残り火

天笠愛雅

彩羽と零斗

 懐かしい顔。

忘れるはずもない、私が想い続けた彼。

永遠に忘れ去られようとしていたその想いは、再び燃え始めた。

 高校からの帰り、電車に揺られながらぼーっとスマホをいじって最寄り駅に着くまでの暇を潰していた。

スマホの左上に表示されている時計は十九時五十分を示している。

部活の後の上、外はすっかり暗くなったこの時間、さすがに疲れは隠せない。

この時間帯の上りの電車は空いていて、端っこの席に座れるのが幸いだ。

もしそうでなかったら、隣の知らない人の肩にお世話になることになる。

最寄りはもうすぐなのだが睡魔が襲ってくる。

睡魔に負けないよう、インスタを必死に見漁るのが私の日課だ。

そして、朦朧とする意識の中、私は運命を変える投稿を見ることになる。

見覚えのある、というレベルじゃない。

私が小学生のころずっと好きだった男の子。

名前は、新川零斗しんかわれいと

とてもスポーツができて、格好良く、女の子にかなりモテていた。

私のことなど見向きもしてくれていなかっただろうけど。

その彼と、私がなんとなくフォローしている人が、写真を撮って投稿していた。

小学校の卒業式、私は彼に告白することを決めていた。

最後の年は奇跡的に同じクラスだった。

彼とは遠い存在と思われるかもしれないいが、私と彼はかなり仲が良かったと思う。

喧嘩とかもよくしたけれど、たくさん話をしたり遊んだりもした。普段から男女の友達として遊んでいた。

五年生の時、運動会で活躍する彼を見て初めて気づいた自分の想い。

それをぶつけるのは卒業式。それしかないのだ。

私は中学受験をした。合格してとても嬉しかった。

だけど彼と離れてしまうことが、嬉しい気持ちを上回って悲しかった。

気持ちを抱き続けて悲しいと思うのなら、当たって砕けた方が良い。

当時の私はそう考えていた。

想いを伝えるため、式が終わってみんなが泣いたり笑ったり思い出を語ったりする中、私は彼を探した。

いつもいる男子のグループにいるだろうと思っていたのだけれど、そこに姿はなかった。

教室中を見渡しても彼の姿はなかった。

どこかに行っているのかなと思って廊下に出てみた。

すると、廊下の突き当り、階段の前に彼はいた。

だが、一人ではなかった。

「ずっと好きでした!」

数教室分離れていた私の耳にもはっきりと聞こえる彼の声がそう言っていた。

彼が、零斗が、隣のクラスの女の子に…。

それからの彼らを見ていた記憶はない。

その現実から目を背けたかった私がその場から逃げたのかもしれないし、あまりのショックで本能的に忘れたのかもしれない。

他の女の子、しかも可愛くてモテる女の子のことが好きだった男の子に告白する勇気はない。

私は教室の自分の席に座り泣いた。別れを惜しんで泣くふりをした。

正確に言えば別れは惜しいのだ。彼との、新川零斗との。

「なに泣いてるの?」

「うっさい」

それが彼との最後の会話だった。

 あれから五年ちょっと経った。今となっては思い出に過ぎない。

けれど想いは冷めることなく燻り続けていたのだろう。

すぐに再燃した。

火はとても危ない。完全に鎮火しなければ、どれほど小さな火種でもいとも簡単に大きくなる。

小学生で時が止まっていた彼の姿は、高校生らしく格好良く大人びていた。

彼のアカウントが投稿にタグ付けされていて、それを見てもはや眠気など気にするまでもないほど鼓動が速くなっていた。

高校生にしては珍しくアカウントに鍵が掛かっていない。

プロフィールには県内でも有数のスポーツ校の名と学年、陸上競技の文字が書かれている。

投稿は、友達との写真や大会の報告など、私が彼のことを知らなかった間のことが詰め込まれていた。

まだ会ってもいないのに、私の中では勝手に再会したような気でいた。

落ち着いて一つ一つの投稿を見ればいいものを、私はまるでビュッフェで少しずつたくさんのものを取り、収拾のつかなくなった皿のようになっていた。

彼の画像に釘付けになっていた私を、電車のアナウンスは現実に引き戻す。

スマホの画面から目を引き剥がし、電車から降りる準備をする。

リュックを持つ手がおぼつかない。

彼のことで頭がいっぱいになっているから。

電車から降りると、目が勝手にいるはずもない彼のことを探していた。

いたとしても私のことなど覚えているかも分からないのに。

改札を出て、いつもの駅からの帰路も、どこか、というより全く違う道や景色のように見えた。

彼のことを考えていると関係ない人まで彼のように見えてくる。友達との待ち合わせでもよくあることだ。

部活終わりっぽい男子や、駅のロータリーに集まるグループ、カフェにいるカップルの高校生を目が勝手に追う。

そんなことをしていると、いつもは疲れていて長く感じる帰路も一瞬だった。

「ただいまぁ」

家に着くと母が二階から「おかえりー」と言ってくれた。

いつもは料理の支度をしていて下に下りてはこないのだがなぜか今日は下りてきた。

「おかえり…。なんかあった?」

母というものは子の変化に敏感なのだろう。

「別に」

特に母が嫌だった訳でもないが素っ気なくなってしまった。

母は、「そう、なら良いんだけど」と寂しそうに言って戻って行った。

申し訳ない言い方だったが母にわざわざ言うことでもない。

湯船に浸かりながら、私は彼の写真を改めて見た。

投稿を見る限り、彼は中学時代に陸上でかなりいい成績だったらしく、それで陸上の強い高校に進学したようだ。

「すごいなぁ」

風呂場で一人呟いた。

私は、再来した眠気とお湯の温かさと彼への気持ちがブレンドされて催眠状態のようになり、何を思ったかアカウントをフォローしていた。

よく考えれば好意を寄せる男子のアカウントをフォローするという行為はとんでもないのだけれど、それよりも私は、眠気で湯船にスマホを落としそうになっていたので、頭を振りながら「やばいやばい」と言って体を洗いお風呂を出た。


懐かしい顔。

最後見たのは小学生の頃の顔。

女子高生らしく、大人っぽく、そして美人になっていた。

「あー、彩羽いろは?なっつ」

「勝手に見んなって」

フォローされた彩羽の写真を見ていると、中学時代の親友の悠馬ゆうまが僕のスマホを覗いてきた。

今日は中学時代の仲良かったグループで久しぶりの集まりだ。

「彩羽ってあの彩羽ちゃん?」

女子の友人、佳純かすみが悠馬に訊く。

「そうそう、なんかインスタ見てんの」

「いや、違くて。違くはないけど…」

「可愛いよねぇ。元気にしてるかな」

佳純がしみじみと言う。

そんな言い方になるのも仕方ない。最後に会ったのは五年くらい前なのだから。

「全然見かけないよな」

僕は週六で駅に行くし、最寄りも彩羽と同じはずなのに一回も見かけたことがない。

謎の力が働いているかのように。

「私は時々見るよ。まあ話したりはないんだけどね」

これもまた女子の友人である未琴みことは会うと言う。なるほど、全く時間が違うのか。

僕は朝練がある日もない日もとりあえず早めに登校する。

対して未琴の学校は比較的近めだ。彼女も同じくらいの距離なのだろう。だから会わない。

「なんならさっき私たちが駅で集まってた時にいたけどね」

「いたのかよ」

 小学生の頃は彩羽とよく一緒にいた記憶がある。

幼稚園も同じだったが特に仲良くなったのは小学校の時だと記憶している。

何でも言い合える仲で、今思えばそういう関係がいかに貴重だったか身に染みて分かる。

今のクラスの女子と接するときは気を遣わなくてはいけないし、あからさまに好意を向けてくる奴もいる。

正直、部活に集中したいから恋愛とかは興味ない。

果たして本当に恋愛に興味が無いのか、それとも好みの女子がいないからそのような言い訳をして恋愛を避けているのか、自分には分からない。

ただクラスに友達と言えるような女子はいないし、絡むのはほとんどが男だ。

まあさすがに僕も男子高校生だから女子と話したい時だってあるけれど。

だからこそ彩羽のような存在は欲しくある。

僕は他の三人にバレない様にそっと彼女のアカウントをフォローした。

「零斗、乾杯してよ」

悠馬が無茶ぶりを投げてきた。

「お前がやれ!」


 不味い。

いつもはペロッと余裕で食べてしまう母の手作りハンバーグが不味い。

余計なことを考えれば考えるほど喉を通らない。

「やっぱ体調でも悪いの?」

母が心配してくる。

「ううん、大丈夫」

大丈夫。体調は別に悪くない。

ただご飯が喉を通らないのだ。

箸の先にちょっとだけハンバーグの欠片を乗せて口へ運ぶ。

だが、それだけでも食べるのがきつい。

理由は分かっている。

彼のことが頭から離れないから。

けれど、この感覚は初めてではない。

彼と仲が良かったのは小学生の頃である。

もし彼と出会ったのが中学や高校だったら今は変わっていたのだろうか。

小学校低学年の私は、いくら彼のことが好きだろうが、小学生なりのアプローチしかできなかった。

彼のものを隠したり意地悪なことを言ったり、よくある「好きな子をいじめる」やつだ。

それを私は懲りずに毎日のようにやっていた。

彼を泣かしてしまって先生に怒られたこともある。

そういう関係だったから最終的には何でも言い合える仲になったのかもしれないけれど、私としては不満である。

意地悪を続ける日々。そんな中、当時一番仲の良かった女の子、未琴に言われたことがある。

「もしかして、零斗くんのこと好き?」

私ははっとした。

よく聞く、誰が誰を好きという会話の「誰が」が私?と。

その時は「そんな訳ないでしょ」と無邪気に言い返したつもりだったが、年月が経ち、小五の私は気づいてしまった。

零斗のことが好き。

その日の残りの授業中、私は少し離れた右前の方に座っている彼のことをずっと見ていた。

時々目が合ってはすっと逸らして。

結局その気持ちを抱き続けたまま六年でも同じクラスになった。

六年生ともなれば心も徐々に大人になっていく時期だ。

恋というものも嘘か真か区別がつく。

けれど私の恋は本物だったらしく、「また一緒のクラスかよ」と嫌そうに言われたときは嬉しくも悲しくもあった。

一緒のクラスになって話し掛けてくれたという事実と、本当に嫌がられているかもしれないという想像。

少し大人びた子供の心は単純には量れないものだった。

そしてその日の夕食もなかなか喉を通らなかった。

初めての経験で、その時は病気なんじゃないかと思ったほどだ。

父にも母にも心配された。

その日は早めにベッドに入った。

そして、今日も。

夕食を残し食卓を立つと、寝る準備をすぐに済ませて一目散にベッドへ向かった。

部屋には風呂上りに心を落ち着かせるために炊いたキャンドルの香りがまだ漂っている。

早く寝ようと思いスマホからは手を引いた。

もう少し彼の投稿を見たいが、見たら絶対に寝られなくなると確信があったからだ。

ただ、残念ながら見ても見なくても同じことで、結局頭の中で考えてしまう。

想像や妄想が勝手に膨らみ、寝たい時に限って先ほどの眠気は姿を現さないのだ。逆に目が冴える。

リラックスのためのキャンドルの香りもとうに消えていた。

 「ちょっとー、ボール行ったよ!」

寝たか寝てないかも分からないくらいの睡眠をし、気が付いたら学校にいた。

今日は日曜、部活が朝からあった。

目の前を白い物体が転がって行った気がする。

「彩羽!体調悪いの?」

自分の名前を呼ばれて現実に引き戻された。

「あ、ごめん。大丈夫」

「無理しないでね。最近暑くなってきてるし」

「うん、ありがとう」

私は足元に転がっているボールを蹴り返した。

そろそろ最後のインターハイの地区予選が始まる。

私たちのサッカー部は毎年県大会の決勝に勝ち進む、いわば強豪校だ。

私はキーパー。ほとんど仕事はこない。

シュートされる前に味方が全て防いでくれるから。

私の頭はボールなんかより、彼にフォローを返されたことでいっぱいいっぱいだった。

朝、カーテンの隙間から差し込む朝日に起こされ、かつ睡眠不足で気分が悪い中スマホの電源を点けるとインスタの通知があった。

朝で日本中の人の血圧が低いときに、私の血液は恐ろしい速度で心臓から送り出された。

私のアカウントを彼がフォローバックしてくれたのだ。

彼が私をフォローするのは星の中の一つを見るにすぎないだろう。しかし、彼は私にとって太陽のような存在。

そんなことを思いながら部活をしに学校まで来たけれど、結局まだ何もアクションはしていない。

普通の恋する女子なら、ここで一発メッセージ何か送るだろうが私にはできなかった。

まさか恋までもキーパーだったとは自分でも笑えてくる。

なぜ送れないか。

忘れられているのが怖い。

気持ち悪がられるのが嫌。

私には、彼の投稿やストーリーをこそこそ見ることしかできない。

昔とは違う、遠い遠い場所から。


 へぇ、サッカーやってるんだ。かっこいいな。

小学校時代、特に何もやっていなかった彼女がサッカーをしているなど想像ができない。

確かに僕と喧嘩したり、時には外で追いかけっこをしたりと何かとボーイッシュだったからおかしくはないのかもしれないけれど。

話したいこともあるしDMでも送ってみるか。

「おい、時間だぞ」

「あ、すまん」

彩羽にDMを送ろうと思ったのだが、ちょうど集合の時間になり、チームメイトから部室を出ろと言われてしまった。

スマホをバッグにしまい、練習用の靴を履いて僕はグラウンドへ向かった。

「今日は暑いけど頑張って!」

話し掛けてきたのは小中学時代の友人、そして陸上部のマネージャーである佳純だった。

「今日ほぼ寝てないからなぁ、やばいかも」

昨日は夜の十時くらいまで佳純たちと食事をした後、帰って色々しているうちに、気が付いたら今日になっていたのだ。

ゲームのイベントが終わらなかったというしょうもない理由なのだが。

そして目が冴えてしまい、よく眠れなかった。

「もう、またー。自覚持ってよね、地区は余裕だろうけどさ」

「まあな」

佳純の言う通り、地区大会は余裕で通過できる。調整の一環に過ぎない。

本当の勝負はインターハイ本戦だ。

推薦でこの学校に入った限り、結果を残さない訳にはいかない。

「そうだ、今日さ、うち来てよ。どうせ暇でしょ?」

他の女子の誘いなら確実に断るが、佳純だと行くかどうか考えるまでには至る。

この学校唯一の幼なじみだから。

「あぁ、考えとくよ。ゲーム…」

「ゲームしなきゃいけないのは分かってるって」

昔から一緒だとそのくらいのことは分かるようだ。

 練習はそこまできつくなかったので睡眠不足でも耐えることができた。

部活後の日曜の午後ほど気持ちのいい時間は無いと思っている。

早めに部活が終わったらなおさらだ。

「今日は飯パスで」

休みの日は大体チームメイトで昼ご飯を食べに行く。

「なんだよ、久しぶりにあそこの家系に行こうと思ってたのに」

僕は結構そこの家系ラーメンが好きだったが、今日は佳純と食べに行くと約束してしまったので仕方ない。

 「お待たせ」

部室の壁にもたれ、鞄を両腕で抱いて待ってくれていた佳純に声を掛け、とりあえず帰路につく。

「どこに行こうか」

「駅前に新しいカフェができたらしいんだけど行ってみない?」

「練習後にカフェかー。微妙だな」

練習後にパンケーキみたいな甘いものは体が受け付けない。

「じゃあどこが良いの?」

「なんでもいい」

「最悪。じゃあカフェでいいじゃん」

「やだ」

「もういい、スーパー行こ」

「は?弁当でも買うの?」

その時僕は、本気で弁当とかお総菜を買うのだと思っていた。

けれど、地元のスーパーに着いて、彼女が向かったのはお総菜コーナーではなかった。

「どれがいい?」

訊いてきたのはパスタのソースだ。

まさか家で作ってくれるというのか。

僕はそれを訊かず、迷わず普通のトマトソースを指さした。

 佳純の家に着いてからというもの、彼女は手を洗ってからすぐにキッチンへ向かいパスタの準備を始めた。

僕は、そこに座っててと言われたダイニングの木製の椅子に腰を掛けて彼女のパスタの完成を待つことにした。

幼なじみと言ってもお互い年頃だし、女の子の家など普段いかないから何をしていいかも分からず、ただ黙って時間が経つのを待つしかなかった。

普段ならこんな時間、ゲームして潰すのに。

だが、パスタが完成するのにそう時間はかからなかった。

黄色と赤の色彩はいつ見ても食欲を増進させる。

ガーリックの香りもまたそれを助長する。

「お待たせ。なんだかんだでこんな時間になっちゃったけど」

白い壁に架かるアナログ時計は、もう二時を指そうとしている。

「仕方ないよ。作ってくれてありがとう」

「私が作りたかったから。ほら、食べよ」

僕は、いただきますと言い、フォークで麺にソースをしっかりと絡ませ、フォークに巻いて口に運んだ。

家で母が作ってくれる味と同じだ。

そりゃあ市販のトマトソースを使っているのだし当たり前かもしれないが、どこか安心感のようなものを感じた。

「美味しい?」

佳純はまだ自分の食事には手を付けず、僕が食べるのを待っていた。

「うん、めっちゃ美味しい」

「良かった。いただきまーす」

佳純も食べ始め、そこから二人が食べ終わるまでまた沈黙の時間が訪れた。


 意識することって実はとんでもない力が秘められてるのかもしれない。

前を歩く男子高校生は、絶対に新川零斗なのだ。

私も彼も成長し、顔も体つきも変わってしまった。

けれど、私には分かる。

直感が言っている。彼は新川零斗だと。

だが、彼を見ることができて嬉しいとは思えなかった。

彼の隣には女の子がいて、私は彼女のことも知っている。

名前は、上原佳純。

小学校時代の友達だ。

彼女とは特に仲が良かったという訳ではないが、悪い訳でもなかった。

ただ、彼女もまた零斗に思いを寄せているということはなんとなく聞いていたし、その立ち振る舞いからも分かっていた。

まさかそんな彼女が今、彼の隣に、しかも同じ高校にいるなんて。

恐怖すら感じた。

女の執着はここまでのものなのかと。

私は行けるところまで彼らに自然な感じで付いて行き、どのような関係なのか探った。

彼らはスーパーに入って行った。

スーパーなんて高校生のカップルは行かないだろう。

私はただあの二人がまるで夫婦のような仲ではないようにと願うことしかできなかった。

家に帰って私は自分の部屋のベッドの上で泣いた。

外では我慢していた分、とめどなく涙が溢れてくる。

「女の執着」

それは、恐ろしくも、可愛らしくも、儚くもある。

男への愛は裏を返せば支配欲に過ぎない。

私のものにしたいという、アクセサリー感覚でもある。

けれど、私は違う。

違う…。

 いつの間にか寝てしまっていたみたいだ。

瞼が平常時の半分くらいしか開かない。

そうだ、私は泣いたのだ。

体を起こすと、ズキンという鈍い頭痛がした。

昼食も食べていないし、肉体的にも精神的にも疲労のある最悪の目覚めだ。

ただ、いくらかは冷静になれた。

良い冷静さとは言えないかもしれないが。

何で彼のためにそんな一喜一憂しているのか分からなくなってきた。

彼以外だって男の子は星の数ほどいる。

太陽を掴めない女性なんてこの世に溢れかえるほどいるだろう。

私はその女性の中の一人に過ぎない。

そんなぐれた気持ちの中でも、私は自然とインスタを開いた。

彼のストーリーが更新されている。

パスタの写真だ。二人分の。

もう私は何も思わなかった。

いいじゃない、彼が何をしていようと私には関係ないのだから。


 腕が痺れている。

一瞬僕は授業中に寝てしまったのかと思った。

けれどそれは違った。

背中に感じる温かさ。毛布だ。

学校では感じることの無い温もりは、僕に気持ちの良い目覚めを提供してくれた。

テーブルに突っ伏した状態から顔を上げると、部屋には夕日が差し込んでいた。

それと下着姿の佳純が。

…?!

「ごめん!」

僕は元の姿勢に戻った。

痺れた腕に頭が当たり電撃が走ったがそれどころではなかった。

「あ、私こそごめんね。気にしないで。零斗が起きないからお風呂入っちゃったの」

気にしないのはいくら何でも無理があるだろう。というか、彼女は立派な女子高生であるのに、猿のような男子高校生にそんな姿を見られて何も思わないのだろうか。

…慣れている?

そんな考えが頭をよぎった。

「分かったから服着てくれないか?」

「あ、うん、着たよ」

僕は安心し再び顔を上げる。

そこには男子にとっては下着だろ、と思えるような薄着の佳純がいたが、これ以上何か言っても逆に意識していると思われるかもしれないので言及は避けた。

「はぁ、びっくりした」

「ふふ、ごめん」

まるで僕をからかうかのようにいたずらっぽい笑みを浮かべる佳純。

「でもさ、お互い成長したと思わない?」

今それを言うか。色々意識してしまうだろ。

「そう…だね」

「零斗も筋肉ついてるし」

佳純が僕の身体を舐めるように見ているのは分かっているが絶対に目を合わせてはいけないような気がして必死に目を逸らした。

「ねぇ、零斗…」

「ごめん!用事あったんだった!今日はありがとう帰るね」

何か佳純は言おうとしていたが、僕はその場の空気に耐えられなくなって、逃げるように佳純の家を後にした。

「やばすぎ」

初夏の夕空の下、変な体験をした僕はぽつりと呟いた。

そういえば、今日佳純が僕を家に呼んだ理由は何だったのだろう。

まさかあれが目的なわけでもあるまいし。

けれど、家に帰って風呂に入ったとき、頭の中には先ほどの佳純の形しかなかった。

それから約一週間が経った。とある月曜日、今日は陸上の地区大会最終日だ。

天候は晴れ。雲一つない晴天だ。

競技場では長距離種目を応援する声が響き渡る。

一方、各校がテントを張るスペースでは、そんな競技場と打って変わって様々な感情が渦巻いていた。

勝って喜ぶ者、負けて悔しがる者、選手を想いサポートをする者…

「やっぱ余裕だったね」

「うん、結構タイムも悪くなかったし良いと思う」

二百メートルの決勝に勝利した僕は、チームメイトが他に誰もいないテントで佳純に脚を氷でアイシングしてもらっていた。

「これ、飲んでおいて」

「うん、ありがとう」

僕は走った後に某健康栄養食品メーカーの錠剤を飲み、早めの回復に努めるようにしている。

それを佳純から受け取り、水で流し込んだ。

「ほんと脚太くなったよね」

「そりゃあ練習してればそうなるよ」

「昔は細かったのに」

「昔っていつだよ」

「小学生の時。細かったのに足だけは速かったんだから」

「『だけ』は余計だろ」

「ふふ、ごめん」

地区大会で余裕の試合だとは言え疲れるものは疲れる。

佳純にアイシングをされていたが眠くなり始めて、佳純の話も飛び飛びでしか耳に入らないようになってきた。

「眠いの?」

眠いことに気が付いた佳純が僕に尋ねてきたが、返事をする間もなく、僕はテントで眠りについた。


 陸上部がクラスにいない理由は大会だからだという。

つまり、私の学校と同じ地区の彼も今日は大会だということだ。

先日、陸上部の友達から彼の名を聞く機会があって私は驚いた。

最近は陸上の話を聞きたいのか、体が勝手に陸上部の友達に近づくようになっていた。

そこで新川零斗の名を聞いたのだ。

「新川くんは速すぎる。かっこいいし」

「彩羽って地元同じだよね?会わないの?」

会うとか会わないとかいう話がタイムリー過ぎて何か情報を握られているのではないかと少し緊張が走った。

こわばった口で、「会わないよ」と答えると、「そっかー、マジ紹介して欲しいんだけど」と友達は軽く言った。

駄目だよ、そんなこと。

彼の知名度を知ったのと共に、彼に好意を寄せている女子は少なくないことを知った。

いつまでもアクションを起こさなければ、彼が本当に手の届かない存在になってしまうのは時間の問題なのだ。

私なんか彼とはもう関係ないと思う反面、焦りも感じた。

けれど彼には彼女がいた。

私にはその仲を裂くような極悪非道はできない。

遠くから、また画面越しにしかそれを見守ることしかできない。

 だから私は決めた。

そしてその決断は、インスタを開いてから確定した。

彼のストーリーが更新されている。

どのような内容でもいいように私は様々な事態を想定した。

内容は、「アイシング」とテキストが書き込まれていて、女子と思われる手とうつ伏せになった彼が映っている写真だった。

一瞬気分が悪くなったが、意志は固かった。

彼へのDMを送る画面を開き、文章を打ち込んだ。


久しぶり!私のこと覚えてる?今日大会だったんだよね?クラスの友達からも零斗の名前聞いたんだけどすごいんだね!今度機会があったら会いたいな


自分で文字を打っているのだが、正直今何をしているのかが分からなかった。

私のものではない脳みそが確かな文字を打ち込んでいくようだ。

打った文を何度も見直して、間違いがないか、変なところはないか確かめた。

テストでもそんなに見直しをしないのに。

緊張なのか何によるものなのか分からない手の震え。鼓動。

彼に送っても問題ないと思われるメッセージを目の前にし、最後の迷いが出た。

また、忘れられているのではという恐怖が私を襲う。

だが、私は送信した。

本能でも意志でもない何かが私の指を動かした。

一瞬のうちに既読が付いた。


 さすがにこの状況はおかしい。

なぜ僕は佳純に膝枕をされているのか。

確かに僕はアイシングの最中に睡魔に負けて寝た。

だがそれは、この状況を生み出す理由には到底ならない。

けれど正直悪くない。

家の何年も使って煎餅のように薄く硬くなった枕とは比べ物にならないくらい上質だ。

「おはよう。零斗」

何の恥じらいもなく、佳純は僕の顔の真上から話し掛けてきた。

「あ…。おはよう…。あのー」

「いいの。このままでいて」

僕の疑問に対して佳純は答える気は無いようだ。

佳純の言葉に逆らい、僕は身体を起こした。

「おかしいよね。やっぱり」

自分の想いに反して起き上がったのが悲しかったのだろう。

あからさまに佳純の眉が下がった。

「おかしいっていうか…」

「ちょっと来て」

少しずつテントにも選手が来始めたので、佳純は僕を連れて公園の方へと向かって行った。

木で隠れて誰も人が来ないような所に着くと、佳純は言った。

「零斗、私と付き合わない?零斗の好きなようにさしてあげるから」

あまりにも突然の告白に僕は戸惑った。

意中の男以外にあのような行為はしないだろう。

確かになんとなく察しはついたけれど…。

僕は言った。

「うん、いいよ」


 メッセージを送り、既読が付いてから二時間経った。

もう周りは帰宅したり部活に行ったりする時間だ。

やはり彼は私のことなど忘れてしまったのだろう。

「知らない人」にあんなメッセージを送られてよほど気持ち悪かったのだろうか、彼に私のアカウントがブロックされていた。

時々彼に対してどうでもよくなることがある。

彼が私のことなどどうでも良いと思うのならばそこまでである。人の気持ちは簡単には動かせない。惚れ薬を使わない限り。

 彼との友達としての思い出は思い返せば思い返すほどある。

一番ドキドキしたのは林間学校のキャンプファイヤーで手をつないで踊ったことだ。

彼は嫌そうに私に右手を突き出していた。

その手を私は左手でゆっくりと握った。

他にも色々ある思い出はあるけれど、小学生までの思い出しかない。

彼は彼の道で思い出を積み重ね、私との古い思い出はその新たな思い出に押し潰されていったのだろう。

私だってそうだった。

彼のインスタを見つけなければこれから出会う人と一緒になって、やがて死んでいくだけだった。

だが、もし思い出が消えようとも想いまでは消えない。

私は体調不良だと顧問に連絡し、急いで駅へ向かい、帰りの電車に乗った。

いつもなら風景が変わっていくのが速く感じるが、今日は違った。

もっと速く。急がないと。

私は彼と約束もしてないのに、会えるとも限らないのに急いでいた。

自分が何をしようとしているのかとうとう本当に分からなくなってしまっていた。

だけどもうそれでいい。

運命だろうが直感だろうが、私を動かしてくれるならそれでいい。

あと一駅が遠い。

いつもの五倍くらいに感じる。

やっと車内アナウンスが流れた。

電車はホームに入って減速し始めた。

徐々にスピードを落としていくのももどかしい。

電車が止まりドアが開く。

私は改札へと急いだ。


 「ねえ零斗。今度どっか遊びに行こ」

「いいよ、どこがいい?」

「零斗が決めてもいいよ」

「そうだなぁ、水族館とか」

「いいね!行きたいかも」

「あ、もうすぐ着くね」

「ほんとだ。佳純と話してると一瞬だなぁ」

「ふふ、どういう意味?」

「楽しいのかな」

「私も」

「よし、降りよう。あ、スマホ忘れてるよ」

「危ない!ありがとう零斗」

「いえいえ。ねぇ佳純、手つなごうよ」


 彼は来る。絶対に。

少し話すだけでもいい。偶然を装えばいい。

とりあえず私が害の無い女だということを知ってさえもらえれば。

…来た。

前に見た彼と変わっていない。

と言うのが前に会ってから時間が経っていない人を見て思う台詞として一般的だから一瞬そう思ったのだが、明らかに彼の様子は違った。

魂が抜き取られて、そこに宿っていないような雰囲気だ。

はっきり言って異常だ。

だけどそれでもかまわない。

私は彼の前に立った。

「よ、零斗。覚えてる?」

零斗は変なものを見る目を私に向けた。まるで汚物を見るかのような。

それが六秒くらい続いた。

そして彼は言った。

「彩羽?」

その瞬間彼の魂がここに戻って来たような気がした。

「あれ、彩羽じゃん。久しぶりー」

その声に私の心臓がキュッと縮んだ。

零斗に会うことばかり考えていて上原佳純の存在を忘れていたのだ。

「あ…。佳純ちゃん。久しぶり」

「どうしたの?零斗に何か用でもあった?」

「いや…、たまたま会ったから」

「たまたまな訳ないよね。分かるよ」

なぜかこの女には何を言っても通用しない気がした。全てを知られているような。

「零斗。さっき手つなごうって言ったよね。ほらつなごうよー」

やっぱり二人は…。

「そうだよね。ごめん邪魔して」

これ以上無理に零斗に話し掛けたら佳純だけでなく零斗にまで煙たがられてしまうだろう。

もう、私にチャンスはない。これからもチャンスは無いと、いつもはポジティブな方向に働いていた直感もそう言っている。

「ねぇ、佳純」

「どうしたの、零斗」

「僕は何かの間違いで君の告白をOKしちゃったけど違ったみたい」

その瞬間三人の周りの空気だけが凍り付いた。

「どういうこと?」

「思い出したんだよ、小学生の時のこと」

「待って、ちょっと何?」

佳純がどこか焦っているように見える。

「卒業式の日に君が理不尽なゲームで僕を負かせて、未琴に嘘告白しろって女子のほとんどで僕に強要したこと」

それって、私が零斗への告白を諦めた日のこと?

あの零斗の告白が嘘だったってこと?

「あれはね、ノリじゃん」

佳純が軽い口調で零斗に言う。

「君らがノリだとしても僕は違ったよ。あの後僕はいやいや告白したさ。フラれたけどね。あの時は本当に悔しかった」

「昔の話じゃん。やめようよ」

佳純のさっきの焦りがさらに増している。

「うるさい!」

周囲の通行人が数名振り返るくらいの声で零斗は佳純に言い返した。

「何よ、彼女に向かって!」

「彼女なんかじゃない!また僕を陥れたくせに」

「なにそれ!?」

「まあまあ二人とも落ち着いてよ」

さすがに周囲の目が気になり始めたので私は二人を制した。

「てか彩羽どっか行ってよ」

怒りの矛先が私に向いてきて、やってしまったと思った。

恐る恐る零斗の顔を見ると彼もまた私を睨んでいた。

誰も何も言えない静寂が訪れた。

だが、数秒後に零斗が言った。

「僕がその日、本当に告白したかったのは彩羽だったんだ」

私は耳を疑った。

零斗が放った言葉は鮮明に頭の中でリピートされているが、いまいち理解できない。

「えっ」

私の口から疑問の音が漏れた。

「今まで忘れていただけかもしれない。僕が今までずっと好きだったのは彩羽だ」

「何普通に浮気しようとしてるの!」

「黙って。君は最悪な女だよ。なんかおかしいとは気づいていたさ」

彼のあまりにもストレートな言葉に私でさえドキッとした。

「もう、最悪。せっかく上手く行ったと思ったのに」

その言葉を発した時、佳純の表情に悪が宿った。

「小学生の時、零斗が彩羽のことを好きだって知ってた。だからせめて邪魔してやろうと思って無理やり零斗を未琴に告白させた。邪魔は上手く行った。だから今度は私のものにしようと思って仲良くなって高校まで一緒にした」

まるで犯罪者の動機を聞いているようで私は鳥肌が止まらなかった。

「最近また彩羽とインスタで繋がりそうになってたから邪魔した。それと同時に零斗を落とそうって考えてた。最初は零斗のインスタを勝手に更新して彼女がいる感じに匂わせたの」

あの二人分のパスタのだ。

「で、今日はアイシングの。で、とうとう彩羽からDM来たからブロックしちゃった。彩羽が零斗に嫌われたと思わせるように」

徐々に辻褄が合ってきた。

「いつやってたんだ?」

零斗は操作されていたことに恐怖を感じたのか声が震えている。

「零斗が寝てた時」

「まじかよ…」

「今日はダメ元で媚薬を飲ませたの。それが案外効いちゃって」

私は開いた口が塞がらなかった。

それがさっきの零斗の様子の違和感だったのだろう。

そこまでして、零斗を我が物にしようとしていたなんて。

「酷過ぎる…」

ついに思っていたことが口に出た。

「でも彩羽はなーんにもしなかったじゃん」

「それは…」

そう言われると上手く言い返せない。

けれど彼が代弁してくれた。彼の気持ちで。

「関係ない。そんな馬鹿げていることをする方がおかしい。しかもこうやってここで会えたのは彩羽が僕を待っててくれたからだ」

私の目には運動会で見たようなヒーローの零斗が映っていた。

「遅くなったけど、もし今でも良いなら…、僕と付き合ってください」

遅いかもしれない。けど彼の仕草も、すぐ耳が赤くなるところも変わってない。

私は今でも零斗のことが好き。

「はい、お願いします」

精一杯の可愛い声で私は返事を言った。

零斗は一瞬真顔になったがその後すぐ笑った。

本当に昔を思い出すその笑顔。

時が戻ったようだった。

佳純は泣いていた。

そして泣きながら言った。

「ごめんなさい…。おめでとう…」

二人で彼女のことを許した。


火は人類の進歩に大きな影響を与えた。ただ、使い方によっては良いことばかりではない。火事だって起こる。

一気に激しく燃やすキャンプファイヤー。

細く長く穏やかに燃やし続けるキャンドル。

どちらにせよ残り火には注意しなければならない。操作の難しい火は、形大きさを変えることができる。幸せをもたらすことができるが意図せず牙を剥くこともできるということだ。

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残り火 天笠愛雅 @Aria_lllr

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