紅剣物語 -Basshrune chronicle-

石井鶫子

遣らずの雨

 雨が降っている。か細い銀の線が音もなく静かに天井と地上をつないでいる。

 低くたちこめた雨の正罪、煙り霞む視界とむせかえるような土の泥くさい臭いだけが世界を一瞬支配して静寂へ押し込めている。

 沈黙のまま流れる時間、ちらりと空を裂く雷光、だが音はしない。遠いのだ。

 今夜は月がなく、星もない。暗い闇を時折稲妻が照らすが、瞬きするほどの間、光なき世界に恩寵を与え給うには決定的に足りぬ。

 どこまでも続く暗黒の闇に、ただ雨が、降っている……



 クロウはやれやれと大きく溜息をついて首の付け根を鞘の平で叩いた。膠着というならまだましだ。これは恐らく最も恐れていた事態というものでないのか。

 だが元凶ともいうべき上官がその失策を悟って青冷めたままでうなだれているのを見ると殊更に責めたてる気は起こらなかった。

 もちろんそうしてもいい。そうするだけの権利はクロウを含めたこの分隊全員が所持しているはずだったが誰も実行に移さない。

 グラッシア・ディディアールが初陣で、文人肌で、本人にとっては実に間の悪いことには中原の雄フィルカス帝国将軍ヤリオ・ディディアールを父に持っており、クロウたちが将軍に仕える騎士であり、気が進まないまでも父の名誉を損なうことを惜しんでこの会戦に参加を申し出た経緯上、出来得る限りのことをしてやりたかった。

 グラッシアは決して愚かではない。どちらかといえば気弱さと区別のつかぬ優しさに満ちており、部下であるはずのクロウたちにも圧力的に接することはない。

 けれどそれは断固として指示をすることもなく、この場合命を預けるには足りぬものの方が多かった。

 クロウがまた微かに息をはいた時、隣にまだ若い騎士が立つのが分かった。かわす視線は苦笑に満ちている。仕方ないとお互いに分かっているのだった。

「よく降りますね」

 そんなことを呟いて騎士は草を伝ってしだたる水滴を手のひらに受ける。まぁな、と曖昧な事を答えてクロウは鬱蒼とした木々の向こうを透かしてみるように目を細めた。

 敵は人だけではない。降り止まぬこの雨でさえ、望まぬ事項の一つだ。

 夏が近いとはいえ冷たい水は容赦なく体温を奪い、体力を摩耗させる。一人でならクロウはこの野山を抜けてどうにか本陣のある平原までたどり着けるだろうが、この分隊全員でとなると。

 だが分割してグラッシアの護衛が少なくなった所へ襲われればただではすまない。頼りなかろうが力不足だろうが、彼こそが掌中のぎよくなのだった。

 後ろから呼ばれてクロウは振り返った。その上官が組んでいた膝をといてようやく立ち上がる所だった。顔色は良くないがそれでも決意のきざしが表情に見える。

 横に並んでグラッシアは先ほどの騎士と同じように雨に手を差し出した。

 その横顔はまだ若い。そして彼は上流の出身者にしては人の言葉に耳を傾ける姿勢を持っている。根が素直なのだ。

「山を下りよう、雨が止んだら」

「経路は」

「南の沢を越えて岡嶺を。部隊を分けて別々に。その方が危険回避の確率が高そうだ」

 それはクロウが既に達していた結論と同じであった。彼も必死に考えたのだと思うとついぬるい笑みになってしまう。

 グラッシアはそんな彼の表情に何を思っているのかを感づいたようで、お前は人が悪いな、と苦笑した。

 年をとると悪くなるんですよ、と返しながらクロウは山中に開いた洞窟に座り込んでいる分隊の人数を目で確認する。

 ──全てを捨ててこの主人だけを優先するならば他にも方法はあるが、とりあえずはそれを考えまい。

 グラッシアが声をかけて適当に人数をよりわけていくのを聞き流しながら、クロウはまた雨を見上げる。

 降り続く雨を。




 隣でグラッシアが両手をこすり合わせている。吐く息が白く、気温は少しも上がる気配さえない。やはり雨のせいだ。

 隊を分裂して将軍のいる本隊に合流する道のりを打ち合わせたとはいえ、出発は雨が止み次第だ。食料もまともなものはもう三日も口にしていない。

 携行食はもう殆どを口に入れてしまった。敵と遭遇する危険を見切れないのか、グラッシアは食料を探しに行けとは言わない。

 ただこのままじっとここで座り込んでいるだけならせめて食料を調達しに自分だけでもいかせて欲しいものだった。

 クロウは剣の腕には自信がある。市民階級の最低限の豊かさを享受する家に育ったが、剣の道があってもいた。

 姉が家業である靴屋を職人を婿に迎えて続ける意志があったのも幸いだった。義兄も悪い人間ではなかったが、夫婦の家に居候を決め込むのも気がひけて軍隊へ入った。それももう、十年以上前のことだ。

 軍隊に入って沢山の戦役に参加して、その期間をクロウはどうにか生き延びてきた。

 それは生き抜いてきた、ということとは少し違う。そうやって誉れに飾ってしまうには沢山の裏切りも卑怯も寛容してきた。泥をすすり無力を叫び、けれど他人の犠牲の上に自分が生きている。

(何故……クロ……)

 クロウは不意に浮き上がろうとしたその言葉の記憶から目を背けた。

 過去の清算はまだするべき時ではない。それよりも今、この現実を乗り切ることの方が優先だ。

 食料を探しに行かなくてはと言うと、グラッシアは迷ったようにうつむいた。

 敵の目を逃れて深い山中へ入ったとはいえ、周辺は敵の勢力下だ。部下を失いたくないが体力も限界が見え始めているというところだろうか。

 優しい方だとクロウは内心で苦笑になる。この優しさはこの時点では現実役に立たないが、それをいうならそも芸術というもの自体人には要らぬものだ。不必要なものをこんな時にでさえ抱え込んで手放せない育ちの良さが、結局は嫌いになれない。

 私が行きます、というとグラッシアは僅かに視線を落とした。それが何故なのかも分かる。彼はクロウの剣の腕前を知っているが、大丈夫だろうという可能性の高さを鑑みた上で自分がそれを計算したことに微かな嫌悪を覚えている。

 グラッシアの考えていることは良く解る。まるで旧来の友人のように。

 大丈夫ですからと念を押すと、グラッシアはやっと頷いた。敵にあったら逃げてもいいのだと肩を叩かれてクロウは笑って見せ、一人で洞窟を出てゆるく獣道を下っていく。  鎧の肩あてにさみだれる雨が、金属の澄んだ音を立てている。



 それは絶望ではなく、激しい憎しみでも怒りでもなかった。ただ一度だけしばたいた目があまりに無邪気に純粋で、いまも胸のどこかに貼り付いている。それは何が起ったのかを理解していない、死ぬ直前の獣の目だ。

(何故?)

 悲鳴でもなく憎悪ですらなかった。

(何故?)

 自分はそれに答えなかった。ぽかんとした表情はひどく間が抜けており、ただ苛立たしかった。

(何故?)

 その最期の言葉にしては決定的に危機感に欠けた声が抜けない。

 じくじくと降る雨の湿りが足を浸すたび、水が遡及するように記憶の底からよじ登ってくる……



 運が良ければ山菜の類か、もしくは野兎、土竜もぐら、そんなものを捕まえることが出来るだろうと思っていたクロウだったが、現実はやはり厳しい。口を慰める程度の量なら何とかなるが、全員の腹を満たすことなど到底無理だ。いくつか小動物用の罠も見かけたが、かかっている獣はいなかった。

 クロウはそれでも山菜や木の実をかき集めた。から手で帰るのも良くなかったし、少しでも口に入れる事でまた何かが変わることも良くあることだった。

 鳥の卵、蛇の肉、そんなものでもあればましだ。雨のお蔭で獣たちの出足は鈍い。

 降り続く雨をこれほど憎たらしいと思うとは。だが天候は人の範疇ではない。魔導なる怪しげなものでさえ、幻を生み出すので精いっぱいだと聞いている。実は人に出来得ることはとても少ないのだ。

 人は、自身を守る牙も爪も、毒さえ持たない弱い獣だ。弱いからこそ生き残るために必死で思考し群れることを選んだのだ。

 弱さ故に地上を席巻し、弱さ故にひしめきあい、弱さ故になおさら押し退けあうのが人だ──そして自分も。

 クロウは苦い笑みを唇に浮かべた。何に対しての言い訳が欲しいのだろうかと視線を伏せる。雨の日の戦場は、遠く霞んだ記憶を沼の底から引き上げる……

 不意に体が勝手に震えた。雨に打たれてやはり寒さが増してきたのだった。足元は不如意だ。濡れた土壌と朽ち葉に足をとられてともすれば転倒しそうになる。

 それを耐えながらクロウはもう少し食料を探そうとゆっくり茂みをかき分けていく。動きが緩慢なのは確かに水に打たれて芯から冷えていることもあるし、敵の耳を引き付けたくないからだ。

 戦場で本隊と離れてしまって既に四日、この辺りはおそらく敵の制圧下のはずだ。

 それに……クロウ達の抱えている掌中の玉こそが功績には相応しい名を持っている。正確にはその父が、だが。

 だが主君であるグラッシア・ディディアールは十分人質としても取引の材料としても、あるいは見せしめの為の公開処刑の目玉としても価値がある。あまり追い詰められるとその選択を言い出す者がいないとも限らない。

 結局、クロウはグラッシアを甘いとも多方面に渡って力不足だとも思いながら、見切ってしまうには至らないのだ。

 けれど……もっとせっぱ詰まれば自信が、ない……

 その囁きにクロウは僅かに目を細めた。余裕のない時のことをあれこれ空想するのはそうしておけば実際に罠に落ちてもまだ動揺を押し殺せるだろうと期待しているからか。

 クロウは首を振る。今は最悪のことを想定するのをやめたかった。

 何よりグラッシアが向けてくるクロウに対する混じり気のない信頼と淡い尊敬の眼差しを裏切りたくない。

 裏切りの卑怯で苦い果実の味を舌の上に噛み殺したくないのだ。

 ……雨は、投げ捨てた記憶の瓶を満ち潮にのせて河口を登らせる……




 異変に気づいたのは長年の勘のようなものだった。生き物の気配がする。それも、特に濃厚な。

 クロウは集めた食料を衣嚢いのうへ納めると目立つ木の下のやぶへ押し込んだ。姿勢を低くして、獲物を定める狼のようにじりじりと近づいていく。獣だとしても雨で臭いは判別しがたくなっているだろう。

 前を睨む眼窪が痛い。視線が焼き付くほどに真剣に前へ向かっている。

 音を立てないように気配の背後へ回り、そっとそれを草むらから覗いた。

 ──最初に見えたのは投げ出された鎧のすねあての部分だった。それが敵の証である朱に塗られている。

 それを見た瞬間、ぴりりとした緊張がこめかみをひきつらせた。

 クロウは一層姿勢を低くして、自分を落ち着かせるためにゆっくり瞬きした。

 よく見ればその身体の主はだらりとした姿勢で木にもたれきっている。

 意識はあるようだった。頻りと吐き出されている呼吸の白い拡散に時折意味不明の言葉が混じるからだ。

 何かを呟いて騎士が身じろぎしたとき、恐らくは膝か太ももに放置されていた手が滑って土を叩いた。指先がぴくぴく痙攣しているが腕は少しも動かなかった。

 ……死が近い。クロウは見切りをつけた。

 怪我とこの遣らずの雨に降られて体力を奪われ、緩慢な死に至る過程なのだ。そんな状態の戦士を幾人も見てきたから間違いない。

 クロウは立ち上がった。その瞬間にがさりと草が揺れたがそれには構わなくて良かった。事実、騎士は振り返らなかった。

 ゆっくりその前に立つと騎士は視線だけをあげてクロウを認めたようだった。クロウは騎士の風体をみる。

 まだ若い。だが若すぎるということはなさそうだ。血で汚れた顔は憔悴しきっており眼光だけが鋭い。

 その目の光だけが異様でクロウは僅かに怯む。恐怖というよりは淡い嫌悪だった。

「名前は」

 大陸の基準語で声を掛けても返答は無かった。騎士は僅かに唇を震わせたが、そこからは何の言葉も遂に洩れてこなかった。

 返事をそれほど期待していなかったから、クロウは淡々と続けた。

「どうやらお前様はもうすぐ死ぬ。名前を教えてくれれば形見を預かろう」

 生きて帰ることがあれば自軍の捕虜にでも渡してやれば済むことだったし、それは騎士同士では一種の礼儀とされていたからクロウも従った。

 騎士は頷き、凍えているような口を動かして名乗った。その名を復唱してやりながら、クロウは彼の前に膝をついた。先ほどの厭な眼光は既に力を失いつつあった。

 形見をとクロウは騎士の持ち物へ視線をやり、初めてそれに気づいた。

 ……それは一振りの剣だった。落日を抜いたように赤い。羽ばたく鳥の意匠とその周囲に咲き誇る蘭の花が彫り込まれている。刀身は細めにやや反っているのが鋭利な印象だ。ぎらぎらした抜き身の輝きが鮮やかだった。

 良い剣だった。

 騎士が握り締めているのをゆっくりはがしてやろうとすると首を振られる。大事なものなのか、とクロウは頷いて見せる。

 形見にしてやると誓う、と言うと騎士はそれにも首を振った。何故と聞いてもやはり返答は無かった。

 彼にはもう力が残っていないだろうとクロウは判断し、解ったと肩をすくめて彼の首に残った銀の紋章飾りを取った。

 形見はこれでいいかと視線で問うと、騎士はようやく頷いた。

 とどめをさしてやるかどうかを迷ったがクロウは結局騎士の身なりをある程度整えてやってから背を返した。結局の所、クロウが手を下さなくても今日の日没には彼の魂は地上を去っているだろう。

 騎士の名を脳裏に刻みながら二、三歩進んだその時だった。

 急な殺気にクロウは反射的に振り返り、突き出された剣を手甲の部分でなぎ払った。

 雨に濡れた葉が足を絡める。均衡を崩してよろめくと、更に銀光が弧を描くのを認めた。

 クロウはもう一度斬撃を手甲で払った。鋭い軌跡に反して力は弱く、眼前から簡単に転がり落ちた敵にクロウは眉をしかめた。

 それは、彼がたった今形見を預かったばかりの騎士であった。

「お前っ」

 叫んでみても返答はない。

 ──いや、それよりもらんらんと輝く目の光の方が異様だ。

 怯気を覚えてクロウは後ずさった。なぎ払って一度は崩れ落ちた体を騎士は剣で支えてよろめきながらクロウへ一撃をくれようと手を振り上げる。

 クロウはやめろ、と低く制止しながら剣に手をかけた。



 眼前をよぎる剣の鮮やかに滑る線。

 のけぞった首の後ろへかかる負荷。

 濡れ葉を踏んで曖昧に不安な足元。

 睨みあげてくる視線の焦点の無我。

 吐く息が白く残る常緑樹の黒い森。

 そして、物言わぬ獣の魂切る叫び。


 雨は静かに一切を、流して、消して、癒す。

 雨は静かに全てを、癒して、消して、還す。



 クロウはようやく深い呼吸をはいて、じっとりと汗ばんだ額を拭った。濡れそぼる雨の水滴も肌にはりついているが、汗がねとりと絡みつくように指に残った。

 顔を歪める。何を口にしていいのかわからないままにくそ、とだけを呟いた。

 何が起こったのか一瞬分からなかった。振り返った瞬間は本能で危険を避けた──が。

 クロウは足元で動きを止めた肉塊へと視線を落とした。……動かなくなるまで徹底的に叩き潰さねばならなかったのだ。

 たった一つの救いは雨のせいで血の臭いがそれほど濃厚でないことだ。肩を割って斬り下げても足の肉がそげて骨までが露わになっても彼はこちらへ向かってくることを止めなかった。

 戦歴の長さの反射で頚動脈を叩き斬っても血を噴き出しよろめきながら剣をあげてかかってきた……いや、その、異様な目の光。

 クロウはもう一度顔をしかめた。彼は瀕死に見えた──いや、事実そうだった。

 殆ど口もきけなかったでないか。ではあれは何だったのだ。通常なら動くどころか声さえ発するのも苦しいだろうに....いや。

 クロウは騎士の元は悪くなかっただろう顔に一点、強烈な違和感と共に咲いていたぎらつく眼光の鋭さを思い返す。

 それを脳裏に浮かべた途端に背中がぞくりと粟立った。それは恐怖と似ていた。

 クロウは溜息をついた。何度目かも分からなかった。

 足で素早く騎士の体に草をかき集めて掛け伏したのはこの尋常でない死に方をしている遺体を隠さなくてはと思ったからだ。いずれ発見されるなり獣の口に入るなりするだろうが、今はまだ時期としては良くはない。

 それが終わるとクロウはその場から足早に立ち去ろうとした。その足にこつんと堅いものが触れた。

 落ち葉の墓標から僅かに見えている赤い鞘が目に入る。クロウは一瞬迷ってからそれを拾った。騎士の握り締めていた剣だった。

 名のある剣に違いない。刀身には鋭利に張り詰めた緊張感が漂っている。鞘に彫り込まれている鳥はどうやら漢氏様はんしようの様式を持っている。若干異文化めいた風情があった。咲き誇る花は蘭か。クロウは上流とやらの風習には興味がなかったがそれでも蘭が上流で格別好まれる花であるとは知っている。

 彼はそれなりの家の者だったのだろうか。だがそれにしては護衛が一人もいなかったのはおかしいし、第一この剣を形見にと申し出た時彼は拒否した。家の物であるならばそれは不自然というべきだった。

 鳥の羽音が急に頭上をよぎった。

 クロウははっと上を見上げ、それから薄苦い唇だけの笑みを浮かべた。もう戻らなくてはいけない。あまり遅いと上官はそれだけでまた青くなっているかもしれない。

 努めて自分の置かれている状況へ思考を押しやり、クロウは手にした剣を見た。見れば見るほどに、良い剣だった。

 クロウは足元の、落ち葉の死床しにどこに軽く一礼した。彼が剣を家族へ遺すのを拒んだのなら、貰っていってもいいはずだった。

 クロウは神の聖句を口に乗せ、ゆるく背を返して歩きはじめた。

 まさにその瞬間だった。

「へぇ……拾っていくんだ」

 後ろから、声がしたのは。



 そこに立っていたのは二十代の半ばだろう黒髪の青年だった。不意に開いた瞳は金色で、炎に似ていて目に痛い。

 クロウは誰だ、と低く言った。青年のほっそりした肢体に雨が跳ね、水の皮膜を作っているように、空間から浮き立っている。

 それに不意に気付いてクロウはぞっと背を伸ばした。

 体重がないような軽い動きで青年はゆっくり近くの常緑樹へもたれ、腕を組んでクロウを見た。

「君が新しい主人ってわけか。ふぅん……まぁせいぜい長生きすることだね」

 誰だとクロウはもう一度言ったが、青年は答える気はなさそうだった。肩をすくめてにやにやと薄く笑っている。

 それからちらりとクロウの埋めた騎士の辺りを見てそいつは、と言った。

「少なくとも心中するほどには勇気があった、というべきかな。ふふ、単に頭が悪かっただけなのかも知れないね」

 何を言っている、とクロウは遮った。青年はやはり答えない。額にこぼれる髪をゆらしてくつくつと喉を鳴らし、笑っている。

 再び背が粟立つのが分かった。何に怖気おぞけているのか分からないまま、クロウはお前と強い声を出したが、青年の薄い笑みはやはりしまわれなかった。

「君が全くの外れだってことはわかってるんだよ。必然的にね。だから後は」

 ちらりと投げた視線は騎士を一瞬撫で、それからすっとあがってクロウに当たった。

 クロウは眉をしかめた。何か酷く苛立っていて怒りの衝動が吹きあげてくる。

「君が蛮勇を誇って野垂れ死ぬ愚か者か、恐くなって逃げる卑怯者か、どちらになるのか見物を決め込むこととさせてもらうさ。毎回本当に面白いからね」

 腹の中で溜めていたものがふっと切れた。

 クロウは拾った剣に手をかけて青年目掛けてうち下ろした。距離も速さもその不意打さも万全だったはずだった。

 だが青年には当たらなかった。涙に滲むように姿が一瞬薄れ、クロウから十歩ほど離れた位置にまた姿を現した。

 クロウは魔導士、と目をみはった。魔導自体を見たことは今まで無かったが、聞いたことはあった。

 魔導という才能の要る科学を人が使うようになったのはたかだか一五〇年ほど前、しかもその大系を握っているシタルキア皇国が徹底した秘密主義に事を運んでいるせいで、シタルキア以外の諸国では国に一人いるかいないかだ。

 大陸さえ違う隔たったこんな場所に、魔導士がたった一人でいるはずがない。

「残念だね、僕は魔導士ではない」

 クロウの思惑を見透かしたように青年が言った。クロウは顔を歪めた。

 青年はクロウの手にした剣に視線を投げ、やれやれという調子で肩をすくめた。

「それを手にした奴ときたら、何故か例外なく僕を斬りたがる──戻れなくなるのにね」

 そんな言葉を吐いて青年はまた笑った。クロウはお前、と再び強い声を出した。

「お前は、一体」

「外れには関係ないさ」

 青年はぴしゃりと言葉を遮り、片手を上げた。別れの挨拶なのだとクロウは気付いた。

 待て、という言葉をやはり青年は鼻で笑った。その姿が不意にぼやけて薄くなり、黒く続ける常緑樹の木々を透かして消えた。

 クロウはその場に立ち尽くした。

 葉を叩く雨の温い音だけが、深い森に満ちている。



 雨が続いている。

 しだるる水が体を伝って下へ行く度に、記憶の沼をかき回し、底に溜まった泥を澄んだ水に無理に混ぜようとする。

(何故)

 その言葉が遡る予感を連れて、雨は降る。

(何故)

 ──答えるはずがないとわかっていても。



 降り続いた雨がふと止んだ。曇天は相変わらず低く立ちこめて雨の気配は遠くないが、それでも安堵した空気が流れたのは事実だ。

 隣のグラッシアも微かに緊張をほぐした顔つきで天を見上げている。難儀なのはこれからで勿論それを理解してもいるだろうが、何よりも押し込められるような鬱な雨が一先ひとまず去った事で吉兆としたいのだろう。

 クロウは止みましたね、と声をかけた。グラッシアは振り返って頷き、それからふとゆるい笑みをもらした。

「山を降りなくてはね。父上の本陣は恐らく」

 グラッシアは言いながら鬱蒼と繁る木々の合間を抜けるように目を細めた。

「あちらの山を越えて平原を渡った奥という所だろう。人の足で……そうだな、二日と少しという辺りでないだろうか」

 その概算にクロウは頷いた。雨の止まぬ間グラッシアはその事をずっと考えていたに違いなかった。

 よいお方だ、とクロウは単純に思う。自分の責任を生真面目に果たそうとしている。決して投げやりにならず、倦まずたゆまず、自分の成せる事を考えようとしている性質は決して悪い資質ではないはずだ。

 その生真面目さ、逆を返していうなら融通の利かなさがクロウ達をこの山中へ逃げ込まざるを得なくさせたのだが、それでもやけばちに開き直ったり腐ったりするよりも、遥かにましというものだった。

 簡単に道筋を確認した後、クロウ達は前もっての打ち合わせの通りに二手に別れた。

 グラッシアにはこの分隊の中で一番の歴戦の戦士であり隊長格であるクロウが付き従っているが、他はくじを引いた。

 正直何かあればクロウはグラッシアしか優先する気がない。同行者が誰であろうと関係がないのだ。グラッシアはそれをわかっているのだろう。目を伏せたまま人選にも何も意見を言おうとしない。

 クロウはその甘ささえ苦く見切れない。グラッシアがクロウへ向けてくる素直な賞賛と尊崇の眼差しを憎くは思えないのだ、結局。

 それは要するに好意だ。素直を誉めすぎというなら単純とも言いかえて良い。

 好意を裏切れば残るのは卑怯という名の果実、その味は苦く、く、そして生々しいえぐみに満ちている。いつまでも舌の奥端に残ってじくじくと存在を主張する。

 それは二度と消えない罪の味で、何度言い訳をしても仕方がなかったのだと言い聞かせても、気付けば舌の上に残る苦みに顔をしかめてしまうのと同じだ。

 罪人よ。

 お前の犯した罪に真実罰を与えるならば、それはお前の心だと。

 クロウは一瞬目を閉じた。嫌な雨があがったことでその水と同じくその囁きが天へ吸い込まれて消えてしまえばいい。

 だが忘れようとした胸を嘲笑わらうように、記憶は遡って自分をいつか捕らえる──捕らわれるだろうという自覚がある。

 あの、虚ろな雨……

 ふと落とした溜息にグラッシアが不安そうに目を伏せた。

 その仕草にクロウは我に返り、苦笑しながら何でもありませんよと若い主人の肩を叩いた。実際これはグラッシアには関係がないことだった。

 クロウは殊更に微笑んだ。グラッシアの顔に微かに赤味が指す。彼はクロウよりも十四の年下だが、亡くなった優しく堅実な兄と偉大な父の長所を寄り合わせたものに似た感情を、父の護衛としての側近であるクロウに感じているのは明白だった。

 それはクロウにとっても悪い感情は呼び起こさなかった。

 身分は遠く隔たっているが、グラッシアの父であるディディアール将軍の信頼を得ているクロウに対して彼もまた、素直に信頼をよせている。

 視線のまっすぐに向かう淀みない光を見る度に、それが自分にも当てられているのを受け入れることが嬉しい。クロウには弟がいないが、きっとこんな風なのだろう。

 だから守ってやりたい。少なくとも、今は本気でそう思っている。

 クロウは腰に差したあの紅剣に触れる。鞘に触れる度にどこか薄ら寒いおぞけを背中に覚える。……だが、良い剣だ。

(蛮勇を誇って野垂れ死ぬ)

 未来の予言など、信じぬ。

(怖くなって逃げ出す卑怯者)

 俺は、どちらにもならない。……今度こそ。

 クロウはその言葉を振り切るようにもう一度グラッシアの肩を軽く叩き、いきましょう、と促した。



 何故、と彼は言った。

 鮮烈なのは目だった。きょとんと彼はその目をしばたいた。自分の身に何が起こったのかを理解していない様子だった。

 それは相手に対する全幅の信頼を土壌にした善意に満ちており、故に尚更、強烈な罪を突き付けてくる。

「何故」

 彼はまた言った。その言葉さえ暫くの沈黙の後であり、その沈黙は重く沈んだものですらなかった。

 ただ本当に分からなかったのだろう、自分が今、何をされているのかさえ。

 何故、ともう一度声がした時、自分が薄い微笑みさえ浮かべているのに気付いた。

 彼はもう一度何故、と言った。それに答える気などまるでなかった。

 温い雨が通り過ぎていく。その問いは二度と彼の口から出ることはないだろう。

 黙って立ち尽くして見つめ下ろす、泥にまみれて落ちた悲鳴。

 それはしだれる雨に凍り付き、大地に吸い込まれるように消えていったあの日の、温く濃厚な、雨……



 ぬかるんだ足元が気になるのかグラッシアはずっと下を見てばかりいる。

 馬は山中に逃げ込んだ時に手放さざるを得なかったから全員が徒歩かちだが、明らかに彼だけが歩き慣れていない。

 文句を言うでもない分、却って彼が忍耐を強いられているのが分かってしまうのは、やはりグラッシア自身が気付かぬ内に放っている育ちの良さの香りなのだろう。

 クロウ、と呼ばれて周囲の気配を探ることを一瞬中断させ主人の顔を見ると、それでも疲れがやや滲んだ色がそこにあった。

「また降りそうだ、嫌なものだね」

 雑談か、とクロウは苦笑になる。そんなことでもしていなければ神経が緊張の持続に耐えられないのだろう。

 クロウは曖昧に頷いて天空を見上げた。グラッシアの言う通り、曇天は低い。濃厚な土の匂いが立ちこめていて、頬に当たる空気の湿り気がべたべたとまとわりついてくる。

 天候は神のものですから、とクロウは短く答える。巡り合わせは仕方がない。自分とてそれを望んでいる訳ではない。

 ただ人にはどうにもならないことがある。それだけのことだ。

 グラッシアは薄い苦笑を浮かべた。彼にも彼自身の臆病さ、世慣れぬ不器用さが分かっているのだろう。

 きっと、自分を置いて見捨ててゆくならクロウを含めた何名かはとっくに本陣へ辿り着くだけの力量があるということも。

 クロウはそれでようやくぬるんだ笑みになった。それを思った瞬間に、自分もまた押し殺した緊張を撫で回していたのにも気付いたからだ。

 グラッシアの気遣いを素直に受け、クロウは降らないと良いのですがと話を合わせた。

 グラッシアがほっとしたような表情で頷き返した。クロウはそれについ緩んだ笑みになりながら若、と言いかけてふと声を潜めた。

 何か……おかしい。

 背中の方向やや斜め右の後ろから突き刺さるような気配がする。感じる圧迫は……

 ──視線?

 クロウは振り返った。

 何かと目があった。

 剣に手をかけるのと敵が飛び出してくるのがほぼ同時だった。

 クロウはグラッシアの肩を軽く突き飛ばし、剣を抜いた。

 強く掴むと僅かに痺れに似たものが背を走った。それが何かを分からないままクロウは柄の冷たい感触を握り込み、敵に向かって振りかざした。

 背をびりびりと駆け上がってくる快楽に似た痺れがある。それはあっと言う間に脳髄へと直接たたき込まれ、クロウは微かに声をあげそうになった。

 目を見開くと自分の腕が反射の速度で剣を操り敵の首筋へ一撃を叩き込むのが見えた。

 次の瞬間、吹き上がった血が霧のように視界を満たした。

 掻き切った喉の傷口の線と同じ角度に血飛沫が飛んだ。それが最初の天からの一滴と同じような唐突さで頬にかかったとき、クロウは再び強い快楽を背に覚えた。

 血がとろりと頬を滑り落ちた。まるでそれは雨のように優しく、ぬるかった。



 最後の兵士を倒してクロウはようやく震える手を直視することが出来た。

 驚愕よりは恐怖だった。それが一時クロウの全身を支配している。

 剣を握り締めた自分の右手はまだ微かに痙攣していた。自分の背を冷やしているのは恐怖なのに、痙攣はそのゆえではなかった。

 ──他人を斬る度に遠く耳奥に吠えるような歓喜の雄叫びを聞いた。

 ぞっとするほど、自分は今、静かな興奮の中にいる。

 それが分かる。

 肉の手応えを骨に当たるきしみを腕に感じるたびに背をぞくぞくと駆け上がってきたあの涼ろやかな興奮を、手が覚え込もうとして震えている……。

 剣が、とクロウは呟いた。

 あれだけ人を斬って、一振りで血油が剥落し、白銀の抜身の輝かしさを取り戻している。刃こぼれもない。クロウの力のある打撃にもびくともしなかった。

 クロウはその剣を眼前に掲げてしみじみと見た。細い刀身はやや反りが入っている。

 大昔に滅びてしまった漢氏はんしという民族があるが、伝えられている漢氏様はんしようの剣にその姿の鋭利さが良く似ている。彼らの風俗は特殊だったから、見ただけで判別はつくのだ。

 どちらかというならば女物だろうか、細くて軽い。だが切れ味の見事なことも鞘滑りの良いことも、飛び抜けていた。

 ……そして、とクロウはやっと痙攣が治まってきた手を開き、刀身を左手で支えた。雲を透かした弱い陽光が一瞬反射して、目の奥をぎらり灼く。

 柄に、何か入っているのだろうか。剣を振る度にたぷんとしたものが中を移動している感触が手のひらに残る。

 それが神経をぞろ動く毎に何かがクロウの中に押し殺された凶暴な部分を掻き回して追い立てようとする……

「クロウ、大丈夫なのか……?」

 その声にクロウははっとした。

 我に返って振り向けば、彼の年若い主人が微かに眉をよせて彼を見つめていた。

 その瞳に不安を嗅ぎとって、クロウは何でもありません、と素早く言った。

 グラッシアはやっと吐息を下ろすようなぬるんだ笑みになったが、その奥に隠れた恐れをクロウは見た気がした。

 グラッシアが自分を恐がっている。あるいは怖れている。

 ただそのクロウの行為が自分を救うという名分のもとの暴行だから、何も言えずに優しい沈黙を弄んでいるのだ。

 何でもありません、と再びクロウは言った。グラッシアは首を振った。

 それは拒否や否定のものではなかったが、それ故にグラッシアの心をよく伝えてくる気がした──彼は気に入らないのだ。クロウが敵兵を皆切り捨てたことが。

 確固たる敵であるならともかく逃げようとした者までをクロウは追い打った。

 それは必要だった。不用意に情けを出してこちらの人数や人相や風体までを報告されては生き残る確率は一段低くなる。人倫を説いている場合ではないのだ。

 いや、クロウはまだそれでもいい。ただグラッシアを守るためにこちらも必死であるからには、それ以上を言わせてはならなかった。

 自身の中のあの悲鳴のような歓喜愉悦はともかく、他の騎士達の手前は主君であることを思い出させなければならぬ。

 年若いことは関係ない。それがグラッシアの道であるからだ──これから先、幾千幾万の累々重なる屍の上に立つべき身であるということが。本人の資質に取っては恐らく不幸なことに。

「お怪我はありませんね」

 クロウは出来るだけゆっくり、静かに言った。グラッシアは頷き、僅かに視線を外した。クロウの言葉の意味を分かったようだった。

 その覚悟が足らぬとしても、それを自覚し心掛けようとする辺りは確かにグラッシアの美徳と言うべきであった。

 グラッシアは頷き、皆ありがとうと小さく言った。何を求められているのかを考えてくれるだけ有り難かった。

「ここがまだ戦場であれば、そこで敵に遭遇することもお互いに運命であると思います」

 それがどれほどに理不尽に見えても、出会った瞬間に殺し合うことしか出来ないこともある。

 それはもう個人の意志の範疇を越える。

 ただ運命という言い方しか出来ぬのだ。

 グラッシアは頷いた。

 ……懸命に、心から、頷こうとしているように見えた。



 じりじりと人数は減っていった。一日が過ぎるのが異常に遅く感じられた。

 邪悪な罠に掛かったように時折敵は現れては戦闘を強いた。あるいは獣の音に驚いてこちらが神経を逆立てることも多々であった。

 グラッシアは既に殆ど口をきかぬ。それは疲労からくる自棄なのか、神経が過敏になっている証なのか。

 寡黙であっても不機嫌を部下に八つ当たりはしないが、その押し殺した顔の下にあるのが今にも焼き切れそうなか細い苛立ちであるのは一目瞭然というべきだった。

 この広大な野山にはまだ相当数の敵が残っているとクロウは結論せざるを得ない。そうでなければ遭遇の機会が過多にすぎる。

 グラッシアを中核にしたクロウ達がまだ完全には戦場を離脱できていないことや、グラッシア自身の人相、こちらの人数に特徴などが敵に知れているのか否か分からないが、そうでないという反証がない限りは悪い方へ想定することが慎重というものであった。

 敵にこちらの情報を与えないという理由においての圧倒的な滅殺に、既にグラッシアは何も言おうとはしない。

 ただ辛そうに目を伏せてこちらに気付かれぬように小さく震えている。

 主人の心を分かっていながらクロウは気付かぬふりで通した。

 優先すべきはグラッシア本人の生命だった。それを守るためには何もかもを注ぎ込んで良いはずだ……いや。

 クロウは微かに首筋に残る快楽の残り香を追って目を閉じた。

 ……確かに、何かが、決定的に、おかしい。

 こんなに人の血は甘かったか。人の肉は優しく軟らかだったか。上がる悲鳴は耳に美しかったか。

 肉を剥ぐ感触が剣を通して手に伝わる毎、骨を絶ち折る衝撃が刀身を伝って腕を震わせる毎、絶命の叫びが鼓膜に直接息吹をあててくる毎、快楽よりももっと強い何かが背を這い上がり身に絡みつきながら脳髄へと痺れ込んでくる。

 目の前が血飛沫の色に淡く煙って滅生の絶景へと転化する。

 それは絶対快楽だった。

 グラッシアの為にという理由がどこかへ吹き飛んでいきそうな、強烈な麻薬に似た何かが確かにクロウの中に潜んでいるものを追い立て、引き回し、そして凶暴な獣性へと鞭を打ち下ろしてくる。

 それに痛みを覚えない。寧ろ、喜々として待っている瞬間なのかも知れなかった。

 その銀の輝きに肉が弾ける度に嫌悪でも恐怖でもないものがクロウの背をぞくりと粟立たせる。

 痺れが脳幹を駆け上がり頭の中を根を張るように犯してくる。こめかみを見えぬ触手がぞろ這い回っているような感触がする。

 それすら圧倒的に……至悦。

 そしてそれは命が散華する瞬間に最も鮮やかだった。

 命の火が消える瞬間が見える気さえした。喉で喘ぎそうになる。今まで抱いたどんな女よりも快感という意味において突き抜けている。絶対至福、目の前が白くなるほどの突き抜けた快楽けらく

 興奮などという言葉では最早とうてい、追い付かない。

 剣を振り上げる刹那強い意志がクロウにそっと侵入してくる。

 それは声ではないが、声よりよりもその望みをはっきりと伝えてくる。

 もっと、

 もっと、

 強く、

 雄々しく、

 鮮やかに、

 前を見て、

 前だけを見て、

 更に、更に、

 前へ、前へ、前へ前へ前へ前へ前へ!

 突き動かされる衝動が高らかに吠えたてている。敵の脅えた視線に僅かに怯みかけるとそれは明らかにクロウの脳裏へと直接吹きかけてくる。

 もっと、もっと。

 更なる極みを見たくないか?

 強い刺激を欲しくないか?

 それは声ではないが声より鮮やかで声より強烈な呪縛に満ちていた。

 欲しい。クロウの何も考えていない部分、本能に近いものが応えているのが分かる。

 振り下ろせ、命をその身に吸い上げて自らの愉悦にすればいい。

 微かに上げた声は悦歓の喘ぎ。

 生温い血が頬に掛かる度にそれが真実命の味であるというぞくぞくとした悦楽が快感を吠えている……

「クロウ……」

 不意打ちのように聞こえた声がクロウをはっとさせた。

 弱々しい声は、あの雨の日に打ち捨てた時の声音に良く似ていた。

 似ていると思った瞬間、それが過去のことであるともクロウは思い出し、過去だという認識が現実を急速に知覚させた。

 済みません、と対象の曖昧な謝罪を口にしてクロウは大地に縫いつけたままにしていた剣を引き抜いた。

 倒れた騎士の喉からそれがずるりと抜かれると、傷跡からぬるやかに血が溢れ、やがて泥中の涌水のような穏やかな噴出へ変わり、それもすぐに止まった。

 クロウは軽く血糊を払って剣を鞘に納めた。柄から手を離した途端ようやく周囲の現実という事象が目に入ったような気がした。

 クロウは小さく溜息になった。……何かは、確かにおかしかった。

 グラッシアがクロウ、と再び言った。何を言われるのかを分かっていた。自分は何か掛け違えたぼたんのようにずれている。

「私は……お前は甘いと言うだろうし、多分今の状況においてはお前の言うことが絶対に正しいとも思うけれど……でも、無駄に命を散らすことは決して、お前の為にならないとそう、思うよ……」

 クロウは沈黙する。

 グラッシアの言うことは確かに甘い。だがそれは以前からのことでもあり、その若い詰めの利かない部分でさえ仕方ないという苦笑と共に許容してきた。

 ……今になってその言葉に強い不服を訴えている部分がある。

 危険を犯しているのはグラッシアの為だ。何よりも彼の命を優先する為だ。その為に万全を敷くことが何故いけない。

 今の現実がその価値観に合っていないことが分かっていない。生き長らえるために何もかもを仕方ないと受け入れざるを得ない瞬間があると何故未だに分からない。理解しない。

 クロウが黙っていると、グラッシアはゆるく首を振った。

「お前は、私がとても箱入だと思っているのだね」

 大地に斬り捨てられた兵士や騎士達の死屍が積み重なるのを見ないようにグラッシアは視線をあらぬ方向へやりがながら呟いた。

 その声が思いの他に落ち着いているのを認めてクロウはまっすぐに主人を見た。グラッシアは寂しげな薄い笑みを口元へと浮かべていた。諦観というべき顔だった。

「それは事実だ、クロウ。私は今更出生を偽ることは出来ないし、それをすべきでないはずだ。けれど……人倫がどう、とかではないんだ。私は君が……どこかおかしいように見えて仕方がない」

「おかしい、と……」

「いや、戯れ言だよ。今言うことでもなかっただろうか。ただ……私は、君が君らしくあるために、私の為に何かをねじ曲げる必要はないと、そう思うんだ」

 そう呟いてグラッシアはいいんだ、と自らの言葉を忘れるようにとぎこちなく笑った。

 クロウは申し訳ないと低く言った。

 その瞬間に、しばらく止んでいた雨の最初の一滴が頬をなぞったのが分かった。



 何故、と聞かれて一番辛いのは?

 それは、自分自身にもその衝動の泉がどこにあったのかを分からない時?

 それとも、自身に理由に見えるものがなかった時?

 それとも……理由に見えるもっともらしいものが全て言い訳でしかないと分かっている時?

(違う……)

 その答は全て間違っている。

 一番辛いのは……



 雷鳴が夜を裂いて落ちた。

 額に張り付く髪をかき寄せてクロウはじっと身動きせずに目の前の草の揺れだけを注視している。

 その動きに不自然はないか。誰か潜んでいやしないか。まさしく、文字通り命を懸けて睨み続けている。

 降りしきる雨がつうっと髪の中を滑っておちるむず痒さにクロウは目を細める。呼吸は一瞬たりとも乱さない。その乱れが草を揺らした瞬間に、向こうに敵がいたら。

 眼前の川を越えればすぐに第三国との国境の緩衝地帯へ入る。

 クロウはもう長い間黙っている。隣には主君と若い騎士の二人きりだ。

(どうやら人数は確認されているようです)

 度重なる襲撃の末に瀕死の兵士から聞き出した情報において、クロウは自分たちがまだ戦場を離脱していないことが敵に知れているのだという確信を得た。

 戦闘の後始末を悠長に行っている余裕はなかった。そのせいできっと減った人数までを数えられているのだろう。

 残党狩りというには丁寧だ。きっと分割したもう片方の一隊は駄目だったに違いない。人数や構成は、彼らの口から洩れたと考えるのが自然だ。

(喋ったか……)

 それは非難されるべきではない。騎士道というものに照らせば違うものだが、個人としての生命を優先すれば、グラッシアは特別に感化力に優れているわけではなかった。

 だが、それがクロウ達を窮地へとじりじり追い込んだのは確かだ。

 人数が知れている以上、その通りに律儀に行動するのは目立ちすぎる。未だにこの周辺にはクロウ達以外の敗残兵がいるはずだ。

 いっそ更に細かく人数を割って分散しなくては、固まっていては目印を教えるようなものだった。

 クロウは雨に紛れてゆっくり息を吐いた。

 冷たい水滴は容赦なく地上から、そして体から温度を奪い去る。気を抜くと奥歯が鳴り始めようとするのをクロウは柔らかく舌で懐柔しながらじっと前を見ている。

 敵がいるかいないか、そんな二者択一を楽観的に信じる気にはならなかった。

 実際、クロウは待っているのだ。偶然という天の好意を。

 喉を震わせない囁きがクロウ、と言った。

 ゆっくりした仕草でクロウは聞こえたのを示すために頷く。若い騎士の声だった。

 グラッシアは口数が極端に減ってきた。

 無理もない。いつかこの脱出行が彼の中に苦い記憶として根付くなら、それは将軍となるべき身としては悪いことではなかった。

 そんな希望めいたもので自分を誤魔化せるほどに大人になればいい。若いことが言い訳にして成長出来るなら好運だ。

 夜が明ける、と騎士が言った。

 東の空は丁度クロウの背を向けた側だった。雨はかなり強い。

 一時激しく鳴っていた雷鳴は今はもうなりを潜めているが、降り止む気配はなかった。

 クロウにも分かるほどに空が明るくなり始める兆しを見せた頃、それに気づいた。

 草波の一角が不意に風とは逆に揺れた。

 誰かいる。

 一人か。多人数か。

 いや、潜んでいるというのならそれは敵の可能性が高い。

 この川を越えればクロウ達がようやく緊張から逃れられるのと同じく、彼らにとってはここを逃しては失策となるだろう。

 敵との遭遇の位置関係を脳裏の地図に書き起こしてクロウはそうだろうと内心頷く。

 自分たちは待ち伏せの罠へ追いやられてきたのだ。上手い方法だと唇だけで苦笑した。

 夜明けを知った鳥が、離れた草むらから飛んだ。

 また、草むらが揺れた。

 間違いがない。

 クロウは一瞬目を閉じる。

 決断、というよりも見切る瞬間だった。



 ──お前と一緒で良かったよ。

 彼は言った。

 それには答えなかった。その時は既に決意を固めていたからだった。

 ──どうした?

 彼は気楽に笑った。

 ──もうすぐ国境だ、生きて帰るというのはいいね。

 ──お前も早く結婚しろよ、自分を待ってくれる人がいるというのは本当にいいものなんだぜ。

 彼は目を細めて笑っていた。

 その瞬間まで。



 では、と視線を交わして頷き合った後、騎士がグラッシアにも一礼してそろそろと草むらを離れた。

 時折この川を越えようとする敗残兵を、待ち伏せていた残党狩りが追っていく。

 騒ぎはぽつりぽつりと五月雨のように間隔をおいてあった。

(我々はもっと川下へ降りる)

 クロウは騎士にそう言った。

(若は俺が守る。君はもう行きなさい。国境はそこだ)

 同じ陣営の兵が川を渡ればそちらへ追っ手の目が向く。その隙に川を渡るようにと言い含めてクロウは騎士の肩を叩いた。

 実際その方法で危険を分散しているのだろう、似た意匠の鎧を付けた騎士や兵士たちが一斉に川を渡り、それを追って敵がゆく。

 そうすると何人かは逃げおおせるのだった。

 騎士の背に向かってグラッシアが好運を祈る為の印を切っている。

 それが終わるのを待って、クロウはグラッシアに鎧を脱ぐように言った。

「あくまでも一般の兵士を装った方が宜しい。確率を高くするならディディアール家の紋章のことなどはお忘れ下さい」

 グラッシアは頷いた。実際彼の首には家の格式と序列を証明する紋章飾りが下がっているが、それはこの河岸に置いてゆく方が良いと言うと、グラッシアはまた頷いて首から紋章飾りを外し、クロウに手渡した。

 クロウはそれを草むらへ投げ捨てた。

 鎧を脱いでからお前はいいのか、とグラッシアはクロウに聞いた。

 クロウはゆるい笑みになって見せる。

「私は何かあった時の盾というものですから」

 そう囁き、川上の方向を見た。次の騒ぎが連鎖的に広がっていくのが聞こえる。人数は少なくはない、程度だ。

 だがクロウはその中に、さきほど別れた若い騎士の姿を見つけた。

 小さく神の聖句を唱える。人はどれだけ高潔にもなれる代わり、どれだけ卑怯にもなることが出来る。

 そして手段を選びこだわるべき時間は既に過ぎ、結論は出ていた。

 若、とクロウは低く言った。

「絶対に動かないで下さい。私がいいと言ったらまっすぐに走って、国境を越えるんです」

「クロウ……?」

 グラッシアの目が怪訝に見上げてくる。動かないで、とクロウは念を押した。

 戸惑いながら主人が頷いた。

 クロウはゆっくり立ち上がった。

 降りしだれる雨の音に負けないように大きく息を吸って、先を行く騎士に怒鳴った。

「──若様!」

 はっとグラッシアが身じろぎした。

 その瞬間にクロウが何をしようとしているのか悟ったのだった。

 クロウ、と叱責が入るのを無視してクロウは再び声を上げた。

「グラッシア様! お一人では危険です!」

 若い騎士が思わずというように振り返ったのが遠目に見えた。

 それは呼ばれたことに反応したのでなく、自らの義務であったことを完全には見捨てられなかった習性というべきだった。

 ──だが呼ばれて振り返ったという事実がその瞬間、彼を功績を約束する残党狩りの特別の客、「グラッシア・ディディアール」であると断定した。

 殺到していく鎧の鳴り音がクロウと、その足元にかがんだグラッシアの側を駆け抜けていった。



「何故──何故、クロウ! 彼は私たちの仲間だろう! 私の為に彼を使い捨てるなんて……なんということを、どうして、どうしてそんなことが出来る!」

 グラッシアが叫んだ。それは金切り声と言って良かった。

 クロウはそれを無視して敵兵の殺到していく先、必死で逃げていく騎士に向かってもう一度、逃げて下さいと叫んだ。

「クロウ!」

 グラッシアが歪んだ顔で怒鳴った。

「何てことを、お前は、何故、何てことを、何故、彼は、どうして」

 狼狽と驚愕と激しい怒りに表情を染め替えながらグラッシアは叫んだ。

 それから首の紋章飾りに手をやって、唇を噛む。

 それを外させたのもクロウだったからだ。

「お前、最初から……」

 言いかけてその真実をグラッシアはようやく気づいたようだった。

 震える手がクロウの服のすそを掴んだ。

「……私とお前に加えて従卒に彼を選んだのは、私と年や髪の色が似ているからか!」

「背格好も、です」

 付け加えることでクロウは肯定した。グラッシアは蒼白になり、何かを呻きながら頭を抱えて嗚咽をこぼした。

 若、とクロウはそれに構わずに言った。

「走って、若。今なら安全ですから」

 騎士を追って、川上では凄まじい騒ぎになっている。

 それを見越してこの瞬間に川を越えていく者たちは顧みられていない。

 それはそうだ、一般兵を一人捕虜にするよりもグラッシアの持つディディアールの姓の方が余程功績になる。

 グラッシアは首を振った。

 クロウは舌打ちした。若、とその腕を掴む。

 グラッシアは嫌だと叫んだ。

「私は卑怯者にはなりたくない! クロウ、彼を助けろ、命令だ!」

「いけません」

「嫌だ、彼の犠牲の上でどうして生きていける! 私の名誉をお前は汚すつもりか!」

「名誉ですって? それが何だと言うのです、それがあれば生き残れるとでも? 馬鹿なことを! あなたはそもそも他人の犠牲の上に生きていくべき方なのだ、彼一人にこだわる理由など今すぐ捨てなさい!」

 グラッシアが蒼白のまま一つ震え、クロウの胸板を拳で叩いたが、それは余りに弱い暴力だった。微かにうめいた喉が、必死で涙をこらえている。

 若、とクロウは声をぬるめた。

「生きていくんです、それがあなたの義務だ。今から助けに参じたところで彼の命を拾うのは無理だ、分かるでしょう。あなたは彼の死を犬死にになさるおつもりなのか。彼が死んでもあなたが生きていなくては意味がない、そうでしょう?」

 グラッシアは喉で返答を詰まらせた。

 ここで飛び出していっても最早それは遅い加勢であるのはグラッシアにさえ分かる。多勢に無勢の言葉通りのことが起きるだけだ。

 グラッシアは弱く首を振ったが、それは事実を直視出来ぬ時の仕草で、拒否ではなかった。

「走りなさい、まっすぐに」

 クロウはグラッシアの肩を押した。グラッシアはクロウ、と弱い声を出した。

 クロウはグラッシアを見つめた。若い主人の瞳がすがりつくように、赦しを乞うように自分を見つめている。

 ゆっくり重々しく頷いて見せるとグラッシアは頬をゆるめようとした。頬は笑っているのに目は哀しげで狂気の淵にいるように暗く光っていた。

 クロウはグラッシアに低く囁いた。

「──実は、彼は自ら志願してくれたんです。あなたに負担になるから教えないでくれと言われました……」

 言い訳が必要な瞬間であるはずだった。

 一瞬遅れてグラッシアはぎこちなく頷き、何か意味のない叫びをあげながら国境の川へ走り出した。



 クロウはグラッシアを追う敵の姿がないことを確認すると剣の柄を握り締めた。

 興奮とひとくくりにするには残酷な衝動が吹き上がってくる。

 あの若い騎士がよってたかってなぶり殺されようとしているのを助けに行く──ああそこにこぼれる命たちの散り際はどんなに美しく甘美に自分を潤してくれるだろう!

 理由はある、衝動もある。素晴らしい舞台になると紅剣が歓喜の悲鳴をあげている。

 血の宴は今この朝に、始まろうとしている。

 もっと、もっと。

 背を押す囁きが、けたたましい歓喜を歌っている。

 更なる極みを知りたくないか?

 もっと強い刺激を欲しくないか?

 答えは、とクロウは剣を抜き放ちながらうっすらと笑った。

 答は、この戦闘が終わった時に体に残る快楽だけが、知っている。



 雨が降っている。

 凍えたように小刻みに震えている。

 立ち尽くした大地、穿たれた杭のようにただ一人だ。

 目を閉じよ。

 内部神経が雨のように優しく唄っている。

 深く──深く、目を閉じよ。呼吸を止めよ。

 従わなくては生きて行けない。そうしろと囁く声は甘たるいぬくみに満ちている。

 目を閉じ、呼吸を止め、視界を閉ざして息を殺せ。

 そうすれば見なくて済む。

 直視しないで済む。

 全てを、世界を、人の世の争いも、醜い自分自身も、裏切りだけの人生でも、足元へ横たわる、意志を以って見つめて返してきた眼差しの虚ろさも。

 全て、忘れることができる。

 ──一瞬だけでも。



 荒い息を吐き、クロウは剣を杖の代わりに地面で支えながら、ようやく座り込んだ。

 ……血の匂いが風にのって川面を払い追いかけてくる。

 クロウは顔をしかめ、それが自分の鎧にも多量に付着しているのに気付いて苦笑めいたものを作ろうとしたが、頬が凍えてうまくいかなかった。

 川の向こうでは折角の獲物を逃したいきり立ちで、敵味方乱れての混戦になっているようだった。

 全身を包んでいるのは疲労だが、それもまた、興奮止めぬ神経の成せることだった。

 おかしい、確かにおかしい。

 けれどそんな異状などどうでもいいと心の内側に吠える荒々しい獣がいる。血潮の音が耳の中で潮騒のとどろきを響かせている。

 もっと、もっと。

 激しい海を見たくないか、強い快楽を知りたくないか、更なる至福を飼いたくないか。

 尽き動かされる衝動が血生臭い味になって口の中に蘇ってくる。

 だが……甘い。

 なんと甘いのか。

 もっと。

 手にした剣が声高に急かしている。

 クロウは握り締めた手を軽く自分で叩く。

 まだだ。まだ、我慢しろ。

 今でなくても他にも獲物は沢山いる。

 震えるな。欲するな。

 今戻ってもそれは俺の命を縮めるだけの行為、高みを望むならば、今はこらえろ。

 何に対して呟き続けているのか、クロウにももう良くわからない。

 未だにたぎる熱が自分の深い場所に渦巻いていて、どろどろ掻き回される衝動が赤く焼けた肌をさらしながら呼んでいるのが聞こえる。それは敵を切り刻んだことで少しも解消されはしない。ますます大きくなっていく。

 もっと、もっと。

 他人の血の犠牲の上に立つのが人生、勝利と栄光に包まれて酔うのが人生。

 腕を降り挙げてとどめを刺せ。更に深い欲求と背中合わせの快楽を与えよう。

 必ず、と。

 手はまだ微かに震えている。

 クロウは唾を飲み込んで立ち上がった。

 人の気配がする。

 獣が臭いを嗅ぐように、クロウはその気配に鼻を鳴らして剣を強く握った。

 味方か──それとも、敵か。

 敵だったら排除しなくてはならない。敵だったら。

 既に川を渡った緩衝地帯へ入っていることは頭の中にうっすら残っているが、そんなことは関係がない。

 敵であれば排除を……排除を……敵であれば。敵で。

 敵。

 敵。

 倒すべきもの。

 斬り捨てるべきもの。

 忌むべきもの。

 赤い飛沫が目の前にちらちらし始める。背筋が悪寒に変わるほどの快感の予感に歓喜の悲鳴を上げ始めている。

 敵、敵、敵!

 クロウは薄く笑う。

 背後からくるものは全て敵だ。

 敵はこの紅剣を更に赤いもので飾りたてるための堆肥だ。

 背中が興奮を叫んでいる。けたたましい声で歓喜を唸っている。

 敵が来る! 敵が来る!

 麗しい色彩が宙を艶やかに飾り優しく温い雨に似たものが頬にあたる、あの圧倒的に濃密で濃厚な閉鎖された世界がやって来る!

 衝動は最早体の一部であった。

 クロウは剣を握る手に力を込め、素早く振り返った。

 振り向きざま思いきりなぎ払った剣の軌跡の予測される先に、若い、そして驚愕に目をみはる青年を見つけた。

「──クロウ!」

 叫ばれた声の先をクロウは直視できずに目を反射で背けた。剣が風を切る、重い風音だけがした。



 見開いた目は語っていた。

 何故。

 だが一番辛かったのは、それが素直な疑問でも裏切りへの憎悪でもなかったことだ。

 体がずり落ちた瞬間の、泥を跳ね上げるぴしゃんという音が、耳の奥にこびりついて取れない。

 それは雨の音を聞くたびに、どんな古傷よりも疼きながら痛みながら嗤いながら、胸まで侵食してくる……



 クロウは急な虚脱で片膝を泥へ付き、ようやく一つ、息を飲んだ。

 クロウは同じように痙攣している手をぼんやり見やった。よくもこれで敵の中を潜ったものだというほど血塗られていて、どす赤い。

 ……だが、それがとっさにグラッシアの命を救ったのは確かだった。

 血のぬめりが今更、剣が主君の首を断つ瞬間、思い出されたようにクロウの手から滑り飛んだ。

 紅剣はグラッシアの横を飛んで後方のやわらかなぬかるみへ突き刺さり、反動で小刻みに震えている。

 クロウはゆっくり息を吐いた。

 肺から空気が押し出されていく感覚と共に、どっと冷たい汗が腋下を流れた。

「申し訳な……いえ、あなたが、ご無事で良かった……」

 言いながらクロウはきつく目を閉じた。体はまだ震えており、心は凍えてまた、震えている。

 ……この手に主人をかけるところだった。

 手から剣が飛んだ瞬間にあれほどがなりたてていた身の内の喧騒は既に止み、倦怠に似た疲労だけが残っている。

 疲れていると自覚した瞬間に、クロウは自分が病み疲れているのだと思った。思ったことが更にどっとよせる疲弊を感じさせた。

 落とした溜息の重さにクロウは首を振った。何かを確かに否定したいのだった。

「……大丈夫か、クロウ?」

 問いかけるグラッシアの声は平坦を懸命に繕おうとした誠実さに溢れていた。ええと頷いてクロウはもう一度申し訳ないと呟いた。

 長い夢を見ていたような気分だった。クロウはまだ震えている片手で顔を覆った。ねっとりしたものが額についた。

 はっと手のひらを見れば血、クロウは顔を歪めて拳を作り、鎧の表面に擦りつけた。

 クロウが沈黙しているのをグラッシアは自分に対する罪の意識だと思ったのだろう。私は大丈夫だから、と言った。

「……お前が無事に切り抜けてきてくれてよかった」

 グラッシアはそんなことを口にしてぎこちなく唇を歪めた。笑おうとしたのだろう。

 彼が何を気に病んでいるのかをクロウはやっと思い出した。

 そうだ、あの、犠牲にした若い騎士。追い詰められていたというのは簡単だが、しかし。

 本当にあれしかなかったのか。自分に問うのが恐い。

 だが繊細な主人のためにはそう繕うのも気遣いなのだとクロウは思い直した。

 そうせずにはいられなかった。

 川を渡ってから草むらに身を落としてお前を待っていたのだよと言ってグラッシアはクロウの奮戦を称えるつもりなのか、彼の肩を叩いた。

 クロウはそれさえ受け止めかねてじっとうつむいた。

 ……自分は騎士を助けに行ったのではない。どうしようもなく酔っていたのだ。

 現実とは思えない、凄惨な甘い闇に。

 グラッシアはクロウの返答がないことで間を持て余したようだった。

 主人もまた、騙し打ちに生贄にした騎士のことを仕方がなかったと擦り込んだ上で忘れたがっている。

 それを弱いとは思わない。生きていくために自分を騙さなくてはならない時もある。そしてグラッシアはそれを当然のように受け取るべきなのだ。

 グラッシアはそれ以上の言葉を掛けるよりも、行動にすることを選んだ。

 ゆっくりと自身の後方に突き立っている紅剣へ歩き、その柄に手をかけた。

「良い剣だね、クロウ。お前が山中で拾ってきた時もそう思ったよ。大事にするんだね」

 グラッシアがそう呟いた時、落ちる雷光より速くクロウの脳裏にはその剣を得た時のことが蘇った。

(──野垂れ死ぬ愚か者か、それとも逃げる卑怯者か)

 グラッシアにこの剣を押し付けてしまえば逃れられる?

 あの到底了承し得ないと思った選択が突き付けてくる。

 どちらだ。お前は、どちらになりたい?

 俺はどちらにもならないと思っていたのが遥か悠久の過日に思える。

 どちらだ。

 クロウは目を閉じる。分からない。

 その瞬間にあの青年のことを思い出せば、不意に雨に降られて額や頬に張り付くべきであった黒髪が、まるで雨などないようにさらりと肌を滑っていたことに気付いて今更鳥肌が立った。

 あれはどんな魔術にしろ人のするべきことでも出来ることでも無かった。何であるかは分からなくても、触れるべきでは無いことだけは理解が出来る。

「良い剣ですが、若」

 クロウはゆるく首を振った。

「しかし、癖があって万人向きではありません。若には向きませんよ。このような剣をお求めなら都へ帰還した後によい鍛冶打ちをお呼びになればよろしい」

 グラッシアは少し、ほんの少しだけ笑った。クロウは殊更頷きながら、グラッシアの手から剣を受け取った。

 自分の手に触れた瞬間に、またあの身体を抜ける強い衝動が呼び起こった。

 クロウはそれを無理に殺した。この陰惨な、ひどく攻撃的な何かを呼び醒ます声に耳を傾けてはならない。

 それよりは愚かでいた方がいい。

 手にすると相変わらず柄の内側で液体がぞろめくのを感じた。

 それも無理に組み伏せていると、グラッシアがはっとしたように顔をあげた。クロウもその視線につられて振り返った。

 まず目に入ったのは真っ直ぐに駆け寄っていくグラッシアの背だった。

 それからその向かう先に目をやってクロウは軽く声をあげる。

 そぼ降る雨にゆれる川辺の立ち草から這い出てきたのは確かに犠牲にして置き去りにした、あの騎士だった。

 クロウ、と主人が呼んだ。振り返ったグラッシアの顔にあったのが予想していたような歓喜でなかったことにクロウははっとした。

 それは困惑、と呼んでよかった。川を越えた時に見切ったはずの事実が邪悪な形に蘇って罪を、そして自身の愚かさと焦りをつきつけてくる。

 クロウは自分もまた青冷めているのに気づいた。彼がやがてまともに体調を快復させればクロウの人生は実質的に終わる。終わってしまう。

 自らの愚かな焦りが招いた裏切りの罪を突き付けられて。

 折角命を拾った彼に対して少しの喜びも感じない。困惑と、理不尽だと分かっていながらの静かな怒りがこみ上げてくる。

 分かっている、それは自分が清算すべき自分の罪だ。他の誰が悪いというものではない。

 グラッシアは顔を背けて直視しないことでそれを黙認したが、彼にはそれを幾らでも繕える言い訳がある。

 だが、……自分は?

 クロウは溜息をついて足を踏み出した。

 のし掛かってくる雨粒が肩に重い。グラッシアの腕に抱かれてぐったりと身を横たえる騎士の体の脇に膝をつくと、その様子がやっと目に入った。

 脱出してきたのが奇跡と呼んで良かった。体のいたる所に残された傷跡の酷さが彼の生に懸ける執念を思わせて恐かった。

 赤い血潮が、そぼ降る雨の包む色彩の薄い世界の中で強烈だった。深くて暗い、葡萄酒よりも甘い、目に灼きつく真紅の液体がちかちかと目の奥を瞬いている。

 隣のグラッシアが長く嘆息した。彼も同じことを思っているのだと知った気がした。

 心臓が大きく音を立てた。駄目──だ。

 いけない。それは、どうしても、やめなくてはならな

(もっと)

い、してはならない、これは許されざ

(その先の至福を見たくないか?)

ることだ、分かっている、そう、分かって

(強い刺激が欲しくないか?)

いる、これ以上の裏切りは罪以上の烙印を残す、自分の心にまた遣らぬ雨の音が満ちる、さあさあと降る雨、あの中、立ち尽くす孤独、後悔、それから、

(けれど……終わってしまう)

それから……!

 クロウは強く目を閉じた。

 自分の腕が何かに牽かれるようにすっと上がった。

 けたたましい歓喜の声が再び脳裏を支配した。その中に微かに抗議する弱い声を聞いた気がした。

 クロウは黙れ、と念じた。必死だった。

 その声が気圧されて怯んだようにふっと黙り込んだ瞬間、クロウの腕が打ち下ろされた。



 騎士の胸からゆっくりとナイフを引き抜いて、グラッシアはそれを草むらへ投げ捨てた。

 クロウは騎士の腹部を貫いた剣を同じようにその体から抜いてやった。

 グラッシアが抱いていた騎士の体がずるりと滑り落ち、一面の泥に沈んでぴしゃりという音を立てた。

 うめくような声が小さく繰り返しているのが聞こえる。

「私は……父上の名誉を損なう事だけは、出来ない、どうしても、どうしても……」

 この騎士が快復した後に真実をさえずるのか、それを口実に楽に生きる道を選ぶかは解らなかったがどちらにしろ、それはディディアール将軍とその一門に汚辱の泥を塗る。

 グラッシアはひたすら呟き、そして自分の言葉を否定するように首を激しく振った。

 若、とクロウは言った。グラッシアは黙って立ち上がり、じっと、二度と動かぬ骸を見下ろしている。

 クロウは同じく沈黙をしながら紅剣をその鞘に納めた。柄から手が離れると急速に冷める感覚と共に理性が戻ってくるのだった。

 グラッシアが不意にクロウに向き直った。あの山を出てから彼がクロウに真正面から対するのは初めてのことであった。

 絡む視線がすがりついてくるようだった。免罪の言葉が欲しいのか、それともクロウが自分のせいですといってくれるのを待っているのか、もっと違うことなのか。

 雷光が一瞬視界を焼いた。暫くを置いて間遠に轟きが落ちた。それを待っていたように、グラッシアの呟きがした。

「……彼は、川を、渡った時に、致命傷を、負って……」

 言いかけてグラッシアはゆるく首を振った。言い聞かせる物語を自分で作ることを始めている。ただ、どうしてもその先を紡ぐことができないのだった。

 しっかり、とクロウは低く囁いた。

「これで良かったんです。彼の命は川を越える時に尽きているものだ……お父上の名誉を損なうことは出来ません故」

 グラッシアは頷かなかった。

 だが、否定もしなかった。

 クロウは目を細める。

 グラッシアの肩が小刻みに震えている。

 それが大きくぶれ始めたと気付いた瞬間、グラッシアが膝を折って座り込み、髪をかきむしるようにして身を縮めた。

 クロウはその脇へ膝をつき、グラッシアの肩を抱いた。むせび泣く声の湿り気があの日の雨に酷く、似ている。

 それはもう、十年も前の物語だった。



 雨に嫌気を覚えてふと溜息を漏らすと、隣で同じように疲れて座り込んでいた彼が視線を向けてゆるく笑った。

 よせよ、と言われてクロウは同じく苦笑になって頷く。そう、溜息など吐いていても仕方がない。少しもそんなものは自分たちを救ってはくれない。

 それは諦観ではなく少年期の終りをようやく抜け出した年頃の虚勢だったかも知れないが、それでも繕うことが出来るだけ、遥かにましだった。

 そうあらねばという自制がどれだけ青臭くて幼いかをクロウも彼も理解はしているが、何にすがってでもいい、とにかく生きつなぐことだった。

 諦めるな、現実の前に卑屈になるな。その言葉にクロウは内心を委ねて頷く。今は生きて帰ることだけを考えよう。

 すまない、とクロウはもう何度目かも分からない謝罪を口に乗せた。彼は首を振った。

 ──お前が気にすることじゃないよ。

 だがそう言われる度にクロウは自分の失態を苦く思うしかない。後陣を任された部隊にいたのは不運だった。何とか戦場から離脱しようと混乱と死の恐怖で滅茶苦茶に走り回ったせいで、かえって敵陣に近い山野へと紛れ込んでしまった。

 それもこれも自分のせいだという自覚はある。彼はクロウと初陣の時から一緒にいる騎士志望の若者だが、クロウの混乱に彼も巻き込まれた形で共に災厄を被ることとなってしまったのだ。

 クロウは必要以上に謝らなかった。彼を引き込んでしまった責任は必ず返す。その未来をつかむためにも今ここで野垂れ死ぬことはすまい。全ては安全を確保してからだ。

 クロウは震えながら膝を抱え直した。

 ……雨は鬱に降っていた。

 か細い銀の線は音もなく静かに天井と地上をつないでいる。

 低くたちこめた雨の正罪は気分を真実追い詰めることだとクロウは首を振った。

 煙り霞む視界とむせかえるような土の泥くさい臭いだけが世界を一瞬支配して、静寂へ押し込めている。

 沈黙のまま流れる時間、ちらりと空を裂く雷光、だが音はしない。遠いのだ。

 今夜は月がなく、星もない。暗い闇を時折稲妻が照らすがそれも瞬きするほどの間、光のない世界に恩寵を与えるには決定的に足りない。どこまでも続く暗黒の闇に、ただ雨が、降っているのだった。

 ──ようやく敵の目を逃れて国境の峠を越す頃、疲労は頂点を迎えようとしていた。クロウも彼も殆ど口をきかない。じりじり追われる恐怖、近づいてくる足音への過敏な恐れ、そんなものが背中に張り付いていて、どうしても足は早くなった。

 口をきかないのはお互いが限界近い神経の高揚を覚えているせいだった。だがそれは良いものではなく、むしろ絶望と隣り合わせの闇雲な希望でもあった。不安と希望は現実の裏と表に張り付いて同じ事実の反面だ。

 衝突は不意に訪れた。山を越える道が別れている。

 彼はゆるやかに降りていく道を選んでいくべきだと主張したが、クロウは更に山中へ踏み込んでいく方へ登ろうと言った。

 どんな根拠がお互いにあったのかは言い争ううちに何処かへ消えた。じとじと降る遣らずの雨に、二人の間にあった戦友という陶酔を含んだ感傷は流され、姿を失った。

 苛立ちをお互いに感じながらも殴り合うような気力もなく言葉を連ね、刺が次第にきつく、強くなっていって最後に彼の口から吐き出されたのは殆ど脅迫であった。

 わかった。わかった、もういい、クロウ。

 ああ、お前のいい方にしてやる。その替わり生きて帰れたらお前の失態のことも部隊長に報告するからな。

 瞬間、自分が青冷めたのを自覚して、クロウは震えた。それは騎士を目指して戦を勝ち上がりたいと考えている青年にとってはまさしく恐喝であったのだ。

 彼がそれを知らないはずはなかった。彼もまた、クロウとも同じく騎士位へ叙されることを目標においているからだ。

 それは、とクロウは低く呻いた。脅迫に屈するのかと自分を苦く思ったが、騎士になることは結果を出すということだ。剣の道で生きると豪語して家を出た手前、騎士になれない、などという事態は論外だ。

 あんなほんの些細な手違いで。

 わかった、と今度はクロウが言う番だった。

 済まなかった。

 一瞬遅れて付け足した言葉に、彼は微かに笑った。満足そうな笑みだと思った瞬間、今までの苛立ちと膝をおった不服がクロウの中の堤防を切った。──決断、というよりは見切る瞬間だった。

 やがて道のりを過ぎてどうやら味方の陣だと思われる明かりを山の中程から川の向こうに確認した時、彼は勝ち誇ったようにほら、と指した。それさえ気に入らなかった。

 お前と一緒で良かったよ、と彼はそんなことさえ言った。

 クロウはそれには答えなかった。もう決意を固めていて、それを動かすような事象は何も欲しくなかった。

 彼はこの逃避行の無様な始まり具合が自分にあると話すだろうか。いや、今話さなかったとしてもいずれそれを降りかざしてクロウに卑屈を要求するのは目に見えている。

 どうした、と彼は言った。振り返った彼は気楽に、そして気安く笑っている。あの瞬間の脅迫が嘘のように。だが、どちらが本当なのか。……善人が悪を装うには無理があるが、偽善ならば誰にでも出来る……

 もうすぐ国境だ、生きて帰るというのはいいね。お前も早く結婚しろよ、待ってくれる人がいるというのは本当にいいもんだ。

 彼が結婚して間もない事は知っている。だがそんなことさえ静かな怒りに変わった。

 彼は目を細めて笑っていた。その瞬間まで。

 いや、その時さえ、彼はクロウが自分に何をしたのかをわからないというように微笑んでいた。

 それは絶望ではなく、激しい憎しみでも怒りでもなかった。ただ一度しばたいたがあまりに無邪気な疑問に満ちていて、胸のどこかに貼り付いている。

 それは何が起ったのかを理解していない、死ぬ直前の獣の目だ。

 何故、と彼は呟いた。

 悲鳴でもなく憎悪ですらなかった。

 彼のぽかんとした表情はひどく間が抜けており酷く苛立たしかった。

 彼の胸からずるりと剣を抜くとあっけなく崩れてクロウの足元へと体が転がった。

 その体がぴしゃりと泥を跳ねあげた小さな音が雨に混じって耳に届いた瞬間、クロウははっとして思わず後ずさった。彼はもう動かなかった。

 俺は裏切った....のか。彼を。あの瞬間何の警戒もなくクロウに背を向けていた彼を。

 無抵抗というよりは信じられないというような顔だった。

 クロウは急激に上がってきた怖気に自分を抱いた。彼の遺体をどうしよう。何と言い訳しよう。

 うろたえながら味方の陣の明かりを見つめていたとき、回答は真実魔物に取り入れられたようにはっきり脳裏に浮かんだのだった。

 ……彼は残党狩りの手にかかった。逃げ出したが手前で力尽きた。この陣が見えていたのでせめて遺体だけでもと思い、そのまま連れて帰陣した。

 そのクロウの物語を疑う者はいなかった。

 彼の葬式には出なかった。彼の残した妻は主人を看取ってくれた方に是非と言ったが、そんな気分にはならなかった。

 クロウはそれを断り、しばらくの日をおいてから新しい彼の墓へと訪れた。

 墓地には誰もいなかった。ただ墓に添えられた小さな花が雨にうたれて震えている。

 雨が降っている。凍えたように小刻みに震えている。立ち尽くした大地、穿たれた杭のようにただ一人だ。

 目を閉じよ。

 内部神経が雨のように優しく唄っている。

 深く──深く、目を閉じよ。呼吸を止めよ。

 従わなくては生きて行けない。そうしろと囁く声は甘たるいぬくみに満ちている。

 目を閉じ、呼吸を止め、視界を閉ざして息を殺せ。そうすれば見なくて済む。直視しないで済む。

 全てを、世界を、人の世の争いも、醜い自分自身も、裏切りだけの人生でも、足元へ横たわる、意志を以って見つめて返してきたはずの眼差しの虚ろさも。

 全て、忘れることができる。

 けれど、それも一瞬だけの所作だった。

 追いかけてくる残像を振り切ることは完全には出来なかった。雨の音が耳を叩く度に彼のぽかんとした言葉が甦る。

 何故。

 そして、それに答える明確な理由をクロウは何も持ってはいないのだった。



 クロウは剣を横へ置き、片膝をついて頭を垂れた。太い声がクロウ・カイエン、と彼の名を呼んだ。

 一段と低く伏したクロウの頭上でその声が淡々と続けた。

「本日をもってディディアール家騎士団副長として、改めて召し抱える。待遇については追って沙汰する。帝国上級騎士位の推薦を与える」

「ありがたきご配慮の数々、肝に命じます。非才の身ながら一層の献身を閣下とディディアール家の為に捧げる覚悟にございます」

 クロウは答えて顔をあげた。

 前に立つ男の、老年にさしかかった年齢が作る皮膚のしわが窓を背にした逆光で更に深い亀裂に見えた。

 閣下、とクロウは言った。将軍はゆるやかに首を振った。クロウの言葉を拒否するのではなく、それは将軍自身の疲労の為だった。

 いや、と将軍は軽く手を挙げて続けた。

「そなたの働きには満足している。……あれのことを宜しく頼む。正直どう扱ってよいのか、分からぬのよ……」

 クロウは黙ってまた深く沈頭した。

 グラッシアは脱出行以来、具合が良くない。

 最初の十日ほどは将軍もじめじめと戦場を支配した雨にやられたかとさほど重大視していなかったが、それがもう一月半を越した。

 いや、それが文字どおり寝台の住人であるならいいのだろう。

 グラッシアは殆ど他人をよせつけず、苛々の空気を噛み殺しながら一人の世界へ篭るようになっている。

 人が変わったようだと、屋敷の誰もが言った。理由を知っているかと聞かれてクロウは色々なことがございましたからと最低限のことしか答えなかったが、それでも将軍は理由に見えるものを共有しているクロウを愛息の側につけることを決断したのだ。

 クロウはグラッシアを守り戦場を離脱してきた功績によって昇格を得たが、グラッシアの命を救った報奨ではなく、むしろ息子の未来を支えて欲しいとの将軍の親としての祈りなのだった。

 頼む、と再び将軍はつぶやいた。

 それに頷きながら、クロウは窓の外の、よく晴れた紺碧の空を見上げる。

 季節が移れば、空の色は鮮やかに変わる。

 だがグラッシアの胸の中にはその美しい青はない。

 じめつく雨が、未だに降り続いている。



 やあ、とクロウを見て薄い微笑みを浮かべたグラッシアは確かに良くなかった。極端に痩せているし、第一、そげた頬にまつわる陰の色が酷く重い。眼光も強くはないがぞっとするほど深い闇が降りている感触があった。

 クロウはその顔を一瞬直視出来ずに下を向いた。これならまだ、最初に山中の洞窟へ逃げ込んだ時の青い顔の方がましだ。

 グラッシアは窓の側におかれた豪華な寝台の上で起きあがってぼんやり外を見ていたようだった。

 父上からきいたよ、とグラッシアはクロウを見ずに言った。クロウは頷き、お加減はいかがです、と聞いた。

 グラッシアはうっすらと笑い、そして沈黙した。笑みは限りなく暗い自嘲に似ていた。

 クロウは若、と出来るだけ優しい口調で言った。グラッシアは曖昧に頷いたがその瞳にあるのは沈痛でさえ足らない傷であった。

 若、とクロウはもう一度同じような声を出した。

「……あの事は、もうお気になさらないで。あれはあれで正しかった。若ができなければ私が致しました」

 グラッシアは小さく頷く。納得などしていないのはその表情でも明らかだった。

 それでも肯定したのはグラッシア本人がそう思い込みたいからだ。クロウ、と微かに震える声が呼んだ。

「私は……彼の事を、裏切ったのか」

 一瞬クロウは答える言葉を持たない。

 グラッシアは暫く沈黙を守っていたが、やがてゆるく首を振った。

「彼が……何故と言う夢を見る、クロウ……何故と、そう聞くんだ。けれど……一番辛いのはそれが素直な疑問でも私が裏切ったことへの憎悪でもないことなんだよ……」

 グラッシアの声は限界に低く、かすれている。クロウはあの雨の中で身を折って泣いていた彼の、後悔の時間の長さをじっと思い返している。

 裏切りは卑怯だと解っている。

 それが戦略のことであるなら心は少しも痛まないが、一番胸を斬りつけてくるのは他人の無邪気な信頼を、償いようのない形でつき放した時でないか。

 グラッシアの痛みは良くわかる。それは似たような過去を殺して生きてきたクロウだけの痛覚だ。

 何故、と聞かれて一番辛いのは?

 それは、自分自身にもその衝動の泉がどこにあったのかを分からない時?

 それとも、自身に理由に見えるものがなかった時?

 それとも……理由に見えるもっともらしいものが全て言い訳だと分かっている時?

(違う……)

 その答えは全て、間違っている。

 一番辛いのは、言い訳を繰り返して自分に擦り込みながら、やがてそれを事実のように自分に擬態させることが出来た時。

 生き汚い自分を許してやりたくて、何故というその疑問にすらすらと答を用意できた、その瞬間。

 クロウは深い呼吸をして、若、と言い、グラッシアの返答を待たずに誰にも話さずにきた過去の封印を、自分の言葉でゆるやかに解いていった。



 のどかな午後だった。風を入れる為に細く開けた窓の隙間から流れてくる空気が暖かな熱をはらんでいる。

 クロウは自分の話を終えて唇を閉じた。グラッシアは黙っている。クロウもまた、話すべきことは無くして沈黙している。

 黙ったままの昼下がりを、蜜蜂が仲間を呼ぶ羽音が音楽のように歌う。窓から見下ろす庭園の夏薔薇、真紅の大輪たち。目に鮮やかで濃い芝生の緑。

 けれどその美しい光景は目を閉じた途端に消え去って、暗い濃紫色の空を裂く雷光と細く降る銀の雨が支配を始める。

 それは自分の心にある限り消えない。

 目を閉じると囁きはじめる。

 罪人よ。

 お前の犯した罪に真実罰を与えるならば、それはお前の心だと。

 不意に自分の名が呼ばれた。グラッシアがゆっくり顔をあげてクロウへ視線を与えた。

 浮いている色味にクロウははっとする。それは確かに同情と哀れみだったからだ。

「お前は……可哀相な男だね……」

 何を哀れまれているのか理解してクロウは顔を歪めた。自分の中に裏切りを飼い続け、正当化することでしか生きられなかったことに同情し、グラッシアに共感を訴えたこと、その痛みをなめ合う相手を持たなかったことを哀れんでいる。

 クロウはきつく目を閉じた。

「しかし、私はそうすることでしか生き残れなかった。あなたがお父上の名誉を遵守されたように」

「そう……だね。お前と私はとても似たことを知っているんだとは思うよ。でも」

 グラッシアはクロウから顔を背けて口元を押さえた。

 蜜蜂の歌う平穏が嗚咽にかき消された。

「私は、忘れられない。どうしても……どうしても……忘れることなど、出来ない。私は、お前と違う、出来ない、出来ないんだ……」

 お前は汚いと烙印を押していることにグラッシアは気付いていないようだった。だがクロウにはその方がこたえた。胸がつまる。

 一度は記憶を都合よく塗りかえた過去の罪が降り注ぐ雨の冷たさに肌に甦ってくる。

 クロウはあの降り止まぬ雨の底冷えを体温で思い返してぶるりと一つ震えた。

 グラッシアが毛布を握り締めていた手を額にやった。

 痩せ極まった両手で顔を覆い、グラッシアは呟いた。

「彼の体が落ちた時、泥の音がしただろう?それが耳にこびりついて取れない、クロウ、どうしたらいい、一体どうしたら? 雨音や水音がずっと……耳から消えないんだ。どうしたらいい、クロウ、教えてくれ……私は、まだ、あの雨の中にいるような気がしてならないんだ……」

 クロウには、やはり返答が出来なかった。

 黙っているとグラッシアは答えなくてもいいよ、と首を振った。

「私とお前は違うんだ。そういうことなんだな……」

 クロウはグラッシアの目に浮いた虚ろな闇と、その中に降る、その場を永久に去らないだろう遣らずの雨を見た。

 天候は神のものだ。誰にもどうにも出来ない。

 この瞬間、クロウはグラッシアの天運が雨の戦場に置き捨てられたことを肌で理解した。

 グラッシア・ディディアールが精神失調から食事を取れなくなり死に至ったのは、ここから二ヶ月ほど先の事である。



 雨が降っている。どこまでも続く死体の道の先に一人、男が見事な紅剣を杖に体を支えようともがいているが、既に右足はちぎれて無く、腹からも赤黒いはらわたがこぼれ、はみ出している。

 それさえ引きずりながら男は低い喘ぎとも呼吸とも、それともうわごとともつかぬものを呟き続けている。

 駆け寄ってきた騎士が覚悟、と叫んで剣を降り下ろした。男は何かを呟きながら倒れ、紅剣が地面を叩く小さな金属音がした。

 騎士はその一撃がどうやら致命傷になることを確信し、男の側に膝をついた。

 形見を、と言うと男は濁った視線を騎士に向けた。

「剣を……」

 掠れ声が最期の望みを絞りだした。

「剣を、捨てて……」

 剣を、と騎士は彼が握り締めている紅剣を見る。刃身の鮮やかな形といい、鞘の精緻な細工といい、捨ててしまうにはあまりに惜しい剣ではあった。

 だが望みである以上は仕方がない。騎士は若干のもの惜しさを押し込んでわかったと頷いてみせた。

 男は安堵したように表情をゆるめ、まっすぐに死へと進んで目を閉じた。

 騎士は死んだ男の手から剣をもぎ取ってほんの少し、未練に見た。

 良い剣だった。捨てるのには惜しい、欲しいという声を微かに身内に聞くが、騎士の誓いは末期であれば神聖だと信じている程度に彼はまだ若かった。

 騎士は剣を思いきり草むら遠くへ投げ捨て、それまで自分たちを散々苦しめた狂騎士クロウ・カイエンの首をかき落とすと、戦功を誇るために自陣へ向けて歩き始めた。


【終】

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