王の試練(魔導士シィン)

 カナンの町には人買いが来る。聞いていた噂が自分の身に降りかかると、それはどこか他人事のようであった。

 ごめんね、と母親は目頭を押さえた。一回り年の離れた姉は妹の世話を理由に家から出てこない。父と兄たちが不機嫌に押し黙ったままで痺れたように立ちつくしている。

 陰気なのは自分の側に立つ人買いも同じだった。やはり口を開くこともなく、ただ黙って立っている。それが自分の永訣さよならの言葉を待っているものだと子供は悟った。彼は、年にしては聡い所があった。

 お前は頭がいいよ。母親は夜なべ仕事の合間に手を休めては、彼の額を丁寧に撫でてくれた。頭がいいよ。学校へやれたらいいのにねえ……

 そして最後は決まって溜息になり、ごめんねという言葉を紡ぐのだった。

 子供はその場の空気に馴染むように沈黙しながらじっと自分の家を見つめる。

 殆ど崩れそうな母屋、染みだらけの壁、時折は雨が漏って家中いえじゅう外と同じように水がしたたる部屋。

 彼の家は貧しい。地主の土地を耕していくばくかの稼ぎは生み出すが、小作料や農具の賃貸料だけで殆どが消える。それを更に一家七人が暮らしていくには足らない。物心着いたころから彼は家のために働くことしか知らないが、それにしてもこの年の凶作は酷いものであった。

 この冬を越せない。だから彼が売られていく。十七の姉でも、十三と十二の兄たちでも、彼より下の六才の妹でもなく、彼が。

 ごめんね、と母親が喘いでしきりと目許を拭っている。子供は首を振り、順ぐりに家族の顔を見つめた。家の中から微かに、姉が妹をあやすつもりの子守歌が聞こえてくる。何かを言うと涙が零れそうだったから、黙って頭を下げた。

 何を言ったってここにいる誰も自分を引き止めてくれないことを、彼はとうに理解していた。母親がもう一度ごめんねと呟いた。

 彼は頷き、首を振り、そして傍らの男を見上げた。それが合図になった。

「……では、これで。支度金が足りなくなったらあの証書を役府へ持っていくことができる、が」

 ちらりと男が自分を見たのが分かった。

「それはこの子次第だ。栄達すれば、それなりになる」

 では、頑張ればもっと家族が楽になるだろうかと彼はそんなことを思う。男の言葉は大まか、そんな意味であった。

 人買いは子供の背を軽く叩いた。彼はもう一度深く、深く深く腰を折ると機敏に背を返し、男を追って歩き姶めた。

 村の外れまで来ると子供は振り返った。家は最早遠くなって影も分からないが、どの辺りかはすぐに探すことができた。男は黙って子供が自分の居場所であった地点を探すのを待っていた。慣れているのだろう。

 気が済むと子供は再び歩き始めた。カナンの町を通り抜けるとき、人々の視線が自分に突き刺さってくるような気がしてならなかった。

 カナンの町に月に一度回ってくる人買いの選別に彼が残ったのは、幸運なのかそれとも不幸なのか。同じように売られる子供たちには不適格者がいる。気味の悪い仮面をつけた陰気な男が子供たちの手首を握って微かに頷けば、それは買っても良いという印なのだった。

 子供はそれに残った。残ったうちでも更に選別があったが、それにも残ってしまった。不適格と見倣みなされて帰されていく子供たちの顔に浮いていたのは明らかに安堵でなかったろうか。

 そんなことを考えながら俯いてとぼとぼ歩いていると、人買いの男は微かに目をゆるめた。笑っているように見えた。それは子供を宥めるためだったかもしれない。

「怖がることはない。少なくとも、今夜から腹を空かせることはないはずだ、お前も、お前の家族も」

 言われて子供は頷いた。その為に売られたのだから当然のことではあったが、深い安堵を覚えたのは確かだった。

「お前は奴隷になるのではないかと思っているだろうが、それは違う。お前の行く先は、帝都だ」

「帝、都……」

「そうだ。うまく行けばお前は帝都でも至高の場所へ参じ、お偉い方たちのお側にはべることもできるし、国を支える重要な役目を負うことができる」

 男の言う意味が良く分からなくて、子供は首をかしげる。分からないだろうなと男は苦く笑い、そして溜息になった。

「お前は学問は好きか」

 子供は学問、という言葉の正確な意味を知らなかったが母親がいつも学校へやりたいと言っていたことを思い出して曖昧に頷いた。学問というのを積めば母親の言うように、お役人になって楽な暮らしが出来るかもしれないと思うと、それは希望のようにも見えた。

「普通の学校とは違うが、お前が行くところは学問をするところだ。そこで一所懸命に励めばお前の親も楽になる」

 最後の一言で子供は大きく頷いた──勿論、男の言葉には沢山の隠された事実があって、子供がそれを知るのは少し先のことであった。




 ぽつぽつと雨だれが続いている。シィンの主人である年若い皇女はそれが嫌いで、細い指先で先程から机の上を苛々叩いてばかりいた。溜息を吐いて主人はそれでシィンの存在を思い出したようだった。お前、と呼ぶ声はやはり機嫌が良くはない。

「いつも黙ってばかりいて、お前は本当に無口なのね。カナリーみたいに何か喋りなさいよ」

 シィンは困惑と言うには仕方のないものに囚われて軽く頭を下げる。この皇女に仕えて十年になるが、この手の愚痴には慣れている。そして、皇女もまた、シィンの無言の返答には慣れていた。仕方がないわねとゆるく笑い、冷めかけている茶のカップを取った。

「会議はいつまで続くのかしらね……」

 皇女の呟きに、返答はしない。皇女はシィンからの返事が欲しいわけでもなさそうだった。あるいはそれを最初から諦めているのかも知れない。シィンは仮面の下で微かに唇だけをほころばせた。

「まったく、私のことなのに私を呼ばないというのも私を馬鹿にした話だと思わない、ね」

 女主人は大仰な溜息をつき、ドレスの裾をさっとさばいて足を組み直す。その仕種は確かにこの国の頂点に立つ一族のものであった。どんなに斜に振る舞っても消えない、染みついた優雅さ、気凛というものなのだろう。

「国の大事でございますから」

 短く答えると、皇女は肩をすくめた。言わずもがなのことであったから、シィンの返答の不満さは考えるまでもない。皇女は頬杖をついて窓の外の雨を見つめる。暗い灰色の空は低く垂れこめて、外は荒れる気配であった。

「降るならもっと、たくさん降ればいいんだわ……」

 皇女の呟きが耳に入った。雨のことを指しているにしては暗い苛立ちに溢れていた。その意味をシィンは察し、相槌を打たずに沈黙する。返答の無い理由をとうに皇女も分かっていて、またシィンのほうを見て苦笑する。その笑顔が今、自分に向けられていることがシィンの心の底を微かにくすぐった。

 先帝が崩御したのはもう四ヵ月も以前のことだが、未だに新帝の選定が済んでいない。先帝に男子がいなかったのも確かだが、宮廷の力点の流動が憐継問題を複雑にしている。宮廷の実力者はこの皇女の母方の叔父であるイルドラ公で、派閥を広げて宮廷にゆったりと君臨していた。実際、先帝よりもこの国の重鎖であったのだ。

 残った皇族のうちで一番皇位継承権の高い男子はこのイルドラ公の血縁ではなく、そのせいで会議はもう三ヵ月以上も紛糾しては空転することを繰り返している。国を仕切っている高官たちには派閥があり、それはほぼ二派に分類することができた。要するに、イルドラ公派か。反イルドラ公派か。お互いにお互いの提案に反対するという意味においては非常に呼吸の合ったいがみ合いぶりなのだが、それが皇位継承にまでもつれていくと、流石にどちらも譲らない。

 再び皇女が溜息になった。その心の波立ちをシィンは良く分かる。

 ……迷走した皇位継承問題が巡り巡って、この皇女に女帝の道を開きそうな気配がしているのだった。

 ナリタ・ワーディン皇女はこの年二十才になる、先帝の長女であった。傀儡という単語を回避できるほどに幼くはなく、母親はイルドラ公の妹であり、先帝の遺児である皇女たちのうちで一番年上でもある。

 皇女の反応は、複雑であった。女帝は前例の無いことであるし、これまで皇女は特に政治学や帝王学を修めたこともない。不安もあるだろうし、何よりこの皇女の気位の高さは最初から叔父との軋轢が想定できるほど、きりりとしていた。

 それでも即位をすればきっとその細い顎を懸命に上げて前を見据えようとするだろう。そして、確実にイルドラ公と衝突し、恐らくは皇帝という名の宝飾冠の無力さを知ることになる……シィンは仮面の下で目を伏せた。皇女が傷つくことは自分の身を切られるよりも辛く、そして何よりも胸が痛いことであった。

 中途半端な雨はいらない。どうせならもっと降って、気持ちの良いくらいに嵐になればいいのだという自棄をシィンは咎める気持ちにはならなかった。

 徴かに物音が聞こえ、シィンは顔を上げた。そもそも仮面のせいで視力はないも同じことだったが、それを補うために感覚は鋭くなっている。更に魔導で補完しているのだから、獣のように自分たちは敏感なのだ。

 どうしたの、と皇女が怪訝な声を出した。いえ、と意味の無い言葉を返してシィンはその物音を追い、皇女の側から離れて平伏した。そもそも皇女の側近くに立つこと自体が特別な許しであった。

 部屋に駆け込んできたのは中年の書記官であった。極度の興奮が彼の頬を赤らめている。取り出した書簡が羊皮紙であったことで、シィンは一段と低く伏した。

「ナリタ・ワーディン=ルゥ=エリエアル、汝の名をこのときこれよりナリタ・ワーディン=ルゥ=エリエアル・シタルキア・ロゥとする」

 シタルキアは国号、それを皇族の姓であるエリエアルの後に付随することを許されるのはこの国でただ一人──あの一番高い場所の玉座に座る資格を持つ者のみであった。

 皇女は深く頷き、窓の外の雨を見た。雨は地上の何かにも関わらず、変わらずに降りそそぐものであった。

「──新帝陛下万歳……!」

 書記官は感極まった声を上げると、皇女にひれ伏した。シィンの耳はこちらへやってくる無数の足音と衣ずれを聞きつけて、これが事実であることを確認している。その通りに雪崩込んできた人の渦に押されてシィンは壁際まで下がった。本来護衛であるのだが、近衛騎士たちもいるから大丈夫だろう。それに危険なことがあるなら前兆を感じることができる。そのための魔導士であり、魔導の技でもあった。

 人に囲まれて賛辞と祝福を受けている皇女の表情は明るいが、それが表面のものであるとシィンはすぐに気付いた。ナリタ皇女は簡単には人を寄せない厳しさと、それ故の誇り高さが前面に出る人為だ。この人の波をきっと面白くは思っていない。叔父でもあるイルドラ公のことでも考えているのだろう。十年も共にいれば空気だけで分かることもある。

 皇女の視線が微かに自分の仮面の表面を撫でたのが分かった。シィンは頷き、ゆっくり後ずさって人の目につかぬ部屋の端に身を置き、唇を動かした。

 ゆっくり闇がほどけていく感覚はあった。空間を裂いて移動するときは、いつでも脳裏に周囲の情景が一層鮮やかに見える気がする。呪文の詠唱に関してシィンは正確で、単調にも思えるそれを淡々とこなしていくだけの単調な繰り返しを厭わなかった。

 僅かな眩暈が体を通り抜けていくのを、いつものようにやり過ごしてシィンは立ち上がった。──そこはもう、魔導の塔を囲む高い塀の中であった。移動の出来る魔導士たちには意味の無いものだが、中からの脱走者はいなくはないし、何よりも外からの侵入者を拒む意味でも必要な施設である。

シィンは十年前この塔からナリタ皇女の元へ派遣された。

 彼に決まったのは卜占ぼくせんの結果であった。降りてきた任務に、シィンは驚いたが逆に安堵もしていた。

 魔導士は消耗品と同じだ。使命があればその実現をもたらす以外は死ぬしかない。皇族の護衛は長く息命を保つように見えた。

 家族のことは既に記憶に遠くなりつつあるが、それでもその安否を気遣わないことはなかった。シィンが務めを果たしていれば、その働きに応じた金を家族が年金として受け取ることができるのだから。

 もうすぐ夏が始まる。厳しすぎず、寒すぎない夏になるといいとシィンは思った。自分のように訳も分からずに魔導の塔に連れてこられるならまだましで、悲観して自殺するものも珍しいわけではない。娘を女郎屋に売るか鷹導の塔に売るか、どちらがましだろうかという戯歌があるほどだ。

 蔑まれているわけではなく、誰も嘲笑するわけでもない。だが、国家の内実に深く食い込んでいるにも関わらず、魔導士というのは全ての身分のさらに下に位置する存在だった。

一言で言うならこれが正しい。

 魔導士は、人の形をした人でないもの。空気であり下僕であり、国家の奴隷だというのは決まりだ。最初からそうで、きっと最後までそうだろう。それが始祖トァン・チャシティナが奴隷階級であったことと関連しているどうかは既に問う意味を失っている。

一度築き上げられた城を崩すには労力が要り、シィンはそれを微かに憂えたことがあっても不服であると感じたことはなかった。

 冬は人買いの季節だ。夏の首尾が悪くて食い詰めた家族が子供を売る。建て前をいうのならそれは人身売買ではなく、魔導という学問を修めるための修学所に入学するための選別を受けた子供に対して、支度金を出すということではある。

 だが、実際がどのようであるかは自分がよく知っていた。シィンも似たような経歴で故郷の村から近い町に来ていた魔導士の選別に適って魔導の塔に連れてこられた。あのとき人買いだと思っていた男は実は官吏で、シィンの戸籍と支度金に関わる始末をするのが仕事であったのだった。気鬱な仕事であっただろうと微かな同情さえ起こるから、シィンは全くこの環境に馴染んでしまったということもできた。

 塔の中は薄暗い。連れてこられた子供は年長の魔導士の内弟子として過ごす。基本的な呪文を幾つか覚えて最終試験に通れば正式に魔導士としての名を貰う。それまでは名がつかない。最初に両親から貰ったはずの名は既にどこかへ置き捨てられ、思い出せなくなっていた。

 すれ違うものたちは魔導士か、細々とした仕事をするための小間使いたちだ。魔導士名と、それが内側に刻まれた仮面を貰うまでは子供たちは弟子入りした魔導師の部屋からは出ることができない決まりなのだ。

 シィンは廊下を長く歩いてやがて歩を止めた、内側から入りなさい、という女の声がした。それがシィンの師である魔導士であった。

 師は書き物をしている最中のようだった。書き損じた紙が散乱している。尊師、と声をかけると少し待つように手を挙げた。シィンは決められている長い衣をひきさばき、壁際の椅子に腰を下ろした。

「お前を通して聞こえたよ。ナリタ殿下のご即位が成ったようだな、シィン。まずは重畳……」

 師はようやく手を止めるとそんなことを呟いた。シィンは黙って頭を下げる。声の感触からして女の年齢は自分の母親よりは下、くらいだろう。師の顔を見たことはないが、声の調子や手の皺が年齢を微かに感じさせる。

「それでお前のことをな。長老会からも再三言われているとは思うが、お前もそろそろ内弟子をお取り。お前はここへ来てから二十年、早いとは思わぬ。お前は実に従順で素直な弟子であったが、シィン。自分で考えることもせねばなるまいて。私の研究の補助をする気があるならそれでもよいが」

 シィンは曖昧な返答をした。内弟子を取るにしろ、尊師の研究の輔弼をするにしろ、それは皇女の側から離れることを意味した。

 出会った頃より十年を数え、皇女と自分の間には主人と奴隷という枠を超えた何か見えぬものがあるのは感じ取っている。

 そもそも、最初に下された卜占の結果が自分であったことでシィン以上に皇女と相性の合うものはいないはずだったし、自分が選別されたこと自体に何か意味があるはずであった。長く馴染んだ主人であることもあり、その心の機微を飲み込んでいることもあって、シィンはナリタの傍らを離れることが酷く理不尽なことに思えた。

 シィンはこういうとき、決まって沈黙した。何か反論しがたい、不満な事柄がある時、シィンは大抵口を結んで何も言わなくなる。それを皇女はいつものだんまりね、とからかうが、シィンは自分の心の変化や動きについて半ば麻痺したようにぎこちないものを感じることしかできなかったし、それをことを細かに説明したり分類することが苦手であった。

 師は僅かに背を正した。

「お前の選択はそのどちらかしかないのだ。最初の卜占の結果は確かにお前だったし、お前には知らせずに行った卜占もお前を示した、が……」

 ためらいがちに師は言葉を切り、やがて振り切るようにはっきりした口調で続けた。

「が、長老会はお前を殿下のお側にはべる役割から罷免することを決定した。私も無論それに賛同した」

「何故、です、尊師。私は何も不手際は……」

 言い繕った言葉が揺れていて、シィンは自分でぎょっとする。いつだったかナリタ皇女が父帝の容体が思わしくなくて不安げに彼に父上は大丈夫かしらと繰り返して尋ねたときの声音に似ている。その過去の事実になぞらえて、今、自分はきっと不安というものなのかもしれないとシィンは思った。

「不手際か……お前に落ち度はない。これは更迭ではないから、落ち着くことだ、シィン。だがこれから先、何も間違いが起こらないとは限らぬ、ということだ」

「間違い……ですか……」

シィンはぼんやり反復した。何を言われているのかよく分からなかった。そうだ、と師はそれを強く肯定し、立ち上がってシィンの肩を叩いた。

「お前は忘れているかもしれぬが、我々は人ではない。いいな、もう一度繰り返そう。我々は、人ではない。だが、人間ではある……間違いが、起こらぬうちに。殿下がまだ皇女として勤めをまっとうされていたならともかく、登極なさる。殿下は国になくてはならぬ、絶対不可侵の方になられるのだ。よいな、私の可愛い弟子よ──お前を女帝の夫にしてはならんのだ」

 最後の言葉でようやくシィンは何を危惧されているのかを理解した。

 一瞬言葉が出ない。そんなことを考えたことはなかった。

 ナリタ皇女はかけがえのない主人であり、気心の通じた相手ではあるが、女性としての価値で計ったことなど、いや、その基準があるのだということさえ今知ったほどだ。シィンがしばらく黙っているのをいつものことだと師はゆったり構え、彼が言葉を発するのを待っている。それに気付いたのも少し時間をおいてからであった。

「私は、そんなことを考えたことは……」

言い繕う言葉が乱れている。自分は何に動揺しているのだろうと怪訝に思いながら、シィンは狼狽に迷走した言葉を途切れさせた。

 師は軽く頷き、シィンの正面の椅子へ身を深く預けた。一瞬、この尊崇すべき師が酷く年をとった女である気がした。

「そうだな。お前はそういうことを考えられるほど気が回らぬだろう。だが、殿下のほうはどうだか確定ができん。それに、重要なことはあの方は一生誰をも夫に迎えることができないということだな。恐らく身辺からは男が遠ざけられる。女帝の夫が誰であったとしても、それが国政に口を出すことは断じてならん。結果が良くてもだ」

 シィンはそれには深く頷く。女帝というものを皆初めて持つことになるわけであるが。それが惨憺たる結末に終わってはならないのは勿論、結果が良くても前例を残してしまうことが良いはずはなかった。

 ナリタの周辺から男性を遠ざけるだろうという師の言葉は正しい。ナリタは誰彼構わず他人に頼りしきる性情ではないのは明らかである。だが、逆にいうならそれは信頼を寄せた相手には胸襟を開くということでもあった。

 魔導士は人ではないということになっているが、それも主観を交えれば違う。事実、皇女は何度かシィンに向かってお前を下僕だとは思っていないという意味合いの言葉を与えている。

 それが世間知らずの娘の理想を語る言葉であったとしても、悪い気はしなかったのは事実だ。シィンはその言葉に甘えることはなかったが、それを言ったこと自体が、ナリタの彼に対する信頼の深さを裏づけていた。

「今ここで回答をせよとは言わん。だが、即位までにはお前の返答を聞くようにと長老会から私は申し渡されたことを、付け加えておこう」

 師の言葉は淡々としている。

 魔導士には能力や功績に応じた階級が存在する。常時長老会は上位五名の魔導士達によって運営され、魔導の塔の意思を決定した。その決定に逆らうことは魔導士としての未来を絶たれることに等しく、事実上不可能であった。魔導士として生きていくしかないのだ。シィンも、そして他の魔導士達も。師も例外ではない。

 分かりました、とシィンは溜息のような返答をした。それが思いの外自分でも気が重かったのに驚きを覚えるが、だ僅かなものであった。

 師がこちらを見た気配がした。仮面に隠れて目は役をしないが、気配に敏なのは魔導士に共通であった。

「私は長老会の決定に従います。尊師のお邪魔でなければ、どうぞ私をお使いください」

 内弟子を取る、と言えば自分と同じ境遇の子供が自分の元に送られてくる。自分はそれほど抵抗感なく魔導を修め国家の奴隷となることを受け入れてしまったが、他の子供のことは分からなかった。

 そうか、と師は軽く頷いた。

「後任を卜占が示さない。お前の意見を聞こう」

 シィンは頷いて、思考に沈んだ。女であることは必要な条件であったが、ナリタ皇女が時折自分に何か話せということを思えば、同性のほうが良いのも確かに思われた。皇女の性質を鑑み、波長が合うだろうと思われる同僚達の名を幾つか上げてシィンは師の部屋を辞した。

 出て行く間際、師がシィンの背に向かってよいのだなという言葉を投げてきた。シィンは頷き、その瞬間に不意に胸に深い痛みを覚えて喉で喘いだ。




 黒い髪を不機嫌にもてあそびながら、この国初の女帝という地位にいる貴人は唇を結んだようだった。シィンは黙ってその傍らに膝をついて女帝の視線の行く先を感じている。

 季節は既に夏を過ぎ、年末が押し迫っている気配を漂わせるようになった。後宮の紅葉は黄色く一時期を彩っていたが既に葉も落ちて冬の寒々しい姿になり始めている。

 即位式から続く一連の典礼が過ぎ、ようやく女帝の身辺は落ち着きを取り戻している。そして相変わらずシィンはナリタの側にいるのだった。

 ……離職はならなかった。女帝の拒否反応の熾烈さを魔導の塔も、そしてシィンも甘く考えすぎていたのは確かだった。

 だが、長老会に呼び出されて離職の決定を取り下げる旨を聞かされたときに胸をよぎったのは、自分でも狼狽するほどの歓喜であった。シィンは周囲の様子を「見る」ための呪文を口の中でゆるく唱え始めた。彼の女帝のふて腐れたような顔でも、それは彼にとっては貴重なものだと思われた。

 目は退化し、仮面を取っても暗い闇になっている。その代わりに魔導があるが、それが本末転倒な仕儀であることは分かっている。だが、視線を探られることなしに自分の欲するものを見ることができると思えばそうでもあった。彼の主人は椅子に身を預けてじっと外を見つめていた。

 その横顔を、孤高だとシィンは思う。長い間に血に混じり込んだ宮廷の美姫たちの容貌が熟成されるのか、皇族を筆頭として上位の貴族達は総並べて顔立ちが悪くはない。

 だが、その整った顔が愁いを含んだ様子でいるのは痛々しかった。

 シィンの予測した通りにナリタは叔父であるイルドラ公の傀儡であり続けるには自己をしっかり持っており、誇り高い女帝であった。

 衝突、擦り合い、そんなものに今まで無縁であった娘が勝利できるほど甘い世界ではない。ナリタとてそれは承知していたようだったが、現実のほうが余程自分の予測を越えていたのだろう。次第に高官達との接触を疎んじるような表情が多くなりつつあった。

 長い溜息が唇から漏れた。主人は以前から喜怒哀楽の差がくっきりしており、はっきりした気性の持ち主であった。己を通そうとしても相手に従うにしても、彼女が酷く忍耐を強いられているのをシィンは知っていたが、それに対して何か言葉を与えることは出来なかった。

 それは長老会、引いては魔導の塔との誓約といって差し支えなかった。シィンが離職の挨拶を始めると女帝は酷く苛立ち、悲しみ、そして怒った。認めないとはっきりその唇から出たとき、──シィンは自分が仮面の下でつい、笑ったような気がしてならない。

 ナリタが幼かった頃、自分はようやく魔導士として一人前になりかけていて、彼女が珍しげにせがむ魔術を見せてやるのが純粋に楽しかった。ナリタは顔も忘れてしまった彼の妹よりも更に年齢が下だが、見ることができなかった妹の成長を目の当りにするような気もした。機嫌の善し悪しで故のない八つ当たりを受けても、素顔を見たいと無理を言われても、怒っていても笑っていても、その生命の鮮やかさはいつも胸に暖かかった。

 けれど、こんなことも既に思い出すことでしかない。

 あの頃はという期間の指定がつく度に、今、自分がしていることが余りに馬鹿馬鹿しく、哀しいことであるように思われた。

 女帝からなるべく遠ざかるように。政治や軍事に関わる助言はしないように。相談は最初からそれをさせないように。その上で距離をおいて、後任の女と少しづつ傍らに立つ時間の長さを分けていくように。

 魔導の塔から与えられた命題は、女帝にそれと気付かせぬように時間をかけて結果を導き出すこと、であった。

 平伏する度、主人の問いをはぐらかす度、雑談でさえ沈黙を多く作る度、密接していたものが次第に離れていくのが分かった。

 それでもよかった。ナリタの傷ついたような顔は確かに彼を鞭打ったが、その方がいいのだ、と言うことをシィンは単純に信じようと躍起になっている。懸命にそれを信じるに足る証拠を自分の内側に探すとき、シィンはいつもふと、立ち止まるべきであるというような声を聞く気がするのだった。

 何を怖れているのか分からないまま、シィンはナリタから離れたかった。側にいると良くないことが起こるという予感、自分たちの間に次第に隙間が開いていくのを確認する毎にそれは強くなっていく気がしだ。

 怖かった。とても。その正体に触れてしまえば一切が転換するような気がして、身じろぎもならないように、縛り上げられている感覚がする。自分たちが人でないというのなら、それで息が苦しくなるのはどうしたわけだというのだろう。人でないというのなら心もまた、魔導士の仮面の下で潰れてしまった目のようになってしまえば良かったろうか。

 ……思考する機械のようになりたいと、シィンは最近そんなことばかりを考えている……

 ナリタはそんな彼の思惑を知っているのか否か、シィンが距離を置こうとする度に、胸を突かれるほど淋しげな表情をした。女帝の周辺に、人は多いが信頼できる人間は少ない。それが一層の孤独感を増しているのだろう。彼女が感情の起伏を忌憚なく見せる相手は彼女の妹たち、つまり皇妹たちと侍女のカナリー、そして自分だけであるという確信を、シィンは得ている。

 それを思うとその恐れは一段と激しく嵐の予感を吠えるのだった。

 正直、シィンは疲れ始めている。このまま女帝の側にいるのは苦痛であるとしか言い様がなかった。離れていれば落ち着いて物を考えることもできるのに、主人の傍らに呼ばれるとそれだけで思考がまとまらなくなる現実をどう解釈していいのか、戸惑うばかりでどうにもならない。だが、それを誰かに話すことは憚られた。誰にも話さないほうが良いという囁きは本能に似ていて、無条件に従うべきものに思われた。

 だが、主人が長い吐息の後に疲れたわ、と呟くとその思考は霧のように飛散し、主人に対する気遣いと慣れぬことを強いられていることへの憐憫が胸に湧いた。

 決して愚かな娘ではないのだ。ただ、イルドラ公やその反対する一派の上を軽やかに渡るには要領が足りず、足りぬことを承知していながら気位に足を取られてままならない。何かを強制的に執行してしまうには、手駒になりうる信頼できる官吏がいない。そうして苛立ちばかりが彼女を蝕んでいる。

 雌伏して機会を待つ、という選択を口にすることは出来ない。魔導の塔が自分に監視をつけているとは思わないが、一度踏み出せば、際限のない環が回っているだけだと思われた。

 だからシィンは全く違うことで彼女の気を紛らわせようと、何か飲むかと聞いた。落ち着かせることができるかは分からないが、先の状況では自分に何か求められるかは知っている気がした。因縁の相手であるイルドラ公が主人の元を訪れて帰ったばかりであった。

 だが、ナリタは首を振った。彼女が何に気を傾けているのかは聞かなくても良かった。イルドラ公が持ち込んできたのは一本の剣と、厄介事の始末であったからだ。前者はともかく、後者はシィンの口を出せることではない。だが、ナリタが再び溜息をついて彼に問うたのはやはり、自分の指示が正しかったか否かの追認だった。

 この国と北接するブァラン王国の内政の乱れから難民が流入してくる。その問題は粗忽に扱えば簡単に軍事衝突へ変わる可能性を孕むだけに微妙であった。低く押さえた声音でナリタは自分では判断の材料に欠けるということをイルドラ公に伝えていたが、女帝の叔父は承知しなかった。急ぐことなので、という言葉の裏に任せて欲しいという意思が見え、それにナリタも気付いていたのだろう、逆に依恬地になってしまったようだった。

 厳しい姿勢を見せておくという観念に囚われているような気もしたが、ナリタもまた、言い出したことを簡単に変更するような為人ひととなりでなかった。

 だが、自分の決定が本当に良かったのかを共に思考する側近がいない。統治者としての問題は実はナリタが女性であることではなく、そうした孤独の極みに置かれていることにあったが、ナリタ自身はその区別が恐らく出来ていないだろう。教えてやりたいという衝動はいつでも自分に巣喰っているが、それが正しいと直観しているゆえに、あの意味の分からない脅えが彼を襲うのだった。

 シィンはいつものように黙り込んだ。主人はそんな彼を見て、更にいつものように苦い溜息をついた。

 最近は、本当に溜息が多くなった。ナリタは感情の起伏がなだらかであるとはいえなかったが、明るく、凛とした気質ではあったのだ。

 ひとしきりシィンの沈黙についてナリタは嫌味を言った。声音はそれを口にすることだけで歪み、深く鬱に飲み込まれているほど重かった。

 こんなに暗い声をなさる方ではなかったとシィンは思い、それ以前に陰湿な嫌味を言う皇女ではなかったことを懐かしく思い返した。いずれ彼女が心を開いて何事も相談できる側近が必要なのは確実なことであった、ナリタが名君と呼ばれるためには。

 ナリタが自分の名を呼んで、シィンは僅かに頭を下げた。その声が半ばすがるような色さえ含んでいる。

「個人的な話で結構よ。お前の考えを聞きたいわ」

 彼女が必死で自分か見つめるべき指針を求め、探しているのは承知している。ただ、シィンは自分がそれになるつもりはない。誰に諭されるでもなく、それはしてはならないことであった。

 恐れながら、とシィンは口にした。ナリタの泣き出しそうな声がそれを遮った。お願い、と彼女は言ったのだった。その悲痛さにうたれてシィンは黙り込む。そんなことを口にする娘ではなかったのだ、登極するまでは。

 お互いに追い詰め合っているような気がした。シィンはそれでも黙りこくる。ナリタにこだわるのは怖かったし、基本的に魔導士というのは政治の道具であってもそれに関わるものではなかった。

 折れたのはナリタのほうだった。その妥協を仕方ないとも、裏腹に哀しいとも思いながらシィンはナリタの気鬱を受け入れる。だが、そうして蓄積されたものが自分たちの間に次第に堆積しつつあり、それがお互いの姿を隠していくような感覚に囚われた。

 それより、とナリタが視線を逸らした気配がした。何であるか考えるまでもなかった。

 先ほどイルドラ公が持ち込んできた一本の剣が、ナリタの椅子の脇に置き放しになっている。同時に同じものへ意識をやったのが分かったのだろう。

「お前もこれが気になるのね」

 ナリタはそう言って剣を手に取り、じっくり眺めているようだった。シィンもまた、目の代役をする呪文を口にした。持ち込まれてきたときから異彩といって良い気配を放つ剣は妙に意識をかぎざいて波立てるものであった。

 脳裏に浮かぶ姿は紅蓮という印象がまずは強い。落日を固めたような色の鮮やかさと、細身の張り詰めた風情が目を奪う。更に細かく映像を刻めば鞘の細工が精緻で緻密であること、そこに彫られているのが羽ばたく鳥の意匠と咲き乱れる蘭の花であることも知れた。

 シィンは我知らず、呻いていたようだった。これが、と咄嗟に思った。人から人の手を転々とし、その主人に不幸をもたらす呪いの剣、噂に名高いあの魔剣、確か銘は……

「バシュラーン……」

 呟きが重なった。女主人もこの魔剣にまつわる数々の逸話を思い起こしていたに違いなかった。だが、言葉が重なったことで吐息に似せた笑いを主人が紡ぎ、場の空気はやや軽くなった。

 機嫌を持ち直したナリタが長椅子に身を落ち着け、その刀身を鞘から抜く、刃ずれの音がした。その音を聞くだけで、どんなにか鋭利で美しい刀剣であるのかを知ることができた。ナリタの溜息もまた、感歎のものであった。確かに見事な剣であると思い、シィンはそう口にした。

「そうね……どう、何か感じますか」

 魔導士としてこの剣から何らかの事柄を読み取れるかというこの質問はシィンが回答できる今や数少ない一つであった。久しぶりに会話が噛み合いそうだとシィンは思い、それに自分が強い安堵を覚えているのに気付いた。

 それから全身の感覚と動員しうる限りの洞察力でその剣を観察するが、魔導の兆候は結論から言えば見出せなかった。

 魔導の技でないとするなら、シィンの手には余った。シィンが魔導士の塔に入ったのがまだ十になる以前、彼は外のことを詳しく知る機会を殆ど得なかった。沢山の知識だけは魔導士としての修養を積む過程で学んできたが、それも本の上の知識と言われたなら間違いではない。

 魔導の旋律を使う以外に呪いをかける方法をシィンは知らなかった。呪いというのは相手を選別しない強い暗示であるが、それを啓発する条件を設定して、「そうせずにはいられない」と対象を誘導するという行為の総称だ。呪文というのは動機付けと行為を設定するものであって、魔導に詳しくない者たちが芝居で使うように、直接の効果を使役するものではない。条件の決め方や理論の辿り方は個人の感覚と才能に委ねられる部分が大きく、これが魔導を単なる科学でも学問でもないものにしていた。

 魔導を発動するための呪文は言語の体裁を殆ど成していない。要するに音律の流れでこの世界物質を構成する自然霊とその司る物質との個別の契約を成す行為である。

 呪文は口伝で伝えられていくが、僅かにでも音階や律動が狂えば意味を成さない。これをまずは鵜呑みに覚え、繰り返して自分のものにするところから魔導士の最初が始まる。

 これを言語のように意味合いとして解明する研究は、魔導士全てを掌握する組織である魔導の塔が立てられた頃からの命題だが、百年かけての実績は本一冊書くにも足りない程でしかなかった。

 実際「自然霊」と呼んでいるものに果たして意思があるのか、魔導の塔は懐疑的でもある。魔導の始祖であるトァン・チャシティナが力をもたらす存在を霊と呼称したからその習慣が続いているだけなのではないかというのが最近では定着しつつあった。「契約」という言葉も理論の固定をそう呼称しているという話であって、人を超越した何かと実際に約束があるわけでもない。

 そうした原理をかい摘まんで解説し、シィンはこの剣からは魔導の痕跡が見出せない旨を告げた。音律で物質を支配して効果を生み出すゆえに一度でも魔導の使役を受けたなら、その波長の傷痕が対象物に残るはずだったが、それも見出せない。魔導の技でないとすると、鷹導の塔の長老たちに預けて解析を試みても巧くは行かない公算が大きい。

 ほんの僅かな悪意であるというのならシィンが見逃している可能性があるが、この剣に伝わる逸話は十分に有名で、長い間巷間こうかんを転々として来たことは間違いなさそうだった。魔導の塔の記録にも残っている。皇族だけに伝わっている話もあるはずだ。

 シィンの記憶している限り、呪いの剣の最初の登場はもう五百年以上前であった。形状が全く同じで呪いの効果が同じであるから同一の剣だと推定される、という但し書き付きの歴史書、一度は聞く怪談、その華々しくどこか暗い色をした伝説の数々。

 それを説明すると、ナリタは僅かに頷いたようだった。シィンは剣の理解のし難さに嘆息する。

 それは丁度ナリタのそれと重なり、またしても同時であった。

「この剣がバシュラーンであるか、そうでないという証拠を探さないと」

 そんなことをナリタが呟いた。そうであろうとシィンは思う。彼にとってこの剣の不思議は解明してみたい謎であり、解き明かして魔導理論として自らに吸収させたい知識欲の対象でしかないが、ナリタにとっては全く違う。彼女はあたかもその呪いに掛かったように、「そうせずにはいられない」のだ。

 ──その剣の名は、紅蘭の剣バシユラーン。遥か千二百年前、この国を創始した始祖大帝の遺産。もしそれが本当ならこの国の開闢の奇跡を捻出した名剣であり、大帝の正妃であった蘭芳皇后の剣でもある。

 それが、本当ならば。

 ナリタにとっては始祖大帝の遺産かどうかが大きな問題であろう。大帝にまつわる話は沢山の伝説となり、奇跡の口伝となって飾り上げられているし、蘭芳皇后も同じだ。バシュラーンと呼ばれている紅蓮の剣がその遺産だとするならば、由々しきことであり、少なくとも建国伝説を汚すものであることは間違いない。

 確かめなくてはという言葉は間違いなくそれを指している。シィンはナリタの気配を窺う。女帝は微かに息苦しく呼吸をした。

「何故これはこんなに……始祖大帝の遺産と似ているのかしら……」

 口から漏れてきた呟きに、シィンは思わず主人に顔を向けた。何かを確信しているような声音であった。

「記録というものは形状や色を留めておくだけですから、似たものもあるでしょう」

 それが大帝の遺産であるという噂は、目録に残る姿形の描写と世界を流浪するバシュラーンの姿が一致することから始まっている。目録には確かに、炎の色をした鞘に納まった細身の剣であり、鳥の意匠と蘭の花の彫り込みがあることが記されている。

 だが、ナリタは首を振った。この国には始祖大帝の姿を正確に留めているとされる肖像画が一枚残されているが、その絵は秘画とされ、代々の皇帝と絵の修復士しか見ることができない。即位して続く大礼の中でナリタはそれを見たと言い、その中に描かれている剣と手元にある剣が良く似ている、と付け加えた。

 最後の言葉は微かに震えていた。女主人にもその得体の知れなさが恐ろしいことに思えるのだろう。苦し紛れに誰かが書き加えたのかしらと呟くが、シィンが何故と問うと、その不可能さ加減に溜息になった。

 絵の修復は百年に一度だが、その前後に必ず皇帝の直接の検閲を受ける。先の修復はナリタの父であるロクスタ四世の治世に終わっているからナリタ自身の時代にはなさそうだったが、余計なものを書き加えれば死罪は当然のことだった。

 女主人は再び自分の思惑に沈んだ。皇族しか知らない伝承や、皇帝にしか伝わらない秘密もあるだろう。が、そんなものを考え併せてみたところで、ナリタには魔導の内実が分からないのだから総合することができるはずもなかった。あまり余計なことで煩わせたくなかったから、シィンは陛下、とやや声を大きくした。

「では、剣を。魔導の塔にて解明を試しましょう」

 いずれ呪いという強い暗示を発見することが叶えばその方程式を逆算して解く作業、つまりは呪いの解除をしなくてはならない。破壊するにしても強い暗示は思念として残る場合があるから徹底した結界の作成が必要であった。シィン一人ではそれは成しえない。魔導の塔全体で関わるべきものであると言えた。

 ナリタの反応は一瞬なかった。怪訝にシィンは長く仕えてきた主人へ視線を当てた。遅れて戻ったナリタの返答は、否であった。

「これは、私が預かるわ。魔導の塔が解答を出せないというのなら、お前に預けても仕方がないでしょう」

 確かに自分はその可能性が高いということは言ったがとシィンは落胆する。それを押し込んでシィンは仰せの通りに、と呟いた。この剣が真実蘭芳皇后の剣であるかどうかはともかく、呪いの剣「バシュラーン」と呼ばれているものであるという確信は、半ば当然のようにシィンの中にあった。

 既に放っている気配が尋常でないからだ。異種物の匂いのような、そんな異質さが波動になって伝わってくる。それは側にいれば緊張を強いられるほどの圧倒的な流れであった。

 シィンが不満を飲み下したことを、女帝は気付いたようだった。こういう所、十年の歳月が逆に疎ましい。一度は流し去った怒りと苛立ちをナリタは呼び戻してしまうたようだった。返答に困惑する、以前のようにもっと自分と話をして欲しいのだという声をはぐらかしていれば、ナリタはこれ見よがしに溜息になり、そしてブァラン王国からの流民問題の件を蒸し返した。それは彼女なりの報復であり、そして助けて欲しいという懇願の現れでもあるように思われた。

 シィンはこれに答える訳にはいかなかった。彼女の心がなにを呼んでいるのか薄く分かっていながら平伏するしかない。昔から身分の差と一言で括ってしまうには広大なものが横たわっていたが、通じているものはあった。だが、こうしてナリタの心象を素通りしていれば、それは実際の距離よりも更に遠く、更に遥かになって行くのだった。

 ナリタの哀しげな沈黙は、それを裏付けるものであった。シィンはますます低く身を縮めた。シィンも既に気付き始めている。彼女の視線がどう自分を見ているのか。自分のこの息苦しさが何に起因しているのか。だから、離れなくてはならない。それは何よりナリタのためであった。

「私は意見を言うべきものではありません。私の身は全て国の、引いては陛下のものです……」

 嘘はつきたくなかった。多くのことを黙っていればそれで良かった。

「私は自分の考えを持たぬ、呼吸する道具なのだとどうか」

──そう思いたいのは自分だ。呼吸する、思考する、機械になりたい。

「どうか、思し召し下さいませ」

「お前は生きてるんじゃないの!」

 反射のように女帝は叫び、それから声を震わせながらお前まで私を疎外するのね、と呟いた。その真実さも良く分かった。彼女は孤独で、その孤独を癒すための支えを、生きていく価値を勝ち取るための支えを、心底から欲しがっている。何よりも何よりも、欲しがっている。

 けれど、それに答えてしまえば後はきっと、シィンが密かに怖れ、目を背けてきた未来へ雪崩のようにつき進んでいくことも分かったような気になった。

 進んで行かぬなら戻るしかない。行く手からそれが向かってくるというのなら、逃げるしか出来ない。なるべく女帝を傷つけないように、柔らかく言葉を違びながらシィンは言葉を紡ぎ出した。

「──私は、陛下のお味方です。何かあっても必ず陛下の御為に働く所存にございます。それだけは、信じていただかなくともお知り置き下されば光栄と存じます」

 だが、返ってくるのは沈黙だった。これが欺瞞であることなど、決して人の心に疎くない女帝は気付いていて怒りを飼い殺すのに必死であるように感じられた。

 下がれと命じる彼女の声は、歪んで微かに震えている。怒鳴り散らしたり泣きわめいたりしないのは、主人がそれでもシィンを側から離したくないと思っている証拠でもあった。

 シィンの態度に苛立ち、怒り、不満と不服を再三訴えても彼女はシィンを失いたくないで心で、自分を宥めすかしている。その機微がひどく哀しく、哀れであった。

 退室すると、たわんだ緊張が一息に解けてシィンは溜息になった。鈍い頭痛がした。女帝の気を慰めるために彼女気に入りの侍女を向かわせ、シィンは思惑に沈む。

 何故卜占は自分を示し、今また誰をも指さないのだろう。ナリタにはシィンが一番良いというのがその指し示す厳然たる結果、それは何度繰り返しても変わらぬ卦でもある。

 自分が主人の側にいること自体はどうやら天運の定めたままのことだ。だがそれに一体何の意味があるのか、シィンには見出せない。

 考えたくもなかった。思考停止へ逃げ込もうとしているのは分かっているが、一層、自分と並んで女帝の護衛の任務を背負った女魔導士に時間を譲らなくてはとシィンは小さく頷き──振り返った。失った感覚の代わりに感応する能力というのは魔導の力も借りて鋭くなる。この声は女帝の声だった。これを聞き間違えるはずはない。

 何かを叫んだような声がしで、シィンは考えるまでもなく、走り出している。それほど離れていない場所からならば、呪文の詠唱よりも走ったほうが遥かに早いのだった。

 先ほど辞したばかりの女帝の私室が近くなったとき、先ほどの声よりも更に甲高い悲鳴がした。シィンは陛下と声を荒げながらその場所へと飛び込んでいった。




 シィンは眠りに落ちたナリタをじっと抱きすくめていた。多分、これが最後になるから。部屋に鉄臭が立ちこめて、胸が悪い。健やかな吐息が規則正しく続く女帝の体を抱き上げて長椅子に下ろした。

 それから床に転がったままの剣を拾い上げる。幸いであったのは──こんな事態でも幸いというものはあるものだった──女帝が気心の通わぬ従者達の織り成す煩雑さを嫌って、生活の基盤を置いているこの宮に殆ど人を置かなかったことだろうか……

 そんなことを思ってシィンは首を振った。鞘を探して剣を収めるとそっと廊下の様子に聞き耳を立て、床に耳をつけて足音を数えた。夕食までは少しある時間で、この宮に人は少ないようだった。シィンはゆったりと呼吸を落ち着けて呪文の構成をひねり、詠唱を始めた。

 扉の存在を人の意識から除けるためのものだ。誰も部屋に入ってこないように。結界と呼ばれる絶対領域を作り出すには自分と同程度の地位の魔導士があと四人は必要で、この好ましくない事実を他人に知らせたくはなかったから、結界を張ることは最初から頭に入っていなかった。

 それが終わるとシィンは空間を越えて師を呼んだ。これも魔導の技の一つであった。

(どうした)

 師の声が脳裏にひらめく。遠話は終わった後で酷い頭痛を呼び起こしたから、余程のことがない限りは誰も使いたがらない。逆に言えば、遠話で呼ぶということが、非常事態である証明でもあった。

「私は今、陛下の私室におります。温室に続く……」

 すぐに行く、という返答があった。その通りに姿を現した師はその瞬間に凍りついたように立ちすくみ、やがて解答を求めるようにシィンを見た。尊師、と呟いてシィンは床に座り込んだ。実際、出血のせいで立っているのが苦痛になりつつあった。

 長い長い沈黙が過ぎ、師はゆるく首を振ってシィンが握ったままの紅剣に気付いたようだった。ぬるい溜息が漏れた。

「それは……バシュラーン……か……」

 シィンは一瞬迷ってから頷いた。あれを見た後でこの剣が呪いの剣でないということは出来そうになかった。

「おそらくは、そうであろうかと。……イルドラ公がお持ち込みに」

 そうかという返答はやや遅れている。師はこの状況をどう理解すべきかを掴みかねているようであった。

 説明するようにという無言の促しを受けて、シィンはほんの僅か前にこの部屋で起こった惨劇の内、彼の知る部分を説明した。

 ナリタの声が強く響いたのを聞いたのは侍女を部屋に向かわせた直後だった。その後、物音は絶えてなかったからシィンは怪訝に思いながら戻りかけ、そして悲鳴を聞いた。

 半ば反射として部屋に飛び込んだとき、まず耳に入ったのは女の悲鳴と、甲高い笑い声だった。

 咄嗟に扉を締め切ったのは直感だったのか。「眼」を呼び覚ますと脳裏に描き出されてきたのは抜き身の剣を奮うナリタと、その足下で身を丸める侍女だった。ナリタの黒い瞳から正気の光が消えている。

 強い歓喜、極度の興奮、それが悪意というには無邪気な陶酔になって吹きつけてくる。

 ぞくっと背が冷えた。断末魔の声をかすれた悲鳴で絞り出し、侍女の体が動かなくなる。それでもまだ足りないというのか、何かを頻りと口走りながら侍女の屍を切り刻もうとするナリタに恐怖を覚えながら、おやめ下さいとシィンはようやく唇を動かした。

 だがナリタの腕は止まらなかった。憑かれたように呟き続け、止めようと正面に回ったシィンに悲鳴を上げた。彼女の瞳に映る自分の仮面の照り返しが一瞬眩しく感じた。光に焼き捨てられるような痛みがすると思った瞬間、それは現実に打撃として自分のこめかみを撃った。

 眩暈がした。撃たれたことでなく、その剣の使い方の慣れたことに。撃たれた箇所から血が淮み、溢れて頬を伝うむず痒さがする。切ったのかと思ったとき、その気配を感じてシィンは飛びすさった。

 魔導士は身が軽い、というのは本当のことで、これも軽い魔導の助力を受けて時間の刻みを細かく見ることができるからだが、それに救われた形であった。そうでなければ鋭い一閃で彼の胴は半ば断ち切られていたのに違いなかった。

 彼がその一撃をかわしたのが気に入ったのか不満だったのか、傷つける意思だけに突き動かされて女帝が身を屈める。何か起こっているのかシィンには分からず、ただその繰り出される剣を避けるので精一杯だ。

 剣を握ったことのない女の仕業には思えなかった。熟練の騎士でも危うい。自分は身の軽さをおぎなっているが、ただの人であればと思うとぞっとしてしまう。思わずシィンが悪寒に身を震わせたとき、熱の固まりが自分の左の腕を刺し貫いた。衝撃でじんと痺れ、後は激痛になった。

 シィンは呻いた。ナリタが感極まったように喘ぎ、陶酔というような表情で目を閉じて喉をのけ反らせた。呼吸が歓喜を喘いでいる。腕を貫いたままで剣をねじられ、シィンの左手が勝手に痙攣した。

 血が自分から流れ出るのにつれて、体の中の魂までもが刀身から吸い出されていくような感覚に、シィンは思わず唸った。剣を握るナリタの手を掴むがそれは止まらない。剣を抜くためにその体を押さえようと無事なほうの右腕で小柄な体を抱き寄せると、ふと、動きが止まった。

 陛下、と囁くとナリタはぴくりと反応した。開いた双眸にやや光が戻りかけている。ぐいぐい押し込まれていた刃は既に止まっており、そっと腕を押し戻すと簡単に抜けた。

 からんという音がした。ナリタの手から剣が落ちたのだった。シィンと呼ぶ声が聞こえたとき、彼は心底からの安堵でその場に崩れた。出血も酷かったし、何よりも酷い痛みで体が言うことを聞いてくれない。

 ナリタは不思議そうにどうしたのです、と言った。

 彼女の記憶の中から今のことが抜け落ちているのだろうかとシィンは思い、それはそれで幸福に記憶を閉じてしまおうとしたとき、ナリタは彼から身を離して自分の手を広げた。

 一瞬後にその瞳が大きく広がる。次いで振り返った女帝が何を見るかすぐにシィンには分かった。制止しようとした唇が一瞬動かない。とにかく言葉だけでも回復しないことには呪文さえ値ならなかった。

 ナリタは怖々と事切れた侍女の屍へ近寄っていく。ようやく陛下という言葉を絞り出したときには、ナリタは侍女の傍らに立ち、その顔を見ようと手を伸ばしていた。

 シィンは体を叱り飛ばすようにして立ち上がり、ナリタの眼を右手で塞いで抱き寄せた。見せたくないものはあるのだった。

 だが、ナリタのほうが一瞬早かった。その侍女が知らない女であると思いたいほどに様変わりした表情に、ナリタは声も上げることができずに凍りついた。

 お忘れ下さいとシィンは呟き続けた。それを現実の記憶の中から追い出してしまいたいのは自分も同じことであった。ナリタは暫く震えていたが、それはゆっくり嗚咽に変わっていった。啜り泣きが深く沈痛になるほど彼女の心が現実へ戻ってきている証拠に思われた。

 二人はしばらく抱き合っていた。お互いの体温と呼吸の気配だけが自分たちを癒し、落ち着かせるものであった。ナリタはずっと泣いていた。彼女自身の呟きの中に、現状に対する強い不満を聞き囓っていたシィンは、その深い慚愧をどうしてやることもできずに黙っている。

 それから侍女の死体が直接目に触れぬようにカーテンを裂いたものを掛け、振り返るとナリタは茫然とした、空疎な無表情で空中を見つめていた。陛下、と側に膝をつくと、ナリタはまだ自分を慰めるものが足りないというように、シィンにしがみついてきた。

 何を言ってもその心に追いつかぬことは分かっていた。

 治癒をもたらす呪文は呼吸の乱れが酷くてどうにもなりそうになかった。人の喉では紡ぎがたい音律もある。傷は深いが大きくはなかったから、失血で死ぬことはないだろうと見当をつけ、シィンは比較的簡単な神経を弛めるための呪文を低く詠んだ。これを施すと自分の身がだるく、重く感じるのだが、痛みを耐えることと比べれば選択は決まっていた。

 僅かにそれがぬるやかになって、シィンはほっと息を吐く。この始末をどうにかしないとと思い口に出すと、女帝が細く長く嘆息した。

 分かっているわという言葉は彼女が自分のしたことを理解している証しであった。この侍女はイルドラ公の遠縁の娘、ナリタの置かれる立場は今以上に厳しくなる。いや、それよりも貴重であったはずの話し相手を彼女が失ったことのほうが長く残る傷になるだろうか、それも自分の仕業で、だ。

 ナリタは自分の責任ということを考えているようだった。誰かのせいにしたり、言い訳をしようとしないところが潔癖なまでの覚悟の良さであり、その生真面目な気性が彼女を追い込んだのは事実でもあった。

 女帝は自らの後悔を懺悔するように手を握りしめ、それから見えぬものに許しを請いたいのか眼を閉じて上を向いた。

 美しい表情であった。覚悟が定まると静かな湖面に似た凪が人を覆うという話を今、信じたくなるとシィンは思った。ナリタの未来は実質この事件で終わるのだろうかと思ったとき、何かに撃たれたように答えが出た。

 やっと分かった。卜占の結果が何故、自分を示したのか。

 シィンはナリタが放り出したままの紅剣を拾い、鞘に納めて言った。

「私が、いたしました」

 ナリタの返答は怪訝であった。何をシィンが言い出したのかが、良く分からないようだった。いいのだとシィンは首を振った。それでナリタは彼の意図するところをやっと掴んだようだった。駄目よ、という言葉をくれるのが、泣けるほど嬉しく、誇らしいことだとシィンは思った。

 そのために巡り会ったのかもしれないし、これを見越してシィンをずっと天命は指名したのかもしれない。少なくともそう思えることが貴重なことであると、シィンは仮面の下で薄く笑った。

 偶然に思えた事実も、成り行きのようだった思いも、全てを埋めて連れて行けるならそれも良かった。思考する、呼吸する、機械になりたい。その望みはこうした形で叶うものであるかも知れない。

 ナリタの未来を守るために自分が彼女の側にいたなら、これもまた必然と呼ぶことができそうだった。否、とシィンは自分を苦く見つめ返す。自分はそうしたいのだ。出口の見えない場所に迷い込んでしまった苦しさから、逃げてしまいたいから。

 ナリタの抗弁を押し切って、シィンは自分が侍女を手に掛けたということで全部を葬ることを決めた。その代わり紅剣を廃棄することを承知させて。

 この剣は良くない。呪いという噂のどす黒さを、今更思い知ったようだった。女帝の手から無理にでも取り上げて入ればという仮定は意味がない。全ては終わったことであった。死者を呼び戻すことは出来ないのだ。

 記憶を抜くための呪文というのは存在しない。「そうではなかった」という幻想を強い暗示として刷り込んでいく作業である。同様に自分に関する記憶を抜くことは出来ないが、慎重に事実を組み立てて必要な事を残し、自分のことを抜いて暗示を施すことで何とかなるだろう。それほど長い期間の暗示は一年ほどで解けるだろうが、その時身辺にいない者に思惑を向けるとは思わなかった。

 気付いたときにはシィンのいない日常が当然になる。ないものをわざわざ考えるほど、人は器用な生き物でないのだ。

 暗示をかけるときははっきりした意識が対象にない方が都合がいいから、呪文の詠唱はまず、身体の機能を低下させる部分から始まる。それは眩暈としてナリタにはやってきたようで、顔色が悪くなっていくのが分かった。冬眠する獣のようになる。

 そうして暗示の為に眠り込んだナリタを抱きすくめ、自分の意志をじっと据える時間を持った上で、シィンは自分の師を呼ぶための一連の作業を姶めた……──

 シィンの話に師である魔導士は黙っていた。彼が話し終えると僅かな時間、沈黙か降りた。静寂は硝子越しの暖かな秋の日差しに温められて穏やかにさえシィンには思えた。

 剣を、と言われてシィンは師に紅剣を差し出した。師がそれを受け取り、自分の手から離れた瞬間シィンの心に強い衝動が起こった。紅剣を誰にも渡したくないという独占欲が自分にもたらされたことがシィンには驚きだった。同時にナリタが一度は魔導の塔に預けるような素振りを見せながらそれを拒否したのかが分かった。

 成程、とシィンは微かに喘ぐ。この剣は人を魅せる。引き込み、虜にして剣の魔力の糧にするのだ。呪いの真の意味が見えた気がした。剣を手にするものは決してこの剣の異常さに気付かないわけではないのだろう。手放すことを決断できないのだ。

「これは、確かに良くない。嫌な波動が出ている。……なるほど魔導の痕跡は見えぬな。シィン、陛下は破棄すると確かに仰ったのか」

 はい、とシィンは頷いた。

「お前の判断は実に賢明であった。私を呼んだことを含めてな。お前の言う通り、お前の仕業に転嫁して女帝陛下の心の平穏を願うべきだ」

 師は、仮面の下で僅かに吐息で笑ったようだった。

「お前の次の名を考えなくてはな。シィンというのはもう使えぬ……どうした、まさか馬鹿正直に処刑を望んだわけでもあるまい」

 師の言葉の意味を理解できずにシィンは沈黙する。師は溜息をつき、部屋の様子を感じ取ってから言った。

「この仮面は我々の匿名性と秘密を守るためのものだが、こういう使い方もあるのだよ。お前の顔を知っているのは私だけだ。人がすり変わったところで分かるものかよ」

 シィンは師を見上げ、言葉を紡ぐことができずに沈黙を守った。いいえ、と言う返事が喉につかえて出てこない。

 いいえ、尊師。私はもう死にたいのです。分かってしまったから、気付いてしまったから、そしてナリタが自分を兄でもなく下僕でもなく思っていたということを知ってしまったから、もう死んでしまいたいのです……

 だが、唇はついぞ動かなかった。未練があるのだろうかとシィンは自分を苦く笑う。私は、と呟いてシィンはそれ以上を口にできずに俯いた。

 師に話さなかったこともある。紅剣を手放す代償にナリタが望んだのが、自分とのほんの僅かな、一瞬だけの交感であったことも。

(ほんの少しの時間でいいから、もう一度だけでいいから、私を抱きしめて、名前を呼んで……)

 あの言葉が唇から漏れ零れたとき、背を貫いた甘美な震えを、忘れられない。抱きしめたとき自分の背にまわった腕の細さ、鼓動と体温が告げる確かに生きているのだという歓喜。

 シィンは私は、ともう一度言った。あれだけが欲しくて他に望みがなければこれから先のことは全て、遠く長い後日譚でしかないように思われた。

 よいな、と固い声がそれを遮った。シィンは師の声に力なく首を振った。死にたいのです、と低く呟いた声は、師に届いたのか否か、それに対する返答はなかった。




 新しい名はキリンといった。それが卜占で宣られた時シィンは俯くばかりだった。自分の代役に長老会が選んだ囚人は彼と背格好が似ている。強力な魔導を施された上で舌を切られ、自分の仮面と魔導士用の長衣を与えられて再び監獄へ送り返されていくのを見送り、シィンは新しい仮面の下でそっと謝罪を呟いた。

 魔導士の罪を贖わせる場合は呪文の詠唱ができないように必ず舌を切った。そんなこととは無関係だっただろうに、と思うと胸の隅が痛む。勿論囚人は死罪が決まっている男であったし、その罪状に同情の余地などないが彼にとっては災厄であるのは確実であった。

 その処刑が終わったという報告が届く頃、ようやく魔導の塔は本腰をいれて紅剣の解析に入った。

 シィンはそれに進んで参加した。内弟子も頼んだ。多忙で熱中できる事実と現実の中にいれば、何もかもをひとまず考えなくて済んだ。

 だがやはり、その不可思議さはシィン達の知り、操る魔導の技とは異質だということが分かるだけで何かが劇的に究明できることはなかった。

 魔導とは所詮、そんなものなのだとシィンは思う。どれだけ緻密に方程式を立て、論理を組み上げたところで自然に逆らうことは出来ないし、無理はきかない。呪文によって発動する作用の効果を計算して組み合わせていくことで確かにある程度のことは出来る。だが、この世で万能たるのは見えない神だけなのだ。

 シィンは紅剣の安置されている本殿へ入った。本殿は長老会に所属する高位の魔導士達の研究室や、解呪のための結界室などを含む総合の施設だった。紅剣はその中でも最高に厳重な結界室を与えられた。この剣にまつわる怪談の真実は置いておくにしても、最終的に何も解明することができないにしても、この剣が始祖大帝の遺産でないことを証明する義務がシィンたちにはあった。だが、それも最早過去の事だ。

 粗悪な模造品である、というのが長老会の出した結論であった。この剣と大帝の遺産が同一であるはずがないというその見解は実のところ、総力を上げても何も明らかにできない嫉妬心が言わせている──少なくとも、シィンはそう思っていた。

 紅剣はぽつんと安置台に放り置かれていた。

 見事な剣だと見る度に思う。師に渡した一瞬自分を通り抜けた所有欲が、一人でいるとやはり染みてきた。

 シィンは紅剣を手に取り、その刀身を引き抜いた。微かに心が浮き立ち、昂揚を覚える。このすずろやかな興奮が血を吸った瞬間に極彩色の快楽に変わるのだとナリタの反応を見ていれば明らかだったが、それを話したことはなかった。この剣と大帝の遺産の剣との関連が完全に否定されれば破壊は免れない。この札を表にすれば、きっと否定へ向く加速が増すとシィンは危惧していた。最初から長老会は、この剣を粉々に砕いてしまいたがっている。

 シィンは自分がそれに対して強い不服を感じているのを自覚していた。欲しいかと問われたら頷くだろう。ナリタが所有しているときは大して感じなかったあの剣の魔力、引き寄せられるような魅惑がシィンを呼ぶ。

 それにふらふら飛び込むような所業だと承知していて、シィンは剣を握りしめた。

 このままにしておけば、この剣は遠からず浄化の名の元に溶かされて一塊の鉄になるだろう。それだけは回避しなくてはと思う傍らの心の隅で、そんなことは許さないという強烈な怒りを感じる。シィンはそれを不思議だとは思わなかった。この剣は人を魅了する。欲しいと思わずにいられない。

 そして、自分もこれの魔力に掛かったのだと思えば楽な帰結であった。

 シィンは刀身をゆっくり鞘に納めた。かちりという堅い感触と共に完全に刃が収まったとき、不意に背後に人の気配を感じて驚愕して振りかえった。確かに自分がこの部屋に入ったとき、ここには誰もいなかったはずなのだ。

 シィンは誰だ、と密かにその気配を叱咤した。ここに入りうる資格を持つものは限られており、魔導士であるならその特有の波動を感じるために気付かないことはない。入り込んでいるとしたら誰かのところへ入った内弟子か、それとも雑用をする小間使いか。いずれにしろ、シィンのほうがここでは支配権を持っているのは礁実だった。

 誰だ、とシィンは繰り返した。はっきりした返答の代わりに喉を鳴らす笑い声が聞こえ、シィンは半ば無意識に紅剣の柄に手を掛けた。

「おや? それを使う気があるなら君が新しい主人だね」

 声はまだ若い男のものだった。シィンは視覚を補うための呪文を呟いた。脳裏にせりあがってきた映像は、声の通りに若い男だった。ほっそりした、華奢な体格に黒い髪、だが何かが不自然だ。

 その正体が分からないまま、シィンは三度誰何した。青年はまっすぐに視線をシィンに向けた。彼の瞳はむらたつ炎を掛けたような黄金だった。眩しさに目を焼かれるのに似た狼狽が起こり、シィンは体を緊張に震わせた。彼の気配は人のものとは思えなかったが魔導の気配もまた、しない。存在自体が不可解だった。

 相容れないものだという直感だけが正しく、そして全てであった。

「壊すなんて事はしないさ。君は剣の主人たる意思がある、そうだろう?」

 自分の思惑の底辺を突き刺されてシィンは言葉を失った。青年はくすくすと笑った。

「何を……」

 喘いだ声が、自分でも吃驚するほどに狼狽えている。それもまた、微かな震えに変わった。

「その剣を嫌だとは思ってないだろう? 破壊してしまうには惜しいと思っているね? 君たちの考えることは良く分かるのさ、僕にはね」

 青年の口調には悪意というには無邪気な優越が感じられ、シィンは再び身震いした。青年の全てが尋常でないという直感は動かないものに変わりつつあるが、だからといって正体が見透かせるものでもなかった。

 シィンが黙っていると、青年は飛びきり優雅な仕種で肩をすくめた。口もとに浮いた余裕の微笑みを切り裂いてやりたい衝動が小旋風のように巻いた。それをシィンは押し殺す。彼の存在をどう理解するべきかという疑問がそれを引き止めているのだった。

 ふと青年は笑みを収め、それからシィンが堅く握っている紅剣に目をやった。視線の当たる感触を手に覚えてシィンは喘いだ。

「その剣はまだ主人たる君に未練があるようだ、──未来にもね。彼女のことは非常に残念だったよ、久しぶりに当たりを引いたのかと思ったのに」

 彼女というのが誰であるのかシィンはすぐに理解した。身が痙攣した。それが烈しい怒りのものだと悟った瞬間、シィンは剣を抜き放ち、青年の胴をなぎ払った。

 衝動的な唐突さも、その鞘ばしりの速度も一撃で彼の命を絶つはずだった。だが、手応えはない。空気を裂いたようだと思った「視界」の中で、大気が歪められるようにたわみ、青年の姿が現れた。シィンは今その前で起こったことを飲み込めず、しばらく茫然とした。

 この結界室の性質は、今回の任務に応じて「関係者以外の立入りを認めない」ものになっている。だからこの中で魔導の使役をすること自体は不自然でないが、移動の呪文の詠唱は時間がかかる。自分の位置点を中心にして、移動を行う場所への座標を示さないといけないからだ。

 自分が剣を抜くことをあらかじめ予測していたとしても、青年が姿を見せてからすぐに始めないと間に合わない。呪文の詠唱は早口にはならない。律動の長さでさえ、公式の一つなのだ。

 ──いや、それよりも。ようやく滑り落ちてきた冷たい汗に、シィンはぞっと喘いだ。魔導であるとするならそれは不可能に近い事であったが、その波動は微塵も感じられない。青年の使った技は、正真正銘の魔術だとしか思えなかった。

 シィンはやがて低く呻いた。彼の使った魔術は自分たちが学び研究して解明を望む魔導とは全く違った理論であることだけが理解できた。

 だがその存在自体が、自分たちの躍起になって解き明かそうとしている世界の真理の姿の構図を、根底から覆すものでないか。

 どう反応していいかも分からず、シィンは抜き身の紅剣の柄をきつく握った。途端、その内側の声が悲鳴を上げたのが聞こえた。

 もっと。声は叫んでいる。

 もっと、もっと。声が呼んでいる。

 もっと、もっと、もっと。声は欲している。

 いけない、とシィンは剣から手を放した。この声に従った結果がどうであるのかを先に見たことが、彼の僅かに残っていた理性を呼び戻した。

 剣が床に堅牢な音を立てて転がる。シィンは自分が肩で呼吸をしているのに気付いた。何かをしたわけでもないのに酷く疲れていた。

「ご主人がその剣で真っ先に血祭りにあげたくなるのが僕だというのはどういうことなのか、僕にはさっぱり分からないがね、しかし、君たちが考えていることはとても面白い。この剣が過去に誰の持ち物であったかなんて事がそんなに重要なことなのかね」

「な、に……」

「では、その剣が君たちが危惧しているあの剣であったとするなら、どうだって言うんだ。何かそれで変わることでも? ま、君たちは思考を放棄するのに決めたようだけど。分からないから壊そうなんて、随分乱暴だね」

「では、これは、本当に………」

 シィンは思わず口を狭んだ。青年が何者であるのか理解かできないが、彼の言葉一つ一つが示唆と指標に満ちているような気がしてならない。

 さあ、と青年は首をかしげて笑った。

「僕にはどちらでもいいことだ。その剣の今の主は君だ、君が決めればいい。剣を壊すか、それとも──」

 言いかけて青年は言葉を切り、軽い溜息になった。シィンは落ちた剣を拾い、鞘に納めた。見れば見るほどに見事で完成された剣であると言えた。蘭の花のたおやかな気品、羽ばたく鳥の翼の逞しい力強さ。中身の刀身もそれに引き合う完全さを放っている。

「その剣は君のものだ。が、君のようにそれをどうする意思も持てないものもいる。大抵その剣と心中するがね。最終的にそれが君たちの言うあの剣の粗悪な模造品であると報告するにしろ、もう一度女帝陛下はその剣を目にする。何しろ、君たちの危惧している因縁を否定しなくてはいけないから」

 その通りであったために、シィンは沈黙する。鑑定の報告は大帝の遺産であることを否定するものだが、その関わりゆえにナリタの前にもう一度献上することになるだろう。

 そして今度こそシィンははっとして剣を見た。

 その時、ナリタはもう一度、全く同じように驚き、感嘆してそして、もう一度この剣を手放すまいとするだろうか。

 記憶は書き換えている。まだその暗示が解けるには時間がかかる。シィンは左腕の傷を思わず押さえた。あの時の強烈な痛みがそこへ蘇ってくるような気がした。

 この剣の魅惑を分かる。よく分かる。自分でさえ欲している剣を、ナリタは勅命の一言で取り上げることさえ叶うのだ。呪縛は再び彼女を取り込むだろうか。

 目まぐるしく変わる思考の渡に翻弄されて、シィンはしばらく青年の姿が消えかかっているのに気付かなかった。彼の操る魔術は魔導とは根本から異なっていて、どうやら呪文の詠唱が要らないし、魔導でないから音という波動を肌に感じない。シィンがはっとしたときには、彼の姿は既に残像のように揺らぐ薄い影でしかなかった。

 待て、とシィンは声を荒げた。

 青年は微かに笑ったようだった。

「まあ、いい。君のような一瞬の主人も数多くいた……」

 そんな声が耳に届くのを最後にして、青年の姿はかき消えた。シィンは扉を振り返った。内側から自分がかけた鍵は掛かったままだ。動かした形跡さえ見えない。

 彼に関わることは全て謎のままであった。

 シィンは溜息をついて、視覚を補助していた呪文を解除した。その詠唱が終わると同時に世界は再び闇になる。視覚を除く感覚は鋭く研がれているから困ることはない。寧ろ、考えに沈むときは却って集中できた。

 シィンはナリタを思った。記憶を揺すって書き換えたことで、彼女は自分に落ち度がないと思っている。

 議会との対立、叔父との反目を飲み込む覚悟ができたのだろう、傲然とその椅子に座ることを始めつつあった。

 ──だが、内心その肩にかかる重圧はどれほどだろう。

 あの侍女の惨殺も、確かに紅剣に導かれたものではあったが、彼女自身の心の不満や鬱屈がかなり強い引き金になっているのは確かだ。苛立ちや怒りを漏らす相手を見つけているとは思えない。伝わってくるナリタの動向は、孤独感と悲槍感を漂わせている。そこへ不満を糧に快楽を誘発する剣を与えれば何か起こるかは最早考える迄もないことに思われた。

 恐怖政治になるだけの理性が残ればまし、だろうか。

 シィンはじっと手の内の剣の冷たい感触を確かめる。

 ナリタの幸福が何であるのかを自分が決めることは出来ないが、少なくともこの剣でもたらされるものは、彼女にとっては破滅でしかないと思われた。

 いけない。二度とこの剣と再会させてはならない。

 人の心には例外なく、眠れる夜叉が棲んでいる。他人を裁き不満を吠える、己の衝動を怒りに変えて他人を無意味に傷つけることも躊躇わない夜叉が。けれどその夜叉に出会わずに一生を終えることもできる。それを幸運と呼ぶならそうでもあろう。

 ──そしてこの剣は間違いなく夜叉を揺すり起こして力に変える触媒だった。人の奥底の狂暴な衝動に触れてくる。それが恐怖をも呼び起こすならいい。本能でも警鐘さえ聞くことができれば引き返すこともあろうから。

 だが、連れてくるのはそんなものでさえない。獣の咆啼を甘い音楽に、夜叉の叫びを美しい律動に変えて慈愛のように降りそそぐ。破滅を。

 シィンは黙って立ちつくす。

 一度手放そうと思った命がまだあったことを心底から巡り合わせの神に感謝し、扉の鍵を外して自分の部屋へ戻り始めた。

 紅剣を隠し持ちながら。




 いいんですか、と子供は聞いた。シィンは頷き、剣をしっかり握らせた。自分を見上げてくる子供の視線は解放の嬉しさと、その不可解さに二分されている。いいのだ、とシィンは出来るだけ穏やかな声を出した。

「でもお師匠様、これは大事な剣なのでしょ? そんなことを以前、お師匠様の口から僕、」

「ナツミ」

 シィンは子供の名を呼んだ。ぴくりと子供は体を震わせた。

「多分、売れば相当の金になるはずだ。お前が自分の身柄を買い戻して、家族の元に多少の金額を残せるくらいには。だからその剣を自分のものにしようなどと考えず、最初に辿り着いた町ですぐに売りなさい。いいね。それだけは私と約束をして欲しい、出来るね」

 はい、と子供は素直に頷いた。シィンは子供の利発そうな眼差しを感じて微かに笑った。

 子供の背を軽く押し、シィンはその気配が遠くなるのを確認して別の方角へゆっくり歩き姶めた。寒さは切るように肌を透過して骨に染みたが、そんなこともそれほど長くはないだろう。

 その気配はすぐに彼を追ってきた。感覚の波長の色味が少しづつ違うから人数までもが分かる。懐かしい気配もする。これは自分の師だろう。逃げるのも無駄だと分かっていたからシィンは歩みを止めた。

 数人に囲まれて、シィンは円陣の中に立ちつくす。何かを弁解したり言い訳する気はなかった。

 もういい。これでいいから。

「同志キリン」

 呼ばれてそれが自分の名であることを、シィンは一瞬遅れて理解した。

「何故裏切る。何故剣を持ち出した。剣はどこだ。女帝陛下の御名の元に依頼された鑑定品だと知らぬ訳はないだろう」

 答える気はなかった。シィンが黙って俯いているのを仲間たちはしばらく待っていたが、やがて誰かが溜息をつくのが聞こえた。

「回答を拒否するなら、お前の記憶から直接聞くことにするが、良いか」

 シィンはゆるく頷き、内弟子であった少年に渡してやったと答えた。あの子供にはまだ、魔導の波長や匂いがついていない。もうすぐ雪になる天候は犬を使っても捜索が及ばないことを推測させた。

 シィンの意図したことをすぐに仲間たちも分かったようだった。明らかに苛立ち、一斉に溜息をついた。捜索はこれで事実上不可能になったといえる。子供の出身や本来の名前は魔導の塔に連れてこられたときに全てを破棄している。子供の記憶の中でしかそれを確かめられない。そして、彼を捜すのは物理的に困難なのだった。

 とにかく、と言ったのは師であった人の声だった。

「一度魔導の塔に連れ返り、長老会の裁定にかけるべきだな。それが妥当と思われる」

「私はそれを望みません。略式の裁定で結構。……どうせ同じことだ」

 裁定といっても国を裏切った罪ははっきりしており、自分に残っているのは舌を切られた上で首を斬られることでしかない。結果はどう転んでも変わらなかった。

 略式というのは長老会の決定を待たない裁定の形式で、魔導士が五人以上いれば行うことができる。全員の一致が必要だが結論が分かれることは殆どなかった。罪は明白な場合が多く、結論も基本的に一つしかないからだ。

 人数は丁度五人。有罪という声が四回して、最後にやや遅れて同じ言葉が聞こえた。

「長老会の裁定を拒否した同志に我々の結論を与える。死」

 一言紡がれた言葉にシィンは深く頷いた。不服も不満もなかった。あの美しい永遠の一瞬、ナリタの体の温みと重みを感じた僅かな時間の最終章の蛇足を、今やっと清算できると思えば寧ろ歓喜に似ていた。

 呪文の波長を聞きながらシィンはうずくまり、その瞬間を待った。この呪文の公式は熱と摩擦だから、炎にて無に返すということだろう。

 既に役目をしなくなった目でも涙を流す事は出来る。その涙が炎熱に灸られて蒸発していくのを感じながら、シィンの意識はやがて大気に溶けて消えていった。

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