王の試練(ナリタ・ワーディン皇女)
左手に剣、右手に
心臓が波打っている。貴族たちの思惑と偶然の積み重なった結果ではあったが、自分は今、遥かに尊く高い位置にあった、たった一段の階段を上ろうとしているのだ。
そう思うと尚更動作を落ち着けなければならないとナリタは自分に命じ、ゆっくりと顔をあげた。
お美しく、威厳に満ちておいでです。まさしく地上の王というものでございます。その声を思い出して、ナリタは誰にも気付かれないように深呼吸をした。
たった今自分に冠を授けた教王が深く頷いて、ナリタは鷹揚に微笑んで見せた。
お父様。きっと結んだ唇を更に頑なに引き締めて、ナリタは亡き父がそこに座っていた姿を思い描いた。
私は、あのようにはならない。
決して悪い父であったわけではない。優しく、穏やかで信仰心を持ち合わせ、慈悲を民に施すことで最上天界へ選ばれると信じていた。だが人が良いことと良き支配者であることは一致しない。
貴族同士の摩擦や他国との
ナリタは目の底が不意に熱くなるのを感じ、玉座を睨みあげた。
父は、これに殺されたのだ。そこにある何かに。
ナリタはもう一度呼吸を深く整えるとその一段を登った。このシタルキア皇国において、ただ一人を除いては登る資格のない階段を。
ほうっという溜息が一斉に大広間に満ちた。ナリタはゆっくり振り返った。ずらりと並んだ貴族たちがじっと自分を見上げているのが分かった。
右手の杖を構えて左肩へあて、左手の剣は鞘を握りしめながら誰かに捧げるように水平に持つ。教えられたとおりの手順を踏みながら、ナリタは薄く微笑んだ。
「見よ。この杖こそは地上の神の代理人たる印。剣こそは地上の栄光を統べたる印。冠こそは聖祖大帝の血の筋たる印。余はこの国を導く聖祖大帝より数えて六七代目に現われた正統たる後継者である。余を認め余を知ったなら、余に忠誠を捧げることを許す」
静まり返った大広間にその声が朗々と通って消えた。余韻が一瞬おいて破れ、歓声が起こった。それが皇帝陛下万歳という言葉に集約されていくのは見事という感慨を引き起こし、知らずナリタは目を細めた。
これが帝位。地上で最も尊い場所。
いつまでも続くこだまののような歓声の中、ナリタは薄く微笑んでいた。
帝暦一二一一、シタルキア皇国の六十六代皇帝ロクスタ四世崩御。その娘、ナリタ・ワーディン皇女即位。
シタルキアの歴史上、最初の女帝である。
疲れたわ、と不機嫌を取り繕って、ナリタはどさりと身を投げるように長椅子へ座った。侍女のカナリーがすぐさま寄ってきて、手早くナリタの正装を
「本当に、おめでとうございます……とてもご立派でしたわ、殿……いえ、陛下」
「ありがとう」
簡潔に答え、ナリタは少し笑って見せた。
即位を祝うための夜会まで、多少時間がある。部屋の隅に置かれた夜会用の衣装に目をやって、ナリタは肩を叩いた。正装は肩がこるが、夜会のための盛装も金銀と宝石で飾り立てられて重そうだったからだ。
カナリーは不安げな顔になった。女主人があの衣装を気に入らないのではないだろうかという不安が見える。
ナリタは気にしないで、とすぐに言った。実際自分も緊張と興奮で言うほどには疲労を感じてもいないのだ。
即位の式典に続いて帝都ザクリアの市民たちへの披露目や近衛の謁見などを次々にこなし終えて、今は安堵のほうが強い。
疲れたと口にしたのは、自分が安堵していることを誰にも悟られたくなかったからだ。誰にも弱みを見せたくない。気心の知れた侍女であっても、妹たちでもそれは同じだった。
すぐに着替えが出来るように軽い部屋着へ着替え、ナリタはカナリーを退出させた。少し眠らなくては……夜会で新女帝が眠たそうな目をこすっていたら笑い話になってしまう。即位したばかりで女だからと侮られることがあってはならないのだ。
寝台に転がりながらナリタは溜息を長くゆるく吐いた。一人になって初めて、安堵でぬるい笑顔になる。ここまで長かったと本当に思った。父が崩御したのはこの年の三月、そして今は既に十一月であった。
ここまで皇位継承がもつれたのは父の遺児に男子がいなかったせいだ。皇位継承権保持者から女をはずせという一条はシタルキアの国法にはなく、父の残した娘たちの内で一番の年長者はナリタであった。
いや、とナリタは目を閉じる。それは事実だ。事情とは違う──閉じた目の裏にイルドア公の穏やかな笑みが浮かんだ。
彼は見事だとナリタは敵のしたたかさを思った。人の良い柔和な笑顔の表面に騙されてはいけない。殆ど声を荒げたことも不機嫌を色にしたこともないが、あの初老の男を抜きにして、何事も一歩も進まないのだ。
恐らく一番最初にぶつかる相手であり最後まで隙を見せてはならない相手だろう。血の繋がりも、今は却って鬱陶しい。イルドラ公は母の兄、ナリタにとっては叔父であった。カナリーはその娘だから、ナリタにとっては従妹にあたる。
だがナリタが即位したのは巡って叔父のせいでもある。母を父に嫁がせた後は他に血筋が流れるのを嫌って愛妾を置かせず、結果娘しか残らなかった。父と母がうまくいっていなかったこともないが、男子がいないことはそのせいでもある。
皇族に残った男子で一番継承権が上位なのは父の従兄にあたるアレス皇叔だが、年齢は父よりも十二歳上、それよりも長く未来を持てる方をと叔父が主張した途端、彼の即位は消えた。
結局イルドラ公は自分の血筋を放すつもりはないのだ。ナリタを帝位に押しあげて時間を作り、その間に父の妹であるカレン叔母の息子を教育するつもりでいる。カレン叔母はイルドラ公の従姉、イルドラ公の母は祖父王の娘だ。もちろん、その息子に自分の娘を娶せるのだろう。
負けるものですか。
ナリタは目を閉じたまま深く呼吸をする。
一度帝位につけばこちらのほうが上だ。叔父の思惑になど従ってやるものか。父に絹の目隠しと真綿の耳栓を与え、皇帝親政の旗を建て前にしてしまった。
父を蔑ろにした罪、皇帝であるその人を差し置いて好き放題に国政を動かしている罪を後悔させてやりたかった。
ナリタの血は確かに叔父のものを濃く受け継いでいるが、だからといって、従ってやる義理などどこにもない。
ナリタはのっそりした仕種で寝台の上で寝返りを打つ。黒髪がのたうち白絹の上を広がった。この髪、とナリタは髪を手で遊ぶ。
皇族の男子はその髪色がほぼ青で女子はほとんどが金、その中にあってナリタだけが黒髪だった。これがどれだけ幼い頃はうとましかっただろう。自分だけが皇帝の血を引かない、貰い子のような気がしたものだ。
だがそれも叔父の一言が簡単に片付けてしまった。
「恐れ多くも聖祖大帝におかれましてはナリタ様と同じような、見事な黒髪であられたと伝え聞いております。ナリタ様の黒髪は、ナリタ様が紛れもなく帝王家のお血筋であることの証明だと存じますが皆様、いかがか」
こんなときに始祖大帝を持ち出すなんてとナリタは憤慨したが、それは皇家にとっては至高の名であったから誰も反対を唱えることが出来なかった。
ナリタは軽い溜息になり、それからぼんやり天蓋布の繊細なレースを見つめる。負い目であった黒髪でさえ、これからは武器にできるかしら? 私は聖素大帝の生まれ代わりなのよと言ってやったら?
その思考は唇からついというような笑い声を漏らすのに十分だった。小さく声を上げて笑うとその声音に相応しい、小さな幸福を感じることができた。
ナリタはくすくす笑い、笑いながら身を起こした。眠気はまだ多少燻っているが、それよりも彼の賛辞が聞きたかった。
「シィン、いるのでしょう? 構いません、姿を見せなさい」
淡々と告げると、すぐに扉の外から応えがあった。
「お呼びに従いましてここに」
「入っておいで、許します」
返答はない。ナリタはもう一度シィンの名を呼んだ。沈黙ばかりが返ったが、気配はそこから無くならなかった。
相変わらずだとナリタは肩をすくめ、寝台から降りて寝室の扉を開いた。
そこにうずくまるようにシィンはいた。顔を隠す銀の仮面は俯いているため見えない。シィンと強く言うと、彼はますます身をこごめた。
「いいというのに、どうして入ってこないの。お前のことを誰も疑ったりはしません」
拗ねた口調になってしまって、ナリタは自分で可笑しくて笑う。彼はいつもと同じように黙って頭を垂れているが、その仮面の下で苦笑しているだろう。そんな気配がした。
「陛下の寝室に
皇女殿下が陛下、に変わっただけであった。
「いいのよ、お前は特別です。お前のことを下僕だと思ったことはないわ」
シィンはナリタの護身用にと父からつけられた魔導士だった。彼に決まったのは
皇城から出られないナリタにとって、彼の魔導が見せる城下の様子、ザクリアの活気のある町並みの描写、なだらかな平原に美しい水のほとり、そんなものがどれだけ心を引き込んだだろう。
シィンはナリタにねだられるままにそれを見せてくれた。ナリタにとって彼は一番の友人であり兄であり、良き相談相手でもあった。
対するシィンの返答は、やはり同じだった。ナリタは何度も彼に対してお前のことを下僕だと思っていません、もっと気楽にしてくれて構わないのよと言ってきたが、彼はいつも頑なだった。
……見えない何かを恐れるように、絶対に、頷かなかった。
「魔導士は皇家と皇国の下僕でございます。──どうか陛下、その御心をもってこの国をどうぞ正しくお導き下さい」
まるで別れの言葉だとナリタは思った。思った瞬間鈍い痛みが背を刺した。シィン、と聞き返した声に溶んだ動揺に慌てて背筋を伸ばすと彼が更に深く伏したのが目に入った。
「魔導の塔の決定に従いまして、本日これにて、私は陛下のお側にはべる役目を解かれることとなりました。どうかお元気で、御身大切になさって、良き治世を行われますよう」
「聞いていません」
ぴしゃりと遮り、ナリタは眉を寄せた。
「何故なのですか、それは」
魔導の塔は魔導士たちの教育と管理を行う機関だが、内部の構成は任せられていて皇帝でも干渉できない。魔導士の人選はナリタには出来ないのだ。
だが、魔導士を皇帝の護衛に付けるというのはごく普通に行われていることで、それを任免する権利はある。ナリタがそれを知らない、ということはおかしなことであった。
「お前の役目を解いた覚えはありません」
「塔から新しい者が参ります。アーシェと申しまして、とても優秀な……」
「そんなことは聞いていません!」
悲鳴のような声を上げてナリタは顔を歪めた。皇帝として威厳を保ちたいと願った側からこんなことではと溜息になる。シィンは黙っていたが彼はこんな時、大抵黙りこくる。
「何故、と聞いたのです」
苛立ちは既に声端に現れていた。ナリタはそれを自分で苦く思いながら、シィン、と自分の足もとに膝をつく魔導士を見つめた。
「……恐れながら、陛下は女性であられます。私は人の身には入らぬ身ではございますが、間違いがあってはならないという塔の判断は正しいかと存じます」
──つまり、シィンが男で自分が女である以上は側にはおけぬということだった。
ナリタは自分が今薄い部屋着のみのしどけない姿であることに気付き、急に駆け上がってきた強烈な羞恥に腕を組んだ。
「お前のことは、私は、……」
何とも思っていませんという言葉が何故か喉で消える。
「私は、その……、兄がいたら、きっと……」
脈絡のないことを言っているという自覚はあった。ナリタはあやふやに語尾を誤魔化し、溜息をついた。
「……間違いというのが何であれ、私は承認しかねます。私の愚痴を聞くのはお前の役目よ。もし塔が何か……何かはあえて聞きますまいが、何かを
「いえ、しかし」
「命令です」
強く言って、ナリタは長く嘆息した。落ちた沈黙の苦しさにナリタは首を振り、長椅子へ再び座った。
気の重い沈黙を追いやるためだけに、考えていることとはまるで違うことを口にする。
「──即位式が終わって城下はどう?」
「陛下のご即位を皆、心よりお喜び申し上げております」
「見たいわ」
シィンは僅かに躊躇したように下を向いた。それに構わずナリタは見たいのよ、と繰り返した。沈黙だけが返った。
ナリタは見たいの、と更にもう一度言った。最後の声は何故か、不安の色が強い。
溜息がこぼれたのが聞こえた。それはシィンの承知の返答だった。
いつもこの溜息には仰せのままにという苦笑気味の言葉が付随していたはずなのに、それは遂に聞こえない。
ナリタは苛々と頬を歪め、どうしてと言いかけて途中で唇を結んだ。何かを吹っかけてシィンが自分の手を取ろうとするのを止めてしまうかもしれない。
そんなことが頭をかすめたことも、それで自分の言葉が飲み込まれたことも気に入らない。何故かとても怖いと思うことも。
シィンはナリタの思惑にもちろん気付かない。だから長椅子の横へ身を寄せてナリタの手に自分の手を重ねた。
手が触れれば微かに脈打ち、暖かい。
呟かれる低い詠唱は独特の音律で意味は分からないが、彼の手から波紋のように何かが伝って流れ込み、目の前でぼやけた色彩の塊が急にまとまってくっきりとした光景になる感触は同じだった。
──歓呼がみえる。帝都中にひるがえる皇帝の
ふっと幻影が途切れた。シィンの手が離れたのだった。彼はあまり幻影を長く見せなかった。確かに長く見続けていると濃い疲労を覚える。それを分かっているのだろう。
視線が自分の顔にあてられているのを感じナリタはふと、彼を見た。
魔導士の徹底した匿名性の現れである仮面は無表情で、型に光があたるだけだが、その下からこぼれてくる視線や息づかい、それが示すシィンの心遣いはわかる。
彼が今、ナリタを気づかっていることが。
「どう……」
どうしたのですと尋ねようとして、ナリタは自分の声が震えているのに気付いた。慌てて自分の顔に手をやると生温い水滴が伝っていくのが触れた。かあっと湧いた羞恥を押さえるようにナリタはそれを指で潰した。
「何でもないわシィン、ただ少し……」
ナリタは次の言葉を口にするかどうかを迷い、結局なるべく自然に聞こえるようにと気をつけながら紡ぎ落とした。
「少し、責任の重大さが分かっただけ」
シィンは黙っている。彼はナリタが思ったことを語るとき、大抵はじっと聞いているのだった。いいのよ、とナリタは殊更に明るい声を出した。
「あんなに期待されたら頑張らなくちゃって思うわ、そうでしょう?」
「はい、よいお心掛けかと存じます」
「ええ、そう。そうね。そうよ……」
意味のない呟きを吐きながら、ナリタは視線を下へとやった。
歓喜を見ながらその重さに震えているのは使命の大きさが身に染みてくるからだ。それが嬉しいのか怖いのか、多分その両方だろう。
今シィンに側を去られてしまえば、重圧に一人で立ち向かわなければならないということだった。
ナリタの気質を良く知った上で、長いこと彼は仕えてくれている。お互い気心の知れた兄妹のように寄り添いかたは自然なことでどんなやましいこともないのだ、とナリタは胸に強く言い聞かせた。
「お前の離職は認めません」
ナリタは強く言った。
シィンは黙って俯いた。何故何も言ってくれないの、とナリタは不意に叫びたくなる。それをどうにか殺してナリタは続けた。
「もう一人、女の魔導士を塔に要請します。塔に戻ってそれを伝えなさい、いいですね」
「──御意のままに」
シィンの返答は僅かに遅れた。ナリタはそれに気付かぬように頷くと、シィンに退去を命じた。何やら種類を判別できない疲労が次々に湧いてきて、それはどうしようもなく眩暈に似ていた。
彼が下がるとナリタは再び寝室へ戻った。夜会まで眠るのも、義務といえば確かだった。
即位式から続く全ての祭礼と行事が駆け足で過ぎゆき、ナリタの周辺は年末近くなってからようやく落ち着きを取り戻した。
ナリタは窓の硝子から冬の禁園を見つめた。皇帝とその家族にだけ許される美しい人工の庭だが、ナリタはこの計算されつくした造形美がどうにも好きになれなかった。
父の好んだ、適度に放置と整備を織り交ぜた造作の風情が好きなのだ。けれど禁園は国の財産、もっというなら国賓に見せることもある場所だから手を付ける訳にゆかない。
けれど結局馴染めないという同じ理由で後宮の中に用意されている皇帝の公用私宮には殆ど入らず、ナリタは家族と暮らしていた館で寝起きしている。公用私宮にいると他人の目が多くて気疲れがした。
そもそも皇女時代のナリタの周辺にはそれほど人は多くなかった。父は家族を隔離することで守っていたのだと、今なら分かる。 ナリタが溜息をつくと、横に控えていた侍女のカナリーがきょとんと首を傾けた。いいのよ、とナリタは薄く笑う。彼女は悪い人間ではないがやはり女だ。政治のことなど分かりはしない──いや。
ナリタは自嘲になる。自分だって分かっていやしないのだ、そんなもの。
父は死んでも父を取り巻いていた参議官たちは全員残っていて、それは結局父の時代と同じということだ。
何を言ってもお若いからと丸く言いくるめられ、そうでなければ下を向いて恐れながら陛下、と殊更優しい声を出す。
そしてナリタは確かに自分が政治に疎いこと、それまでその方向から意図的に目を逸らされていたのだということをようやく肌で理解しつつあった。
父に娘しか残らなかったことは不運だが、皇太子となるべき男子を探すこともせず、血筋からいけば順当に即位が叶うナリタへ何の教育も、指導も、本の一冊さえも寄越さなかった連中──ナリタは顔を歪める。
彼らは喜んでいるのだ。小娘が必死になるのも余興としか思っていないのだろう。議会の前日は議事について調べ、政治の教書を読み、努力して食らいつこうとしているのだが、足りないものの方が遥かに多い。最近はそれを思い知らされるばかりの日々で、議会の前日になると気が重く、ひたすら忌々しかった。
再び溜息をついたナリタに、カナリーがお茶が入りましたと声をかけてきた。彼女なりに気を使ってくれているのだった。
ありがとう、とナリタは固まってしまったような顔をほぐして笑うが、すぐにまた元の硬い表情に戻ってしまう。
実際、議会とは対立さえ出来なかった。ナリタの言葉など誰も聞いていない。それは自分が年若いからなのか、女だからなのか、それとも他のことなのか、そんなことを考えてしまう夜は寝苦しく、苛立ちだけが積もる。
ナリタが難しい溜息になったとき、カナリーが陛下、と不安な細い声を出した。彼女はイルドラ公の遠縁の娘だが、幼い頃から姉妹のように育ってきたせいなのか、妹たちと同じようについ、もたれかかってしまう。
ナリタは苦笑しながら大丈夫よ、と言った。自分の不満を彼女にぶつけることは出来なかった。
大丈夫、とナリタは立ち上がって大きく伸びをした。午後からは特に会議や公務の予定が入っていない。久しぶりにゆったり寛ぐのも悪いことではなかった。
彼女の提案を受け入れて今日は妹たちを呼び寄せ、禁園の中にある温室で気慰めに雑談でもしようとナリタが考えを巡らせていると、下官の声が来客を告げた。
ナリタが許しを出しもしないのにここまで入ってくることが出来る人間は、そう数がいない。そしてその殆どは家族であるゆえ来客ではなく、畢竟誰であるのかを察してナリタは顔を歪めた。
陛下にはご機嫌よろしく、と膝をついて叩頭礼をする叔父に、ナリタは叔父君もと素っ気なく返した。
ナリタは叔父が苦手だった。議会は最初から自分を侮って軽く扱うが、叔父がナリタを庇えば動く。それを見せつけているのか他意無く国政に臨んでいるのか時々ナリタの肩を持って議事を進めてくれはするが、何かにつけて「頼む」の一言を欲しがるのだ。
ナリタは既に感づいている。頼む、の次は任せる、なのだ。
──それだけは、決して、言うものか。
身構えて対面すればいつも、心のどこかが摩耗し、重苦しい。
叔父は手に何かを携えている。大きさと形状からして剣だと思われた。床に置いたとき金属音が微かにしたことからも分かる。
ちらりと叔父がカナリーを見た。下げて欲しいという意思にナリタは頷き、カナリーに退出するように告げた。その代わり、唯一他人から勝ち取ったものの名を呼ぶ。
シィン、と呼ぶといつものように彼は空気の歪みから滲むように姿を現し、その場に控
えた。魔導の塔は女帝の強い拒否に驚いてシィンの離職を取り下げたのだった。
紛れもなく、叔父と二人になるのは良くなかった。男女の礼をかいている。彼を呼んだのはそれを補うためでもあり、叔父と対するときに後宮くらいでは彼を側に置きたかったからでもあった。魔導士を連れて会議に出るなどということを通すには、まだまだナリタは力が足りない──足りないのだ、ということを理解し認めざるを得なかった。
「どうしました、公」
尋ねる自分の声が低く固まっているのを、ナリタは自覚する。いつも政務のために執務室へ出るときは、この声だった。
叔父は実は、と声をひそめて持参した包みを解いた。中身は思った通りに剣だった。
ナリタは目を軽く見開いた。紅蓮色を固めて出来たような、見事な剣であった。
これは、とナリタは呟いた。素晴らしく見事な剣であったが、それよりも胸に不愉快なさざめきを感じる。困惑にナリタは叔父を見る。ナリタの反応に叔父は柔和な目をさらに細くして頷いた。
「良い剣でございますが、陛下。お気づきのように」
「──バシュラーン……?」
はい、と叔父は答えてナリタの判断を仰ぐようにこちらを見た。
「まさか、そんなことが」
「私も驚きましたが、これは幻ではありませぬ。本当に良い剣です。あの剣でなくとも呪われているという話、理解が出来ました」
差し出された剣をナリタは受け取り、鞘から抜きはなった。白刃の鋭利な姿が目にきつい。まるで刀影ごと焼きつくようだ。
「どこから手に入れたのです」
「フィルカス帝国から陛下の即位に際しまして参った祝いの献上品の中に。ただ目録には見当たりませんですので、紛れ込んでいたというほうがよろしいのでしょうが」
そうですか、とナリタは剣に目をやりながら答えた。魅入られるという噂を今までナリタは一笑に付してきたが、その意味が真実理解できた気がした。この剣は確かに尋常でない。虹色の光彩が白刃に踊っているようにさえ見え、神々しいと言うにはやや足りず、まがまがしいと言うには邪気がなかった。
ナリタの返答は一瞬遅れた。この剣は見事な剣だ。手元に置きたい。そんな気にさせられる。振り返ってシィンの意見を求めたかったが、魔導士が現実に口を入れることは許されていない。叔父が退出した後であるなら尋ねてみてもいいが、魔導士というのは使う道具であって人ではないのだった。
「これは私が預かります。本当にあの剣なのかどうか、確かめなくてはなりません。それは私が塔へ命じましょう。ご苦労でした」
いえ、と叔父は退出を促そうとしたナリタの仕種をやわらかく遮った。もう一つ、と言われてナリタは重く頷く。
叔父の口から流れてきたのはラストレア城塞を境界に北接するブァラン王国からの流民問題だった。最近立った新王は国を傾けることにのみ熱心と聞く。人の悲鳴を聞いては喜び、一層の奢侈に溺れ込んでいくと執政管理官から報告を受けていた。
シタルキアは全盛期、世界の三分の二を手中に収めていた大帝国であった。それはたかだか二百年と少しの期間だが、この国の文化や政治が世界に与えた影響は測り知れない。歴史区分するとき、その時代に最も代表的なこの国の皇帝の名をつけるほどなのだ。開祖である聖天帝の名だけは口にすることが禁じられているため、多少語感を変えてあるが。
現在はその四分の一ほどの領土しか持たないが、旧宗主国としての権威は未だ残照の輝きを保っている。名残というべき執政管理官と呼ばれる内政報告のための出先機関を殆どの国に持ち、更に独立を許すときには大量の貸付を行うからシタルキアの財政には非常に余裕があった。債権の利益で国家予算の半分を賄っている。
……そして独立を得ても時折国政の裁断を探りに来る国があった。
ブァランは北の豊富な鉱脈を財源に騎兵を中心にした軍事力で建国を成したが、政治の機構は元が騎馬民族の部族単位のものから長く抜け出せず、内紛と言うには軽い部族間のしこりがあった。王はそれを取りまとめる器量を求められるせいか世襲でないが、実力で玉座に就いたゆえに王の乱調が即、国を傾けるのだった。
王の暴虐に耐えかねた流民がラストレアとその近隣の急峻な山岳を越えてこちらへ避難してくる。それを捕らえて突き返すのか、内政へ干渉して王を処断するのか、それとも難民は受け入れておいて、内政に関しては勧告程度に済ませて傍観するのか。叔父は、その処分を問うているのだ。
ナリタは明らかに困惑した。この事情も大まかなものであって、実際細かな取り決めや他の国の思惑など良く分からない。政治というものの繁雑さ、うんざりするほどの細密さにナリタは辟易しつつあった。
難民は救ってやりたいが、とナリタはしばらく思考に身を委ねた。だがどれだけの支出を食うのか予測もできないし、ブァランと紛争になることも怖い。新しい王をこちらで決めてしまうことは出来ないが、難民を救うなら現王の非難と同じことだ。
それに流民の中には暮らしに耐えかねて犯罪に手を染める者が多々あり、頭が痛い。それをなぜ国庫から金を出して救うのだという声は、実はあまり小さくはなかった。
「……申し訳ないが、宰相公」
叔父には即位してすぐに宰相の位を与えてあった。意地と誇りだけで政治を切り回せるなどとは思わなかったし今でもそれは変わらないが、自分の任命さえ一瞬憎い。
「慈悲は与えてやりたいが、私にはまだ判断の材料がないのです」
呟きながらナリタはきつく目を閉じる。正直に言えば、かなりこたえた。
叔父は顔を伏せた。そこに浮いている表情は何だろうかとナリタは思った。侮蔑? 嘲弄? それともほくそ笑んでいるの?
「もう少し調査を……」
あがくナリタの声に、叔父は軽く嘆息した。
「執政管理官からの報告では不十分でございましたでしょうか」
あれが全てでそれが材料だと言われ、ナリタは一瞬答えが出ない。そうだと答えれば報告を上げた執政管理官が咎を負う。報告そのものに瑕疵は無かったように思われ、ナリタが押して調査と言い張れば、それは畢竟ナリタの意固地さと無知が露呈するだけのように思われた。
自分はそんな屈辱に耐えられない。耐えなくてはと思うのに、そう考えるだけで背がぞっと粟立ち、怒りで目の奥が焼けるように熱くなってしまう。
「いいえ……」
結局ナリタは屈した。自分の一番愚かで汚い部分が軋む。
任せる、と言うのを待たれているという感触はあったが、それだけはどうしても口にできなかった。
わかりました、とナリタは視線を上げた。真正面から叔父を見据える形になった。
「流民については必要最低限の食料と、それから天幕を貸しておやり。それと詰責の文書を執政監理官を送り、新王に向かわせなさい」
「彼らの犯罪に関してはどうなさいますか」
対処としては手ぬるいと危惧していた上で重ねて聞かれ、ナリタはそれを取り戻すように強い声を出した。
「私はいかなる理由があっても我が国の秩序を乱すものに対して容赦はいたしません。厳しく、取り締まるように」
「……は、かしこまりまして」
叔父は深く頭を下げた。ナリタはほっと息をついた。特に何かの瑕疵があると言われなかっただけで安堵する。それが参議官たちとの軋轢で出来上がった癖だとは認めたくはなかった。
では、と叔父が切り出したのにナリタは背を伸ばした。叔父は相変わらず笑っているような、細い目に穏やかな笑みを浮かべていた。
「費用についてはブァランヘの貸付ということで計上してもよろしゅうございますか」
「えっ? あ、ええ、そうね、それはとても良い考えであると思います」
自分に足りないのはこの貪欲さなのだとナリタは思った。一つの事実を何重にも食らうことができない。それをするには建て前や美学にとらわれすぎているのだ。甘いと思われているのだろうかと、そんなことばかりそわそわと考えている。
叔父が退出を申し出たときナリタは溜息になったが、それは明らかに安堵であった。
退出した叔父を見送って、ナリタは長い溜息をついた。
即位は済ませた。各国への披露も終わった。祭祀も滞りなく流れていって、国政は父が存命していた頃と同じように動き始めた……父のように頭上の冠としてナリタが機能することまでも同じように。
国は順調に進んでいる。全て叔父とその一派の思う通りにだが。
女帝は初めてと言われ、気高く美しいと言われてもナリタの心は少しも晴れなかった。
日々気鬱だけが溜まっていく。即位式の三品を思い出してナリタは唇をきつく結んだ。
錫は神権を、冠は王権を、剣は軍権の象徴だ。それを全て身に帯びるのが皇帝であり、帝位でなかったのだろうか。
議会の頭が父からナリタにすり変わっただけであり、強行して何かを押し切ることは出来なかった。勅令でない限り、皇帝の決定といえども議会の承認がいる。
勅令だけは別だがこれはいわゆる伝家の宝刀だ。乱発は信用を傾け、信用がなくなれば権威が落ちる。
「疲れたわ……」
ナリタは呟いた。誰もが年若い女帝を見下していて信用できる政治上の側近などおらず、逃げ込む場所さえない。……父は家庭に救いを求めたが、自分は一生それを持てないと決まっている。女帝の夫など弊害でしかないと叔父が強硬に反対したのだ。結婚したいとは思わないが、最初からそれができないのとは違う話であった。
「何か飲むものでも用意いたしましょうか」
問うシィンに首を振り、ナリタは額を押さえて再び嘆息した。こればかりであった。
「要らないわ。それよりブァランの話、聞いていたでしょう? ねぇ、お前はどう思う?本当にあれでよかったのかしら……」
シィンは困惑したように黙り込んだ。ナリタはちらりとそれを振り返り、肩をすくめて立ち上がった。
「お前はいつも同じことしか言わないわ。私は人ではありませんからご相談を承る訳にはゆきません? 魔導士は政治には関わらないのが決まりです? そうでなかったら民人全てが幸福に過ごせる方策をどうか陛下に神がお授け下さいますように、かしらね」
彼の返答はない。一人言のほうがましだわ、とナリタは口の中で呟いた。即位してから人は遠くなった。実権はともかく後宮において至上であるのには変わりなく、ナリタの周囲にはいつでも従者がいる。けれどそれが人に囲まれているということにはならなかった。
自分は遠巻きに祭り上げられて遠ざけられているのだとナリタは思う。気安く口を聞く侍女はカナリー一人、あとはナリタを叱らないし文句も言わないただの壁だ。毅然としなくてはと思うのに、時折何もかも投げ出したい衝動にかられてしまう。
せめてシィンには話相手になって欲しかった。彼はナリタが少女時代を迎える頃から自分に添い、今も変わらず側にいる唯一の相手なのだ。
「個人的な話で結構よ。お前の考えを聞きたいわ」
「……陛下、恐れながら」
黙っていたシィンが口を開いたが、ナリタはそれに首を振った。従者や側近の言いなりになるならそれは政治にとっては害悪であるとナリタにも分かる。それは許してはならないことだ。
──けれど、ナリタには彼しかいない。後宮に三千人、執政宮に一万人と言われている官吏や高官の中で、自分を蔑まない、本当に信頼できると確信できるのがこの魔導士しかいないのだ。
「お願い、他に相談できる人がいないの。妹たちもカナリーにも……お前くらいなのよ、ねぇ、シィン、お願いだから……」
シィンは再び黙り込んだ。彼の拒否はいつも沈黙だった。
ナリタはシィンの前へ足早に歩み寄るとその手を叩いた。顔は銀の仮面で叩いても打撃でさえなかったし、叩いた手のほうが痛い。
けれどどこを叩いても、決まってナリタのほうが痛みを覚える。
ナリタは彼を叩いた手を自分で押さえた。爪の裏がじんとしびれた。
内政に関わる限り、彼は絶対に首を縦に振ることも横へ動かすこともしないだろう。自分は魔導士なのだということをシィンは殊更強調するようになった。
馬鹿馬鹿しいとナリタは思う。自分たちは兄妹のように寄り添いながら過ごしてきたのに、今更どうして波を立てなくてはいけないのか理解が出来ない。
「いいわ、もう……その内また幻を見せて頂戴。今でなくても良いわ、その……流民の様子とかをね」
「御意承りましてございます」
相変わらずの返答にナリタはやっと小さく笑うことができた。苦笑ではあったが、笑顔になるとやはり心が鎧を脱ぎたがっているのが分かった。分かった瞬間、ナリタは今度は仕方のない笑みになった。
それより、とナリタは長椅子に置き放しにした紅剣に目をやった。と、シィンも同じものを見た気配がした。魔導士というのは仮面に隠れて本来の目はその役目をしないが、魔導の力なのか、光景は普通に脳裏に描くことができるのだということだった。シィンが時折自分に見せてくれた沢山の美しい外の風景と同じような見え方だと彼が説明してくれたことがある。
「お前もこれが気になるのね」
ナリタは言って紅剣を手に取った。
紅蓮というのだろうか、夕日を抜き出して染めたような赤であった。あるいは燃え立つ炎の色に似ている。その色だけでも目を引き付けるのに、細身の姿といい、鞘の精緻で精巧な細工といい、まるで人の目を奪うために生み出されてきたような剣だった。
「バシュラーン……」
二人同時に同じ言葉を呟いて、思わずナリタは笑い声をあげた。シィンの空気も心なしか、ゆるんでいる。小さく囁き交わすような笑い声が一段落つくと、ナリタは剣を手にして長椅子へ腰を落ち着けた。
ゆっくりと抜き放つ。一度見ただけでは納まらない、心の中の何かをしきりと引き付ける輝きを持っているとナリタは思った。鞘と同じかそれ以上に鋭利で繊細な印象の刀身に、感嘆の溜息を漏らす。叔父が魔力を持つという話を信じたくなると言ったのは分からぬでもなかった。この剣にまつわる話は確かに尋常ではないのだ。
「見事です。本当に……」
シィンが低く呟いた。彼が自分から言葉を紡ぐのは非常に珍しかった。そうね、とナリタは頷くと剣をまた鞘に納めた。すらりとした造形美が人工の極致のような鞘に納まっていくだけで芸術品のようだった。
「どう、何か感じますか?」
納めた剣をまだ手に持ちながらナリタはシィンを見た。彼は一瞬迷ってから首を振った。
「特に魔力……ええ、魔導ですと原理はよく知られているように自然霊との契約ですが、契約の証は見受けられません。また、いかなる細工の跡も呪阻の跡も見出すことができません……けれど」
「けれど?」
シィンが考え込むようにぶつりと切った言葉の背後を引き継ぐように、ナリタは彼を見上げた。
いいえ、とシィンは曖昧に首をかしげて溜息をついた。結局、彼には分からないのだ。魔導の塔ならどうかしら、とシィンに間うと、彼はやや迷ったような、苦い声を出した。
「もしよろしければ私から塔へと引き継ぎますが……先ほど申し上げたように、この剣に霊的な祝福があるとは思えません。自然霊というのは要するに波長で音律を支配しておりますから、必ず施術の痕跡が残るはずなのです……以前、海の周囲の岸壁をお見せしましたのを覚えておいででしょうか?」
ナリタは頷いた。波が岩を食べるということが理解できなかった頃、彼にねだって見せてもらったのは切り立った崖と岩を砕く波をであった。ナリタが頷くのを待ち兼ねたようにシィンは急いで続けた。
「あのような痕跡が、かならず契約の対象物にも残るはずなのです。普通の目では見えませんが……」
だが魔導士であるならばそれを見ることも技術だと付け加えてシィンは首をかしげた。彼にもこの剣の不思議が理解できないのだ。
二人は同時に嘆息した。これが悪名高い魔剣「
──魔剣。
ナリタはこの剣にまつわる沢山の怪談を知っている。それは単に怪談なのだと無視をしてもいいはずが、ナリタはそれができなかった。個人としてではなく、シタルキア皇国の皇帝として。
この剣がもし本物のバシュラーンだとしたら、シタルキアの国名を以て浄化するか、永遠に闇に葬ってしまわなくては。
災厄をもたらす魔剣と始祖大帝の遺産が同一の剣だという線で結ばれることはあってはならない。だが、その遺産と何と似ていることだろうか。
更に、皇帝になってから初めて聞いた恐ろしい予言もある。「紅蘭の剣」はこの国を滅ぼすための剣だというのだ。剣によりて作られた国は、剣によりて滅びるべき宿命にある。初めて聞いたときは一笑に付したその言葉が、今、胸に大きく聞こえてナリタは息苦しく呼吸をした。
「これがバシュラーンであるか、そうでないという証拠を探さないと。何故これはこんなに始祖大帝の遺産と似ているのかしら……」
「記録というものは形状や色を留めておくだけですから、似たものもあるでしょう。それが本当に同じ剣かどうかは……」
「いいえ、私、見たの。シィンは始祖大帝の肖像画を見たことがないでしょう? 私も即位して初めて見た。そしてこの剣は、あの絵に描かれていた剣と、よく……本当によく似ているの……」
ナリタはその絵の片隅に描かれた剣を思い出して身震いした。まさかとは思う。あの肖像画が描かれたのはもう千二百年以上前のことだ。何度も補修を繰り返して現存する、たった一枚、聖天帝の姿を留めた絵であると言われている。──あの剣が何故、その膝にあるのだろう。
いや、とナリタは何もない宙を睨んだ。
「誰かが、後から書き加えた、とか……」
呟きに、シィンが何故です、と返した。何故と聞き返してその疑問がまさに当然であることに思い至り、ナリタはやや呆然とする。
あの絵は皇帝以外には見ることができない、国の最高機密だ。恐らくこの国が滅びるときは時の皇帝が焼くはずで、それが自分ならば当然するだろう。皇帝以外で目にするとしたら、百年に一度の補修で特別に選ばれた絵師のはずだが、一体何を考えてそんなものを描き入れるというのだろうか。
例え現物を見たことがあっても、補修が終わった絵は必ず皇帝が謁見するという決まりがある。余計なものを書き加えたなら死罪は当然であった。
塞がってしまった筋道にナリタは眉を寄せる。訳が分からなかった。降りてきた沈黙をなぎ払うようにシィンがでは剣を、と強い声を出した。その声の固い張り詰め方にナリタははっとして思わず体を固くした。
申しわけありません、とシィンが言ってナリタは曖昧に頷いた。彼にこの剣を渡して魔導の塔の結論をまずは聞くべきであった。
シィンに剣をやろうとしてナリタの手がふと、止まった。魔導の塔に渡してしまったら自分の手には戻ってこないだろう。
この剣は確かに尋常ではない。美しい形、見事な造形もあるがそれだけでもなく、そして言葉にならない部分こそが誘うように所有を持ちかけてくる。欲しくなるのだ。
陛下、と言うシィンの声は怪訝であった。彼は自分の中に今興った衝動、剣に対する所有欲を分からないようだった。気取られてはいけないとナリタは内心身構える。
これは、と鞘を握りしめながらシィンの仮面を見据えた。
「これは私が預かるわ。魔導の塔が解答を出せないというのなら、お前に預けても仕方がないでしょう」
シィンは僅かに落胆したようだった。仰せの通りに、という声が多少沈む。けれど、だからといってシィンは食い下がってくる訳でもなかった。本当は剣の正体を知りたいのでしょうにとナリタは冷たく見下ろした。
今までシィンがナリタに対してぞんざいな態度を取ったことはなかった。だが、心が近いかどうかはすぐに分かる。即位してから後、彼が自分と距離を置こうとしているのは明らかだった。
先ほど感じた苛立ちが再び込み上がってくるのが分かった。自分には彼ぐらいしか頼れる相手がいないのに、彼はきっと離れていく。
そして取りすがって側にいて欲しいなどと自分は口が裂けても言えないはずだった。
「言いたいことがあったら言ってもいいのよ」
返答はない。彼は自分が答えなくてはならないと心得ている質問以外は、気の進まない問いには全て沈黙で通してきた。
「お前も私のことを非難するのね……」
「陛下、そのようなことは」
シィンの声は淡々としている。ナリタは顔を覆う仮面を憎いと思った。顔立ちも、表情も分からない。
魔導士の匿名性と秘密主義など誰が決めたかも分からない。けれどそのせいでシィンの素顔を見たことはなかったし、彼の素性も知らない。どこの生まれでどうして魔導士になったのか、ナリタは何も知らないのだ。
あたかも、他の全てがそうであるが如くに従って決められているように。
ナリタは不機嫌にシィンの仮面を見つめた。冷たい金属の質感もまた、表情や感情を感じさせないという意思の具現のように見えた。魔導士はシィンの言ったように国と皇帝の奴隷、人であって人ではない、だが深く根幹に関わるものたちであった。
ナリタは不機嫌なまま溜息ばかりついた。シィンはいつものように黙っている。元々それほど喋る方でもないのだが、ナリタが登極してから会話は減った。以前は多少の雑談なら応じてくれたのだ。
「先ほどのブァランの意見を聞きたいわ」
蒸し返したのは悔し紛れだ。シィンは恐れながら、と平伏した。こうして彼が自分に拝伏する度に、自分たちの間に昔はなかったものが築かれていくのが分かった。ナリタは唇を噛んだ。
「私は意見を言うべき者ではありません。私の身は全て国の、引いては陛下のものです。私は自分の考えを持たぬ、呼吸する道具なのだとどうか、ご認識を」
「お前は生きてるんじゃないの!」
つい怒鳴り散らしてナリタは頬を歪めた。彼の感触は確かに聞きたかったが、はぐらかされた怒りにナリタは震え、それから急な落胆を覚えて下を向いた。
「……お前まで、私を、疎外するのね……」
呟く声が自分でも、いっそおかしくなるほど震えている。
陛下、と不意にシィンが口を開いた。
「私は陛下の味方です。何かあっても必ず陛下の御為に働く所存にございます。……それだけは信じていただかなくとも、お知りおき下されば光栄です」
ナリタの心は少しも動かなかった。彼のこの建て前の切り口上など聞きたくない。
ブァランの一件は結局指示を出してしまったのだから取り返しはきかない。それはわかっている。けれど、彼が一体どう思っているのかが知りたかった。ただそれだけなのに。
「いいわ、もう下がって」
「陛下、私は」
「もういいの。下がって」
言い捨てるとシィンは平伏し、カナリーを呼んで参りましょうか、と聞いた。ナリタは一瞬迷って首を振った。
嫌ならシィンを呼ばなければ良いといつもいつも思うのに、例えば降り続いた雨がやんで虹が見えたとき、それを真っ先に教えてやりたいのは彼なのだった。
何かあればお呼び下さいと言い残してシィンが消えると、しんとしたぬるい静寂が部屋に満ちた。
冬の午後の日差しは柔らかく部屋にさしこんで穏やかだった。ナリタがまだ皇女として妹たちとじゃれていた頃と同じような、明るい午後。
けれど自分の身に起こったことが沢山ありすぎて、その午後の暖かな陽射しを硝子越しに感じて安らぐよりも、カーテンを閉め切ったその影で、一人で泣きたい。
結局、ナリタは寂しいのだ。政治に関わるのはその殆どが男たちだが、ナリタが女であるという理由、そんな不可避のもっともらしい理由をつけて、政治の機微をよく知った側近を得ることさえも、ままならない。
腹心が欲しい。そしてそれ以上に自分を値踏みしない、ありのままに受け入れてくれる誰かが欲しい。
勿論、女帝の寵愛を背後に政治の舞台に上がる男がいてはならないのは当然だが、今の状況はそんな愚かなことを考えるのも無理と思えるほど、誰も周囲にいなかったのだ。
シィンは唯一自分の側にいることを許されているが、あれは人の形をした人でないもの……ということになっている。ナリタは彼を奴隷のように扱うことに強烈な抵抗を感じているが、それを彼に訴えても同じ答えが返ってくるだけなのはすぐに分かった。
この苛立ちを無性にシィンのせいにしたくて、ナリタは彼の欠点を脳裏に探したが、それもすぐに追憶と幻想へとって変わる。
ナリタは目を伏せた。彼のことを思えばきつい苛立ちも甘い痛みに変わり、それはまた深い落胆へとすり変わっていった。
玉座になんか、就かなければ良かった。
それを思うことが最初から間違っているという自覚はあったが、帝位の冷たさで自分が凍りついてしまう前に、何かの暖かな色をした優しい指で、自分の中の荒れる部分を宥め癒して欲しい。
そしてナリタの空想の中でその役目をいつも引き受けるのは自分に平伏し、距離を取っていこうとしている魔導士なのだった。
馬鹿みたい。ナリタは呟く。
彼の顔も年齢さえも知らないくせに。
深い吐息は更にいうならば、重かった。
この絶望的な孤独と閉塞が帝位に座るものの試練だとしたら、自分はあまりに幼くそれを侮っていなかったろうか。
政治に疎いのは、仕方がない。長く時間をかけて学んでいくしかないが、それにしても。
ナリタは紅剣を握りしめて窓の側へ立ち、そして振り返った。窓の硝子に突然人影が映ったのだった。誰もいなかったはずだった。
誰、とナリタは叫んだ。
そこに立っていたのは見知らぬ若い男であった。黒い髪、黄金と琥珀をかけたような、輝く色の瞳。年齢はナリタよりも多少上程度だろう。誰、とナリタは強く声をあげた。
男はうすく笑ってナリタを見つめた。ナリタはこれほどぶしつけで値踏みされるような視線を受けるのは初めてだった。屈辱で身が燃えるようだ。
「君が新しい主人? へえ、なるほど資格はない……訳じゃないってところかな?」
「何のこと。お前、誰。人を呼びますよ」
視線に全ての力を込めて彼を睨むが、男にはまるで通じない様子だった。侮られているという気がしてナリタは剣を抜いた。
ぎらぎらする白刃が現れた途端、心の一部が浮遊するように高ぶったのがわかった。その興奮に自分で動揺し、ナリタはそれを押さえるためにお前、と声を荒くした。
「怒らないでよ。手なんて出さないからさ」
からかわれているとナリタは頬をひきつらせた。剣の切っ先を男の喉へ突きつけると、彼は困ったような、それでいて余裕を感じるような笑みを口許に浮かべた。
「どうしてそれを手にする奴は僕を殺したがるかな。まあいいさ。君のお手並み拝見といこう……おや」
男はふと振り返り、肩をすくめた。
「人が来る。もう少し君と話したかったような気がするけど仕方ない。ま、頑張ってね」
男の姿がすうっと消え始めた。魔導士、とナリタは咄嗟に思った。シィンがよく空気を抜けてくるときの姿によく似ていたからだった。向こう側の璧が透けてみえるほどの薄い色素のまま、男が笑うのが筧えた。
「僕は魔導士などではないよ。──彼らのように自由でないからね」
お待ち、とナリタは叫んで消えていく男の残像に向かって剣を打ちおろした。剣は驚くほど軽く、風を軽くきって切っ先を絨毯にのめり込ませた。柄に何かが入っているのだろうか、水のようなものがたぷんと移動する感触がする。
「陛下!」
突然の声にナリタは振り向き、その眼前に長い衣がひるがえるのに驚愕して剣を水平になぎ払った。鈍く、柔らかな感触がした。赤い水滴が舞うように空中を賛美した瞬間、ナリタは呻いた。
背を駆けていった甘美な陶酔に目が眩む。あ、と上げた声は淫蕩な響きさえあって、ナリタは思わず目を閉じようとした。それを止めたのは、自分のものとは明らかに違う呻きを耳に留めたからだ。
……ゆっくり、ナリタは下へ視線を動かした。首も肩もぎこちなく、ひどく重い。重いが、血潮の流れがとても速く、心臓が波打っている。自分の口から漏れる呼吸が獣のようになっていることにナリタはとうに気付いていたが、気だるく全身を覆っている快楽のほうが優先だった。
視線を床までやって、初めてそこに黒い布が広がっているのを気付いた。さっき眼前に見えたのはこれだったのかとナリタはぼんやり思う。
それが突然動いて、ナリタは驚愕して飛びすさった。自分が何故こんなにも敏捷に動けるのか、少しも剣など握ったことがないのにどうしてこんな事ができるのか、深く考える余裕はなかった。
初めて味わう至福、ナリタの体の感覚を底から開放するような感覚の波にゆすられてナリタは何かを叫んだ。ただ目の前が赤くなるような感覚が全身を掻き立てていて、くらくらする……!
本能が求めるまま、悦びと呼んでいい感覚に押し出されるままにナリタは剣を逆手に持ち替えて、その塊へつき立てた。それが堅牢な感触に変わった。剣で刺し貫くはずのそれはナリタの暫撃をかわし、絨毯を抜いて床へ剣が刺さったのだった。
陛下、という声がして反射的にナリタはそちらへ剣を払った。悲鳴がして、あの柔らかい感触が再び剣を伝って手に触れた。ナリタは歓喜の声を上げた。
逃げようとするドレスの裾を踏む。倒れた女の首筋が露になると、その白く細い生き物へ向かって剣を打ち下ろした。暴れたせいで目標を誤って、首の皮を少し斬った程度のことになってしまい、不満の声を挙げて更に切りかかる。もっと、と言う声が自分を煽り立てている。もっと、もっと。強い快楽を。強い刺激を。もっともっともっと……もっと!
あああ、という声がすすり泣いている。
うるさい、といいながらナリタは自分が今笑っているのを自覚した。誰も私を恐れない。誰も私を畏れない。ただ頭を下げればいいと思っているの。だから思い知らせてやるの。私がとても力を持っていて、私がとてもとても強いのだということを教えてやるの。私を恐れるようになればいいの。私のことを本当に畏れるようになればいいの、私は正しいの、間違ってなんかいないの、みんなみんな嫌い、大嫌い、死んじゃえばいい、みんな私の言うことなんか聞かないじゃない、私のすることなんか見ないじゃない、責任だけ押し付けるじゃない、物を尋ねるふりで試すじゃない、どうしてこんなめにあって我慢しなくちゃいけないの、どうして? どうして? どうして、どうして、どうしてどうしてどうして──
「陛下!」
いや。いや。どうして私のすることに文句をつけて溜息をついて反対して好きにさせてくれなくてみんな取り上げて縛り上げて一人にしておこうとして、いや。孤独はいや。一人はいや。私だけ一人にしないで。取り上げないで、持っていかないでよおぉおぉおお……!
「陛下、お止め下さい、しっかりなさって」
「うるさい! うるさいうるさいうるさいうるさい! お前なんか切り刻んでこれで、これ、すごいでしよ、すごい剣でしよ、ね、これで斬られるととっても綺麗なの、ね、こんな風にこんな風に」
自分の声が甲高く笑っている。全身が浮遊している。現実でなく雲の上に立っているようで甘く、空気の色さえ美しく見える。けたたましく笑いながら足もとの動かなくなった白い獣に何度も銀の線を入れて切り刻む。溢れてくるものの色身が白に映える赤で美しい。この剣と良く似合っている。
陛下と言う声がして、急に目の前に見えるものが来た。銀の無表情な仮面におびえて悲鳴をあげる。いや、と剣の柄で殴りつけるとそれが喉で呻いた。一瞬の間を置いてこめかみから首筋へ、鮮血が伝って落ちていくのを目に留めて再び喘ぐ。もっと。体の奥の欲求が叫んでいる。あの色、あの味をもっと欲しくないの?
欲しい。素直な声が答えている。
手首に軋むような力を感じてあああと吠えながら目茶苦茶に振り回す。そうすると相手は怯んだように自分の刃から身を守ろうとよじる。それが可笑しくて笑った瞬間、自分の剣がその黒い長衣の中へ入った。
刀身を伝って何かが凄まじく自分の中へ入ってくる。満たされる欲求とその快楽で間欠的に呻き、もっとそれを良く味わおうと剣をねじり回した。自分の声が喘いでいる。体を支配する悦楽を受け入れようと目を閉じると、その瞼の裏を幾億の光の粒が乱舞した。
その甘美なあじわいに喉をのけ反らせて絶え絶えに喘いでいると、不意に何かが自分を包み込むのがわかった。それはゆっくりと呼吸をしていて、あたたかな鼓動を持っていた。
目を開けると天井が見えた。天国鳥。皇家の紋章。綺麗な鳥、と呟いてやっとナリタは目をしばたいた。包まれているのが心地好かった。弛んだ手から堅いものが滑り落ちてからんという音を立てて転がった瞬間、全ては元に戻った。
ナリタはあ、とぼんやりした声を出した。自分を包んでいたものがのそりと動いた。ゆっくり首を巡らせると、黒い長衣が目に触れた。魔導士のための服であった。
「シィン……」
呟くと、その体は無言で頷いた。こんなときまで無口なのだとナリタは思ったが、シィンは急に力を失って床へずり落ちるように倒れた。
どうしたのですと言いながら彼に手を伸ばし、伸ばしたその自分の手に赤いものが一面ついているのに気付いてナリタは愕然とした。恐る恐る両手を自分の前で広げると、果たして両手は染めたように赤く塗られていた。手に触れるとぬるっとした感触がした。
ナリタは悲鳴をあげ、そしてはっとして振り返った。ドレスの女が倒れている。髪が乱れていて顔は見えないが、首が変に長く、またおかしな形に曲がっているように見えた。
ナリタはこわごわと確かめようとした。立ち上がってそろりと近づいていく。陛下という声がした。制止であるとわかっていたが、それよりも見なくてはという義務感の方が大きかった。
女は血溜りに顔を埋めて事切れていた。ナリタはその顔を見ようとそっと指先で頬を押した。ごろっと床を顔が転がったのと同じ瞬間に、後ろから抱き寄せられて目を塞がれた。ナリタは身を震わせた。目隠しをされる一瞬前、確かにその顔を見たのだった。
苦痛と恐怖にゆがんだ顔は人生の最期に味わった苦悶の凄まじさの具現だった。唇から漏れた喘ぎは先ほどまでの歓楽のものではなかった。
「見ないほうが宜しい、陛下、しっかりなさって。あとで記憶を多少操作いたしましょう、お忘れ下さい、どうか、お忘れ下さい、お忘れ下さい……」
忘れろと言われてナリタは反射で首を振り、自分をしっかり背後から捕まえている男の胸に顔を埋めた。吐き気はゆっくりと嗚咽に変わった。やっとこの部屋に鉄の錆臭に似た濃いものが充満しているのに気付いた。
「わ、た、し、」
声が凍えてしまって言葉にならなかった。ナリタは啜り泣き、シィンの体にしがみつきながら更に泣きじゃくった。
体をほんの僅かな時間通りすぎていった圧倒的で支配的な征服欲は去り、嵐の後の惨状ばかりが残されている。
シィンはナリタを除けようとしなかった。支えるように現実に捕まえておくように、ナリタの体を抱きながら背をゆっくり撫でてくれる。手のあたたかさが何よりも自分を癒しているのだとナリタは思った。
長い間、二人は黙っていた。ナリタは十年共にいて、今初めて寄り添う体の温みを感じて顔を手で隠した。自分が何をしたのか、くっきりとした記憶はないが、感覚は生々しく自分の体に残っている。……絶対快楽。
ナリタは低く自嘲のために呻き、そしてまたせり上がってきた涙を手で拭った。こんな時でさえシィンがまず自分に聞いたのは怪我はないか、気分は悪くないか、であった。ナリタは首を振り、そしてシィンの体から身を離して、やっと彼の長衣にも血が拡がっているのを見つけて溜息になった。
既に血の臭いにも慣れた。シィンが見るなと言った侍女カナリーであった女の死体にはカーテンを裂いてかけてある。首が長く不自然に見えたのはそれが振切られるようにもがれていたからで、たまたま解けた髪でそれが見えなかっただけのことであった。
「お前こそ、怪我をしてるじゃないの……」
呟くと涙がまた溢れてきた。これは誰でもない、自分が刺したのだ。
「私のことはお気になさらずに。慌てて飛び込んだのは私の方なのです。陛下が驚かれたのは当然のことです」
カナリーを呼んできたとき、廊下にナリタの声が誰かと争っているように響いたと付け加え、シィンは溜息になった。
「それよりも、陛下、この始末なのですが……」
「わかっているわ……」
ナリタは細く長く嘆息した。
カナリーは侍女であり、ナリタはこの国の頂点に立つ身である。罪には問われないだろう。だが、カナリーは母方の遠縁の娘、つまり叔父の血筋のものなのだ。今まで以上に自分は何も言えなくなるだろうと思ったし、それは当然かもしれなかった。
何よりも、カナリーに何と言って良いのか、彼女に何を償ったら良いのか、可哀相なことをしたと片付けてしまうのは簡単だが、既にこの世に魂のない身にとって、何をしても贖罪になど成りえないのがわかっていた。
だがシィンの言葉は違っていた。いえ、と彼はナリタの声を遮ると放り出されたままの紅剣を拾い、鞘に収めた。
「私が、いたしました」
「何……? シィン?」
ナリタはぼんやり聞き返した。シィンは首を振った。その仕種でナリタはその意味がやっと分かった。
「駄目よ!」
反射で叫ぶとシィンは沈黙した。だが、その動かない仮面の下で彼が笑った気配はした。とびきり優しく、とびきり穏やかに笑っているだろう。そう思うとひどく泣けた。
「陛下にはこれからの将来がございます。即位したばかりでこのようなことがあってはならないのです」
「でも、これは……」
ナリタは口ごもった。自分が悪くないとは思わない。だがこの剣の持つものも十分に作用していた……けれど引き出されていたのは自分の中の不満であって、誰かから与えられた苦痛でない……解答を上手く紡ぐことができず、ナリタは俯く。いいのです、とシィンが口を開いた。
「その代わり、一つお願いがございます」
「何を……」
「この剣を、廃棄なさっていただけませんか。お任せ下されば私がザクリアの郊外にでも捨てて参ります」
ナリタは黙っていた。お願いいたしますとシィンが繰り返した。それでも返答ができなかった。頷けばそれはシィンが自分の罪を被ることに賛同したことになる。ナリタが沈黙していると、シィンは陛下と更に呼んだ。自分が黙ってシィンが話しているという状況が普段と正反対で、可笑しいのに少しも嬉しくなかった。
「私、お前に罪を押しつけることは出来ません……」
消え入りそうな声でナリタはそれだけを答えた。シィンがいいえ、と強い声で言った。
「陛下はこの国にとって必要な方です。今に必ず、名君とお呼びする日が来ると私は信じております。陛下の為にこの身ごとでお仕えすると申し上げました。それが私の望みなのです。陛下が、いつか……」
シィンは言いかけて、言葉を途切れさせた。彼が自分の感情のために沈黙するのを、ナリタは初めて見た。シィン、と呼ぶとゆるく首を振ったその仕種が胸に焼きつく気がした。
「嘘をつきたくないのです、カナリーのことも……」
ナリタは目を伏せた。いいえ、ともう一度同じ声をシィンが出した。
「嘘をつくことは時には美徳であることもございます。罪を恐れて大義を見失ってはなりません。国が混乱するだけの真実など何の価値もないのです、政治というものは、そういうものです」
「シィン、お前……」
「陛下。どうか、私に陛下の治世のための礎石になれと御命じ下さい。後生でございます。私は、陛下のお側に置いていただくよりもそうなりたいのです。どうか、私にそう御命じいただけませんか」
どうか、と繰り返してシィンは身を折った。彼の意思が覆らないのをナリタは悟った。どうあっても自分が剣をふるってカナリーを殺したのだと言い張るだろう。
……混乱を招く真実など、何の価値もない。そう、自分に欠けているのはこれを躊躇なく飲み込むだけの度量なのだ。
「わかりました……」
答えた自分の声が潤んでいるのにナリタは気付いた。
「でも、私からもお前に一つ頼みたいことがあります……ほんの少しの時間でいいから、もう一度だけでいいから、私を抱きしめて、そして、名前を呼んで……」
沈黙が耳に痛いほどの時間、降りた。ナリタはそれを言ってしまってから、激しく頭を振った。カナリーの死をこんなものに引き換えようとしている自分に、ひどい嫌悪しか湧かなかった。
ナリタはカナリーの体を起こして身仕度を整え、ちぎれた首を拾った。表情はやはり苦悶のままであった。見開かれた目と叫んだ形のまま凍りついている唇を懸命に穏やかにしてやろうとするが、なかなか上手く行かなかった。
「ごめんね、許してね、本当に本当にごめんなさい……」
しゃくりあげながらずっとカナリーの首を抱えていると、後ろにシィンが立つ気配がした。そっと肩に手が置かれた。
もういいんですよ、と囁かれてナリタは首を振った。いいんです、と同じことをシィンが繰り返した。
「償いと仰るなら、これからの治世でどうか万民にそのお心をお返し下さい。そうなることを彼女も願っております」
これは欺瞞なのか、真実なのか。ナリタはそれを聞こうとしてやめた。
先ほど価値のない真実についてをシィンに諭されたばかり、結局同じことなのだった。
そうね、と小さくナリタは呟いた。それはそう思って下さいという意味でしかなかった。心に残る罪とどう向き合うかという問題は残っているものの、自分のためにはそうすり替えてしまうのが一番良かった。
でも、とナリタは喉でむせびながら俯いた。シィンにそれを成り代わってもらうのは、やはり筋違いのような気がしたのだった。
「私、お前に……」
言いかけたとき、不意に呼吸がつまった。
きつく抱きしめられて、ナリタは目を閉じた。
かすれた声が自分の名を呼んだのが聞こえたとき、思わずナリタは自分を抱く男の背に手を回した。
泣きたいと思った。呼吸を止めた一瞬、この温もりに包まれた一瞬、それを幸福に彩るために涙が欲しかった。
「シィンの顔が見たいわ……顔が見たい……」
それが無理な注文で夢想と言われるものだと承知はしていた。彼の返答はやはり沈黙での柔らかな拒否であった。
「陛下、私は、本当は、あなたから離れたかった。いつかきっとこんなことになってしまうのが本当に、本当に怖かったのです……」
シィンの声が夢の中にいるように次第におぼろげになっていく。
ナリタははっとした。本当に手足の感覚が遠くなりつつあり、意識が遠のいているのがわかった。やめて、と言いかけたときに唇に冷たい感触が当たった。抱き寄せられた顔がシィンの仮面の頬にぶつかっているのだった。
耳元で呪文の詠唱が聞こえている、何かの術をかけるのだと思い、先ほどのシィンの言葉を思い出した。
(後で記憶を操作いたしましょう。お忘れ下さい)
駄目、と自分の口唇が動いたのを確かめる前に、ナリタの意識は遠く、暗い場所へと落ちていこうとする。ナリタは必死で逆らおうとするが、徒労となりそうだった。
いや。忘れたくない。
お前のことを、何もかも、忘れたくないのよ。絶対に忘れたくない。こんなに優しい嘘をくれたから、私はきっと忘れないから。
ようやっとそれだけを唇から絞り出して、ナリタは意識を手放した。
その罪人の背格好を目にしたとき、ナリタは不思議な既視感を覚えた。魔導士だから顔は見えないし、誰であっても見たことがないはずだったが、その男の背筋や歩き方に、何か記憶にかかるものがあったのだ。
どうかしましたか、と横に座る叔父に聞かれてナリタは首を振った。自分の記憶にないものを、口にできなかった。
「厳しい処分を有り難うございます」
叔父が微笑んでいるのにナリタは頷いた。殺された侍女カナリーは自分の友人に近い女であった。憎いとさえ思えるはずの男を、ナリタはどうしてなのか悪く思えなかったが、罪は罪だ。
「私は秩序を乱すものを決して許しはしません。これからも厳しく取り締まるように」
「お心がけ、見事なことでございます」
ええ、とナリタは頷いた。
カナリーを失って、ナリタの周辺からは完全に火が消えたようになった。寂しくて仕方がない。元々後宮内にそれほどの知己がいないが、彼女がそれを埋めてくれる存在であったのは確かであった。
罪人の男が斬首台に上っていく。胸が苦しい。ナリタはいつの間にか手袋をとって堅く握りしめていた。
斬首刑は見せしめも兼ねて公開するのが常であった。罪が読み上げられ、女帝の裁可の確認がある。鷹揚にナリタは頷いた。その首が落ちる瞬間までを見届けて、ナリタは席を立った。気分が悪かった。
「ご気分でも、陛下」
随従のものたちが気遣って覗き込むのをナリタは無理に笑顔を作って追い払った。弱みを見せてはならない。大義のために嘘をつくことを恐れてはならない。
それがたとえ孤独を連れてきたとしても。
ナリタは内心で深い溜息を落とす。自分の中の何かが麻痺し、冷たいその椅子に同化するように凍えて固まっていく感触はあった。
だがそれも玉座にいるものの試練というものかもしれなかった。誰に振り向かれなくてもいいし、誰に愛されなくてもいい。その引換に、女帝としての世をまっとうして見せる。
自分自身の衿持と、そして──彼のために。
彼、とナリタは首をかしげた。心当たりはなかった。
不意に上がった歓声に、ナリタは処刑の終わった広場を振り返った。寒々とした空の下、魔導士の仮面が取り去られるのか見えた。下から現れたのはやはり見知らぬ男であった。年齢はナリタよりも少し上のようだった。
ふと自分の口から溜息がもれたことにナリタは驚き、そして再びその男を見るが、やはり何も思い出せなかった。
ナリタはぬるい笑みを浮かべて彼女の戦場、政務官達の待ち構える王城へと、ゆっくり歩き始めた。
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