鯖を捌く

望戸

鯖を捌く

 休日の朝でもいつもどおりの時間に目が覚めてしまうようになったのは、いったいいつの頃からだろうか。子どもの時分には、下手をすると昼ごろまで眠りこけていたような気がする。もちろん登校もギリギリで、少女マンガよろしくトースト片手に飛び出したことも一度や二度ではない。寝る子は育つとよく言うが、その割には背も伸びず、裏切られた気分で一杯である。

 毎日早起きをするようになったおそらく一つの転機は、学校を出て働き始めたことだ。お気楽な学生とは違い、社会人の首には社会的な信用がのしかかっている。遅刻だけはすまいと必死な深層心理が、平日休日を問わずに一生懸命私を起床させてくれたのだろう。やりすぎの間もあるがおおむねありがとう深層心理よ。おかげで寿退社をキメるまで、無遅刻無欠席の健康優良社員をやりきることができた。

 転勤する恋人について故郷を離れ、晴れて結婚ののち専業主婦として暮らし始めてもなお、身体に染み付いた習慣と言うやつはなかなか離れがたいもので、相変わらず私は毎日きまった時間にぱちりと目を覚ます。夫の弁当をこしらえるには都合がいいが、休日くらいはゆっくり寝てみたい、と思ってみたりもする。夫も夫で毎日早起き生活をしているが、これは夫の職場がシフト制で、休みの曜日が定まっていないからだ。下手に寝すぎてリズムを崩すよりは、毎日早起きをしたほうが気分もいいし身体にもいい、というのが夫の持論である。正論まことにごもっとも。

 その日も夫と私は揃って目覚ましより先に目を開けて、普段どおりにさっさと朝食を済ませたところだった。珍しく夫の休みと暦上の休みが重なった、日曜日である。洗い物を終えた私はエプロンを投げやりに外し、夫のサーブしてくれたコーヒーをいただきながら、ぼんやりと今日すべきことを考える。昼までにはまだ大分時間がある。天気がいいからカーテンでも洗って、少し離れたパン屋まで散歩してみようか。トイレ掃除は昨日徹底的にやっつけたし、急ぎの買い物の予定もない。

 と、不意に夫のスマホが鳴る。画面をスワイプしながら、おっ、と夫は嬉しそうな声をあげる。

「朝釣りに行ってきたからおすそわけしますって、職場の人が」

「おすそわけって、今から?」

「あと五分で着くって。大きいビニール袋、ある?」

 嫌な予感が脳裏をよぎるが、私は努めて笑顔でビニール袋の選定にかかる。

 私の記憶が確かなら、以前も同じように、夫の同僚から朝釣りの「おすそわけ」をしてもらったことがあったのだ。家の外でブツの受け渡しを行い、意気揚々と帰還した夫から差し出されたのは、大人の手のひらサイズの鯵をたっぷり三十匹ばかり。大昔の調理実習で習った知識だけでは大分心もとなく、動画サイト先生のお力をフルに活用しながら見よう見まねで三枚に下ろし終わった頃には、もう時計の針は午後に突入し、私自身もすっかり汗まみれのくたくたになっていた。とれたての鯵で作ったなめろうやつみれやアジフライは確かにめちゃくちゃ美味しかったし、大の青魚好きである夫はうまいうまいと大変喜んでいたが、その後ひと月は、スーパーの鮮魚コーナーで鯵を見るたびにげんなりした。

 玄関のチャイムが鳴って、ビニール袋を携えた夫がいそいそと立ち上がる。

「今度は常識的な量にしてね」

 出掛けに一応釘を刺したが、聞こえているのかどうか。いずれにせよ、カーテンを洗っている場合ではなさそうだった。


 で、だ。

 確かに今回の「おすそわけ」は、常識的な数量だった。二匹である。三十匹の十五分の一。一人頭一匹ずつ。大分極端だが、夫、やればできる子。

 問題は、その魚である。

「なぜ鯖」

 必要最低限の文字数で問うと、夫はアイドルのように小首をかしげる。

「鯵もあったんだけどさ。貰う量を減らすんだし、せっかくなら食べでのある魚にしょうと思って」

 いくらかわい子ぶってもオーバー三十のおじさんである。言い訳がましさはちっとも緩和できていない。

「さすがに鯖はおろしたことないよ。夫やってよ」

「鯵がいければ鯖もいけるって! あと俺は絶対パス」

「他人事だと思ってぬけぬけと……」

 改めてビニール袋を覗き込むと、まんまるな鯖の目と視線がかち合う。丸々と太った綺麗な鯖だった。私の上腕くらいの大きさで、無造作に身体を転がしている。その身が硬く引き締まっているのは、いわゆる死後硬直と言うやつだろう。さすがは産地直送、鮮度が違う。

 じりじり鯖と見つめ合っていたところで一向に事態は進展しない。えいままよと私は覚悟を決めた。

「手伝いはしてよね」

「がってんがってん」

 この場合の手伝いとは、魚を捌く以外の全工程という意味である。いそいそとまな板に敷く新聞紙を用意し始めた夫を尻目に、私はさっき外したばかりのエプロンをもう一度付け直す。


 結論から言うと、案外どうにかなるものだった。

 前回鯵の三十匹斬りをやり遂げたことも、いい感じに経験値となっていたのかもしれない。わたを取り出す際にうっかり胃袋を傷つけてしまい、消化前の小魚がこんにちはするハプニングはあったものの、なんとか二匹の鯖を三枚におろすことに成功して、私はほっと息を吐いた。骨から削いだ身の断面があまり美しくないのが珠に瑕だが、なに、食べてしまえば同じことである。

 三枚下ろしを二匹分、腹と尻尾に切り分けて、合計八つの切り身ができた。

「あとよろしくぅ」

 言い置きながらエプロンを外して、ダイニングチェアにだらりと腰掛けた。背もたれに寄りかかると、ちょうど壁の時計を見上げるような角度になる。あの針の進み具合を信じるのであれば、前回記録の半日とまでは行かないまでも、たっぷり一時間は鯖と格闘していたらしい。ハンドソープと食器用洗剤でよくよく手を洗ったのに、なおもほんのり指先から漂う生臭さ。ステンレスを触るとよい、と聞いたのを思い出して、背後の食器棚を手探り。家で一番大きなカレースプーンを発掘した。使用方法が謎だが、とりあえず握り締めていればいいのだろうか。

 私のはずしたエプロンを夫が締める。少し寸足らずだが、洋服が汚れなければエプロンとしての職務は十分に果たせる。

「お疲れのところ悪いけど、パン屋までお使いする気ない?」

「イグザクトリーお疲れなんだけど、何か用事あった?」

「せっかくだから美味しい食パンが欲しいんだよね。あんまり薄すぎないやつで」

「その話乗った」

 せっかく捌いた鯖なのだ。食べるならできるだけ美味しくいただきたい。それが鯖への礼儀である。今はポリ袋に密封されているくりくり目玉を思い出して、頭の中だけで小さく一礼。

 愛車のママチャリを飛ばしてパン屋へ往復。ママじゃないのにママチャリに乗っていいものなのかと一瞬くだらないことが脳裏を掠めるが、売り場にはシティサイクルなどと小じゃれた値札で置いてあったからセーフだ。こいつのいいところは前かごが大きいところで、おかげで食パン以外にもあれこれパンを買いすぎた。特にクロワッサンなど絶品なのだが、ひとまずは明日の朝にとっておこうと思う。あいにくクロワッサンと鯖のマリアージュについて私は語る言葉を持たない。というか多分合わないと思う。全てのものにはふさわしい居場所があるのだ。そしてクロワッサンの居場所は鯖の隣ではなく、カフェオレとかハムとかレタスとか、そのあたりのオシャレな界隈であるはずだ。

 エコバックいっぱいの戦利品を携え家のドアを開けると、香ばしい揚げ物の匂いが玄関まで漂ってくる。手際のいいことに、ダイニングテーブルにはすでに、大きめにちぎったレタスとつくり置きの玉ねぎマリネ、それに即席のタルタルソースなんかがセッティングされている。

「本当は焼き鯖なんだけど、唐揚げ粉があったからささっと揚げてみた」

「揚げ物をささっとやる人類、まさか実在したとは」

 あれはよっぽど気合を入れてやるメニューだろう。揚げている最中は楽しいが、最後の後始末で毎回頭を抱えたくなる。とはいえうちの夫は、美味しいもののためには手間を惜しまない。それなら鯖も捌いてくれればいいのに、と文句の一つも言いたくなるが、ああもかたくなに拒むとなると、なにか幼少時に深いトラウマでもこしらえたのかもしれない。人間誰しも得手不得手があるものだ。別に私は三枚下ろしの名手ではないが、夫の苦手をフォローすることにかけては自信と責任を自負しているのである。

 からりと濃い目のきつね色に揚がった鯖の唐揚げ。金属の網の上で、表面がまだじゅわじゅわと泡立っている。

「とりあえず一匹分ね。残りは夜に鯖味噌」

「最高かよ」

 向かいの席に着いた夫とまずはそのまま、銘々皿にとった唐揚げに箸を入れる。薄い衣がささやかにさっくりと音を立て、そのまま箸先はふっくらとした身に沈む。脂の乗った鯖は面白いように切り割れる。あまりつつきまわさずに、半分に割った身をまずはひと齧り。

 思わず夫を見つめると、夫もこちらを見つめていた。瞬きひとつのあとで、同時にふふっと笑い出す。

「めっちゃうまっ! 揚げたてうまっ!」

 食レポの才能がないことが恨めしい。夫もにこにこと箸を持ったまま、気がつけば目にも留まらぬ速さで残りの唐揚げを咀嚼していた。おいしいものを目の前にすると人間誰しも俊敏になるのかもしれない。負けずに私も皿の唐揚げをむんずと箸でつかむ。ああ、持っただけでわかるこの身のふかふか感よ。

「外さくさくだし中ふわふわじゃん、やっぱ鮮度と料理人がいいからなあ」

「捌いた人間も頭数に入れてよお」

 軽くドヤ顔の夫にかわいらしく駄々をこねる。夫はやれやれと言わんばかりに大げさな仕草で肩をすくめた。

「それじゃあ、本日最大の功労者にはメインディッシュをご馳走しよう」

 芝居がかった言い方をしながら手先はよどみなく動いていく。六枚切りの食パンに満遍なくマスタードを塗り、レタスとたっぷりの玉ねぎを敷く。そこにうやうやしく鯖の唐揚げを鎮座させ、タルタルソースで余すところなくメイクアップ。最後にもう一枚の食パンをそっとかぶせて、真ん中を真っ二つにすれば、鯖の断面もあらわな、花も恥らう夫流サバサンドの出来上がりである。

 本当は塩鯖にバゲットで作るのが正式なレシピだったはずだが、さくさくの唐揚げにはやわらかい食パンがよく合う。小麦粉や片栗粉でなく唐揚げ粉を使っているので、鯖には最初からわりとしっかり味がついているのだが、マスタードのピリッとした風味と自家製タルタルソースの爽やかな酸味が加わるとかなり印象が変わる。しっぽりした小料理屋からこじゃれた喫茶店へ華麗なる転身だ。

「無限に食べられるわ……」

「太るよ」

 シンプルに真理を説くのはやめてほしい。

「でも確かに、思った以上に旨かったね。残りの鯖も唐揚げにしちゃう?」

 自分でもサバサンドを食べながら、夫が提案する。私は夫に手のひらを向けて、長めのシンキングタイム。サバサンドの最後の一口を名残惜しくも飲み込んでから、重々しく結論を述べる。

「……いや、残りは鯖味噌で」

「鯖味噌だって無限に食べたら太るからね」

「揚げ物よりはマシかと……」

 夫は微笑んだまま、無言で炊飯器を指差した。あ、白いご飯ね。進みますよね、箸。やいのやいの言うけれど、どうせ夫だって鯖味噌を前にすれば箸の休まる暇もないのだ。多めに米を研いでおこうと、ひそかに決意。


 無論、多めに炊いたはずの白飯は鯖味噌と共に全て胃袋の中へ収まった。一足す一が二になるが如し当然の帰結である。


 翌朝も、目覚ましが鳴る前に目が覚める。隣の夫もベッドを抜け出して、顔を洗いに行ったようだ。

 昨日買ったクロワッサンを楽しみに、私も布団をはぐろうとする。が、立ち上がった腰に妙な痛みがある。寝方が悪かったのだろうか。いや、痛みは腰から肩、二の腕を通過して、右手首まで到達している。昨日鯖とまともにバトった、MVPたるこの右手。

 寝室に戻ってきた夫が、突っ立った私を見て怪訝な顔をする。

「どうしたの、変な格好で固まって」

「鯖を捌いたら筋肉痛になった」

 ありのままの事実を告げると、夫はぷっと吹き出しながらダイニングに戻っていく。なんと薄情な、と地団太を踏もうにも腰が痛いので今回ばかりは勘弁してやろう、夫よ命拾いしたな、と上から目線で憤慨していると、薬箱に入っていたシップを手にとうの夫が再び現れた。前言撤回、うちの夫はよく気のつくいい子です。

 腰にシップを当てて位置を微調整しながら、夫が何気ない調子で言う。

「昨日、鯖をくれた人にお礼のメールをしたんだけどね。よかったら今度は一緒に釣りに行きませんかってさ」

「生魚触れないのに、釣りなんてできるの?」

「触れるけど?」

 おやおや、なんだか話が違うようですよ。

「だって、絶対魚下ろしたがらないじゃん。てっきり丸ごとの生魚が苦手なんだと」

「いやいや、下ろせるよ。俺職業調理師だよ」

 言われてみれば確かにその通りだ。全国チェーンのちょっといいホテルで働く夫は、そのレストランを職場としている。ベジタリアン仕様に衣替えしたという話は聞いていないから、当然魚料理だって提供するだろうし、魚だって捌くだろう。というかちょっと考えればわかるだろう、気付けよ私。

「じゃあなぜ私に鯖を捌かせたのか」

 夫の真実と自分のあほさに動揺して片言になる私。

「嫁ちゃんが奮闘してる姿がかわいかったから……?」

 二の腕にシップを貼りながら、悪びれもしない夫。おだてても騙されないぞ。というかせめて語尾のハテナは取ってほしい。

「ま、釣りのほうは期待しててよ。目指せ鯖三十匹」

「それは本当に自分で捌いてほしい。そして筋肉痛になるがいい」

「そんなつれないこと言わないでさあ。生ごみの後片付けもちゃんとやるし、なんでも好きな料理作るから」

 ふん、と私はそっぽを向いた。褒めて調子に乗せようったってそうはいかない。せめてもの反抗だ。夫が鯖釣りに動員される日までに、世界のありったけの美味しそうな鯖料理をググりまくってやる。

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