修羅の生まれた門

百舌鳥

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 落ちくぼんだ目をした、痩せぎすの若者だった。周防と目を合わせようともせず、机上灯が机の天板に落とす丸い光を見つめている。

「古堂湊太。二十二歳、無職。――市出身。高校卒業後、――区――の工場に勤務するが、工場の経営悪化を機に今年五月に解雇される。社宅を解約して――市に引っ越して以来、求職活動を行うが見つからず。今月、十二月三日に市内――さん宅に侵入を試みたところを住居侵入、及び窃盗未遂で逮捕される」

 周防が読み上げる書類を、古堂は目線を上げることなく黙って聞いていた。

 ぎりり、と周防は奥歯を噛む。子供のようにふてくされる古堂の姿が無性に癇にさわり、頭痛にも似た感覚を覚える。

 高齢者を狙った窃盗事件。よくあると言えばよくある事件が報告されたのは、十一月の初めのことだった。二件三件と相次ぐ事件の中で、手口や残された指紋から同一犯だと断定され、近隣の防犯カメラから古堂湊太が浮上した。周防も、所轄の警察署から動員されて古堂を尾行していた一人だ。いざ行動を洗ってみれば、無職という実態にそぐわない買い物や不自然に住宅を覗くなどの不審な点は山ほど見つかった。そして、いよいよ四軒目の住宅に侵入しようとしたところを待ち構えていた署員に現行犯逮捕され、この取調室に至る。

 経歴についてはすぐに調べはついた。

「動機は、金か?」

 周防の問いに、古堂は反応しない。それでも二度三度と繰り返し問えば、こくりと頷く。無職となり、金に困っていた。ごくごく単純な動機。

 ぴくりと眉根を寄せて、周防は次の質問に移ることにした。

「高齢者ばかりを狙ったのは、何故だ?」

 こちらの問いに対する答えも予測できる。一つには、高齢者は、見つかっても抵抗される恐れがないからだ。抵抗されそうにないから、子供や高齢者を襲う。取調室でそう証言する犯罪者たちを、周防はこれまでに何人も見てきた。そして、高齢者が狙われる理由のもう一つには。

「……あいつらは金を持っているから」

 古堂にしては珍しく素直な答えだった。これも予想の範囲内。苦虫を噛み潰したような心持ちで、周防は発言のメモをとる。

「何故、そう思った?」

「だって、年金を貰っているじゃないですか。俺たち若者が必死に働いても、貰えるかどうか分からない金を」

 またこれか。周防は頭を抱えたくなる衝動を必死に噛み殺した。ふと、背後から声がする。

「周防さん、時間です」

 一日に一人の容疑者に対して取り調べができる時間は決まっている。なかなか口を開こうとしない古堂に対して、ろくに話を聞くこともできずに終わってしまった。忸怩たる思いを抱えながら、周防は席を立って取調室を出ていった。後は背後で周防と古堂のやり取りを記録していた部下がやってくれるだろう。




「よ、周防。例の連続窃盗事件の取り調べ?」

「ああ。……嫌いな手合いの事件だ」

 署の裏手の喫煙所。周防が白煙と共に鬱憤を吐き出していると、同期の羽田に声をかけられた。強面の周防とは対照的な、整っていると言えなくもない顔がへらりと笑う。

「火ぃ」

「ほれ」

 羽田のひらひらと揺れる手にライターを放ってやり、周防は揮発したニコチンとタールの混合物を肺いっぱいに吸い込む。

「あの事件、犯人は若者だったか。確かに周防は嫌いだったよな。ああいった、高齢者を狙う若者の事件」

「……老害と呼びたきゃ呼べよ」

「まさか」

 ライターを周防に放って返した羽田の、吊り上がった口角から煙が吐き出される。

「未来あるはずの若者が社会に対する鬱憤をこじらせて、体力と判断能力の劣った老人を食い物にする。許せないのは間違っちゃあないさ。怒るなら、若者を犯罪に駆り立てる社会に向けて怒るべきだけれど」

「……お前はいつも、理想論ばかりだ」

「理想論者でなければやっていけないのが警察さ」

 白煙と共に白々しい言葉を吐き出しながら、羽田は微笑む。偽善者めいているとは思うが、実際に上役からの評価も高いのだからどうしようもない。行き場のない苛立ちを誤魔化すように、雨水の溜まった灰皿に吸いさしを押しつけた。火の消える濁った音を後に、周防は喫煙所を立ち去る。あまり根を詰めるなよ、という羽田の声だけが背後を追ってきた。





「行動を整理するぞ。まず、一軒目は……」

 翌日以降も、周防は古堂の取り調べに当たることとなった。相変わらず古堂の反応は鈍い。右頬の大きなニキビを時折ぽりぽりと掻きながら、周防の言葉をただ聞いているだけだ。自暴自棄という言葉が周防の脳にちらつき、また苛立ちが募る。

 古堂の様子に変化があったのは、どうにか四つの事件全てについて古堂の証言をわずかなりとも引き出した後だった。

「刑事さん」

 初めて、古堂が自分から口を開いた。どこか不思議そうな顔をして周防を見上げる。

「それで全部っすか?」

 全部、とはどういう意味か。周防は質問の意味を一瞬考え、そして弾かれるように顔を上げた。

「おい、古堂! まさかお前、まだ余罪があるって言うのか?」

「あー、じゃあいいです。その四件で。知らないならいいっすよ」

 血相を変えた周防を、古堂はへらへらと受け流す。結局、その日はそれ以上古堂から情報を引き出すことはできなかった。



「で、俺に代わりに話を聞いてほしいって?」

「……ああ。頼む、羽田」

「頭なんか下げなくていいって。適材適所だろ?」

 周防が頭を上げた先、羽田の顔はへらへらとしながらも目の色は真剣だった。取り調べにおいて、周防を剛とするならば羽田は柔だ。周防が実直に証拠を揃えて相手を問い詰めていくのに対して、羽田は相手の懐に潜り込み心を開かせて話を聞くことを得意とする。押しても駄目なら引いてみろ。担当の交代が、自分の限界を悟った周防のとった策だった。

「で、俺が取り調べてる間お前はどうすんの?」

「古堂の元職場を当たる。この市に引っ越すことを選んだ、そもそもの理由があるかもしれない」 

「了解。ああ、帰ったら俺の代わりにあの件を頼む」

「勿論だ」

 一つ頷いて、周防は羽田に背を向けた。公用車で都内へ向かう申請は既に済ませてある。


***

 

「ああ、警察の……」

 小浪製作所と記された看板は、風雪に晒されて文字の所々が消えかけていた。がらんとした工場の中。周防の目の前に立つ冴えない中年の男がこの製作所の社長であり、数ヶ月前まで古堂湊太の雇い主だった人物だ。作業服の首元に掛けたタオルで汗を拭う男は、まるで自分が責められているかのように雄弁に口を開く。

「そりゃ、首にしましたよ。でも仕方がないじゃないですか、この不景気なんですから。世間はどこもそうですよ、ほら、今だって維持費のかかる機械を処分している最中なんです。そもそも解雇せざるを得なかった従業員だって古堂だけじゃなくて」

「小浪さん」

 たまりかねて周防は口を挟む。職業柄、自分が相手を威圧してしまうのはよくあることだが、必要な情報が得られないまま無駄に萎縮させてしまうのは本意でない。

「落ち着いてください。私たちは、なにも小浪さんが古堂湊太を解雇したから古堂が犯罪を起こしたと言いたいのではありません。御社にもそうせざるを得ない事情があったのはよく分かっています」

 しっかりと、小浪の目を見据えて口にする。落ち着かせたと言うよりも更に威圧することで口を噤ませるようなかたちになったが、いったん小浪の口を閉じさせることには成功した。

「小浪さん。あなたが古堂を解雇するとき、社員寮の代わりにどこか別の町を紹介するようなことはありませんでしたか?」

 もちろん、その事実のみであなたを罪に問うことはないと。噛んで含めるように言い聞かせる。小浪は少しばかりの間首を傾げたが、すぐに首を横に振る否定の意を示した。

「そうですか」

「……ああ、でも。刑事さん、あなた――市から来たんですよね?」

 来たか、と周防は身構える。果たして、小浪はこう口にしてみせた。

「――市には、親戚がいるからその伝(つ)手(て)を頼るって。古堂は、寮を去る直前にそう言っていました。確か……従姉妹、だったかな」

「ありがとう、ございます」

 有力な情報だ。古堂の両親あたりに裏をとらねばと決意しながら、周防はしっかりと小浪の言葉をメモ帳に書き込む。

(高齢者に対する怨恨の有無など、事件に関する情報を他にも得られないか)

 小浪に対する次の質問を考えつつ周防が顔を上げたときだった。

「失礼します。小浪さーん、いらっしゃいますか?」

 工場の主に呼びかけながらシャッターを潜る人影があった。黒髪を七三分けにした、スーツをぴしりと着こんだ男だ。

「け、けい……帰ってくれ! もう十分だろう!」

 突然、小浪の様子が豹変した。出て行けとばかりに出口を何度も指さされる。目を血走らせんばかりの小浪の剣幕に戸惑いながらも、周防はその言葉に従うことにする。

「……申し訳ありません。本日は、どのようなご用件でしょうか?」

 一礼して工場を出ようとする周防の背後。現れたスーツ姿の来客に丁寧に応対しようとする小浪の声が聞こえた。

 小浪の豹変の理由は、出入りへ向かうときにすれ違ったスーツの男の胸に光る社章から察せられる。

(この付近にある大手の銀行だった。……融資か)

 数年にわたる不景気は長く日本経済に影を落とし続けている。中小企業が耐えきれずに倒産を強いられたというのは昨日今日の話ではない。

 ただでさえ経営が危ういのに、警察の人間と話していることを銀行に知られれば何を勘ぐられるか分かったものではない。小浪の心境を考えると、周防の胸中に暗澹たる思いが広がった。


***

 

「……加賀地実久さん、と。はい、ええ、お手数をおかけしました。ご協力ありがとうございます」

 夕刻、小浪製作所の訪問から所属する警察署に戻る道中。市内の交番に車を駐め、周防は通話を切った。通話の相手は、古堂の両親。遠方に住むため、流石に直接話を聞きに行くことはできなかった。

(だが、収穫はあった)

 加賀地実久。それが、古堂湊太の従姉妹の名前だった。古堂の両親によれば、幼少期にあった交流はほとんど途絶えているという。それでも一応は親戚ということで、互いが一人暮らしを始めた後も毎年年賀状を交換していたらしい。――市のことも、そこから知ったのだろう。

(まあ、両親とほぼ絶縁状態にあったようだしな。か細い糸でも、あの両親よりはマシか)

 先ほどまで通話していた古堂の両親の様子を思い出す。地元の名門大学の受験に失敗し、上京して周防製作所に就職したことがきっかけで勘当された。どうやら本人の供述にあった事実は真実らしい。古堂の両親は犯罪者となった実の子の名を、まるで不快な害虫のそれであるような声色で呼ぶ。捜査に協力的なのも、まるで身内の恥を雪ごうとするかのような雰囲気さえ感じさせる。

 気持ちを振り払うように、周防は新たな番号に発信をかけた。相手は羽田だ。

『よお、周防。収穫はあったか?』

「加賀地実久」

『こっちもだ。従姉妹にあたる加賀地実久がこの市に住んでいるって聞いて連絡を取ろうとしたと、古堂が吐いた。羽振りのいい暮らしをしているのを察したらしい。あわよくば金の無心ができないか、とな』

羽田の言葉を聞き、周防は唇を噛む。自分だけの手柄ではなかったと落胆する気持ちが三割。羽田が吐かせたならば、加賀地実久の筋に間違いはないだろうとの確信が七割。

「裏を取れたな」

『ああ。加賀地本人にはお前が話を聞けよ? 無理だって言うなら考えてやるけど』

「善処する」

『よろしく。あ、例の件は?』

「これから行くところだ。古堂の件は助かった」

 電話を切った周防は、一つ息を吐く。

(……加賀地実久に話を聞くのは明日にする。それよりも、羽田に頼まれた件を済ませてから署に帰るか)

 同僚に聞いていた住所はこの交番のほど近く。鞄を片手に公用車から出た周防は、目的のアパートへと歩き始めた。


「すみません、今週もまた……おや?」

「こんばんは、――署の周防と申します。本日は羽田が所用で手が離せないため、代わりに私が伺いました。どうぞお構いなく」

 お世辞にも立派とは言えないアパートの一室。玄関の郵便受けには『貴世』と記されている。玄関先で周防を出迎えたのは、白髪交じりの男だった。羽田によるとまだ三十代だそうだが、苦労を忍ばせる顔立ちは四十、五十代と言われても通じる気配がある。

 ふと、周防は足下の床に目を落とした。やや間隔を開けて二列に並んだ、細いタイヤの痕跡。車椅子の跡だ。

「弟さんは」

「容態は安定しています。……ただ、働くのは無理だとお医者様からも止められているままで」

 周防は羽田から、目の前に立つ青年が難病の弟を介護しながら必死に働いていたのを聞いている。この不況の煽りを受け、兄もまた先月に職場を解雇されたことも。

 車椅子の跡を拭く余裕もない床。とっくに枯れている花瓶の花。廊下に無造作に広げられたパンフレット。玄関から一瞥しただけでも、生活に余裕のないことは見てとれた。

「これを」

 じくりと痛む心を押し隠して、周防は鞄から取り出した紙束を貴世に渡す。羽田から預かったものだ。中身は、生活保護や失業手当金などの公的扶助についての案内。ありがとうございます、と会釈して紙束を受け取る貴世の腕は、枯れ枝のように細かった。

「他にも何か、防犯の面等で不安なことはありませんか」

「ありがたいことに、何も。もっとも、見ての通り兄弟身を寄せ合っての貧乏暮らしです。強盗だって狙いはしないでしょう」

 冗談めかして微笑む貴世の笑みを周防は直視できない。誰かを責めればいいというのではなく、只々理不尽な不運に翻弄される人間。そういった人間に対して、犯罪者を追い詰め罰することしか知らない周防は無力だ。

「弟さんにもよろしくと、羽田が申していました」

「ああ……こちらこそ。弟も、私以外の人と話す機会があれば少しは前向きになるでしょう」

 ちらりと貴世は背後に目をやる。その視線の先にあったパンフレットには、近隣の精神科クリニックのロゴが印刷されていた。

「……不安を感じるようなことがあれば、いつでも連絡してください」

 そうひとこと言い置いて、周防は兄弟の部屋を後にした。聞けば、羽田は他にも地域の身寄りのない高齢者などの所在を把握し、気に掛けているという。

 貴世兄弟の存在は、周防も認識してはいた。古堂による窃盗事件が報告された初期。近隣に在住しており、たまたま金に困っている人間であったというだけで、兄弟を疑ってかかった自分を周防は深く恥じた。

(俺は、一生羽田には勝てないだろうな)

 それでいい、と思う気持ちも周防にある。羽田を前にすると苛立つことはあるが、子供じみた嫉妬だと周防は自覚している。出世するべきは羽田のような人間であるべきだとも。

 同時に。貴世と似た、否、自分以外に養うべきものがいないぶんマシな境遇にありながら。より弱い高齢者を狙った古堂が許せないと憤る気持ちが腹の底を焦がすのを、周防は自覚しつつあった。



 翌日。部下の巡査がパトロールするのに便乗した周防は、調べをつけていた加賀地実久のマンションを訪れていた。

 駐車場に止まったパトカーの助手席から降りた周防は、加賀地実久の住む建物を見上げる。確かに、まだ二十代半ばであるはずの加賀地実久のイメージとはやや不釣り合いな高級マンションだ。入ろうとすると当然のようにオートロックに止められたが、管理人に警察手帳を見せるとすぐに通された。機械的なセキュリティにあぐらをかいて、人間による管理は甘いようだ。理由くらいは聞けと思いながらも、開いた扉から部下を連れて加賀地実久の部屋へ向かう。

「ちょっとお前が話聞いてこい」

「え、周防さんじゃないんですか?」

「馬鹿かお前は、加賀地実久は二十代の女性だ。俺みたいなツラの男がいきなり待ち構えているより、巡査の格好した若いやつの方がなんぼかマシだろ」

 部屋の前、部下をせきたててインターホンを押させる。やがて現れたのは、想像に反して若い女性ではなかった。白髪を腰まで伸ばした老女が、おずおずとチェーンをかけた扉の隙間から覗いている。

 ぷうん、と。何か嫌な臭いが扉の隙間から抜けて、周防の鼻を突いた気がした。

「こんにちは。加賀地実久さんのお宅ですか?」

周防の部下が問いかけても、老女は答えない。怯えた様子でこちらを伺うばかりだ。 

「加賀地実久さんのお母様、でしょうか」

「は、はい。ええ、その通りです。娘は少々体調を崩しておりまして、ええ、警察の方が何のご用事か知りませんが後日にまたいらっしゃっていただければ」

加賀地実久の母親と名乗る老女は、巡査に口を挟む余地を与えずに喋り続けている。明らかに挙動不審な様子だ。途方に暮れた表情で周防を見やる部下を押しのけて、周防は老女の前に立つ。扉の前に立つことで、異臭がはっきりと感じ取れた。

「この人物に見覚えはありませんか」

 取り出したのは、逮捕時の古堂湊太の顔写真。途端に老女の喉から引きつった音が漏れる。何か知っている。一瞬こちらを見やった部下に、周防は聞き込みを続けるよう目で告げた。

「この男に、何か脅迫のようなものをされましたか? あるいは、無理に金を要求されるといったことは?」

「……知りません! こんな男、知りません! 会ったこともありません!」

 先ほどの反応と矛盾する言葉を発し、老女は扉を閉めようとした。その動きがぐっと阻まれる。周防の足がドアと壁の間に挟まり、老女が扉の内側に逃げ込むことを阻んでいる。

 周防は腰を落とし、老女と目線を合わせた。異臭混じりの空気をぐっと吸い込み――怒鳴りつける。

「加賀地実久は、どこにいる!」

 ドン、と鈍い音がして周防の体が弾き飛ばされた。あの細い体のどこにそんな力があったのか、扉ごと周防を勢いよく押しやった老女は脱兎のごとく廊下を走り去る。

「追え!」

 自分から逃げる人間は、追う。周防の命を待つまでもなく、叩きこまれた警官の習性として老女の駆け出した方向へ走る部下を尻目に。周防は加賀地実久の部屋に足を踏み入れた。進むほど強くなる異臭を追い、フローリングの床を踏みしめながら、懐から無線機を取り出す。やがて、奥まった一室の前で足を止めた。何かが腐った臭いは、その扉の向こうから漂ってくる。

 扉を開く。腐敗臭が雪崩を打って周防の全身を包む。薄暗い部屋に横たえられたその姿を見下ろしながら、周防は無線機のスイッチを入れた。


「○○番より。――市――――のマンションで若い女性とみられる遺体を発見。住民の加賀地実久の可能性が高い。現場となった部屋からは高齢の女性が逃走。――巡査が追っている、応援頼む」

 

***


「あの女は、詐欺師だったのさ。それもとびきり悪質な」

 桂しのぶ――加賀地実久の遺体を放置し、その部屋に住み着いていた老女はそう供述した。

 実際、加賀地実久が悪徳商法を手がける会社に在籍していたことは事実らしい。警察にも何度か通報の履歴が残っていたその会社が手がけていた事例は、美人局まがいのデート商法にマルチ商法、高齢者を狙った霊感商法まで多岐にわたる。桂しのぶも、そういった手口に乗せられて老後の蓄えを失った一人だった。

「詐欺だと気づいたあなたは、数ヶ月後最寄り駅で偶然見かけた加賀地実久を尾行した。マンションの入り口で『お前の手口を今ここで警察にバラす』と脅し、仕方なく部屋に引き入れた加賀地実久を殺害した」

「あれは事故だ! 玄関先でつかみ合いになって、あっちが勝手に後ろ向きに倒れて息をしなくなった!」

 言いつのる桂しのぶから手元の書類へと、周防は目を落とす。確かに桂しのぶの証言は、後頭部の外傷が致命傷となったという加賀地実久の検死結果と一致する。もっとも、事故だからといって救急車を呼ぶことを怠り、あまつさえ加賀地実久の財産を当て込んで彼女の部屋に住み着いていた老女の行為を免責できはしないが。

「話を進める。加賀地実久に成り代わって過ごしていたある日、古堂湊太が訪れて死体の存在がバレたんだな?」

「……ああ。あの男が無理矢理押し入ってきたときは、通報されることを覚悟した。殺されるんじゃないかとも」

 しかし、古堂湊太はそうしなかった。通報はせず、このことを黙ってやる代わりにと、部屋に残されていた現金を全て持ち去った。

「氷のような眼であたしを見下ろしてあの男は去っていった。逮捕されたニュースが流れた後は、もっと怖くなった。いつあの男が喋るんじゃないかと、気が気でなくて夜も眠れなかったんだ」

 それでも、桂しのぶには加賀地実久の部屋を離れることはできなかったという。老女は加賀地実久ら詐欺まがいの会社の言を信じ、住み慣れた家を手放していた。受け取れると信じていた代わりの住宅は影も形もなく、加賀地実久を見つけるまではほとんど路上生活だったという。

「刑務所でもいい。もう二度とあんな思いはごめんだ」

 取調室の壁を見つめながら、桂しのぶはそう呻いた。季節はもう、本格的な冬の訪れが始まる頃だ。



「これが、お前の匂わせていた余罪か」

 周防の呟きに返ってきたのは、気の抜けた拍手。

「まあ、そうなるよな。あの別の刑事さんにアイツのこと話しちゃった時点で予想はしてたけど、思ったより早かったな。偉い偉い」

 まるで他人事のように。ぱちぱちと手を叩いて古堂は笑う。周防の噛みしめた奥歯が、割れるように痛んだ。

「お前は、何故……!」

「だって、みんなやってるじゃん」

 事実を述べただけ、そう言わんばかりの、無邪気な古堂の一言だった。

「加賀地実久は詐欺師だった。あのババアは死体を隠して住み着いていた。結局、そういう世の中なんだよ。誰かを踏みつけなきゃ生きていけない」

「……違う」

「嘘つくなって。刑事さんだってそうだろ? 犯罪に手を染めるまで追い詰められた人間を捕まえて、それで飯食ってる」

「違う!」

「違わねえよ!」

 周防すらも圧倒する勢いで。逮捕以来初めて、古堂が感情を剥き出しにした。

「誰もが他人を食い物にする! 俺だって、こうでもしなきゃ飢え死にしてたんだよ! お前も、お前らも、綺麗事でうわべを取り繕って誤魔化すんじゃねえよ、本当に見捨てられたことも、苦しんだこともないくせに!」

 噛みつくように吠えて。そして、糸の切れたように古堂はパイプ椅子にくずおれる。

「なあ。刑事さん」

  どろどろと。人格の芯となるものが溶けてしまったような笑みだった。

「他人を食い物にして、何が悪い?」



 ふらついた足取りで、周防は取調室を出る。気圧されてしまった。社会からはじき出され、他人を食い物にして生きることを学習させられてしまった若者の慟哭に、反論することができなかった。

 ふと、周防は周囲の様子が騒がしいのに気づく。部下を一人捕まえて、何があったのかを訊ねた。

「あ、周防さんは取調室に入ってたから気づいてなかったんですね。先ほど――町で、兄弟間の無理心中? 自殺幇助だったっけ? とにかく、弟を殺したって血まみれの刃物を持って交番に名乗り出た男が出たんです」

「……そうか。誰が向かってる?」

「殺人とあれば、動ける面子は大体が。あ、羽田さんが血相変えて真っ先に飛び出していきましたね」

 昨日立ち寄った地名、兄弟という単語。羽田と関連付けられたことに胸騒ぎを覚えながらも、周防は引き寄せられるように無線機の方へ歩いていく。周防の目の前でまたひとつ、新たな無線連絡が入った。



『こちら――署。先ほど『弟を殺した』と名乗り出た人物について、証言通り――番地、――アパートで血を流して死亡している男性を確認。この部屋に住む貴世……』



 からん、と乾いた音がした。音を追って、周防は足下を見る。気づかぬうちに固く固く握りしめていた警察手帳が――警官の誇りが、床に転がっていた。周防が屈んで手帳を拾い上げようとする直前、視界の外から伸びた別の手が手帳を拾い上げる。見ると、副署長の仏頂面が手帳を差し出しながら周防を見下ろしていた。

「古堂湊太の事件について、死体が出たことから県警本部預かりとなることが決まった。――町の事件には加勢しなくていい、お前は引き継ぎ報告を作れ」

 手帳を落としたことには触れず、副署長は事務的に告げる。その淡泊な調子に、周防は自分が捜査から外されることを察した。

 ふと、窓が視界に入る。長方形に切り取られたアルミサッシの外側、空間を黒々と塗りつぶした闇が洞窟のように広がっていた。

 その後。古堂湊太がどうなったかを、周防は知らない。

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