湖と月と変身

天洲 町

いつの日か

 遠くで夜を告げる教会の鐘がカランカランと鳴っている。茂みからそっと覗くと、その人は今日も物憂げに水面をみつめていた。

 最悪な一日だってこれで癒される。

 初めて彼女を見かけたのも今日みたいな満月の夜だった。静かなところに行こうと、この湖の辺りまでやってきた時、1人でいるのを見つけたんだ。

 思わず隠れた俺は、しばらくその姿に釘付けになった。透き通るような肌は月の光に照らされて夜の中に青白く浮かび、しなやかで黒く長い髪、細く引き締まった足、何をとってもあんなに美しい女性はこれまで見たことがなかった。

 仲良くなりたい、声をかけてみようか、何度もそう思ったが、俺みたいに何もしていなくても嫌われ、追い立てられる醜い男があんな美女に相手にされるわけがない。住む世界が全く違うんだ。

 それでも諦めきれず、何とか挨拶を交わす程度でも話してみたくて、何度か仕事の合間にこの湖畔に来たことはあったがどうしても出会えないのだ。

 彼女を見かけるのは決まって満月の夜。それ以外の時は数匹の白鳥が優雅に湖を漂っているだけで彼女を見かけたことは一度もない。

 きっと昼間は友達や恋人と過ごしているのだろう。時々物思いに耽りたくなったとき、この湖までやってくるのだろう。どっちにしろ俺に振り向いてくれることなんてない。


 彼女の姿を眺めているうち、少し眠くなってきてしまった。風が木々を揺らす音が心地がいい。俺を追い立てる奴の声はすっかり聞こえなくなってしまった。せっかくだ。この美しい風景を眺めながら、眠ってしまうことにしよう……



 月が沈み、空が白む。呪いが女の姿を変えていく。



 今日もあの青年は来なかった。時々この湖にやってくるどことなく影のある青年。しかしながら澄んだ瞳が綺麗で、少し癖のある髪の毛がなんだかとても可愛らしい彼。

 人間の姿で彼に会いたい。そう思い満月の夜にはいつも湖畔で一人、星を眺めて待っているのだが、一度も来てくれたことはない。湖があるのは森の中なので真夜中に人が来ないのは当然と言えば当然なのだが。

 数年前のある日、突然現れた悪魔が私に白鳥の姿に変える呪いをかけた。それ以来私は満月の夜、月の明かりの下でなければ人間の姿でいられなくなってしまった。真実の愛を受け取ることで解かれるというこの呪いは人に出会うことさえ少ないこの場所では絶望だった。

 そこに彼は現れた。穏やかで真面目そうな彼に愛してもらえたのならどれほど良いだろう。

 いつか、せめて話すことだけでもできたのなら。




 太陽の光と小鳥の鳴き声で目を覚ました。茂みの中で目覚めるのは、あまり気分の良いものではなかったが安堵の朝だ。辺りを見渡しても人の姿はない。それはもちろん彼女の姿も。

 とにかく逃げ切れた。家に帰ろう。

 狼男の俺は満月の夜に誰かに姿を見られるわけにはいかない。




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