魔女の末裔
『いやよ。返して』
──何を言ってるの? だってこれは私が貰ったのよ?
『違うの。私にくれたの。だから返して。返しなさいよォ……』
──泣かないでよ。分かったわ、あげるわ。だから泣かないでったら。
『何よ、偉ぶって。妾の子のくせに』
──あんたこそ物欲しがって。あんたみたいなの、きっと魔女になるわ。
侍女の細筆が仕上げの芙蓉花を額に書き終えた。イルヴィスは鏡の中にいる自分に向かって歯を見せて笑顔を作った。いい出来だ。これなら陛下もきっと満足されるに違いない。
「とてもお美しいですわ、イルヴィス様……」
侍女の賛辞に淡く頷く。誰からも褒めそやされる美貌はこの夜も溢れしたたるようで、自分でさえも一瞬ほれぼれするような造形の良さだ。濡れたように黒々と輝く二皮目とやや肉厚でぽってりした唇が、見る瞬間によって呻くような美女にもなるし、ひどく淫蕩に見える時もある。いずれにしろ、それはイルヴィスを所有する男を喜ばせるものであった。
イルヴィスは化粧台の前から立ち上がり、夜会用の淡い色をした刺繍の肩掛けを羽織った。
刺繍の図案は芙蓉の花だ。イルヴィスが暮らす小宮は通称を芙蓉宮と呼ばれている。それは芙蓉の花を愛した何代か前の皇后が、花の紋様や意匠でこの宮を飾り立てたからだ。階段の手すりや廊下を飾る模様硝子、それに白大理石の大岩を芙蓉花の形に彫り込んだ湯浴桶などの、豪奢を極めた品々が溢れている。
自身はあまり贅沢な生活に頓着していないが、イルヴィスの暮らしぶりは仕える者たちの矜持と関わってくるからあまり要らないと言うことは出来なかった。だから自分から何かを欲しいとねだったり進められない内に何かをあつらえたりということは、イルヴィスはしない。その慎ましさが自分を守る盾であるのだ。
人の噂と視線が幾千幾万の矢よりも強い、王宮というこの場所では。皇帝の寵姫という立場では。
イルヴィスは参りましょうか、と小さく言った。この夜は皇后エグレットの二四回目の誕生日だ。通常寵姫という身分にある者が正妻の為の夜会に招かれるなどとは起こらないが、皇后エグレットはイルヴィスの異母妹であった。皇帝の求めに応じて妻となった異母妹の添嫁としてイルヴィスは後宮へ入ったのだ。添嫁というのは正妻に付随する侍女で、正統な妻に対しての一族の保険でもある。
特に、エグレットの場合はイルヴィスを付帯させることが皇帝の最初からの望みであった。
劣腹の姉イルヴィスは華やかで絢爛な美貌を、そして正腹の妹エグレットはたおやかで可憐な秀麗さを、それぞれふんだんに与えられて生まれてきた。
お互いにさほど似ているわけでもないのだが、異母姉妹という血の共通が二人を関連づけたがる世間の口にあがるとこうなる──『帝都の二粒の真珠』。異母妹と自分は、そんな風に渾名されていた。
それを欲しがったのが今や自分の夫である皇帝リジェス4世であり、喜んで差し出したのが父、アリッシュ伯爵トルゼンであったのだ。
皇帝は二人の姉妹の間をゆらぎながら生活をしている。どちらの寵が多いかなどという下世話な勘定は下々に任せておけばいい。自分にそれがあると信じていなくては、まともな神経など保てないと知っていた。
後宮をめぐる回廊をゆっくり歩きながら、イルヴィスは内心でぬるい吐息になった。ひどく気が重い。
エグレットとはここ二ヵ月ほど顔を合わせていなかった。後宮入りした四年前には時折の行き来もあったものを、皇帝の寵や二人の権勢を比較しては訳知りに囁かれる噂の数々が、次第に姉妹を遠ざけていた。
たまたま行き会って話をすれば、それがどんな会話であったのかを十日ほどで宮廷の皆に知れ渡る。皇帝からの下賜品の取りざたで含み笑われたり、曰くありげに微笑まれたり、そんなことが続く内にエグレットに対して自分は次第に高い壁を築いていったようであった。
幼い日々には妹と自分は手を取り合って遊んだはずであった。異母姉妹とはいえイルヴィスの母が早くに他界したこともあり、本当の姉妹同然に育ってきたのは事実だ。けれどそれは真実ではなかったと、イルヴィスは後宮に入ってから分かった気になった。
自分は十分に美しい娘であると言われていた。少女と呼べる時代から、イルヴィスの周辺には沢山の求愛が転がっていた。
けれどイルヴィスはそれに一瞥も与えなかった。正式な妻の子ではないにせよ、アリッシュ伯爵家は三大公家のひとつアルカナ大公家閥に連なっていて、上流貴族の末端に噛んでいるのだ。
父は自分をことさら客人の前で可愛がって見せた。膝に置いて戯れてくれたのも一度や二度ではないのだ。父の愛情を受け取って誇らしげだった幼い日々には、自分は朗らかに己を誇示し続けていた。幸福であった。
──今なら分かる。それが劣腹の自分に『父親の愛情』という形の箔をつけるための所作であったことが。所詮本妻の子でない娘を政略婚の為の手駒とするならば、そんな付加価値が必要だったろう。
今それを思い返せば、愛されていると信じていた自分の愚かさと、愚かさゆえの無邪気な傲慢さに、眩暈のするような怒りを覚える。自分の真実の価値など知らずに思うさま美しい羽を広げ誇る小鳥は一体どれだけ惨めだろうか。皇帝からの熱心な打診がイルヴィスの運命を変えたが、そうでなければ何かの景品のように勿体つけて、いずれ誰かに与えられたはずだ。イルヴィスはそのために愛されていたのだから。
だからエグレットが自分を蔑み、冷ややかに笑うのは当然のことだ。けれどそれに不快感を感じることは全く別の話だろう。妹のいささか哀れんだような笑みだけは、イルヴィスは到底許容できないと思い定めている。
そしてこの胸中を誰かに悟られることだけは、断じてあってはならなかった。自分自身の華やかな美しさにそんなものは似つかわしくない。
イルヴィスはきりりと面をあげて夜の回廊をゆく。夏まだ浅い夜は、大きくあけた衣装の胸元を冷やして、尚更憂鬱な気分にさせた。
広間には既に妹エグレットの姿があった。やはり大きく胸元の空いた衣装を着ているが、イルヴィスがそこを惜しげなく晒しているのに対し、彼女は開いた肩口から首筋にかけてを一面、繊細な銀レースをまとわせている。銀の華奢な輝きと、エグレットの持つ本来の清楚然とした細い美貌とがよく似合っていた。
「皇后陛下のご生誕の祝賀を、心よりお祝いいたします」
イルヴィスは一段彼女より高い場所に座る異母妹に向かって臣下の礼を取った。公式の身分としては妹の侍女であるし、正妻に向かって吠える妾など論外だ。そんなものの為に魔女の汚名を着るくらいなら、いくらでも礼をつくす。
皇后エグレットは頷き、細い声でおねえさま、と言った。けれど声音には幼い頃に屋敷の中で隠れ鬼をした時のような甘えた心細さも、彼女を呼んで泣いた逼迫も、何も潜んでいない。鉄のように堅い色をしている。
「おねえさまにお祝いしていただけて、嬉しいわ。おねえさまの時にもきっと派手にいたしましょうね。花火師と軽業師を呼んで、それから楽師も。きっと楽しいわ、陛下もお楽しみ下さるでしょう」
エグレットの奢侈の計画にイルヴィスは柔らかに笑いそうになって、面伏せた。
凛とした百合花のような雰囲気とは逆に、妹には贅沢という感覚を測る物差しが備わっていない。今夜の衣装は虹色のやわらかな光沢を放っているが、これは螺鈿貝の模様目をかき集めて練り込んだ合成絹糸、それにびっしり裾に入っている水泡の淡い模様は淡泊真珠を一粒一粒縫いつけた刺繍、いったいどれだけの金がこの衣装一枚に消えたことなのか、見当が付かない。
無論そうした放恣を二人の共有の夫たる皇帝が容認しているのだから口出しは禁じ手であった。シタルキア皇国は既に六百年以上の歴史と、徴税をいっさい辞めてしまったとしてもゆうに二百年は国体を維持してゆけるだけの債権や権利を持っている。王宮に眠る富は巨万というしかなく、エグレットの衣装など取るに足らない。
けれど、と伏せた表情でイルヴィスはひっそり笑う。要は金の多少ではなくて、浪費の度合いが人の口に上るかどうかだ。エグレットの放埒は有名で、宮廷のどこでも彼女の今日の靴や指輪を知ることが出来る。
好きなだけ、浪費すればいいのよ。イルヴィスはじっとそれを眺めている。いつか何かが起こった時に、それは妹を糾弾する理由に充分なりうる。国庫を私物化した傾国の美女に与えられる名称は、もはや決まっているに等しい──『魔女』。
この国の歴史が始まる以前から、既にその言葉は存在した。男を食い散らかす、死と破滅を招く美女を人々は、恐怖を籠めて魔女と呼ぶ。
歴史に名高い稀代の魔女ナリアシーアは複数の王と一つの国家に死を与え、その末裔とされて火あぶりにされた魔女メリキトーナは皇帝とその皇子たち全てを死へ連れ行き、更にその末と認定された魔女アリッカは皇帝を殺して自らの一族全てを呪い殺した。
魔女が生まれるのは必ず宮廷であり、魔女に関わった男たちは身を滅ぼす。魔女は発散される美しさで男を魅惑する。そして魔女は必ず呪う。
国家と皇帝とその一族を。
この六百年余り、この国は三人の魔女を輩出しているが、その誰もが魔女の名にふさわしい壮絶な死を遂げている。その四人目が、取り澄ました顔で自分と夫を共有する妹であって、何がいけない。
この場合は幼い頃からの記憶の共有があるだけ厭わしさは深く、疎ましさは増すものであった。妾の子のくせにと幼い妹が自分を罵ったことだけは一生許すまいとイルヴィスは決めているが、それがなくともきっと今のように自分たちはお互いを許容できなかっただろう。
持つものも持たざるものも、何もかもが似ていないのに、欲しいものだけが同じなのだ。幼い頃は下らない硝子玉や花や蛍籠だったそれは、今はもっと具体的で直截なものに変わっている。
皇帝リジェス四世の視線や声音や微笑みはイルヴィスのたった一つの拠り所であったし、彼女の全てだった。柔らかな面差しと柔らかな声で、時折はイルヴィスに降り積もった黒い雪のようなものを溶かしてくれる。その穏やかな優しさに触れていると妹のことや他の細々した苛立ちも、全てが消えていくような気がした。
皇帝として出会った彼は、穏やかに自分を愛してくれた。だから彼にとって邪魔にならず癒される存在でありたい。夫のことをイルヴィスは愛していたし、夫にも愛されていると信じている。
だから妹のことを思い出す一人の夜にはますます彼女が憎らしかった。自分を蔑み冷笑を与えた者と、一人の男の吐息や身体やその他の全てまでもを共有しているかと思うともの狂おしい気持ちになる。
それはきっと屈辱感と呼び変えても良かった。それを自分に与え、今も与え続けようとする妹を許せない。いずれ魔女の噂でもたって、妹が宮廷を去ってくれたら。その波風が自分によって立つのか、他人によって起こるのか、この二つには大きな差がある。出来ればそれは自分と関わりないことである方が望ましい。
だからイルヴィスは奢侈に身を置くエグレットの傍らで、つとめて控えめに振る舞ってきた。全てはこれからだ。二人共にまだ懐妊の兆しがないが、これも大きく事態を流動させる。今は黙って妹のすることを眺めているのが良かった。
「……わたくしの時になど、結構ですわ、陛下。お心だけ有り難くちょうだいいたしますけれど、今日は一段と素敵なお召し物ですわね」
妹ではなく衣装を褒める辺りがイルヴィスの意地であった。そう、と異母妹は微笑んで裾を軽くつまんだ。
「真珠をね、探すのが大変で。間に合わないかと思いました。ほら、裾の水泡……わたくしとおねえさまがよく遊びに参りましたエリール海岸の想い出のよすがにと繍わせたのです」
何かを思いだしたのか、うふふとエグレットは含み笑いをした。端正な目元が微かにゆるんで、妹はこんな瞬間が一番美しい。イルヴィスは微笑んで頷き、素敵ですわと追従した。
お互いの衣装の賛辞が一通り済んだ頃、エグレットが話疲れたというように葡萄酒を口にし、それから首を傾げて広間の扉へ目をやった。そこは皇族専用の回廊から通じている扉であった。妻の誕生の祝いの席だというのに、夫が姿を見せないなどとはあり得ない。
遅うございますわね、とイルヴィスが呟くと、エグレットは頷いた。皇帝はイルヴィスとエグレットという異母姉妹の双方をこよなく大切に扱っており、その片方の祝いの席をもうけておきながら出席しないということは考えにくかった。
どうしたのだろうと口にしかけた時、扉の前の番衛士が身動きした。扉に手をかけ、深く腰を折りながらも器用に開く。皇帝臨御であった。
ほっとエグレットが溜息をついて立ち上がる。イルヴィスは妹の前に膝をつき、夫へ目をやった。 おや、と思ったのが最初だった。元々肌の白い夫であったが、それに青みがかかっている。血の気も薄い。顔色が悪いのだと一瞬後に気付き、イルヴィスは陛下と呟いた。
その声で妹がちらりと自分を見た。同じ事を考えていたのだろう、イルヴィスとよく似た困惑が、その紫の瞳に浮いている。エグレットと視線を合わせてどちらからともなく頷き合い、二人は皇帝へ足早に近寄った。
「陛下、お顔色が悪うございますわ」
エグレットが口火を切る。こういう場合、正妻から口を開くのが通常であろう。皇帝は微かに微笑み、大丈夫だよ、と囁いた。けれど、どんなに明るい光の元で見ても頬に血色は見えない。イルヴィスも陛下と低い声を出して、その袖からのびた手をそっと押し包んだ。
「無理をなさらないで、今日はお休み下さいませ。皇后陛下も陛下あられてこそ、心安かにおられるのです」
「そうですわ、陛下。おねえさまの言うことが正しゅう存じます。どうか本日はお戻りになって、ゆっくりとご静養を……」
妹の言葉が急に奇妙なところでとぎれた。イルヴィスは夫を見上げた。自分の握る片方の手は冷たく、もう片方の手は何かを耐えるように顔面を掴んでいる。
「陛下……?」
不思議そうな自分の声がした時、それはゆらりとかしいだ。
自分の目の前で、皇帝その人がゆっくりと倒れていく。がくんと反り返った首筋がやけに白く細い。黒髪が宙を泳ぐようにゆらいで、それが糸を引くようだと思った瞬間、夫の身体が軽い音と共に床に放り出された。耳が痛い静寂が降りた。誰もがその場に起きたことを惚けたように見ている。
と、その耳に女の細い悲鳴がした。
瞬間、時間が戻ったように悲鳴と喧噪が湧いた。イルヴィスは呆けたように妹を見た。エグレットもまた、イルヴィスを見ている。蒼白な顔は秀麗さに入った亀裂のようにひび割れていた。
皇帝の身体が必要最低限の丁寧さと迅速さで運ばれていく。
それを呆然と見送ったイルヴィスは、ふと周囲を見回した。それまで華やかに笑いさざめいていた空気は払拭され、変わって奇妙な沈黙があった。
そっと自分の腕に妹が触れた。 はっとして妹を見ると、エグレットは何かに怯えるように震え、蒼白なままで彼女に身を寄せてきた。何とはなしにその肩を抱いたイルヴィスの耳にその声は聞こえた。
「……魔女……」
誰かの呟き。
水を打ったように静まりかえる広間に、やがてささやきの波が広がる。
魔女。
魔女。国を滅ぼし、男を食い、皇帝と出自の一族を呪うという魔女。
魔女。魔女。死の領域、破滅の先達、そして何よりも──傾国と歌われるほどの美貌を持っている。条件にはかなう。あれは魔女。破滅の魔女。死の魔女。魔女。魔女。魔女、魔女、魔女魔女魔女───
密やかな声がわっと広がっていくのを目の当たりにしながら、イルヴィスは震えていた。喉が干上がっていて、声が出ない。やっと呟いたのは、ひくくしわがれた一言だけだった。
「私は違うわ……」
それにはっと我に返ったような妹がぎこちなく頷くが、それは歯止めにはならなかった。違う、と妹が呟き、そして絶叫した。
「違う! 私じゃない! 私じゃないわ! 私は魔女なんかじゃない! 違うのよ!」
けれど、それに応える声はどこからもなかった。魔女と見つめる視線の中で異母姉妹は怯えたように身を寄せ合って、首を振った。イルヴィスも違うと呟いた。
何故こんな事になるのか、まったく自分では理解が出来ない。違うのよ、と呻いた声音がエグレットの枯れた声とぞっとするほど似ていた。
──公歴九五四年、七月二日、皇帝不予。そしてその日から魔女狩りが始まった。
微かな雨の音が窓の向こう側に聞こえている。イルヴィスは鈍く痛みを訴えてくる額を指先で押しながら、じっと外を見ている。煙るように曇る硝子に遮られ、美しく整えているはずの庭は殆ど視界には入らない。世界の色は雨のように無色であり、冷たかった。
イルヴィスは一日を殆どこの窓辺に過ごしている。華やかだった日常も、彼女の部屋の前に列をなして献上の品々を持ち込んできた商人や貴族達も、微笑みあっていたはずの取り巻きも、全てが消えた。魔女と囁く人々の視線に耐えることは辛いことだったが、何よりも堪えたのは夫と会うことさえままならないことだ。会いたい、自分の手で看護差し上げたいと何度も請願しているが、全く返答はなく、ないことが無言の回答なのだと理解しなくてはいけない時間であるのに、それを認めることが出来なかった。
いや、もっと辛いのは夫を愛しているはずの自分の胸内に、薄墨のように苦い不信が広がっていくことだ。柔らかな微笑みで眼差しで、夫は自分を美しいと誉め、優しく包んでくれたではないか。それを必死で思い出そうとしている。そうでないと広がりかけた影を払うことが出来ない。夫からの贈り物、夫からの簡単な言伝の紙片。そんなものですら、自分を支えるための支柱として縋り付いている。
いいえ。イルヴィスは唇を軽く噛み、硝子を睨む。縋り付いてなどいない。夫はきっと混乱しているだけで、いずれ理性を取り戻したならばきっと自分を呼んで長い無聊を慰めるように言うはずだ。その時こそ自分は場末の娼婦にでもなれるだろう。きっと夫の愛を取り戻すことが出来るはずだ──その思考にイルヴィスは自分でぎくりとする。取り戻さなくてはならないという言葉は、現実が今は背を見せていることを認める言葉のようで、一層ひどい痛みを覚えた。
イルヴィスが溜息を小さく落としたとき、扉が叩かれたのが聞こえた。不予以来彼女の元を訪れるものは殆どなく、侍女たちも殆どを実家へ帰してしまった。不審に思いながら扉を開き、イルヴィスは溜息をついた。
「皇后陛下……」
ええ、と頷いたエグレットの表情は無い。繊細で細い美貌はそのままなのに、たおやかな風情だけがげっそりと抜け落ち、まるで死人のような顔だ。染み一つなかった白い肌に色濃く隈が浮いている。
「どうなさったのです、陛下? 呼んでいただけたらこちらから……」
その言葉をイルヴィスは最後まで続けることが出来なかった。エグレットはおねえさまと呻くように呟き、彼女の首に腕をまきつけて肩を震わせはじめたのだ。痙攣する妹の細くいとけない肩をイルヴィスは反射のように抱き寄せた。おねえさまともう一度エグレットが呟いたのが聞こえた。
「助けて、おねえさま。わたくし、どうしていいのかわからないの……」
どうぞと招き入れたのは、妹の声があまりにも細く暗く、今にも消えてしまいそうだと思ったからだ。あの誕生会の以前には鉄の色だった妹の眼差しがほどけ、ただひたすらに弱く保護するべきものになってしまっている。ずるいという声も微かに自分の中から聞こえるが、それよりも庇護欲を直接触るような涙が、イルヴィスに咄嗟にそれらを無視させた。
エグレットは暫くの間、イルヴィスの胸に顔をよせるようにしてひたすらすすり泣いていた。何があったかなど、聞くことでさえなかった。イルヴィスと同じことが彼女にも起こったのだろう。魔女という囁きが水面に広がる波紋のようにすさまじい速度で伝播していくのを見たあの瞬間から、自分達はこうなることを決定付けられてしまったのだ。
「陛下はわたくしに会っても下さらないのです。おねえさまがもし、陛下にお目通りしているのなら、わたくしにも是非機会をくださいと、お願いして頂きたくて、わたくし、おねえさましかお願いできる人がいないのです、お願い、おねえさま、陛下と会わせてください……」
妹の言葉にイルヴィスは呻いた。どうやら面会を拒否されているのは自分だけではなかったのだ。そこに至って初めてイルヴィスは、自分達を取り巻く状況が非常に悪く、切羽詰っていることを理解した。イルヴィスと違ってエグレットは皇后という立場を得ている。これは執政が可能な子がいない時には摂政という立場にさえ上がることが出来るはずなのだ。そのエグレットが夫に会えないと訴えている……
イルヴィスは妹の背をゆっくり撫でながら、じっと考えを巡らせる。夫には他の寵姫はいない。戯れに手をつけた侍女などはもしかしたらいるのかもしれないが、自分達姉妹の傾向の違う美しさは彼を魅惑し、捕らえ続けてきたはずだ。
「大丈夫ですわ、陛下。きっとすぐに誤解は解けるはずです。皇帝陛下はわたくしたちをあんなに大切にして下さったではないですか。少しまだ混乱されているのか、お具合が思わしくないのだと……」
「おねえさま、ご存じないのね」
口にした慰めを突然エグレットが遮って、イルヴィスは黙り込む。微かに妹の表情に哀れみのようなものがかすめ、すぐに消えて微妙に歪んだ表情だけが残された。
「陛下は既に床をお上げです。明日か、明後日には執務にも戻られるでしょう。わたくし見てしまったもの、陛下のところに新しい……」
妹は何かのために喉を一瞬うっと詰まらせ、細く震える声で続けた。
「新しい、寵姫が、披露目しているのを、見てしまっ……」
何ですってと呟いた自分の声が一度に何十も年をとったようにしわがれているのを、イルヴィスは一瞬遅れて気付いた。目の前が一瞬滲むように暗くぼやけ、脳天から血が抜けるような感覚をおぼえて長椅子のひじかけにもたれる。眩暈がする。それは一体どんな闇の初端なのだろう。
「このままではわたくし、魔女ということにされてしまいます。皇后の位など些細なことです。わたくしが魔女とされてしまえばお父様にも、アルカナ宗家の方々にもご迷惑をかけてしまうわ。おねがいですおねえさま、どうか陛下に会わせて……」
馬鹿な子、とイルヴィスは目元をゆがめる。芙蓉宮の外に以前賑やかにたむろしていた商人たちや芸術家の卵たちがいないことにも気付かない。自分もまさに沈みゆく船のように振り返られることなく捨てられようとしているのに。そこまできてやっとイルヴィスは気付く。エグレットにも彼女を取り巻いている侍女たちや幇間どもがいたはずで、妹が単身で宮廷を歩くなどついぞなかったはずなのに、エグレットは一人だった。
「陛下、ね、いつも陛下と一緒にいらした方々はどうしたの? 侍女たちだって、一人もいないということはないのでしょう?」
イルヴィスの問いにエグレットは唇を細かく震わせた。それはどうやら微笑もうとしているようだった。
「ええ、まだ沢山の侍女はおります──けど、わたくしについてくる者など誰もいないわ。だって、魔女の眷族にされてしまいますものね」
言い終えたエグレットの柔らかく白い頬に、深い亀裂がはしったのをイルヴィスは見た。それが笑顔だと気付いた頃には、小さく笑い始めたエグレットの声は次第に大きくなり、やがてはっきりとした笑い声と変わっていた。
幼子のように屈託なくエグレットが笑っている。その禍々しさにイルヴィスは押し黙り、妹の涼やかで清い笑い声にぞっと背を伸ばした。妹の瞳は何かを見ているようで、何もとらえていないようだった。あまりに邪気のない笑い声に、一瞬道化のしぐさに興じているようにさえ見える。
いいえ、道化というならわたくしたちのことかもしれないわ。イルヴィスは美しい喉をのけぞらせて笑う妹を半ば呆然と目に映しながら唇を結ぶ。帝都の二粒の真珠と呼ばれ、種類の違う美貌を誉めそやされ、賛辞と追従を降り注がれてわたくしたちは必死に陛下を喜ばせるために芸をしていたのだわ──
不意に胸内から転がり出てきたその言葉にイルヴィスはぎくりとする。夫を愛しているのだと呟こうとする作用さえ起こらない。妹の次第に甲高く上擦る笑い声が続いている。それを何とか宥めようとイルヴィスは努めて優しく柔らかな声を出した。
「魔女などと、馬鹿馬鹿しいことですわ、陛下。新しい寵姫が何です、陛下より美しい姫などおりません、本当に、そう思いますわ」
不意にエグレットは笑うのをやめた。じっと自分を見つめるエグレットの視線は強く、鉄の色をしながらもどこかで脆く危うかった。
「おねえさま、わたくし、自分が美しくないと思ったことはないのです。今でもわたくしと一緒に並んで立つ事が出来るのは芙蓉のようなおねえさまお一人、他は雑草のようなものですわ。でも、美しければ美しいほど、魔女とされてしまうのではないでしょうか、この顔が」
虚ろに微笑みながら頬に触れるエグレットの指先が尋常ないほど震えていることに、イルヴィスはようやく気付く。
「この顔が、美しいと言われ続けてきた分、みなわたくしが魔女であると信じているように思うのです。わたくしは陛下を害そうなどと恐ろしいこと、考えたこともございませんのに、信じたいものだけ皆見ているのです、わたくしの顔の向こうに」
言うなりエグレットは白い喉をのけぞらせ、震え始めた。指先の瘧が全身に回ったかのように身を揺すり、唇を喘がせているが、そこからは笑声も叫声もついに聞こえない。空気が微かにたわむ息遣いだけが聞こえる。
思わずイルヴィスは手を伸ばし、エグレットの華奢な手を握り締めた。何かのもやい綱がなければ妹の心がどこかへしどけなく漂っていってしまう気がして恐ろしかった。
「陛下、しっかりなさって。わたくしは陛下のお味方ですのよ、きっときっと、そうですのよ」
妹が断罪されることがあればきっとそれは自分も同罪とされるという恐ろしい予感がイルヴィスの背にぴたりと張り付いている。そうなれば良いと思っていたあの日々、それは何と現実感のない夢想だったのだろう。魔女という視線の刺さる孤独の檻の中で、いまや理解しあうことが出来るのはこの異母妹だけなのだ。
エグレットはありがとうと細く呟くと、腕をイルヴィスの首に巻きつけ、肩口に顔を埋めるようにして静かに泣きはじめた。声をたてず、ただ身を震わせるような涙をどうしてやることも出来ず、イルヴィスは妹の背をひたすらに慰撫し続けた。
「おねえさまの匂い、昔と同じ……」
啜り泣きながら、小さくエグレットが呟いたのが聞こえた。遠い記憶の中で、父に叱られて薔薇の茂みに隠れてしまった妹を抱きしめたことをイルヴィスは思い出した。淡い匂いを手繰り寄せようと瞼を閉じようとしたとき、微かに何かの物音が聞こえた気がして顔を上げる。それは妹にも聞こえたらしく、水鳥がたおやかな首を不安にもたげるような姿勢でエグレットが扉を振り返った。
──丁寧で正確な打音。けれど扉を開けてしまえば凄まじく凶暴な獣が雪崩れ込んできて自分達を喰らい尽くしてしまう──イルヴィスは自分の胸に沸いた幻影の禍々しさに呻いた。エグレットがおねえさまと怯えたように呟き、彼女に身を寄せる。細い肩を抱き寄せながら、イルヴィスはどなたですと返事をした。
その途端、扉が開いた。イルヴィスは驚愕する。扉を叩くのは入室の許可を請う印で、その可否を決めるのは部屋の主であるイルヴィスのものだ。入って良いと返事をする前に、名乗りもせずに扉を開くなどという無礼な真似は、実家であるアリッシュ伯爵家にいた頃にさえ覚えがない。
「わたくしは入ってよいとは申し上げなかったはずですよ」
非礼を咎める自分の声は硬く強張り、僅かに震えているようでもあった。いいえと答えた男は知らない。ただ、紺色の詰襟になった制服は近衛のものだ。胸を飾る徽章の数からすると上位にいる者には間違いなく、引き連れている騎士たちが下命を待っていることでも分かる。
「近衛が何の用です、お下がりなさい、皇后陛下の御前ですよ」
相手が自分より下位の立場であると認知し、イルヴィスは強く言った。エグレットがはっとしたようにイルヴィスから離れ、お下がり、と声を上げた。
「わたくしはおねえさまと話があるのです。近衛の分際でわたくしの不興を買ってよいことなど一つもないと思い知ることになりますよ」
だが強い言葉とは裏腹にエグレットの声はかすれ、哀れなほど震えている。騎士が一人、滑るように近づいてきて腕を掴んだ──エグレットの。
「何を……」
言いかけた言葉をイルヴィスは最後まで落とすことが出来なかった。金属の滑る音がして、自分の喉元に銀色の突端が突きつけられて身動きさえ取れない。不意に目の前がかすみ、胸がずきずきと激しく波打ち出してイルヴィスは喘いだ。
彼らの目は静かで何の感情も浮かんでいなかった。これは職務なのだという頑徹だけを表情に貼り付けている。無礼を咎める言葉も、非難する言葉も、全てが失われてしまったようにイルヴィスは立ちすくんだ。これは何、という疑問だけが激しく脳裏を渦巻いていて、他に何も考えられない。エグレットに対してぞんざいな態度を取ることは通常考えられない。彼女は正式な手続きを経て立后されたこの国の正妃皇后であるからだ。けれど、これではまるで罪人のようではないか。
罪人という言葉が浮かんだときイルヴィスは喘ぎ、僅かによろめいて半歩下がった。
魔女。それだけが浮かんだ。
癇症な叫びが突然耳を打ってはっとイルヴィスは目の前の光景に焦点を戻す。近衛がエグレットの腕を掴み、無理に立たせてどこかへ連れ去ろうとしていた。もがく妹の動作は緩慢で、死に至る獣のようだ。
妹の美しく結い上げた髪はひどく乱れ、ほつれながら落ちかけていた。髪先に白金と緑柱石で意匠した花を細かく散らして翡翠の小鳥をあしらった櫛がぶら下がり、妹が身じろぎするたびに揺れている。
それは確か一昨年のエグレットの誕生日に夫である皇帝その人が贈ったものの一つであるはずだった。翡翠は色をつけたように深い緑、緑柱石も藻の入らない最上のものを惜しげなく使い、精緻で優美な細工に一体どれだけの金が消えたのかという暗い嘲笑を聞いたはずだ。
その櫛が今不安定に妹の髪の末端で揺れている。それでようやく妹に視線を戻すと、エグレットは騎士に腕をとられて床に押し付けられるように沈むところだった。
「エグレット・ユリテ・チャリエット=アリッシュ」
上長らしい男が妹の名を長く呼んだ。アリッシュと呼ばれた瞬間、エグレットが呼吸を止めたのが分かった。アリッシュの更に後ろに続くはずの国号シタルキアと、皇后であることを示す所属姓はついに呼ばれなかった。
「皇帝陛下に対する呪詛の罪を以って収監する。沙汰は追って決する」
妹の悲鳴はしなかった。エグレットは床にぐったりと沈み込み、肌はますます白く青褪めて陶器のようだ。騎士が妹の華奢な腕を掴んで乱暴に引き上げ、連れて行こうとする矢先にやっとエグレットの声がやめて、と小さく言ったのが聞こえた。
「お願い、陛下に一度でいいからお目通りを……」
その声も鈴を振るように細く優雅であった。
ならぬと男が簡単に答え、扉に向かう。たおやかな獣が必死の抵抗をするようにエグレットは全身で抗っているが、優しい獣程度の力しか持たない反逆など、まるで無駄であった。扉を抜けて姿が視界から消えようとする一瞬、エグレットが渾身をかけて身を振りほどき、手を伸ばした。
「おねえさま、おねえさま──助けて、わたくしは、違うわ!」
その指先があまりに弱く切なくて、イルヴィスは瘧のように震え出した。胸が早鐘のように打ち始め、血がかっと熱く煮えてあがってくる。その作用があまりに強く、今までぞっとするほど自分が冷え固まっていたことに、イルヴィスは初めて気付いた。
「助けて、おねえさま──」
妹の瞳が自分を捕らえている。離さない。全身全霊ですがり、頼り、訴える目。イルヴィスのこめかみがずきずきと脈を打ち、指先が熱く、火照りでこのまま燃え出してしまいそうだ。
言葉にならない。自分の腕にすがって助けてと繰り返していたエグレットの残り香が鼻腔の奥につんと残り、それが胸を刺す痛みで瞬きも出来ない。おねえさまと繰り返した妹の視線が自分の視線と絡み、離れるその一瞬、エグレットが切なく呻いた。
「おねえさま──」
何かを言いかけたとき、振り切ったはずの拘束者が再びエグレットを捕らえ、緩慢にもがきながらエグレットの姿は視界から連れ去られて消えた。
長い長い時間、イルヴィスは突き刺されたように立ち竦んでいた。何が起こったのかすぐには理解できなかったし、どう反応していいのかさえ分からなかった。
「あなた様は本日限りでお役を解かれることとなりました」
男の声が不意に耳を打って、イルヴィスは視線をやっと動かした。近衛騎士たちを束ねていた男が一人残り、彼女にゆっくりと腰を折るところだった。
「お役目……」
それが何を意味しているのか、咄嗟に理解できないままぼんやりと繰り返すと、男は不意に笑った。
「皇后陛下が罪人として獄されるとなれば添い人のあなた様も本来は一蓮托生であるが、皇帝陛下におかれては今までの功績に免じてあなた様に罪は及ばぬと仰せです。ただし、身内に魔女を出したことを軽く見積もることもございません。実家へ戻り、のち穏やかに生きよとのお言葉でございました」
何かに撃たれたようにイルヴィスはよろめき、ふらふらと後ずさった。全身からどっと汗が吹き出し、膝が震え出したのが分かる。膝から下が泥に埋まってしまったように動かない。くたくたと座り込んだイルヴィスに、男は手を差し出してイルヴィス様と言った。皇帝の寵姫として誇らしげに微笑んでいた頃に彼女の名を呼ぶ者があれば無礼だと一瞥をくれてやったはずが、気力全てが流れつくしたあとのように何もない。咎めるどころか自分は返事さえしているのだ。
「お美しい方だ、帝都の真珠にふさわしい。陛下は捨ててしまわれたが、私はあなたを所有できるならばどんな犠牲も払いましょう」
何を言われているのか判断するのに今度はあまり時間は必要ではなかった。差し伸べられた手をイルヴィスは振り払い、無礼な、と低く言った。
「自分の立場を考えて物をお言い。わたくしは、陛下の──」
「既に寵姫ではあらせられない。国母にもなりそこねた、ただの気の強い妾腹の姫君ですよ」
イルヴィスは言葉なく、一つ震えた。その言葉は今や真実で、真実だからこそ、胸の真奥を貫いて血を噴出させるような激しさを呼んでくる。下卑た言葉一つ打ち返すだけの気力が、今は尽きてしまったかのように出てこない。ただ胸内から沸いてくる目の眩むような赤い怒りが、練り巻き、巻きうねり、身体の中を這い回っている。
さあ、と男は薄く笑いながら手を広げてみせた。芝居がかっているようで、ひどく癇に障った。
「一度荷物をまとめて実家へお戻りください。私のことを思い出したら是非ご連絡を。お待ちしておりますよ、イルヴィス様」
男は笑い、笑いながら背を返した。イルヴィスは急激に冷えてきた腕をさすりながら唇を噛んだ。
エグレットの処刑が決まったという知らせが届いたのは、それから半月ほど経ってからのことだった。アルカナ宗家も必死に抗弁に走ったようであったが、エグレットの奢侈は有名で、皇后を免じるだけでは罪をあがなうことが出来ないとされたようであった。
夫であった男の柔らかい声音を思い出しながら、イルヴィスはじっと窓の外を見つめている。愛していると思っていた。あの優しい瞳の光は愛だったと信じていた。自分にも与えられていたそれは、恐らくエグレットにも注がれていたはずだった。二人に平等に、慎重に公正を均しながら与えられる愛。
イルヴィスは小さく笑う。魔女など言い掛かりだ。皇帝は不予として倒れはしたが、既に執務に戻ったと聞いていた。新しい寵姫が三名ほど後宮へ入り、皇帝を楽しませているという。多分、同じように慎重に公正に、平等に愛を囁いているはずだ。その馬鹿馬鹿しさ。
何が魔女だとイルヴィスは思う。皇帝を呪い殺したというのならば汚名も諦めがつくが、皇帝はまるで以前と同じように淡々と御前会議を開き、貴族たちの合意の上に決定した事項に署名を入れ、夜は後宮で新しい寵姫たちと戯れているというではないか。
では、何のためにわたくしたちはこんな目にあわなくてはいけないの? その疑問が繰り返し繰り返し、脳裏へ戻ってきてイルヴィスを苛立たせる。
早く忘れなくてはいけない、早く取り繕わなくてはいけない。それは理解している。娘二人しかいないこの家にとっては養子を取ることが重要な課題であったはずだが、選定が進まぬうちにこんな事件となってしまっては、最早望むことが出来なかった。畢竟、戻されてきたイルヴィスに婿を取らねばならないが、それも難しい。皇帝の寵姫であったという事実が人々に下卑た妄想を抱かせることも、その上で新しい夫に仕えることも、飲み込むには棘の在る果実で、それが分かるからこそ一層気鬱であった。
イルヴィスが溜息をついたとき、小間使いが彼女を呼んだ。地方荘園からの今年の利潤帳簿や贈答の品が届いたので検分して欲しいとのことだった。本来は父の役割であるが、あの事件以来呆けたように寝台に篭りきり、何か意味のないことを呟いたり突然泣き出したりと、一向に埒が明かない。養母は元々そうしたことには一切干渉せず、庭を整えて刺繍をさすことだけしかできない女で、当主が不調であるからといって代理が出来るなど到底ありえなかった。結局イルヴィスが傷心に沈む暇もなく家のことを差配し、切り回し、判断するという役目を強いられている。
荘園帳簿は今年の収穫が平年よりもやや不作であったこと、しかし海洋養殖の海老は豊漁で下男に至るまで振る舞いが出たことなどが記載されている。まずは大きな変動はないようで、イルヴィスは安堵する。荘園の実入りは今後この家を支えていく柱であり、おろそかにできる種類の話でないのだ。
帳簿を置いたイルヴィスに、小間使いがあの、と声をかけた。
「それと、献上品の中に剣がございまして……わたくしどもには価値がわからないのですが、造作からしてよいものであると思われます。旦那様にお見せしたのですが……」
「いいわ、わたくしで検分します。ここへ持っておいで」
小間使いはほっとしたように頷いた。父は既に理性を以って何事かをなすことを放棄している。エグレットの投獄以来、寝台の住人となっていて何かを出来る状態ではない。妹の一報を聞いた瞬間に血の気というものが全て流れ落ちてしまったかのように白くなり、その後は何かを呟きながら泣くばかりだ。諦めはしていても、様子を知る度に苛立ちは募った。
持ち込まれた剣は確かに何某かの名のありそうな風情だった。残照で塗り潰したように赤い。じっと目を凝らせば鞘の細工も見事で、広がる双翼の隙間を蘭の花で埋めた図案の細かさも、柄の流水紋もやや反りの入った尖影も、全てが融和した美しさだ。後宮で精巧な細工物を見慣れたイルヴィスにも尋常でない価値のある品だと訴えてくる。
イルヴィスは剣など握ったこともないし興味もないが、美術品としてさえ価値がある剣と思われた。自分で実用することなどありえないが、これほどの剣であれば、何かの折に誰かに勿体をつけて与えることもいい。少なくとも現在アリッシュ伯爵家は魔女を産んだ家としての暗雲が垂れこめていて、それを何かの大きな働きや献上で打ち払わねば、今後些細な理由で取り潰されかねないのだ。
イルヴィスは剣の背の微妙な湾曲を指先でそっとなぞった。この曲線の優美で研ぎ澄まされた緊張感が、やはり無銘の剣ではないと感じるのにふさわしかった。早めにどこか鑑定に出さなくては。剣を所有して家宝と崇めることよりも、まず伯爵家を維持することを考えなくてはならない。まずはその価値を確認することからであった。
手配をしなくてはとイルヴィスは頷く。富貴に埋もれていたイルヴィスでさえ目を奪われる見事な剣ではあった。ほんの微か、脳裏を欲しいという言葉が掠めたが、それをイルヴィスは無視した。剣を所有することにこだわっている状況ではなかった。父が全く頼りにもならない今、アリッシュ伯爵家のことしか考えてはいけない。
そう繰り返し繰り返し刷り込もうとしている作用に気付き、イルヴィスは吐息だけで笑った。それは明らかに失笑という響きを持っていて、落とした本人をぎくりとさせる。わたくしは何がおかしいのだろう──けれど、ほんの一月前までは後宮で奢侈に埋もれて微笑んでいるだけだった自分の運命の流転は笑わねば。そうでなくては背骨から軋んで折れてしまいそう……
イルヴィスは唇に張り付いたままだった微笑をゆっくりとしまった。剣は家のために利用する。そう決めたことはきっと間違いではないはずだった。
イルヴィスは左手で鞘を掴み、右手で柄を握った。鞘にふさわしい刀身を見たいという衝動が高らかに胸を跳ねている。家のために手放すことを決めた以上余計なことだと承知していても、惜しむ自分の心も知っていた。──だから、これはほんの悪戯程度のことよ。手放す前に、ほんの少し、僅かだけでも見ていたい、それだけだから。言い聞かせるように呟いて、イルヴィスは柄を握り締める手に力を込めた。
ゆっくりと鞘から抜き出される刀身の銀色の細い輝き。優雅な魚や蛇の美しい曲線にも似ている。鞘走りの音は涼やかで耳にまろく、次第に現れる剣の本身の期待に違わぬ完璧な姿に目が吸い寄せられる。これは本当に見事な剣だ。何よりも、見る者を惹きつけ、惑わせる。
ああ、と吐息のような感嘆のような自分の声がひどく蕩け、淫らな空気さえまとっていることにイルヴィスは気付き、微かに頬を引き締めた。その時だった。
「君はやめたほうがいいと思うよ」
イルヴィスははっと振り返り、壁際まで飛びすさった。
そして次の瞬間、真実イルヴィスは驚愕する。他人の言葉が聞こえたことに驚いたのは事実だったが、壁まで下がるなど、考えてもいないことを成し遂げたことが自分で信じられない。自分の身体がまるで別の生き物のように動く。どういうことなのだろうこれは。今まで利き手に握るものといえば化粧用のやわらかなブラシや紅筆や、時折は書く手紙のためのペン程度のもので、剣など間近に見るのも触れるのも、勿論初めてなのだ。
イルヴィスは自分が今や固く握り締めている紅剣をちらりと見やり、それからやっと声の主を見た。年齢は二十代の半ばと思われる黒髪の青年が、薄く笑いながら窓際に佇んでいた。誰、とイルヴィスは低く叱りつけるようにいった。青年の気配など全く感じなかった──いや、それよりも小間使いが出て行ってから扉は閉められたまま、押せば古い家の軋みが必ず聞こえるはずだ。窓際まで寄るにもそれなりに歩数は要る。そこに至るまでにイルヴィスが全く気付かなかったというのは不自然で異常な出来事と思われた。
「お前は誰ですか。どこから来たの。名乗りなさい、人を呼びますよ」
自分の声ははっきりと不機嫌で、微かに震えている。青年は小さく笑いながらイルヴィスに滑るように近づいた。
「僕はその剣のおまけだよ、剣の主人には必ずお目通りさせていただくことにしている」
青年は何が可笑しいのかくすくすと笑う。その声が波紋をたてるように胸がざわめき、脳天が微かに煮える。吹き上げてくる熱を孕んだ衝動を、イルヴィスは唇を噛んでじっと耐えた。誰、と再度呟くと青年はにやにやと笑いながら肩をすくめた。
「名乗るほどの名前など、もう忘れてしまったね。そんなことが重要なの? 深窓育ちはさすがにおつむが軽い」
「答えなさい!」
思わず荒げた声に呼応するように自分の手が剣を床へ振り下ろした。切っ先が寄木の床へほんの僅かを残してぴたりととまる。柄に水のようなものが入っているらしく、何かが剣の内側をたぷんと移動するのが分かる。その度に心の内側の一番荒い部分をかき乱されるようで、イルヴィスは微かに喘ぐ。身体の中の奥深いところから、粗野な衝動が飛び出してきて荒く声を上げているのが分かった。異常だという理性の警鐘は強く、しかしそれ以上に剣をさばくたびに巻きおこる歓喜のほうが圧倒的だ。
手が震えている。それは恐怖や怒りというよりもはっきりと快楽だった。
「これは何、答えて、この剣は何なの」
呻く自分の声も殆どかすれ、まるで睦言のようだ。青年は小首をかしげて、わからないほうがいいと答えた。
「君に資格はないこともなさそうだけど、僕はやめておいたほうがいいと思うな」
「何を言っているのか分からない。もっと分かるように話をおし」
青年は弾かれたように声を上げて笑った。それはくっきりとした嘲笑だった。鳥肌がたった。何かを考えるより早く自分の腕が剣を払いあげる。それは剣の気品にふさわしい、無駄のない美しい軌跡だった。
自分の身体の反射に驚いてイルヴィスは目を瞠る。あたる、と思った瞬間に青年の姿が滲むように消え、少しはなれたところにぼんやりと現れた。
何を見たのかイルヴィスは理解できなかった。ただ目の前で起こったことが理解できない。人間の技ではないことだけが分かる。
「やれやれ、どうしてみんな僕を斬りたがるのかな、全く。君はやめておいたほうがいい、とは思うけど僕を斬ったからには最早取り返しがきかない。あとはせめて、君がまっとうできるように祈っていてあげるよ」
「質問に答えなさい、お前は誰」
「僕は剣の奴隷、そして君は家の奴隷、奴隷同士仲良くしたかったのに残念だよ、美姫」
彼のその姿が次第に薄くなっていくのにイルヴィスは気付いて待って、と叫んだ。
「この剣は何なのです、答えなさい!」
その答えは既に返らない。最後に哀れんだような微笑を浮かべ、青年の姿が消える。イルヴィスは何かの余韻に震える手をなだめながら、剣を鞘へ収めた。途端に今まで自分に張り付いていた快楽と興奮がするりと剥がれ落ち、後は収まらない動悸だけが残された。
剣の姿は変わらず美しく、触れたいという衝動は強く、イルヴィスに代わる代わる訴えている。それから無理やり目をそらし、イルヴィスは長い長い溜息をついた。
エグレットの獄舎は皇城の地下にあった。黴の臭いだけが通路に充満するようで、イルヴィスはずっと布を鼻に押し当てている。そうでなければ辿り着く前に気分が悪くなって倒れそうだ。先導する獄舎の衛士がこちらですと呟きながら一番奥の扉を開く。前室と二重の鍵の先が貴人用の牢獄となっていて、地下という場所柄窓がないこと以外は後宮の一室と言われてもあまり違和感のない程度の調度の良さだ。
妹は長椅子にしなだれかかるようにぼんやり天井を見ていた。脇に置かれた小卓には葡萄酒と思われる暗色の瓶があり、側に小さな切子の酒盃が置かれている。イルヴィスに気付いてエグレットはのろのろと身を起こす。側に寄ると酒精が漂い、妹が泥酔かそれに近い状態であることは分かった。
「おねえさま、来てくださったの、嬉しい……」
エグレットは呟くように口にして、頬を必死で動かした。笑おうとしているのだということに気付いてイルヴィスは暗澹とした気持ちになる。奇妙に歪んだ表情だけをこねまわしているようで、いつまでだってもいつか妹が自分に見せていたつんと澄ましこんだ微笑みや、もっと幼い頃のほんわりとした空気にはならなかった。
何と呼びかけるかイルヴィスは一瞬迷い、ややあってリッテと呼んだ。陛下という呼称は最早口にすることが不敬であったし、本名ではあまりに他人行儀と思ったからだ。──明日、処刑される前にどうしても会いたいと願った妹に対するには。
「リッテ、飲んでいたのね? あまり強くないのに……駄目よ、落ち着かなくては」
「まぁ、その名前で呼んで下さるなんて、嬉しいわおねえさま……でもわたくしは落ち着いています。これ以上ないというほど冷静ですわ。冷静だから飲んでいるのです」
そんなことを言い、エグレットは酒瓶の首をやにわに掴んだ。そんな乱暴な仕草を見るのは初めてで、イルヴィスは黙って目を伏せた。冷静だから飲むのだという妹の言葉が細く尖って胸を突き刺してくる。
「おねえさま、わたくし、明日処刑されるらしいのです。だからその前におねえさまにどうしてもお会いしたくて来て頂きました。本当はわたくしからお訪ねしなくてはいけないのですけど、少々身辺が煩いものですから、ごめんなさいませね」
くっくっと水鳥が鳴くように喉を鳴らしながらエグレットが呟いた。それは笑っているつもりらしかった。どうぞ、と椅子をすすめられ、イルヴィスは腰を落とす。
粗末な衣装となっていても妹の繊細な美貌は損なわれることなく、むしろ元の清楚な面差しがひきたって一層可憐であった。隣に座るとエグレットがイルヴィスの手を引き寄せて握り締めた。その指先も切ないほど華奢で美しかった。神々が丹念に作り上げた人形のような、現実味のない美しさだ。
「わたくし、おねえさまに謝りたかったのです。ご迷惑をおかけして本当にごめんなさい。これから先のおねえさまのご苦労を思うと、わたくしとても辛いのです」
エグレットは座ったままゆっくりと腰を折り曲げた。いいのよ、とイルヴィスは言った。これから死に行く者に鞭をくれることは出来なかった。
「おねえさまにはもっと沢山お話したいことがありました。でも、もうあまり時間がないわ。だから、わたくし、おねえさまにこれをお返しすることにしました」
エグレットは首からかけた鎖をゆっくりと引いた。現れたのは彼女の胸に収まっていたらしい小さな鳥篭に花を篭めた意匠の垂れ飾りだった。イルヴィスは目を細くする。それは遠い昔、姉妹の他愛ない喧嘩でエグレットが彼女から取り上げた玩具だ。伯爵家の持ち物であるから木彫りということもないが、真鍮に鍍金した子供向けの装飾品で、そもそもはイルヴィスに荘園視察の土産だと父がくれたものだ。
そんなことを思い出し、淡く霞む光景にイルヴィスは溜息になった。あれから十五年が流れ、お互いに驕りと誇りに支えられた季節は不意に終わりを告げ、今はこうして地下牢で向かい合うということが、何故だかひどく遠いところまで来てしまったという感慨をつれてきて可笑しかった。
「こんなもの、まだ持っていたのね……」
「勿論ですわ。だってこれはわたくしにとっては唯一おねえさまをしのぶ形見でしたもの。いつもいつも、持っておりました……おかげさまで取り上げられることもなくここへ持ち込めたわけですが」
エグレットは小さく微笑み、鎖ごとイルヴィスの手に握らせた。エグレットの体温にぬくまっていた小さな金属の塊は軽く、鎖のさらさらという音と共に掌に小さく収まった。
「これはわたくしの形見としておねえさまのおそばにずっとおいてくださいまし」
ね、とエグレットはイルヴィスの手に垂れ飾りを握りこませて頷いた。イルヴィスは曖昧な返事をする。これを彼女に取り上げられたときのことをまざまざと思い返せば、苛立ちのほうが強いのだ。けれど死を覚悟してしまった妹の願いを無碍にするわけにもゆかない。そうねと濁した返事をすると、エグレットは小さく吐息で笑った。
「……おねえさまは、まだあの時のこと、怒っていらっしゃるのね──わたくしがこれをおねえさまから取り上げてしまったときのこと」
イルヴィスは視線を上げて妹を見やる。既に忘れているだろうと思っていた過去が形よい唇からこぼれてきたことが俄かには信じられない。エグレットはうふふと含み笑いをした。あの誕生日にも見た、妹の一番美しい顔のままだった。
「あのことも謝らなくてはいけないわ。わたくし、知らなかったのです。妾の子というのがどんな意味なのか」
「嘘よ」
反射的にイルヴィスはエグレットを睨み、それから自分の所作に動揺してあらぬ方向を見やった。自分でもこだわるのがおかしなほどの遥かな昔の小さな傷に、いつまでも拘泥していると指摘されたようで居心地悪く怯んでしまう。エグレットはいいえと強く言い、イルヴィスの手を尚更強く握り締めた。
「わたくしは色々なことを教えられないまま育ちました。おねえさまのことも、何故母が疎遠にしたがるのか分からなかった。母にしつこく聞いて妾の子、いうことは聞き出しましたが、それが一体どういう意味なのかは誰も教えてくれませんでした。でも、聞くと皆が苦笑するので悪口なのだということは分かっていたの。あんなにおねえさまがお怒りになるなんて思わなかったのです」
エグレットは小さく声を立てて笑った。
「お父様はとても上手なお方、こんな小さなものにだって、わたくしたちを争わせてお楽しみでした。わたしたちを憎ませ、争わせて、二人とも真珠と呼ばせたのです──だからわたくしはお父様が嫌い。お父様のなさることはいつも自分のことばかりです」
「リッテ」
唇からぼろぼろと禍々しい言葉だけを紡ぎ落とす妹をイルヴィスは遮った。狂っているのか、その境界にいるのか、妹の表情はまったく変わらない。薄く微笑んでいるだけだ。けれど瞳だけがせわしなく何事かを探すように蠢いている。必死になって何かを探しているのだ。
「落ち着いて、ゆっくり話をしましょう、ね? あなたの言うことはそうかもしれないけど、お父様はもう家のことは出来なくなってしまったわ、あなたの──」
言いかけてイルヴィスは言葉を飲み込んだ。魔女事件とも投獄とも続けることが出来ない。それを口にすれば父の不調がエグレットのせいだと強く言い募ることになってしまう。
それを打ち破ったのはエグレットの甲高い笑い声だった。妹は天を仰いで高らかに笑っていた。心底から可笑しく楽しむ様子にイルヴィスは怖気をおぼえて身動きをとめた。
「ではわたくしは勝ちました! ええ全く完全に! お父様の最期をこの目で見られないのが残念ですわ! うふ、ふふ、ふふふ」
白く滑らかな喉がのけぞって、哄笑だけが溢れ出している。イルヴィスはエグレットの肩を掴み、強くゆすった。そうでもしないと彷徨い出て行こうとしている妹の魂を戻せないと咄嗟に思ったのだ。
「おねえさまは、わたくしが狂ったと思われているのですね」
不意に笑みを収めてエグレットが言った。
「でも、そんなことはありません。わたくしはおねえさまに会いたいとお願いしたとき、神と賭けをいたしました。おねえさまが来てくれたらわたくしの勝ちで、わたくしはお父様の破滅を導くことが出来るのだと……嬉しいわ、わたくしの願いは叶ったというわけですものね」
「馬鹿なことを……そんな誓いは正しくないわ、リッテ。お父様の事だって、打撃だったのは仕方のないことでしょう」
「ええ、本当にいい気味! お父様は家の奴隷ですもの、家が取り潰されてしまえば一緒に焼き殺されてしまう白蟻よ」
家の奴隷という言葉にイルヴィスはぎくりとする。つい二日ほど前にそんなことを黒髪の青年が自分に向かって揶揄した言葉そのものだった。奴隷、と呟くとエグレットはうっとりした声音で呟いた。
「お父様は家の奴隷、だから家のことしかお考えではありません。おねえさまのことも、必要だから可愛がってみせてらしただけ」
イルヴィスは喘いだ。父の企みを妹が知っていると思ったことはなかった。何を証として知ったのか、妹の口ぶりはひどく静かで確信に満ちている。だからこれがただの言質の罠でないことは分かった。リッテと呟くと、エグレットはふふふと声を漏らしながら笑った。その壮絶な暗い瞳がイルヴィスの胸を貫いて釘付けにする。
「でもわたくしにはそれすら与えられなかった。わたくしは嫡出子ですもの、必要ありませんものね。ねえおねえさま、だからわたくしは子供の時分、随分おねえさまに嫉妬いたしました。わたくしには滅多に貰えない言葉も愛撫も、おねえさまはずっと簡単に手に入れて誇らしげにしていらしたから、それが羨ましくて妬ましくて、いつもいつもおねえさまを怒らせることばかりしてみせました──」
これも、とエグレットの指がいつの間にか硬く握り締めていた拳をそっとなぞる。その途端、魔法の鍵が解けたように柔らかく指が開き、鳥篭と花の小さな飾りが鈍く光を反射した。愛らしい子供向けの、どこにでもありそうな細工。それを取り合って泣いたエグレットに、仕方なしにあげるわと呟いた遠い日。憎まれ口に同じものを返す、自分達の幼くて傲慢な瑞々しさ。
イルヴィスはゆるく溜息をつき、そっと鳥篭の柵の部分を撫でた。小さくて可愛いとエグレットに見せて自慢したのは確かに自分で、エグレットは嫉ましさのあまりに取り上げようとした……──
父の戦略を今こそイルヴィスは思い知る。偶然にも美しく生まれついた異母姉妹を争わせ、競わせ、お互いを鏡にしながら更に豪奢に繊細に磨き上げられていく珠として父は自分たちを養育した。それは見事な手腕というべきだった。後宮に入って更に人が増え、自分たちがそれぞれ寵を誇るほど父は喜んだはずだ。
イルヴィスは唇を噛む。目の裏が熱い。けれどそれよりも強く喉から駆け上がってくるのは哄笑だ。涙で自分を悼むより辛い現実には、嗤うことでしか立ち向かえない。そうでないと鋼より心を強く持ち、鉄より冷えた心を持つことなど出来そうになかった。
エグレットはいい。彼女は今宵を限りにこの胸を巻く苛立ちや暗い色をした怒りを感じなくてすむ。けれど自分は長い余生、この重く苦い情熱を友として生きてゆかなくてはいけないのだ。死はたやすい、全てを終わりにすることが出来る。それを理解していて生き続けていくことのほうが何倍も辛いことのように思われた。
自分の唇が吐息のように笑い出すのをイルヴィスはぼんやりと聞いている。目裏は熱く胸は早鐘のように打っているが、心は静かで引き潮の海のようにざらざらとした醜い岩場がさらけだされている。熱く冷たい心の作用が目の端から零れ落ちていくが、泣いているわけではないのだと自分に言い聞かせる。わたくしは今、泣いているわけではないのよ。ただ、ひどく倦んだだけ……
そっと自分の目尻に柔らかいものがあたったのが分かった。エグレットが唇をよせてイルヴィスの涙を優しく啜っているのだった。唇は温かく柔らかで心地よかった。だからイルヴィスはそれを突き放さない。エグレットの細くか弱い肩を抱き、自分のほうへ抱き寄せた。
エグレットがおねえさまと震える声で呻いた。それは確かに歓喜と聞こえた。
「おねえさまを傷付ける男は誰であっても許しませんわ。おねえさまはわたくしだけのもの。わたくしだけがおねえさまを真実、心より愛しているのです」
エグレットはそれだけ口にするとイルヴィスの肩口に額を押し付け、鎖骨に唇で触れた。愛しています、と再び呟きがした。
「わたくしはずっとずっと、おねえさまだけが好き。だからおねえさまだけでも助かってよかったの、これでよかったの。わたくしは望みは手に入れました。だから後は……」
エグレットは言いかけて小さく嗤った。明日に迫った処刑のことを考えているに相違なかった。イルヴィスは彼女にもたれかかるやわやわとした身体を強く抱きしめた。エグレットが震えながら喘いで天を向いた気配がした。ちらりと妹を見ると、容色整った頬に涙がほんの僅か、流れていくところだった。泣き顔でさえ、真珠のように美しく可憐であった。
「わたくし、陛下に何とかリッテのことをお願いしてみるわ……」
イルヴィスは妹を抱きとめながら呟いた。エグレットはふと真顔になり、やがて首を振った。
「いけませんおねえさま──わたくしが折角おねえさまこそ魔女だと喚き散らしたのに、わたくしたちが庇い合えば、庇った事だけを重大だと思うのです、あの男」
エグレットの眉間に淡い皺が寄る。それは嘲りと憐憫の混じった苦笑であった。
「だから今更あの男に期待してはいけないわ。どうせ彼が何か思ったところで議会で反対されればすぐ引っ込めるに決まっていますもの」
そうかもしれないとイルヴィスも苦笑になった。皇帝リジェス四世を優しく穏やかだと信じていられた日々は馬鹿ではあったが、却って幸福であったかもしれなかった。
「でもお前を見殺しにすることは難しいわ……」
言いながらイルヴィスはふと思い出した。
誰かに与えて家督を維持しようとしていた紅剣のことを。あの剣を夫であった男へ献上してみたらどうだろう?
魔女などという戯言には根拠がない。何故なら皇帝を呪い殺すはずの魔女は処刑が決まり、当の本人は瑕疵なく健やかに過ごしているのだから。取引の材料とするという考えは、急ごしらえにしては欠損がないように思えた。
もうあまり猶予がない。既に夕刻を過ぎて夜の眷属が天空を飾る時間だ。今から屋敷へ戻り、すぐに取って返してきても分の悪い賭けである上、実際に目通りが叶うかは未知数だ。
剣そのものを直接持ち込めば必ずあの剣は目を惹くだろうと予測はあるが、皇城に刀剣の持込は制限がされており、そこに至るまでが至難と思われた。
無理かとイルヴィスは微かに眉を寄せ、そして顔を上げた。あの男──確か、近衛だったはずだ……エグレットを投獄し、イルヴィスに自分のものになれと嘯いた男。何でもすると言っていた。それは勿論覚悟の程度を示す言葉だが、大逆を手伝えという話でもない。まず打診してみるべきであった。
「おねえさま……?」
エグレットの不安な声を背にイルヴィスは立ち上がる。大丈夫よと小さく微笑んで、獄衛士に声をかけるために呼び鈴を引いた。
これでよろしいかと渡された包みを受け取り、イルヴィスは細長い巻布をずらし、中を確認する。ちらりとのぞく赤い鞘と、翼の意匠の一部が見える。間違いありませんとイルヴィスは頷き、丁寧に腰を折った。
「感謝いたします、騎士様。わたくしの礼など大したことではありませんが、是非一度我が家で感謝の夕餐を共に」
「楽しみにしていますよ、イルヴィス殿」
男は薄く笑っている。イルヴィスは深く頷いてみせた。近衛騎士であれば帯剣したまま後宮にも出入りできるはずで、紅剣を持ち込む際にも一通りの手続きのみで終わるだろうという予測は違えなかった。イルヴィスは安堵と共に紅剣を抱き、長い溜息になる。
行きましょうとイルヴィスは声をあげる。近衛の随行がなければこの先後宮を渡ることが出来ない。近衛屯所に作られている男の執務室から皇帝の座所に至るまでの道筋はよく知っていて案内など必要ないが、イルヴィスは魔女の異母姉として既に歓迎されない身である。一人で歩くなど出来そうになかった。
男はすぐには動こうとしなかった。不審に眉を寄せたとき、不意に肩を掴まれて壁に押し付けられ、イルヴィスは小さく悲鳴をあげた。後頭部を軽く打ったのか、こめかみあたりから何かが流れ出るように揺らぐ。
「けれどその前に、少々のお駄賃をいただかねば」
男は素早く言ってイルヴィスの口唇に自分のそれを押し付けた。舌がすぐに唇を割ってきて、ざらざらと口内を弄る。夕刻のせいか僅かに伸びた髭がイルヴィスの柔らかな頬に刺さって痛い。イルヴィスは身をよじって男をもぎ離し、咄嗟に唇をぬぐった。
「……物事には、順序というものがございます。少しは手順を踏んで下さらないといけませんわ」
無礼なとなじることが無駄と知っている今、この程度の嫌味しか口に出来ない。男もそれを理解しているのだろう、薄ら笑いを崩さないまま、なるほどと頷いた。
「では夕餐の折にでも手順とやらを確認することにしましょう」
イルヴィスは固まったような首をやっと動かして頷いた。頷くことで手順とやらを踏めば好きにしてよいのだという許しを与えてしまったことに気付く。ひどい間違いを犯しているという自身の囁きは小さくないが、今はそれを無視することしかできなかった。
後宮の回廊は静かだった。エグレットが享楽に漬かって放恣の羽を広げていた頃はよく聞こえていた楽も嬌声もぱたりとやんで、ただ黒々とした木々と月光に淡く反射する石の壁だけが続いている。それはきっと国家としては正しい姿なのだろう。エグレットが快楽にのみ視線を向けていたことは誉められたことでないが、以前と比較してしまうせいなのか、もの寂しさは胸から消えなかった。
連れて行かれたのはイルヴィスが起居していた芙蓉宮であった。皇帝は快癒した後はここに逗留しているらしい。そう告げられると胸の奥が微かにゆるく解けるような感触があった。自分の遺して行った沢山の装飾品や調度や丹精していた芙蓉の花たちを、彼が変わらずに懐かしみ愛でてくれているならば、それはぬるく淡い色彩となって自分の胸を縁取るような気がしたのだ。
男はイルヴィスの表情を見て何を考えているのかを察したのだろう。唇を歪めて笑いながら呟くように言った。
「あまり期待はしないほうがよろしい、転んだときに痛むからな」
「あなたには関係ないわ」
怖い怖いとおどけた様子で男は肩をすくめ、どうぞと促した。イルヴィスは僅かに呼吸を整え、扉を叩く。入っていくと夫だった男が意外なものを見たというように僅かに目を瞠り、すぐ微笑んだ。
「どうしたのかね、イルヴィス=アリッシュ? 君にまた会うとは思っていなかったが」
穏やかな声音は以前のままで、これをどう感じていいのかイルヴィスには分からない。妹を魔女と断罪したのも彼で、自分に微笑みながら元気かと問うているのも彼なのだ。イルヴィスは沈み込もうとする思考を押し込んで夫に膝をついた。自分の背後、数歩下がったところに男も膝を折るのがわかった。
「ご快癒おめでとうございます、陛下。とてもお元気そうでわたくし安心いたしました」
「君も元気そうで何よりだ。お父上は臥せってしまわれたとのことだったが、その後は如何かね」
「どこも悪いところはないとの医師の見立てでございます。ただ……妹のことではかなり衝撃を受けておりましたので、当面は身を慎みたいとのことでございました」
「そうか、では快癒を祈っておこう」
ありがとうございますとイルヴィスは面伏せながら、僅かな違和感が胸を転げていくのを見つめる。まるで他人事のような言葉だ──勿論父と皇帝は他人だが、一度は姻戚となって夜会でも議会でも、繁々と傍に寄せてもらったと父は喜んでいたはずだった。抜け目ない父のこと、沢山の献上も、賭博や観劇などの遊興も皇帝へ注いできて、彼はそれを喜んで受け取っていた──のに、何事もなかったかのようだ。表面を洗い流して終わりの皿のように。
彼は何も感じないのだろうか? 一度は心近く寄せた人々の苦難も苦痛も、全く傷になっていない。けれどそれを今問い募るほどイルヴィスも愚かではない。だから本題を切り出すにとどめる。
「陛下、わたくし妹のことをお願いしに参ったのでございます。妹はわたくしが実家へ連れ帰り、アリッシュ家の中で一生を過ごさせる所存でございますゆえ、どうか命ばかりは陛下のご寛容とお慈悲を願いたいのです」
皇帝は困ったような顔をすると、イルヴィスと優しい声を出した。
「それは出来ない。決まったものを覆すのは私には出来ないのだ、私の権限ゆえに、使うべきではない。分かるかね?」
イルヴィスは首を振る。皇帝の口ぶりはひどく穏やかで、いつか二人で興じた四目並べの待ったを諭されたときと同じ口調だ。──おいたものをやりなすのは出来ない。出来るけれど、してしまったら違反だ、さあ負けを認めたら君の飲む番だぞ。
「しかし、魔女と責難されるなど理不尽でございます。魔女は陛下を呪うと申しますが、陛下はこの通りお元気でいらっしゃるではありませんか」
イルヴィスの言葉に皇帝は苦く笑い、黙り込んだ。不機嫌ではないが返答を拒否するときの彼のいつもの仕草であった。沈黙を作られるとイルヴィスも言葉が出ない。じっと黙り込んでいると、皇帝はいつものように折れることをしないイルヴィスに困惑したのだろう、視線を男に流したようだった。
「それは何かね」
皇帝の言葉に男が包みを低く捧げ持ち、献上品でございますと答えた。イルヴィスは頷き、包みを解いて皇帝の前に差し出した。
「これはわたくしが手に入れました剣でございます。陛下のご収蔵に加えていただければと持参いたしました。妹エグレットのことはどうか……」
言いかけてイルヴィスは残りを喉の奥へ飲み込んだ。夫だった男の表情がみるみる強張り、身を固まらせていく。信じられないもの、恐ろしいものに立ち竦んだままの草食の獣のようだ。瞳だけが強い光を宿していて、それはまっすぐに紅剣へ向かっていた。
「これは……」
やっと何かを思い出したように皇帝が呟く。声も表情と同じように暗く歪み、微かに震えているように思われた。
「これは、この剣はどうしたイルヴィス、何故これを……」
そんなことを呟き、皇帝はせわしなく胸元をまさぐった。神へ祈りするときに使う紋様板を指で探しているのだ。けれど視線は紅剣にぴたりと釘付けられたまま、瞬きさえしようとしない。
イルヴィスは怖気を覚えて僅かに後じさった。彼は常に穏やかでなだらかな感情の表現しかしてこなかった。けれど今、その奥の沼から何か違う生き物が這い出ようとしている。
「これは陛下、わたくしどもの荘園から……」
怖気りながらも答えを紡ごうとし、イルヴィスは途中で言葉を立ち消えさせた。皇帝は今や返答など聞いているようではなく、ただ殆ど睨むようにして紅剣を凝視している。目の色が更に強い。ぎらぎらと光り、何かの昂りのために瞼の下が痙攣しているのが見える。
イルヴィスは差し出すようにしていた剣をゆっくり抱き寄せた。尋常でないものを目にして、何かに縋り付きたかった。感情の削げ落ちた目に強い執着だけが息づいている。それがひどく異質に見えて恐ろしかった。
けれどそれは一面希望でもあるとイルヴィスは気付く。どのような事情なのかは分からないが、夫はこの剣に異様な拘りを見せている。詳細に検分するまでもなく、人目で表情が変わったではないか。では如何なる理由であろうとも、取引の切り札としては最良のものなのかもしれない。
干上がったような喉からようやくイルヴィスは言葉を搾り出した。
「陛下、どうか妹のこと、ご再考を。この剣はきっと献上いたしますから」
お願いいたしますと続けようとしたとき、突然腕が強く引かれてイルヴィスはよろめく。皇帝が鞘を掴み、自分のほうへ手繰り寄せようとしているのだと気付くのに一瞬の間があった。そんな粗暴なことは初めてでイルヴィスは咄嗟にやめてと言いながら剣を抱きかかえる。何が起こっているのかわからない。
夫が合図したのか、近衛の男が駆け寄ってきてイルヴィスの肩に体重をかけ、紅剣の柄に手をかけた。やめて、と搾り出しながらイルヴィスは剣を握り締め、男を振り切ろうと身をよじった──その矢先、自分の手が意志を持っているように柄をしっかりと持ち直したのが見えた。
イルヴィスは声を上げた。凄まじい速さで自分の腕がすらりと紅剣を抜き放ち、近衛へ一撃振り下ろすところだった。紺の制服が咄嗟に飛びすさり、さがりながらも無駄のない動作で剣を抜くのが見える。何かを考えるより先にイルヴィスは突き出された白刃を身ぎりぎりでかわし、腰を低く屈めて剣を下から振り上げた。
飛沫が頬に降りかかる感触がして、生暖かに水滴が滑り落ちた。紺の制服が下へがくりと沈む。その身に銀の刀身を振り下ろす。絶叫がする。制服の袖がちぎれ、後方へ軽く跳ねながら転がる。
剣が返る軌道のまま近衛の身体に消えた。イルヴィスは喘ぐ。握りこめる刀身から何かがどくどくと脈打ちながら体内へ入ってくる感触がする。強い歓喜と共に脳裏が白くなるほどの陶酔が目の前を踊ってくらくらする。それはあまりに強い快楽であった。
その歓喜に導かれるまま、イルヴィスは廊下へ這い出ようとする紺色の塊を追った。背後から貫く、快楽、抜き払う、愉楽、目に映る現実に赤く美しい被膜がかかり、その中で脳髄まで痺れて体の操作さえ覚束なくなるほどの悦びが腕を背を支配している。
イルヴィスは喘ぐ。剣で何度も叩きつけているとやがて紺色の塊が動かなくなり、次第に高揚が薄まっていくのが分かった。
手が震えている。抑えなくては、駄目よ、今はこれ以上は駄目。自分でもよく分からないことを呟きながら、イルヴィスは剣を鞘へ収めた。鍔に触れる金属の軽い音が契機だったように、ふっと我に返り、すぐに顔をしかめた。
酷い臭いがした。金属のようでもあり、生臭いようでもある。何の臭いだろうとイルヴィスはゆっくり部屋を見渡し、ぎくりと硬直した。色の違う大理石を組み合わせて芙蓉を描いた飾り床に赤い紋様がある。刷毛で擦ったような模様、散る飛沫──そしてその向こうの動かない身体。紺色だった制服がじっとりと何かのために濡れ、黒ずんでいるようにも見える。
手が震える──恐怖ならば良かった。けれどそれは歓喜の余韻と、もっとという強い声だ。震えている手、腕、痺れるように立ち尽くしている脚、そのどれもがもっとという希求をイルヴィスに訴え、ねだり、足りないと喚き散らしている。
足りない。もっと。この快楽に浸っていたいでしょう? ねぇ、全然足りないでしょう? もっと? 足りない。足りない、足りない、足りない、足りない、足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない……──
誰かが息を呑む気配がした。さっとイルヴィスは視線をやった。女が一人限界まで瞠目しながら床にへたりこむところだった。
この女、とイルヴィスは眇目になる。見覚えがある。どこかで会ったはずだ、どこかで。栗色の巻いた髪や大きな目などにどことなく記憶を引っ掻かれてイルヴィスは苛立ちのままに唇をゆっくり舐めた。
途端、イルヴィスは呻いた。血の臭いと思ったのも一瞬で、甘美な香りが鼻腔を抜けて脳髄まで届く。甘いわ。イルヴィスは微笑む。とても甘くていい香りだ。ずっと啜っていたいほど。もっとという声に頷きたくなるほど。
イルヴィスは一度鞘に収めた剣を抜き、女の正面に立った。女が喉だけで嗄れた悲鳴を搾り出す。その声さえ耳にまろやかだ。
「お願い、お姉さま、イルヴィスお姉さま、わたし、わたし」
獣のような臭いが女から漂ってくる。恐怖のあまりに汗が吹き出しているのだろう。けれどお姉さまと呼ばれたことでやや意識はそちらへ戻る。やはり知り合いなのだ。
この疑問が胸をよぎるうちはやめてあげるわ。イルヴィスは呟きながら剣を収める。そうするとたぎるような熱はややぬくまって、ようやく思考が戻ってくる気がした。
「陛下」
イルヴィスは椅子の上でみじろぎもせず呆然としている男を睨み据えながら低く言った。それではっと我に返った皇帝が自分を見つめ返してくる。その瞳にあるのはいつか信じていた穏やかな愛情や健やかな友愛ではなく、くっきりと恐怖だった。
「イルヴィス、お前──」
「妹をお助けくださいませ。助けていただけるのであれば、剣は差し上げたいと、わたくし、そう考えていますのよ」
イルヴィスは微笑んでみせる。この顔が彼は好きだったはずだ。美しい姫として生まれたイルヴィスの唯一の瑕疵は母親が爵位を持たない豪商の娘であったことで、それだけが自分をいつも傷つけてきた。それを庇うため、イルヴィスは美しさに対して隙なく傲慢で在り続けなければならず、その武器としての華やかな笑みは欠点を隠してくれていた。それさえ惨めなことだと気付きもせず。
「わかった、わかったイルヴィス、エグレットを連れ帰るがいい。今、勅令を書くから……」
男が視線で指図するのに応え、女がよろよろと立ち上がり、書斎のほうへ消えていく。あの後姿にも見覚えがある。後宮で常に知っていた顔であればすぐに出てくるはずだけれど、とイルヴィスはじっと彼女の背を見ながら考えているが、回答は容易に出そうになかった。
皇帝が差し出した羊皮紙を受け取り、イルヴィスは頷いた。印章はないが筆跡と署名の形式が正しく、見ればこれが本物であることはわかるはずだった。
「エグレットを解放し、ここへ連れてくるように」
女が羊皮紙を受け取ってよろめきながら出て行くのを見送り、イルヴィスは微かに溜息になった。
名を呼ばれたのはその時だった。唇を結び、イルヴィスは夫だった男に視線を移した。彼は青褪めてはいたが、真剣な顔で手を差し伸べていた。
「剣を見せて欲しい、その剣を」
イルヴィスは手にした紅剣を見やる。変わらず美しく圧倒的な存在感を放つ剣であった。だが皇帝がこれに執着しているのはそれとはまた違う理由によってだろう。彼は一目見た瞬間から固執というほどに拘泥していて、血臭漂う中にあってもこれが気になるらしい。
「この剣がどうかしたのですか陛下」
問うている自分の声に浮くひどい倦怠にイルヴィスは苦笑になる。抜いてしまったときの快楽の記憶はようやく薄くなっているが、まだ目の端には近衛の男だった肉隗が転がっている。腕ごと斬り飛ばした袖からは剣を握ったままの手がのびていて、それも血溜まりの中に浸って動かない。それをやけに冷静に受け止めている自分が可笑しかった。
皇帝はイルヴィスの表情に何を思ったのか、ぶるりと震えた。イルヴィスはどうしたのですかと言いながら、男の頬を撫でようと手を伸ばした。
軽い音がして手が痛んだ。男はイルヴィスの指先を打ち払い、剣を、とだけ言った。
「それは大帝の遺産……だと思う、イルヴィスもっとよく見せて欲しい」
「大帝……?」
意外な言葉にイルヴィスは首をかしげた。大帝と呼ばれるのはこの国では九百年以上前に国を創建した始祖大帝ただ一人、その遺産と呼ばれるものはいくつかあるが、剣は確か埋葬されたはずであった。けれど嘘だと一蹴してしまうには彼の目つきは真剣で、遊びを許すものではなかった。
「そうだ、バシュラーンという……」
初めて耳にする銘にイルヴィスは首を振る。そうだろうと男は頷き、これは秘事なのだということを言った。
「もしそれが大帝の遺産であるとするならば、私に所有する権利があるはずだ。私は大帝の血をひく正当な主なのだから」
それは確かなことであった。彼はリジェス四世を名乗り、現在この国の極まった位置にいる。イルヴィスは頷いて剣を皇帝へ差し出す。それを受け取った彼が感極まったような吐息を漏らすのを聞いた。それは彼が求めていた剣であったというよりは、イルヴィスと同じ、剣に魅せられた時の感嘆であるように聞こえた。
皇帝が剣を抜こうと柄に手をかける。その途端、火花が爆ぜるような音がして一瞬光が目を焼いた。皇帝が剣を取り落とす。手を押さえて呻いている姿にイルヴィスは大丈夫ですかと声をかけた。
「なんの手凄だイルヴィス、私に使わせないつもりなのか」
「何を仰っているのか分かりませんわ。普通に抜けばよろしいのです」
そういってイルヴィスはすらりと刀身を抜き出してみせる。ささやかな刃滑りの音と共に、銀に細く輝く抜き身が現れ、イルヴィスは目にするたびに見事という感嘆を覚えた。
刀身にはまだ血の油が残っていた。あの男のものねとイルヴィスは近衛であったそれをちらりと見やる。自然と手が動き、一度振り下ろすような仕草でそれを払い落とした。何故自分がこんなことを出来るのか、何故扱いに長けているのか、そんな疑問など最早どうでもよかった。重要で重大なのは剣を奮う自分の中に獣がいて、それが快楽を欲しがって激しく啼き狂うこと、そして獣を飼いならすことも解放することもイルヴィスが選択出来るということだ。
「普通の良き剣ですわ、陛下。大帝の遺産であるというバシュラーン? それであるとしても、とても」
「イルヴィスそれを寄越せ。私のものだ」
「エグレットと引き換えと申し上げましたわ」
ぴしりと遮り、イルヴィスは微笑んだ。皇帝に意見し逆らうなど、ほんの二月前には想像すらしていなかったのに、今剣を片手に彼を脅すような真似をしているのがひどく皮肉に思えたのだ。
「わたくしは、約束は守ります。エグレットを解放していただけたらこれは勿論陛下に献上いたしましょう」
「その男のことはどう言い訳をするつもりだ、イルヴィス。お前があれを斬り刻んだ……」
言いかけて皇帝は口元を押さえ、えづきそうになるのを殺した。イルヴィスはじっとそれを見つめる。男を屠ったときの記憶は極彩色の興奮の中にあって、ぼんやりとした輪郭しかなぞることができない。飛ぶ血泡と斬り飛ばされて転がる腕、絶叫と苦痛の呻き、刺し貫いた剣が床に到達する硬い感触。それらを次々と記憶から引き出しても、付随してくるのは恐怖や醜怪さではなく、鮮やかな悦楽だった。
知らずイルヴィスは微笑んでいたようだった。剣を握るときの高揚を、身実を貫く戦慄に似た喜びを、他人に理解させることなど意味がなく、説明するなどという無駄なことをするつもりもなかった。この感覚はわたくしだけのもの。誰にも触らせないし誰にも分け与えない。わたくしだけの剣よ……
名を呼ばれてイルヴィスははっと顔を上げる。皇帝の顔は強張り、奇妙に歪んでいる。それは何とか微笑もうとしているように見えた。
「いや、あの男はお前に狼藉を働こうとした、そうだ、そうしよう、イルヴィス。いいだろう? だから冷静になって私にその剣を渡しなさい」
宥めようとしているのか、彼は必死に頬を引き攣らせている。けれど目はまったく別の表情をしており、せわしなく瞬きする瞳に明滅するのは恐怖の光だった。
剣を、と手を差し出されたとき、その仕草が不意にイルヴィスの決壊を破った。これはわたくしの剣よ! 胸の内で癇症に叫ぶ声が聞こえた瞬間、イルヴィスは無言で剣を抜き、差し出された手へ振り下ろした。
エグレットが芙蓉宮へ姿を見せたのは、それから半刻も経った頃だった。背後に鎧鳴りの音がひしめいている。後宮に入ることのできる軍装は近衛だけだ。紺の制服は平服だが、武装してきたということなのだろう。
おねえさま、とエグレットがイルヴィスに飛びついてくる。床に流れ出た血液も濃い腐臭も、イルヴィスが切り刻んだ死体もまだ残っているが、そんなものを踏み越えて一瞥もくれなかった。
「おねえさま、これはどういうことになっていらっしゃるの? わたくしはおねえさまを説得するように言われたのです」
「ごめんなさいねリッテ。少し夢中になりすぎてしまったようなのよ」
優しく妹の頬を撫でると、うっとりという視線をイルヴィスの顔に彷徨わせながらエグレットはいいえ、と微笑んだ。
「わたくし、おねえさまのなさることに一つも不服などありません。どうせならこの宮廷の何もかも、切り刻んでいただいても良かったのに」
ふふふと笑う妹は、やはり先ほど見た女より数段美しい。少し上目遣いに微笑む瞳に浮かぶ悪戯っぽい表情と、ゆるめた口唇の愛らしさ。僅かに細められた形良い切れ長の目と、するりと通った鼻筋の完璧な配置。
「まぁ、滅多なことを言うものではないわ、リッテ。陛下はお前をお許しくださるとの慈悲を下さったのに」
「あら、そうでしたわね」
エグレットは椅子に篭められたように座り込んでいる二人の夫だった男に軽くスカートの裾をさばいて一礼した。
「ごきげんよう、陛下。わたくし、とっても寂しかったのですよ? 何故一度も会いに来てくださらなかったの? わたくし、とってもとっても寂しくて、もう少しで陛下を呪うところでしたわ」
言うなりエグレットは天を仰いで笑い始めた。酒精は抜けているが、まだ夢の中を彷徨っている妹の心をつなぎとめるためにイルヴィスはリッテと呼んだ。
「もうよろしいでしょう、リッテ。あまり長くいると血の臭いが染み付いて取れなくなってしまうわ」
あらとエグレットは華やかに笑い、自分のスカートの裾を汚す血に視線をやった。そこは部屋の床にまかれた血液を吸って端から僅かに赤茶色く変色を始めている。
「こんな臭い、大したことはありませんわ。ここには新しい衣装が沢山ありますから、少しお借りしてゆけばよいのです。ねぇ陛下?」
ああ、と答える皇帝の目線はしきりにイルヴィスと紅剣を行き来している。先ほど軽く引っ掻いてやったのに、まだ喰い足りないのかとイルヴィスは紅剣の柄を軽く指先でなぞった。
途端彼の顔が引き攣り、目を背けた。弱い、とイルヴィスは単純に不服を覚える。手の甲に軽い、猫に引っかかれた程度の線を描いてやっただけで彼は自分の奴隷だ。奴隷という言葉に再度巡りあい、イルヴィスは小さく微笑んで見せた。
父は家の奴隷、自分はその奴隷、そして彼は自分の奴隷。隷属するものが違うけれど、みな同じく誰かに闇雲に頷くしかできない弱き者共の群れだ。そして自分は今、その崖に手をかけて外の世界へ出ようとしている。新しい世界が一層の悪意に満ちていることも知っているけれど。
「リッテ、着替えておしまいなさい。あなたにはもっと繊細で可愛らしい衣装がいいわ。とてもよく似合っていらしたもの」
ええ、とエグレットは頷き、それでよろしいですわよねと皇帝を覗き込んだ。頷くだけの彼に声を立てて笑い、背を伸ばしてゆっくりと衣裳部屋へ入っていく。皇后として君臨していたときと同じ、静かで動かない鉄の気品が妹の周囲に戻っていることに気付き、イルヴィスは頬を緩めた。
「もういいだろう、イルヴィス。剣を渡しなさい」
さあと手を伸ばされて、イルヴィスは軽く睨む。皇城を出るまでは彼を人質として帯同させなくてはならないことを考えている身としては、今剣を渡してしまえば全ての決算を一息に払うことになるはずだった。
後戻りは出来ない。近衛を殺し、皇帝に剣を向けたことはどうにも繕う事ができない。けれど剣を握っているうちは自分の身体は誰よりも自由に雄雄しく動き、物語の中でしか出会わなかった歴戦の勇者のように血煙をくぐりぬけながらも立ち続けることができる。それは誰に聞かなくても確信できることだった。そしてそれが、剣のもたらす福音であり、失えば全てそれに付随して消えてしまうことも。
「皇城を出てからお渡しいたします。わたくしのことも、妹のことも、無事だと保障していただかないと困ります」
「それならすぐに勅令を出す。もう満足したはずだ、そなたは」
「勅令は乱発するものではございませんわ。陛下もそう仰っていたではありませんか。わたくしも、心より同意しておりますの。このようなつまらないことで勅令まで頂く必要などございません」
しかし、と男が言いかけるのをイルヴィスは剣の鍔を弾くことで黙らせ、じっと扉の外を見る。目に映る範囲には誰もいないが、殺気立った沈黙は回廊の向こう側から涼風のように吹き付けてきて明らかだった。剣を渡してしまっては駄目。イルヴィスは掌に浮いてきた汗を裾でぬぐい、剣を握りなおした。この剣は命脈だ。手放してしまったら命が消える。
生きたい。まだわたくしたちは何も見ていないから。奴隷の見る空と、自由に見上げる空はまた違う色──だろうか。
イルヴィスがじっと回廊のほうを睨みすえていると、衣擦れの音がして
エグレットが戻ってきたのが分かった。鏡台にあったものをそのまま使っ
たのか、いつも妹が衣装に焚きこめていていた麝香ではなく、梔子の甘た
るい香りがする。こんな香はイルヴィスにも覚えがない。では、新しい寵
姫のものなのだ──ふとイルヴィスは気付いた。
新しい女、新しい香。ここは新しい寵姫の居宮なのだ!
脳天から血の気の滑り落ちていくざあっという音がした。近衛の男が皮肉に唇を歪めながら期待するなと言ったのはこういう意味だったらしい。
見覚えがあるという記憶へイルヴィスは目を凝らした。後宮での記憶がないのならば、まだ後宮入りする前、アリッシュ伯爵家にいて爛漫と誇っていた頃のことのはずだ。その頃の知り合いといえば出入りの騎士や商人たち、それにアルカナ大公家系列の親類たち……
イルヴィスはあ、と小さく声を上げた。あれは確かアルカナ宗家の女だ
アルカナ宗家での夜会に皇帝が臨御した際、最初に彼の元へ薦められた女。容色は可憐ではあるが、エグレットの銀色の輝きの前ではくすんだ錫のようで、皇帝は隣に佇む姉妹に目を奪われてそぞろだった。結局それが契機にエグレットの後宮入りが決まり、イルヴィスは添えられ、アルカナ宗家と永い誓いの慶事としてエグレットの立后が決まったのだ。
アルカナ宗家、と呟いてイルヴィスは低く呻いた。ではあれはただの寵姫ではない。もしかすると皇后になるかもしれない女だ。
イルヴィスは知らず胸元を掴んだ。姉妹を追いやってすぐ寵姫を立てる
ことも確かに自分を打った。なんと心無い仕打ちかと感じた。けれど彼女
がこうしているということは、アルカナ宗家は姉妹の廃后をすぐに繕いき
り、全く口をぬぐって知らぬふりを決め込んだということになる。
──いいえ。
魔女という戯言も、本気でアルカナ宗家がもみ消しにかかれば出来たは
ずだ。それだけの力で彼らは国の根幹に食い込んでいる。けれどそれをお
ざなりにし、宗家の女を送り込むために自分たちは捨石にされたのだ!
彼らはやっと元に順序が戻ったと思っている! 係累ではあるが宗家ではない女達が国母という立場を得ることを不本意だと考えていて、僅かな切っ掛けを逃さず断ち切ったのだ。その供物がエグレットの死と自分の更迭ということだ。
イルヴィスは椅子に座る登極人へ視線を与える。
──そして彼はそれを薄々分かっていながら手を打たなかった。彼にと
って全ては自分の周りを飾る衣装や玉珠と同じで全て取り替えの利くもの、身体の表面を流れ落ちていく水滴のようなものなのだろう。身を飾っていた二粒の真珠のように。
息の詰まるような憎しみ、赤い衣を纏った怨みが胸にこみ上げてくる。
イルヴィスは震え出す指でこめかみを押さえ、長く長く溜息をついた。胸
の中の噴きあがる怒りは今すぐこの男を八つ裂き、切り刻み、あらゆる苦
痛を与えてやりたいと訴えているが、それをすることは出来ない。命があ
ってこそ違う世界を見ることが出来る。今は駄目。
気をそらすためにイルヴィスは着替えを終えて戻ってきたエグレットへ視線をやり、気の抜けた笑い声をこぼした。もう何をどう失望していいのか分からない。彼は一体無神経なのか、それともただの馬鹿なのだろうか。どちらにしろ、まるで平板な起伏しか精神に持っていないのだ。
……それは誕生日の夜会にエグレットが作らせたという、真珠色の衣装だった。裾の淡い海泡の模様もまだ美しく、練りこまれた絹の光沢もまた、見事だった。
「おねえさま、ご覧になって。こんなところにこれがありましたの。ねぇ、わたくしがおねえさまとの思い出にと作らせましたのに、他の者に着せても意味がございませんわ。これは、わたくしにしか合わない服です」
エグレットは微笑みながらくるりと回ってみせる。裾がゆれ、絹に夜の灯火がぬめぬめと光った。そうねとイルヴィスは頷き、よく似合っていてよ、と微笑んだ。エグレットは嬉しそうに唇をゆるめ、うふふと声を上げながら一礼した。
「陛下、わたくし、陛下のお仕打ちは忘れません。きっときっと、忘れません。わたくしが魔女かどうか、これからずっと考えながらどうか御身永
くご壮健でとお祈りいたしますわ」
「もういいでしょうリッテ。わたくしたち、これからのことを考えなくてはいけないわ」
皇帝の顔がこれ以上ないというほど蒼白となったところでイルヴィスは割って入った。エグレットはどこか箍の飛んだ目線をイルヴィスに戻し、そうねと微笑んだ。妹の心は危うい線を行きつ戻りつしているようで、直視するには辛く、痛ましく、それをすぐに引き戻してやることが出来ないのも胸を挟むように苦しいことだった。
「イルヴィス、剣を渡しなさい」
エグレットよりは話が通じると踏んだのか、再度皇帝がそんなことを言うのに首を振る。エグレットが紅剣に目を留めて、それは何? と無邪気な声で聞いた。
わからないわ、とイルヴィスは答えた。バシュラーンという銘は皇帝がそう主張しているだけで何の確信にもならないし、ましてこれが歴史に名高い大帝の遺産の一つだと言われても信じるに足りる材料が何もない。彼が単純に自分から取り上げようとしているだけなのだと考えてしまうほうが楽なほどだ。
「でも、とても美しい剣ですのね。少し見せていただいても構わない?」
ええ、とイルヴィスは頷き、妹に剣を手渡した。エグレットは素敵、と
頬をゆるめて剣を抜こうとしたが、何の拍子なのかやはり刀身は鞘に納まったきりで動こうとしなかった。
先ほど皇帝が抜こうとしたときも同じことが起きていたのをイルヴィスは見た。つまりこれは今、私にしか扱えない剣になっているのだという答えが突然ひらめいて、イルヴィスは笑い出したくなった。この剣は自分のものだと主張する男がいて、彼に確かに主筋があるのにも関わらず、可能であるのが自分だけという事実は確かに心地よかった。
不意にエグレットが悲鳴をあげた。イルヴィスは顔を上げる。背後から何かが激しくぶつかり、肺が一瞬軋む。喉を鳴らしてイルヴィスが片膝をつく瞬間、後ろから自分の首に回った腕が喉を締め上げた。鼻腔に血が集まる。何かを喘ぐように開いた唇から空気は僅かにも入ってこない。目の焦点が揺らぎ、脳裏が白くなりかけたとき、おねえさま、と叫ぶエグレットの声がして、急に呼吸が通った。
重い身体を動かして振り返ると、エグレットが紅剣を鞘ごと振り上げ、皇帝へ一撃くれるところだった。やめなさい、と静止するより先にエグレットは一瞬動きを止め、呆然という顔つきでイルヴィスを見た。その瞳が潤んで泣き出しそうだと思った瞬間、エグレットはやわらかに微笑み、そのままの表情で崩れ落ちた。
リッテ、とかけた声が消えるよりも前に、地鳴りがした。それが駆け込んでくる軍勢のあげる威鳴りであったことはすぐに分かった。エグレットの背に突き立った槍が彼女の細く繊細な肌を裂き、血を降らせ、自身の重みで抜け落ちていく。崩れたエグレットが背をゆるく反らせ、その上に倒れこんでいくのがひどくゆっくりと見えた。リッテ、とイルヴィスが手を伸ばすのと同時に槍がエグレットの腰と腹を突き破って貫いた。
軽い音をたててエグレットが転がる。限界まで見開かれた目には何の恐怖もなく、ただ、おねえさまと小さな声で囁いた。
「わたくしは、おねえさまを傷付ける男は許しませんわ。おねえさま、きっと、わたくし、許しませんわ……」
それだけを呟き、エグレットは凍えたような顔を動かして唇をゆるく開いた。微笑もうとする頬がぴくぴくと引き攣っていて、エグレットの命数がつきかけていることを教えた。
全身の血が逆立つような感覚がした。目の前が熱い。何も考えられない。獣のように唸りなら素早く立ち上がり、エグレットから紅剣をむしりとろうとしていた皇帝に飛びついて剣を抜き、殺到してくる近衛に向かって刃を向けた。
全身の血がたぎり、心と命をかきたて、叫んでいる。
敵を屠り、敵を打ちのめし、累々の屍を超えて前へゆけ。自分の手で拓く自分だけの道へ!
繰り出される銀の殺意をイルヴィスはくぐりぬけてかわし、目の前の騎士の軽鎧の隙間へ紅剣を滑り込ませる。あがる悲鳴、降りそそぐ血潮、生暖かい雨。剣からは歓喜のような悲鳴が聞こえる。もっと! 声が強く囁いてくる。その声に応えるためにイルヴィスは剣を抜き、更に打ちかかってきた騎士の手首から先を刎ね飛ばす。頬に血漿がかかり、甘美な匂いにイルヴィスは声を上げて笑う。
生きている。今、この瞬間に、自分は圧倒的に!
快楽なのか苦役なのか、背を鞭打つ衝動がもっと、足りない、と喚いているのが聞こえる。それはどんな声よりも強く、まろく、甘く、そして激しかった。
「殺せ! その女は魔女だ! 殺せ! 早く!」
その叫びが耳を打ち据え、イルヴィスは振り返る。夫であったという事実が遠く霞む。胸を叩くのは失意と哀れみだ。憎悪にすら値しない。お父様は家と共に斃れる白蟻よ。エグレットの声が笑っているのがどこかに聞こえている。
だとすれば彼もまた、虫の眷族と思われた。羽虫一匹叩き潰すのに躊躇など必要なかった。イルヴィスは無言で剣を振り上げる。
その背に焼けるような熱い痛みを覚え、イルヴィスは呻く。あ、という自分のあげる声が意外そうな響きだ。痛みはすぐに全身を貫き、つま先までが重みを持って痺れてくる。瞠った視界に青褪め、唇を歪めてなお暗く笑う男が見えた。紅剣の鞘を握り締め、男は笑っている。
胸の奥がかっと滾るままイルヴィスは背から刺し貫く剣の主を、逆手にした紅剣で刺した。呻き声と共に背に張り付いていた重みの一部が消える。
イルヴィスはもう一度剣を振り上げる。男に向かって打ち下ろそうとしたとき、背後で鎧の音がするのが聞こえて振り返った。騎士がイルヴィスに向かって剣を振り上げており、その脚にエグレットが全身ですがりついていた。脚を取られた騎士がエグレットを蹴り飛ばし、イルヴィスに向き直って剣を握りなおそうとした隙間、イルヴィスは飛び込んで剣をなぎ払った。血飛沫がぱっと靄のように薄くかかり、絶命の叫びを上げてそれは斃れていく。
「おねえさま、わたくしたち、生きましょうね」
そう妹が細く呟くのが聞こえた。
「ずっと、ずっと、何度でも甦って、何度でも、ご一緒しましょうね、ずっと生きましょうね、ずっとずっと、一緒に……」
「分かっているわ、リッテ。愛しているわ」
嬉しい、と唇が動いたのを最後にエグレットは硬質の美貌をことりと横たえ、動かなくなった。
イルヴィスは叫びも泣きもしない。ずっと甦って何度でもとエグレットが言った。その最後の望みを果たす瞬間は自分にも近いことは分かった。背に突き立ったままの剣の隙間から、自分の命も流れ尽きてゆこうとしているのが分かる。
だからせめて、僅かばかりの誇りや、意地のために。
イルヴィスはよろよろと剣を構え、振り返った。紅剣の鞘を握り締めた男が叫ぶのが聞こえた。
「魔女だ、早く殺せっ」
「──ええ、わたくしは魔女かもしれないわ」
イルヴィスは低く、凍えてしまいそうな唇を動かした。
「こんなに全てが憎いもの。だから呪うわ。お前を。お前を生み出した血筋を。わたくしたちを捨てた全ての者を呪うわ。この世に安息などなく、平穏など夢なのだと思い知らせてあげるわ。お前を呪い、この国を呪い、いつまでもいつまでも甦り、ずっと生き続け呪い続けてみせる」
背に剣が刺さる。腰にも、腹にも、いつか夫が白く吸い付くようだと誉めた肌に傷が入るたび、イルヴィスは声を上げて嗤った。紅剣を振り上げる力など残っていない。ただ握り締めてひたすら声を上げて笑った。
「呪ってやる」
イルヴィスは男を睨み据える。肩が切り裂かれ、胴が折られ、耐え切れずに床に倒れこむ。
「呪ってやる、呪ってやる、呪ってやる、呪ってやる――……」
自分を切り刻む白刃の雨の中でひたすら繰り返した。
最後に呪ってやると呟いた声はかすれ、血泡の中に消え、それと同時にイルヴィスの灯火も風に曝された紙燭のごとく消えた。
帝歴九五四年、夏。帝都に二人の魔女が在ったと歴史は伝える。一人は皇后エグレット。いま一人は寵姫イルヴィス。二人の女は皇帝を弑そうと試み、失敗したと伝えられている。
皇帝リジェス四世はこの弑逆事件の衝撃で暫く床へつき、起き上がることも困難だったという。彼は寝台で繰り返していた──魔女が来る、魔女が来る、魔女が来る──、と。
やがて回復したリジェス四世はここ三百年ほど途絶えていた領土拡張戦争を起こす。戦は無謀だと諭した議会を無視し、彼を諌めた皇后を斬り、自ら陣頭に立った。戦端が開いても皇帝は後方まで下がって安全を図るということをせず、必ず突撃の先頭に加わり、何度目かの突撃の際に彼は帰ってこなかった。彼が常に握り締めていた赤い剣と共に、戻らないまま年月は過ぎた。
彼の捜索はおざなりで、もっと正確に表現するならば形式だった。廷臣たちは彼が見つからないことを望んでいた。赤い剣を常に佩び、気に入らないとなればすぐに斬りすててきた恐怖を再び呼び込みたいと誰も考えなかったのだ。
議会はリジェス四世の死を二年隠し、その後病死と発表する。
そして紅剣のことは記録から消し去られ、当時の人々の死と共に、記憶からも失われた。風にまぎれる塵芥のように。
後には魔女の伝説だけが残った。物欲しがる子供を諌めるために、大人たちは脅し文句として魔女と囁くのだった。
「そんな聞き分けがないと、魔女になるよ」
──と。
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