら扉に手をかける。何とか隙間をあけようと扉を引っ張るが、同じように兄が引き返してじりじりと閉まっていく隙間から明花は叫んだ。

「どうして私なの! 私は嫌よ! お兄様、どうして!」

 兄が吐息で笑うのが聞こえた。

「胡氏との婚姻より私はお前を選んだ。それは事実だ。お前なら私を理解し支えてくれると思ったからで、それに……」

 ふと視線にかち合わされた青衛の瞳に浮かぶ深い闇に、一瞬明花は絶句する。あまりにそれは暗く底が見えない沼であったのだ。

「それに、お前はきっと私を蔑まないから……」

 え、と聞き返そうとしたとき、扉が閉まった。お兄様、と声を上げながら扉を殴るが、鍵のかかる小さな音と共に足音は去ってゆき、明花だけが取り残される。

 明花は苛立ちのままにもう一度扉を蹴り飛ばし、そのままよろよろと床へ座り込んだ。蒸パンだけの軽い食事はやはり体力ということにはなりそうになかった。

 明花は床に転がり目を閉じる。じっと闇に心を預けていると、やがて兄の表情だけが繰り返し繰り返し、甦って胸を刺した。

 兄の眼はひどく暗く悲しげで、怯えるように震えていた。まるで明花が無理に兄に告解を強いているようだ。

 傷付けるつもりはなかった。けれどきっと、兄に何かを唾し、兄はひどく衝撃を受けている……何かを考えようとすることが厭わしく、明花はじっとうずくまる。このまま何もかも忘れてしまいたかった。

 目を閉じると少しの間まどろんでいたようだった。明花が身体を起こすと高い場所にある格子窓の向こう側は赤く焼け落ちたように染まり、木々の陰が黒々と浮き上がって見える。夜空には少し早いが既に陽光の恵みは去って、書庫の中は薄暮の中にある。

 うずくまっていると昔のことばかり思い出されて悲しい。明花は立ち上がり、大きく伸びをする。あまり遅くなってしまうと目が死んでしまう。シエルのために図面があれば探してやりたかった。

 家を出られるかどうかは明日もしくは明後日の、書庫を出る機会をじっと待つしかない。食事も今夜からは摂るつもりでいるが、その前にシエルの欲しがっていたものが手に入るなら良かった。何より、することがない。

 書架を漁っていた明花はふと妙なものをみつけて瞬きをした。布でぐるぐると巻かれている細長い包み。大きさは丁度儀礼の時などに使う腰佩き太刀と同じくらいだ。

 何だろうと手に取ると、がしゃりという金属の音が鳴る。音は重たいが、実際はそれほどずしりとはこない。剣かしらと首をかしげながら包みをほどくと、それはやはり剣であった。

 明花は暫くそれを見つめた。赤い鞘はこの薄暮の中でもわかるほどはっきりと鮮やかで色味が強い。朱色に近い、漢氏の好んで使う赤だ。鞘の意匠は翼と花で、柄には流水紋が細かく彫られている。

 急に胸が高まるのを明花は感じる。剣があるということは、次の食事か明日の朝にでもこれを手に脱出の機会を作り出すことが出来そうだ。私は逃げなくてはいけないと明花は思う。それをこの剣で幇助させるというのはこの場合においてはよい案と感じられた。

 それに、と明花はじっと剣を見つめる。何かが剣に潜み息づいている気がする。強い強い引力が剣には備わっていて、それが明花をしきりと手招いている気がしてたまらない。どう表現してよいのか分からないが、形のない意思が明花を呼び続けていて、その声は耳の奥に言葉にならない囁きをこだまのように繰り返している。

 おそるおそる明花は柄を握った。流水紋様は恐らく柄の滑り止めなのか、掌にしっくりと収まり、ぴたりとはまる。自分の指先がなめらかに適正な握りをとろうとするのに明花は驚き、微かに声を上げたその時だった。

「君はまずここから出たほうがいいよね」

 突然背後から声がして、驚愕で明花は振り返った。

 そこにいたのは二十代の半ばと思われる青年だった。黒い髪の奥から逆光だというのに、彼の黄金の瞳が自分をまっすぐに見つめていることに気付き、明花は誰、と言った。

 それから明花ははっと書庫の扉を振り返る。そこは明けられた様子が無く、兄が閉めていったとおり隙間もなく合わさっていた。

「あなた、どこから来たの? 誰なの? ここから出られる方法があれば教えて、お願いだから」

 青年はさあ、と軽く肩をすくめる。口元に小さな笑みが浮いているが、それがひどく癇に障った。

「僕のことなど気にしないで、漢氏の姫君。まずここから出ないと君の未来などなく、従って僕も何も言うことがない。けれど君には色濃い可能性を感じざるを得ない、不幸なことに」

「何を言ってるのか少しも分からないわ。それに漢語──あなた、漢氏なの? でも」

 肌の色は胡氏に近い。けれど漢氏の肌の色にも見える。それは薄暗い光の中でどちらとも判じかねる程度におぼろだった。それよりも漢語だ。青年の言葉はやや言い回しが古いがはっきりと漢語に聞こえる。

「僕が漢氏かどうかなんて大したことじゃないでしょう? それよりも明日はここから出して貰えるというのなら、剣は君を助けるはずだ、君が願うなら。それはそういう剣だからね」

 青年は小さく含み笑いをする。先ほどの青衛との会話を聞いていたのだ、と明花は悟り、急激にせりあがってきた羞恥のためにあなた、と声を強くした。

「どこから入ってきたの、と聞いたわ。教えて、どこから来たの。私はここから出て行かなくてはいけないのよ。そうしないとお兄様と無理矢理婚姻させられてしまう」

「へぇ、あれはお兄さんなの? 気付かなかったな」

 青年は微かに肩を震わせた。それが笑いをこらえる仕草なのだと気付いた瞬間、青年は喉を仰け反らせて高く、禍々しく笑い始めた。

「お兄さんか、なるほどね! 今まで見た中でもなかなか無いよ」

 明花は奥歯をきつくかみ合わせた。兄のことを嘲笑するような響きを聞き続けることは出来なかった。

「笑わないで! お兄様の何がおかしいの! 笑うのをやめて早く答えて、どこから来たの!」

 青年はそれには答えない。ただ肩をゆすりながら甲高く笑い続けている。明花は自分の顔色が変わるのを感じた。

 自分のことを笑われるのも気障きざりだが、兄のことを嘲笑されるのには耐えられそうにない。身体の底からたぎる熱があがってきたと感じる瞬間に自分の手が凄まじい速さで剣を抜き放ち、青年へ振り切った。

 ふっと青年の姿が消えた。明花は目をみはり、そして喘いだ。抜き放った剣がまるで生きているように空を泳ぎ、怒りのままに自分の手が床へ突き刺すのを呆然と見やる。

 そんな、と明花は呻く。自分の意思など全く忖度しないこの手のなめらかな無駄のない動き。先ほどまで食事を抜いていたせいで激しい動作には眩暈を感じていたはずの身体。反射の速度で身体が自然と動く。これはどんな邪悪な出来事なのだろう。

 否、もっと悪いのはこの胸と身体に残る突き抜けるような甘い陶酔だ。それは感じたことのない快楽であり、痺れるような歓びそのものだった。身体だけではなく、脳まで何かに沈み、溺れこんでいきそうになる。

 明花はもう一度喘ぎ、剣を掴んで震えている自分の手を見た。今まで図面を引き、測量計算をし、指示書を書くだけだった手が、剣を握り締めて震えている。

 もっと、という歓喜と共に。

「これは何」

 恐慌にかられて明花は青年の姿を探した。彼は書架の前に佇んでいた。消えたのに、と思う側から明花は更に愕然と青年を見つめなおす。彼の姿は薄く消えかけ、背面の書架がぼんやり透けて見える。

 どういうことなのか明花は理解できない。けれど今自分が向き合っているのが尋常でないということだけは分かった。青年に斬りかかりたいという衝動が、剣を握りこんだ手から身体へどくどくと送り込まれてくる。もっと、と剣の声が叫んでいる幻影さえ見るようで、明花はいや、と叫んだ。

「これは何! いや、いや、こんなのはいや!」

 快楽の種類は極彩色で、その色が明るく派手に見えるほど恐怖だった。明花はもう一度嫌だと叫び、剣を握る手と反対の手で柄をもぎ離そうとする。指が頑迷に柄に張り付いていて、一本一本をはがしていかなくてはいけなかった。

 やっと指が全て柄を離れ、剣は軽い音と共に床へ転がった。明花はくたりと座り込む。急に疲労が沸いてきて、身を起こすことさえ億劫だった。

「さようなら、漢氏の姫君」

 ずるずると横たわろうとする明花に、青年が呟くのが聞こえた。

「君は怖がりで正しい。残念だけどね。お兄さんによろしく」

「待って……」

 明花は尽きそうになる気力を振り絞って顔を上げた。青年の姿はもう殆ど透明で、書架の本の題字までがはっきりと見えた。

「これは、何なの。お兄様が何。お願い、剣は……」

「外れたんだよ、君は。だから気にしない」

 答えにもならないことを告げたのを最後に青年の姿は消えた。明花は待ってと唇を動かし、それが無駄だと理解して目を閉じる。暗闇に転げ落ちながら、背に僅かに残る快楽の残滓に一つ震えた。




 朝食は鶏肉の入った粥と葡萄だった。一粒づつをせわしなくちぎって口に放り込みながら、明花はじっと正面に立てかけた紅剣を睨んでいる。

 青年は消え、結局どこにも秘密の出入り口など無く、結論としてはしっかり食べてしっかり抵抗するという兄に促されたとおりのことになっていて面白くない。

 けれど、紅剣は真向かえば向かうほど見事な造形美と所有欲を明花に囁きかけてくる。一晩睨みあって過ごしたが欲しいという囁きは強く明花の袖を引き、いくら振り払おうとしても離れてくれなかった。

 けれどそれと同じほど明花は恐れている。あの剣はおかしい。剣を握る手から強くおどろしい何かが入り込んできて、自分を違う色に変えようとする。強すぎる愉悦は却って苦痛に似ていた。

 怖い。おかしい。それにあの青年が笑っていた声が耳の奥に何度もこだましては甦り、明花は唇を引き結ぶ。耳をふさいでもその奥から声が笑っているのが聞こえる。

 剣は君を助けるはずだ。それはそういう剣だからね。

 けれど剣を握り締めると自分の中に潜む別の獣が咆哮と共に這い出てくる。闘争心や克己心は明花も多少持ち合わせているが、あれは全く別のもので、まるで異色の生き物だ。自分がそうなってしまうのが怖い。

 婚姻は受け入れられない。兄を男として愛するなど出来ない。けれど剣を振るって戦えと青年が囁いたようにすることは自分を殺してしまう恐怖のようで明花は震えている。怖いのだと思うと更に強く昨日の感触が肌に呼び戻ってきて、明花は泣き出しそうになった。

 怖い。けれど戦わなくてはいけない。でも、怖い。恐怖を乗り越えなくては先がないのを承知していても恐怖は和らぐことがなく、明花を抜き差しならない袋小路まで追い立てようとしているのが分かる。正念場なのだと理解しているがために、自分が何をするか分からない。

 まして剣は明花が直視したくない、自分の中の粗野な衝動に直接触れてくる。それが快楽に変わるのが邪悪だった。

 怖い。明花は膝を抱えて呟く。

 剣を必要な私。けれど使いたくない私。その間を取り持つことが出来ない。自分を制御できないなどと思ったことは無かったのに、あの剣を握り締めればそんなものはどこかへ吹き飛んで、まるで獣のように欲望と欲求を満たすためだけに吼えてしまいそう……

 考えすぎてもう同じような思考を何週もしているが、明花はどうしても結論が出せない。何より剣が惑わせる強い快楽の中で、間違えて兄に剣を向けてしまったら取り返しがつかない。

 それだけはしてはいけないと強く思っているはずなのに、剣に引きずられてしまえばそれも忘れてしまうかも。

 明花は震え、膝に顔を埋めた。何も考えたくない。シエル助けて。今ここに彼がいたらきっと自分を抱きしめていつもの明るい声で大丈夫だと根拠無く笑ってくれるはずだった。助けて、と呟いたとき、それが合図だったように書庫の扉が開いた。

「おはよう明花。朝食は良く食べたね」

 兄はまるきりいつもと同じ穏やかさのままで明花に微笑んだ。明花は顔を上げてじっと兄を見る。青年の声が遠く笑うのが聞こえた気がした。

 それは知らず明花の顔をぴくりと引き攣らせたらしい。どうしたの、と兄が怪訝に眉をよせた。

「ひどい顔色だよ、明花。こっちへおいで、少し池の東屋で茶でも飲めば落ち着くだろう、さあ」

 手を伸べる兄に首を振り、明花は立ち上がった。昨日の夕食からはきちんと努めているため、眩暈はもう起きなかった。

「お兄様、私……」

 呟く自分の声が一度に十年も年を経たように疲れ、しわがれているのに明花は気付いた。酷い声だ。これもみなあの剣のせい。明花がつい紅剣を睨んだのに視線をつられた兄が、あれはと不思議そうな声を出した。

「あれはどうしたんだ明花。書庫にあったのか」

 明花は小さく頷き、剣をつかんで兄に押し付けた。青衛は一瞬呆気に取られたような顔をしたが、やがて真剣にその剣に視線を滑らせ始めた。造形は確かに見事な剣であったから兄の反応は不思議ではなかった。またあの青年に会えるかと明花はそっと気配を探すが、もうその姿はどこにも見えなかった。

 これは、と兄が呟くのが聞こえた。

「我が家の玄武の剣とよく似ているな。赤ならば本来は伊家の遺産だが、でも朱雀がないし……流水紋の意味もよく分からないな、火行の剣ならばここは火炎紋のはずだ」

 翰家には玄武の意匠がこらされた漆黒の鞘を持つ剣が存在する。何度も見たことがあったはずなのに、そのことをすっかり忘れていたことに明花は気付いた。そして兄の言うとおり、伊家は火行の家であるからその遺産であるとすれば確かに朱雀がないとおかしかった。

「この剣は駄目よ、お兄様」

 明花は強い口調になってしまったことに一瞬後から気付く。語気荒い妹の様子に驚いたのか、青衛は明花、と優しい声を出した。

「大丈夫だよ明花。由来ならきっと私が調べておこう。だから少し休もうか、本当にひどい顔だ」

 肩を抱こうと伸ばされてきた青衛の手を明花は振り払い、剣を奪うように取り返した。妹の乱暴な仕草に青衛は不安気な表情を浮かべたが、すぐに仕方なさそうな微笑みに変わった。

「剣はお前が持っていればいい。私はお前から奪うものは唯一つでいいと思っている。お前がこれを持っていたいなら取り上げたりはしないよ」

「お兄様」

 普段のような声を自分は忘れてしまったらしいと明花は思いながら口を開く。唇からこぼれてくるのは押し殺された低い声ばかりで、兄を不安にさせているのも分かっていたが自分では調整がきかなかった。

「この剣はおかしいの。説明が難しいけど、お兄様には触らせたくない。これに触れてはだめ」

 青衛は戸惑ったように曖昧な返事をし、長い溜息になった。明花の言葉の意味を把握は出来なくとも、少なくとも意思を汲もうとしてくれているのは分かった。

 促されるまま書庫から出ると、衛士がやや構えるようなそぶりを見せた。それは明花が握り締めている紅剣のための仕草と思われた。いい、と青衛が軽く制し、明花は黙り込んで兄の後ろからついていく。池の脇の東屋から馬小屋までは一息に駆けていける距離だ。書庫は翰邸の奥まったところにあって、建物の隙間を抜けていく順路しか活路がない。それよりは池から走り出したほうがよいように思われた。

 頭の中で順序を確認する。兄を傷つけてはいけないが、多少剣は抜かざるを得ないだろう。尤も兄も衛士たちも、明花が剣を扱うことができるなどと考えてもいない。だから持たせたままでいるのだ。

 けれどその油断にこそ付け入ることも出来るはず──明花は頬を厳しくする。人を出し抜き、脅し上げながら自分の望みを達することばかり考えている自分が厭わしかった。

 池はやはり長閑のどかに整えられた光景を臨み、柔らかな秋の光の下で美しいみどりだった。先に兄がいいつけておいたらしい小間使いが、せっせと茶器の準備をしているのが見える。この一瞬だけを切り取ればきっと麗しい秋の日のよい思い出になるはずだった。

 席に着くと茶器と沸いた湯をおいて小間使いが下がっていく。衛士たちも兄が手で小さく合図すると遠まきに離れ、腰を落ち着けるのが分かった。兄が慣れた手つきで茶の支度を進めていく。眺めるでもなく視線をそちらへ流していると、不意に叫び声が遠くであがったのが聞こえた。

 放心していた明花の神経が一息に尖り、そちらを振り向きざまに剣をつかむ。その仕草に、兄が明花と低く制止するのが聞こえた。

「滅多なことで業物を使うんじゃない。それに素人が見真似で下手なことをしてはいけない、落ち着いてお座り」

 言いながら兄は目線で衛士に合図をする。彼らが騒ぎの方向へ走って行くのを見送り、兄が明花を呼んだ。

「剣は離しておきなさい、明花。咄嗟にでも誰かを傷つけてはいけない」

 ええ、と明花は曖昧に頷く。何があったのだろうという疑問は胸を去らないが、衛士が行ったからには遠からず落ち着くだろう。

 シエルではないかという疑問が一瞬脳裏をよぎり、すぐに明花は否定する。あがった悲鳴は明らかに恐怖に強張っていて、シエルの何を以ってしてもそんな声をあげさせることは出来ないと信じている。

 明花はぎこちなく座りなおし、剣から手を離した。その途端、ぎりぎりまで緊張を強いられていた神経がするりと落ちる。落差にふらついた明花を青衛が支えた時、兄の香料が微かに漂って明花は顔を背ける。今まで意識などしたことがなかったはずなのに、兄が自分と婚姻するつもりだと思い知ってしまった途端にそれが気に障って仕方がなかった。

「何だろうね、おかしいな。お前の恋人が今日もくるならここへ通すように言っておいたから、彼ではないのだろうけど」

「シエルが? 来てたの?」

 そうだよ、と兄は至極簡単に頷いた。

「別に暴れたり大声を出したりということもなくてね、会わせて欲しいということだけ毎日言いに来ていたから、私もできないということだけ返答していたんだが……」

 そう、と明花は頷く。シエルが自分を正当に取り戻そうとしていることが眩しかった。……自分は剣を頼んで欺き、脅し、裏切ろうとしていたのにシエルのほうはただひたすらまっとうに自分とのことを認めて欲しいと願っていたのだ。

 胸の奥がゆるみ、潤んでいく。剣のことで凍え固まっていたような場所が溶けて、自分の中の暖かな気持ちがやっと見つかった様な気になった。

 兄の指がそっと自分の目元に触れるのが分かった。

「泣くな明花。私は自分が悪いことをしている気持ちになってしまう」

 明花は首を振る。シエルに会いたかった。彼はきっと明るく自分を包もうとするはずで、それが何より懐かしかった。

 青衛が溜息をついたとき、騒ぎが回廊の向こうから次第に近くなってくるのに明花は振り返った。衛士は護杖を掲げてしきりと威嚇しているが、打ち込んで捕らえる気配はない。けれどこちらに近づいてきているという事実は、漢氏総代の兄の危機なのかと明花はそっと剣に手を伸ばす。

 紅剣は恐らく自分の能力を激しく突き上げるだろう。それは昨日青年の影を斬ったときに分かっている。肝要なのは自分が快楽に酔わないこと、剣の激しい欲求に膝を屈しないことだと明花は呼吸を整える。それでも恐怖はどこかに巣食っていて、すぐに抜いてしまうには躊躇ためらいがあった。

 兄が何だろうねと怪訝に首をかしげたとき、小間使いが必死に集団から抜け出してこちらに駆けてくるのが見えた。老爺、と膝をつく小間使いの顔から血の気が抜けてひどい顔色をしている。まるで亡霊でもみたような顔だと明花が思ったとき、小間使いが疾走の荒い呼吸の下から搾り出すように叫んだ。

「蘭玉様が……!」

 さっと兄が立ち上がったのが分かった。明花も剣を掴んで視線をそちらへやる。確かに中心にいるのは女に見えた。漢氏の衣装は独特で、形による男女差は胡氏と比べて目立たないが、色は違う。

 蘭玉が好んでいた紫の裾が足元をゆれて翻るのに明花は目をとめた。蘭玉本人だろうという確信がことんと胸に落ちる。

 明花は兄を振り返った。自分は蘭玉の替え玉のはずで、彼女が現れたからには解放されるべきものだった。兄はきっと彼女を好きではないはずだが、一度は婚約を受け入れて準備まで進めてきたのだから、行方不明だったものが見つかったとすれば喜ぶべきことに思われたのだ。

 お兄様と声をかけようとして、明花は言葉を失う。兄の表情がみるみる強張り、表情が消えていく。微かに震えていようにさえ見えて、異変に明花はお兄様と声をかけた。

 それも青衛は聞いていないようだった。馬鹿な、と一言呟いただけで凍えたように動かない。ただ血の気だけが引いて、蝋のような白さだ。

「お兄様どうしたの、蘭玉ならよかったんじゃ」

 明花の言葉も聞いているのか青衛は首を振り、馬鹿なと繰り返した。

 もつれあうように明花たちの東屋までやってきた集団の中心にいたのは果たして蘭玉だった。

 もともと馬大人に見初められたというほどの美貌の持ち主であったが、それは変わらない。けれど六年振りに見る彼女のまなじりは引きり、髪も衣装もくたくたに崩れていてまるで幽鬼のようにおどろしく、美しい面輪が却って凄絶だった。先ほどの悲鳴は恐怖だったのだろう。明花に目をとめた蘭玉が唇を歪めた。それはどうやら微笑んでいるようだった。

「あら、明花様お帰りなさい? 私の代わりに呼ばれたのね、可哀相に」

 明花はこんにちは、とだけ返す。蘭玉の様子は正常とは到底呼べず、何を言い出されるのかと身構える気持ちが言葉を少なくさせた。だが蘭玉は明花にはそれ以上視線も与えない。まっすぐに兄を睨み据えている。

 兄を振り返ると蒼白をすぎて顔色は今や土の色へと変わり、言葉なくただ立ち尽くしている。蘭玉は兄へぎらぎらと視線をあてながら、作法に則った一礼をしてみせた。

「お久しぶりね、翰大人。死んだと思った婚約者が現れたのだから、もう少し喜んでくださってもいいのに」

 明花は顔をあげて蘭玉を見つめる。蘭玉は行方不明と聞いた。死んだというのは何のことだろう。兄が蘭玉と呻いたのだけが耳に届いた。

 そして明花は撃たれたように立ち尽す。昨日の兄の言葉が唐突に記憶の中から浮かび上がって目の前に転がり出てきたのだ。

(それに蘭玉はもう帰ってこないのだから)

 行方不明ならば帰還も可能性として考えてよいはずなのに、兄の言葉は確かに蘭玉の死を確信したものだった。現れた蘭玉も死んだと思った、と言った。急に疑念が固まり一つの答えを形作る。

 明花はお兄様、と呟いた。

「お兄様、まさか」

 何かを聞こうとして明花が口を開いたとき、青衛がふらふらと身を崩し、膝をつくのが見えた。それでも視線だけは蘭玉から離れない。呆然と呼ぶにはあまりにも忘我極まっていて、瞠った目が瞬きもせずに蘭玉を映し続けている。

「嬉しくて口もきけないの? 人を欺くのはお得意じゃない、笑えばいいでしょうよ、翰青衛」

「蘭玉やめて、お兄様は漢氏総代の立場、お前がそんな口をきいていい相手じゃないはずよ。字名あざなも呼び捨てるなど言語道断です」

 咄嗟に明花は庇いに入るが、蘭玉のほうは堪えられないというように高く笑いだした。それは明らかに嘲笑で、昨日青年が笑い出したときと同じような色調に彩られて苛立たしかった。

 蘭玉、と明花は女を叱りつける。明花のほうが蘭玉よりも遥かに立場が強く、また上にいる。蘭玉は平伏して非礼をわびなくてはいけないのに、そんなことも忘れたのか、ひたすら彼女は笑い続けた。それは兄に浴びせるためだけの哄笑であることは明らかで、明花は更に強く蘭玉と呼んだ。

「何をお前が言っているか分からないけど、お兄様を呼び捨てるなどなりません。それに婚約者だというのにその格好は何ですか。さっさと馬家に戻り、お兄様に会うのならそれなりに整えてくるのが礼儀でしょう」

「私は生憎と自分を殺した相手に示す敬意なんてありませんのよ」

 蘭玉の言葉に明花は呼吸を一つ飲み込む。どういう意味かと問い返すことより、兄に真実を確かめようと振り返ると、青衛が膝をついてうずくまるようにしながら蘭玉と呟くのが聞こえた。

「どうして……」

 それは恐らく明花の疑問と蘭玉の問責の回答だった。明花は眩暈をやっとこらえる。青衛の声に蘭玉はぴくりと眉を上げて鼻を鳴らした。

「私だって死んだと思ったわよ。でも多分夜だったのが良かったのね。あんたは私がちゃんと死んだか確かめないで帰った馬鹿で、私は単に運が良かったんでしょうよ!」

 蘭玉の声に篭る憎しみに、明花は震える。そしてようやく蘭玉の首筋に残る痣をみつけた。それは青黒くぐるりと首を回ってつながっている。

 兄様と喘いだ明花の耳に、蘭玉が再び笑い出すのが聞こえた。

「ねぇ明花様? こいつが何で私を殺したかったか分かる? 笑っちゃうわよ、教えて──」

 言いかけた先を蘭玉は続けることが出来なかった。うずくまって震えを殺していたはずの青衛が素早く彼女に飛びつき、二人は転がりもつれあいながら池へ落ちた。観賞用の池だから大して深度はないはずなのに、蘭玉だけが浮かんでこない。青衛が身を起こすその脇から急に女の腕が伸び、空をもがいている。

 明花は咄嗟に池へ飛び込んだ。兄が何をしているのか悟ったのだ。青衛の腕の下には蘭玉がいる。池に沈めてしまおうとしているに違いなかった。

 お兄様と叫ぶ自分の声がひどい悲しみと痛みでひび割れているのを明花は自覚する。青衛の背に飛びつき必死で引き剥がすと、ようやく逃れた蘭玉が池に顔を出し、咳き込んだ。

「蘭玉、はやく帰りなさい、はやく」

 明花は蘭玉の肩を押しやって素早く言った。青衛の目の光は異常だ。憎しみと怒りの視線で人を殺せるのだというほどに激しく一心に蘭玉を睨み据え、唇を噛み締めている。

 蘭玉が立ち上がろうとしたとき、再び青衛が水底を蹴って彼女に飛びつこうと身を屈めるのが見えた。明花は誰か、と叫びながら紅剣を抜いた。すらりと鞘走る涼やかな音がして、銀の刀身が目の前に来ると、自分の中の衝動が激しく吼え始めるのが分かった。

 剣を兄に向けながら明花は低く、小刻みに揺れる声を絞った。

「お兄様やめて、お願いだからもうやめて。蘭玉のことはあとでゆっくり話をしましょう? だから落ち着いて、お願い」

 明花の声に我に返った衛士たちが水を蹴りたててこちらへ来るのが視界の端にちらとうつった。剣は獲物を見つけたというように切なく呻き、明花の衝動を叩いて兄へ一閃をと責めてくる。

 剣を向けている相手が兄であるからこそ、明花はそれに耐えている。そうでないと剣の囁くまま誰もかもを殺してしまいそうだ。

 早く来て。

 明花は衛士たちが来るのを待っている。今はとにかく蘭玉を逃がし、兄を押さえることだった。蘭玉を救うというよりは、それは兄が人を殺すところをみたくないのだという強い願いであることを明花は理解している。

 私は臆病なのだと明花は兄から視線をそらさないまま考える。兄が人を憎むことがあるということも、蘭玉を殺そうとしたことも、認めるのが怖い。けれど、兄が蘭玉を手に掛けて抜き差しならないところまで堕ちてしまうのがもっと怖い。目を閉じればいつも穏やかで優しい兄との沢山の思い出が浮かぶのに、そこに血飛沫の結末を入れたくない、どうしても!

 と、蘭玉が凄まじい声を上げて笑い出したのが聞こえた。たががはずれたような高く狂った声だと明花は顔をゆがめ、背後にいる彼女に目をやらないまま帰りなさいと叱りつけた。けれどその返答は失笑だった。

「知ってる、明花様? この人はね、子供なんか作れないのよ、だって──」

「蘭玉!」

 青衛が叫んだ。それは明らかに制止の声で、明花を縫いとめて動けなくしてしまう。酷く切羽詰って余裕のない声は、今までに聞いたことのない絶叫に聞こえたのだ。

 蘭玉は青衛の声に小さく笑って明花の肩を抱き、肩越しにまっすぐ青衛を指差した。

「だってこの人は男じゃないもの。女でもない、どっちつかずの畸形なのよ」

 何が耳元をかすめたのか、明花は咄嗟に分からなかった。思わず蘭玉を振り返り、何度か瞬きをしているうちに、ようやく彼女の言葉の意味が落ちてきたが、それはすぐに信じられる類の話ではない。

 明花は蘭玉に目をやる。池に落ちて濡れた衣装が彼女の肌にはりつき、女性らしい曲線を描き出している。恐らく自分も同じだろう。兄のほうも羽織った上着が濡れて身体に張り付いているが、明らかに女性の身体ではなかった。嘘よ、と明花は蘭玉を睨んだ。

「何を言ってるのか分からないわ。どういうことなの」

「だから言ってるとおりよ」

 蘭玉がふんと鼻を鳴らす。髪から雫がぼたぼたとこぼれ続けていて、それがまるで涙のようにも見えた。

「こいつは男でも女でもない。両方あるのよ、わかる? 子供なんて絶対に作れる身体じゃないの。それを黙って総代と名乗って結婚までしようとするなんて図々しいにも程があるわ」

「──だから婚姻を受けるなとあれほど頼んだじゃないか!」

 青衛の叫びが耳を打ち、束の間全てが凍り付いてとまった。兄を止めるために水を散らして駆け寄ってきた衛士たちの足も、釘打たれたようにとどまり、ただ余韻に水がゆれている。しんと張り詰めた沈黙の中を、兄の絶叫だけが裂いて飛んだ。

「私は辞退するようにお前に言ったはずだ、蘭玉! それを手拍子で受けておいて、私の辞退して欲しいと言ったことも聞かず、既成事実とやらを作ろうと夜這いまでかけておいてその言い草はなんだ! 私が図々しいならお前も同じだ、黙っていてやる代わりに張家を引き上げろなど、傍流も過ぎると分かっているだろう!」

「だからって私の首に手をかけたのはあんたでしょうよ! まともに外にも出たことのない温室育ちが満足に人も殺せやしないで総代だ上流だなんて腹がよじれるね! まして子など作れやしないのに妹とつがって体裁だけ整えるつもりなんてどんな欺瞞なんだ!」

「やめて!」

 明花は剣を水面に叩きつけて怒鳴った。兄と蘭玉の言葉を聞いているだけで胸悪くえづきそうになる。

 紅剣が微かに震えながら明花に囁いてくる。もう二人とも斬り捨てて終わりにしてしまえばいい。そうすればこれ以上聞かなくて済む。彼らの悪意も真実も何もかも。そうすれば綺麗なままの思い出だけを信じて生きていける。今彼らを斬ってしまえば……

 けれど明花はそれに耳を貸さない。誰かを傷つけるのはどうしても出来なかった。

「もうやめて、お願い、やめて……」

 自分の声が泣き出しそうに潤んでいるのに気付き、明花は瞼を閉じる。頬を転がり落ちていく水滴はほんの僅かで、ただ目の端が異様に熱く痙攣しているのだけが痛かった。

「お兄様、蘭玉の話というのは本当なの……」

 明花の問いに青衛は顔を背けた。胸衝かれるほど血の気が失せて青褪めた頬が、激しい痛みをこらえるようにさっと引き攣ったのが見えた。お前は私を蔑まないから、と呟いた兄の顔だけが閉じた瞼の裏をかすめた。それを弱いと責める気にはならなかった。ただひたすらに悲しく、ひたすらに辛く、兄の痛みを思うと切なくやるせなかった。

 どうして、と明花は呟き、それからじっと俯いた。明花と自分を呼ぶ兄の声に気付いたのは束の間ぼんやりした後のことで、顔を上げて青衛を見ると、彼は悲しげに唇だけで笑おうとしていた。

「つがいの鳥も片方がいなくなれば無意味だ。すまなかった、明花。もういい、ザクリアへお帰り」

 青衛は明花に頷き、蘭玉を見た。その目にさっと一瞬の烈しい炎が宿るように見えて明花は蘭玉の前に回りこみ、剣を兄へ向けた。これ以上兄が取り乱して蘭玉を制裁しようとする様など見ていたくなかった。

 青衛は笑った。今までの蘭玉との禍々しいやりとりなど夢のような、清しくやわらかな美しい微笑だった。

「お前は今も私を守ろうとしてくれているのだね。優しい明花」

 兄の声はぞっとするほど静かで威厳に満ちており、うやうやしい予言のようにさえ聞こえた。ありがとう、と青衛の声が続けたとき、何かの凄まじい予感が明花の背を撃って、明花は咄嗟に振り返った。

 蘭玉がどこに隠していたのか小刀を振り上げる。水に足をとられてふらついたとき、目の前に切っ先が落ちてくるのが見えた。

 耳元で一斉に歓喜が吼えた。明花が何かを叫ぶより早く、明花の腕が剣先で弧を描くようにあがり、刀身の脇で落ちてきた小刀を握る腕を跳ね飛ばして蘭玉の胴を下から斜めに斬り上げた。

 その途端に強い痺れが剣と腕を伝って明花に注がれたのが分かった。脈打つ歓びの塗り潰された赤が目の前を踊る。震えるほど楽しい。心地いい。だから恐怖もそれと同じか更に上だった。

「いや……!」

 明花は悲鳴を上げた。自分の唇は拒否を吐いているのに剣は明花を引き立て、もっとと強く牽引して蘭玉の肩へ吸い込まれる。明花が思わず閉じた目の裏を、ちかちかと明滅する快楽の強さ。

 いや、いや、と喘ぐ自分の声がまるで情交の時の声と同じで明花は更に声にならない叫びを搾り出す。けれど腕は明花の言うことを聞かない。もっとという囁きに従うように腕を振り上げた。

 突然目の前に黒い衣が転がり出てきて明花は瞠目する。それが蘭玉に飛びついてやめなさいと叫ぶ。腕が剣を振り下ろす瞬間に、明花はそれが兄であることに気付き、あっと声をあげた。その声が消えない間に剣は兄を貫き、歓喜に震えて命を啜り始めた。それは蘭玉の時よりも遥かに強く明花を痺れさせ、呆然とさせた。

 震えながら明花は抜こうと力を篭めた。手が言うことを利かない。まるで逆に、兄の心臓を貫けなかったことを埋めるようにぐいぐいと捻り上げ、血を吹き出させている。

 明花、という声が耳元で優しく響いたのはそのときだった。

「行きなさい明花。私は死にたかった。死んでしまいたいのに誰も許してくれなかった。ありがとう、蘭玉と一緒に死ぬつもりで出来なかったのを、お前に清算を押し付けてしまったことを許しておくれ……」

 うなされるように青衛は早口で呟き、血を吐いた。剣に貫かれた肺から噴きあがる血流が喉をあがってきたのだ。お兄様、と明花は囁くが、言いたいことを上手く見つけられない。何かを言わなくてはいけない気がするのに、どうしても出てこなかった。

「お兄様、お兄様」

 うわごとの様に繰り返す明花の手を青衛は握り、ゆっくりと指を柄からもぎはなした。最後の指が柄から離れた瞬間に明花の目に涙が吹き上がってくる。快楽の残滓は気だるく、眩暈が酷い。涙が止まらない。兄が明花に微笑んで、行きなさい、と肩を押した。

 ふらりと明花は立ち上がった。兄の目線が自分を愛しく撫で、唇をゆるめた。お兄様と呼んでくれるのだねと言われているのは分かった気がした。明花はどんな意味もなく、ただ首を振る。

 泥に鞘を投げ捨て、池から出るために歩き出した明花を衛士が一瞬追いかけようとしたのを、兄がいいと強く止めたのが後ろで聞こえた。

 池からあがり、明花はそのまま走り出す。ほんの四日前にくぐった翰邸の赤い門扉を押し開き、大路を南へ駆けて行くと見慣れた背中が境界門の前で手持ち無沙汰に座り込んでいるのが見えた。

 涙があふれてくる。とまらない。名前を呼びながら飛びついて首に腕を巻きつけると懐かしく、暖かな匂いがした。自分が泣いていることをどう思ったのか、シエルが肩を抱いて大丈夫大丈夫と繰り返す。明花は頷いてシエルを見上げた。涙でひどい顔になっているのはわかっているが、今言わなくてはいけないことがある。多分、これでいいはずだ。

「愛してる」

 明花はそう言ってシエルにもう一度抱きついた。うんという返事が耳元でして、照れくさそうにシエルが笑ったのが聞こえた。ふわふわと彼の言葉が耳をくすぐって嬉しい。

「どうしたんだメイファ。実家で何かあった?」

 いいえと明花は首を振る。シエルに兄のことを説明するのはまだ先のことになるはずだった。兄は恐らく死ぬだろう。紅剣を通じて吸い上げてしまった力強い命の量は膨大で眩暈がする。

 それでも行けと明花を押してくれた。兄は漢氏の中でさえずる最後の鳥で、そしてそれをまっとうするつもりでいるのだとそのとき分かった。

 明花は止まる気配のない涙を指先でわずらわしく払いながら結婚して、と微笑んで見せた。口唇はぶるぶると震えているし涙は流れてくるし、少しも綺麗じゃない自分に、シエルがうんと頷くのが見えた。

「結婚しよう、メイファ。俺も君を愛してるんだから丁度いい」

 今度は明花が頷く番だった。明花は愛してると繰り返し、シエルの胸に頬をすりつけて呟いた。

「結婚しよう、シエル。そして子供を沢山生むの。沢山、沢山、子供を作ろう。私とシエルの子供を」

 シエルが少し困ったように笑い、何言ってるか分かってる? と聞いた。分かってる、と明花は頷き返し、シエルの手を握り締めた。

 これから先、ずっとずっと長く共に歩むための艫綱ともづなとなる、彼の手を。

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