インディゴブルー・シャークヘッド

向日葵椎

インディゴブルー・シャークヘッド

 東京湾を望む都内の埠頭ふとうで釣り糸を垂れていた。

 向こうの海岸を見やると工場か倉庫か、大きな四角い建物が多い。

 ここの足場は岩が敷き詰められたようになっており、それが徐々に海に潜り込んでる。波のさざめきが昼の陽気に溶けるようにあたりに響く。


 今日は会社も休みで特にやることもなく、ティーシャツに短パンで歩いて十五分くらいでここまでやってきた。

 ここにはよく散歩で来ることがあるが、俺は釣りはしたことがない。ここでは初めて釣りをする。なんでそうしようと思ったのかはわからないが、急に釣りがしてみたくなったのである。釣り具もここにくるまでに買ってきた。

 しかし、釣れないものである。

 十時頃にここで釣りを始めて今は正午くらいだが、まだ一匹も釣れていない。技術が無いのか、餌が悪いのか、波がよくないのか、時期的に釣れるものがいないのか。よく見れば周りの釣り人はいない。釣り人というか誰もいない。土曜日の昼なら誰かいてもおかしくない場所なのだが、今日は魚だけでなく人も少ないということか。

 そろそろ昼飯にしよう。

 そう思ったとき、水面に浮かんだ点のような赤い浮きがぴくりとする。

 きたか。

 見ていると浮きが一瞬だけ水中に潜った。

 引かれたのだ。

 竿を引くタイミングはよくわからないが、完全に沈むのを待とう。そうすればきっと食いついたということになるはずだ。

 じっと浮きを見る。穏やかな波に揺れている。


 そのとき、浮きの右側の水面になにやら影が見えた。なんだろう。だがじっと見る間もなく尖ったものがそこで水面を突き破った。

 サメだ。

 サメが水面に顔を突き出している。

 俺は驚いて息を呑む。どうしたらいいのかわからなかった。驚いた勢いで一歩下がったが、あのサメはここまで飛び出してきてかみついたりするだろうか。サメならなんでも人間に襲い掛かるわけではない、と聞いたことがあるのだが。

 よく見るとあのサメはそんなに大きくない。映画で見るような人間を丸のみにするような種類ではないのか、まだ子供だからか。水面に浮かんでいるのはバスケットボールほどの大きさの頭で、俺の頭を丸のみできるとは思えない。

 サメは口をぱっくりと開いて黒い目で虚空を見つめている。もしかすると俺が視界に入っているのかもしれないが、サメがどこを見ているのかよくわからない。


「こんにちは」


 サメが言った。

 サメが言ったというはどういうことだろう。しかし俺はたしかにサメが口を動かしたのを見たし、そこから声を出したのもわかった。聞き間違いではない。ただの音ではなく、青年らしい声だったのだ。最近ネットで見た犬とか猫が人間の言葉をしゃべったように聞こえる動画とも違う、はっきりと、抑揚が自然な、きれいとも言えるくらいだった。

 頭が理解する前に、身体が反射的に挨拶を返そうとした。しかし驚いたためか喉の辺りで声がつまって「あ」とか「か」しか発することができない。

 そんな俺の様子を気にするでもなく、サメはだんだんを姿を現してきた。しかし様子が普通ではない。サメの頭が水面から上昇して顔より後ろの部分を現わしている時点からうすうす感じていた違和感が、あるところを境に理解不能な現実となった。あきらかに普通ではないのに、なぜかぽかんと口を開けてただそれを見ていた。


 サメはジャケットを身に着けていた。インディゴブルーのジャケットとチョッキ。ネクタイも色を揃えてあるじゃないか。濡れたジャケットは陽光をきらきらと反射させたが、その光沢は撥水性を思わせるものだった。潜るなら素材がそうであってもなんらおかしいことはない。もちろんサメがジャケットを身に着けているのはおかしいと思うけど、まだ完全にサメかどうかはわからない。最新の潜水用のマスクかなにかのデザインがサメの見た目なだけかもしれないからだ。

 どんどん上がってくる。


「ででんでん、でーでんでん」


 サメが何かを歌っている。

 上半身が完全に上がったとき、サメが釣り針に刺さった餌を手でつまんでいるのが見えた。人間の手だ。やはり人間ではないか。赤い浮きが引っ張られて持ち上がる。俺が垂らしていた釣り糸をなんで引っ張っているのだろう。下半身が見えてくると、やはり穿いているパンツもジャケットと同じインディゴブルーだ。

 そこで俺ははっとして挨拶を返すことができた。


「こ、こんにちは」

「いい天気ですね。波が優しくて心地いいです。釣りですか? どうです、釣れましたか。このへんの水中にたくさん魚がいるのが見えたのでよく釣れたと思いますが。今は、ぼくがきたので逃げ出してしまいましたけど」

「いえ、ぜんぜん。それよりどうして釣り針を持ってるんですか? それは俺が持ってる釣り竿につながってるやつですけど」


 サメは手に持った釣り針を見ると、たるんだ糸をたぐり寄せるように引く。やがて糸がすべて水面から上がって、俺が持っていた釣り竿が引かれる。

 サメが顔の向きを糸を伝うようにして俺に向けた。


「ほんとうですね。偶然といいましょうか、運命といいましょうか。……この糸は赤くないですけど、あなたとは何か縁のようなものがあるのかもしれませんね」


 落ち着いた口調であるのがなんだか怖い。それと聞きたかった答えがそういうことじゃないのも怖い。言ってる内容もなんか怖い。

 しかし、はぐらかしているようには感じないので言い方を変えてみる。


「えっと、そうではなくて。釣り針を手に取った理由はありますか」

「釣られてしまったということでしょうね」

「なるほど」


 俺は釣りをしていたんだから釣れて当然だろう。魚はまったく釣れなかったが。よく考えればサメが釣れることのほうがすごいような気もするし、今日はもう満足するとしよう。

 それからキャッチアンドリリースの精神に則ってこのよくわからないサメとも別れることにしよう。


「よければ餌はさしあげますよ。俺はもう休憩しますので」

「いえ大丈夫です。あまりこういうのは食べないので」


 ではなんで俺の釣り針を掴んでいるんだろう。サメの本能的なものだろうか。いやサメではないか。首から下は人間のようだし、人間の言葉を話している。身に着けている服も今の俺よりずっとちゃんとしている。

 気になることはあるが、もう別れることに決めたので何も訊かないようにしよう。


「そうですか。では失礼」


 釣り糸をぐいと引っ張ってサメの手から離す。サメはこちらを見ているままのような気もするが、俺は海に背を向けて歩く。背後からは波が岸を優しく撫でる音が聞こえるだけで、足音はない。背後でサメが今も黙って自分を見ている姿を想像して首筋に鳥肌が少しだけ立った。振り向かずに鞄ほどの大きさのクーラーボックスが置いてあるところまで歩いていき、それを手に取ってまた歩き出す。

 埠頭の公園にある芝まで歩くと、そこにあるベンチにクーラーボックスを置いて隣に座った。

 ここに来るまでにコンビニでサンドイッチと麦茶を買ってクーラーボックスに入れていたので、それを取り出して昼食をとり始める。

 サンドイッチの包みを開けて角にかぶりつく。

 視界の隅で何か青いものが動く。

 クーラーボックスをはさんだ隣だった。

 口の中で味がしない。

 ゆっくりと隣へ顔を向ける。


「奇遇ですね」


 インディゴブルーのサメが言った。

 驚いてまだ固まりのままのサンドイッチを飲み込もうとしてしまい、喉を詰まらせそうになった。口を精一杯閉じながら咳をすることで、なんとかサンドイッチを吐き出さずに喉から口へ戻すことができたのである。

 呼吸を落ち着けると口の中でやっと味がしてくる。

 サメが心配そうに両手を小刻みに動かしていた。


「だ、大丈夫ですか」

「……まあ。で、なんですか。ついてきたんですか」

「いえ、そういうわけでは。少し疲れていたので、座ろうと思ったんです」

「泳いでいたからですか?」

「はい。千葉から」

「千葉って、じゃあ東京湾を横切ってここまで?」

「そうです。昨日、こっちから千葉まで泳いだのでその帰りというわけです」

「なんでまたそんなこと。って、サメだからですよね」


 ため息交じりに言う。よくわからないサメと話すのが嫌になったのではなく、あきらめのような気持ちからだった。どうせよくわからないのだ。あまり不思議がってもしかたない。

 サメはすぐには答えなかった。口を広げて空を見上げている。

 それからポツリと話しだす。


「最初は、こんな頭じゃなかったんですよ。あ、これかぶりものとかでなくて、ちゃんとサメの頭です。まあこの状態で『ちゃんと』と言えるのかわかりませんが」


 サメは口を大きく開けて中を見せた。ギザギザした歯の奥、中は思ったより白っぽい。映画で見た血まみれのイメージがあったからかもしれない。

 これはサメの頭でしかない。ここに人間の頭が入るスペースは存在しない。

 サメは前を向いて続ける。


「いろいろあって、嫌になって、投げやりな気持ちからこっちで海に飛び込んでがむしゃらに泳いでいたんです。自分でもよくわからなかったんですが、海を見ていたら吸い込まれるような気がして。それで泳いでいたら千葉についていて、気づいたらこんな頭になってたんです。困ったものですよ」


 表情はわからないが、声は困ったように笑っていた。

 信じられないことだが、頭はたしかにサメになっている。なんだかさっき冷たくしたのが急に悪く思えてきた。

 しかしどう答えていいのかわからない。

 サメは小さくため息をついて話を再開する。


「それで、もう一度こっちに戻ったらなんとかなるかもしれないって、そう思って泳いできたんですけど、だめみたいだったですね。あなたの反応を見てすぐにわかりましたよ。まあ潜水してても苦しくなかったんで、うすうすわかってましたが」

「そうでしたか。もしかして、さっき運命って言ったのはそういう意味だったんですか。自分がサメになる運命だったと」


 たしかそんなことを言っていた。もしかすると彼はあのとき、自分がサメであることを受け入れてしまったのではないだろうか。

 彼は笑った。


「いえ、あなたとはほんとに運命の糸で結ばれているのかもしれませんよ」

「そうですか。あのこれ、サンドイッチどうです? まだ手をつけてないの一個残ってるんで」

「いいんですか? そういえば昨日から何も食べてなかったんですよね。帰ってくる途中でも空腹だったんですが、かと言って泳いでる魚をそのまま食べる気にもなれなかったですし。追ったとして捕まえられるのかもわからなかったんですよ。ではお言葉に甘えていただきます」


 サンドイッチを差し出すと彼は手に取って大きな口にそっと入れた。口をぱくぱくと開閉させているが、ほとんど形そのままにサンドイッチは奥に消えてしまう。

 彼は上を向いて、はーっと息を吐いた。


「食うの早いですね」

「早食いなのは元からなんですけどね」

「そういえば、ちょっと聞きづらいことですけど、これからどうするんですか」

「そうですね……魚を捕まえて食べられるようになろうかと思います。そうすれば生きていられますしね」

「じゃあ、俺も釣り、うまくなってたくさん釣れるようになります」

「ではどちらが先に上達するか競いましょう。ぼく、時間だけはめちゃくちゃあるので自信ありますよ」

「うわ、ずるい」

「サメはそんなこと気にしません」


 彼は「ででんでん、でーでんでん」とまた何かのメロディーを口ずさむ。

 俺はそれを聴きながらサンドイッチをほおばった。

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