13. 愛に咲く花

「……」

「……」


 何秒か、何分か。五分は経っていないと思うくらいに時間が過ぎた。

 あたしが泣いて、郁弥さんも泣いて。二人でわんわん泣いて気持ち的にはすっきりした。心が羽のように軽い。今ならいくらでもお喋りできる自信がある。だというのにもかかわらず、なんとなく話しかけるタイミングを失って無言の時間が訪れてしまっていた。

 と、いうか。顔が見えない分、どう話せばいいのかわからないのよ。このままいきなり離れて見つめ合うのも照れくさいし、どうにか会話の糸口が欲しいところ。


「落ち着いた?」

「ひゃぅ」

「…ひゃう」

「ふ、復唱しないで!?」


 こんな糸口は求めてなかった!

 話しかけてくれたのはいいけれど、唐突過ぎて変な声が出たわ。でも…うん。これでお話はできそう。


「それより、ええと…いっぱい泣いてたわね?」

「うわ、気づいてた?」

「当たり前でしょ。あたしの髪しっとり湿っちゃってるのよ?」

「気持ち悪くない?」

「別に。あなたの涙でしょ?それを言うならあなたの服だってびちゃびちゃじゃない」

「まあそうなんだけど。日結花ちゃんが気にしないならいいや」


 お互い涙濡れな場所に触れながら笑い合う。

 涙で髪が濡れたくらいどうってことないわよ。郁弥さんの涙ならいくらでもって感じ。気になるのは涙に塩分が含まれているから乾いた後ちょっぴり髪がパサつくくらいかしら。海水と一緒よ、海水と。


「とりあえず、そう…いったん離れる?」

「やだ」

「そっか」

「だめ?」

「いいよ」


 あたしたちは未だ抱きしめ合ったまま。椅子に座りながらの体勢なので、少し前のめりになるような形を取っている。窮屈さというか、姿勢のきつさというか、そういう部分があることは否めない。でも離れない。離れたくないから。


「そこの二人、他人の目があることを忘れていない?」

「あ、知宵」

「"あ"じゃないわよ。あなたたちが話をする前に聞きたいことがあるのだけれど、いいかしら?」


 はぁ、とため息をついて聞いてきた。

 あたしは郁弥さんの肩に顎を乗せているので、はっきりと知宵の姿が目に映っている。

 こんな姿を見られて恥ずかしいのと、もうどうにでもなあれという気持ちと、あと感謝やらお礼やらありがとうやらで色々言いたくなった。ただ、今は知宵もそんな話は望んでいないと思うので、ぐっと口をつぐみ頷くだけに留めておく。

 こくりと頷いたあたしを見て、知宵も首を縦に振って口を開いた。


「まず日結花。"思い出の場所"というのはここだったのね?」

「うん」

「郁弥さん、あなたは知っていたの?」

「いや全然」

「…はぁ。よくすれ違わなかったわね」

「走ってきてよかったわ」


 もし郁弥さんが公園に行っちゃったとかだったら、探すのが大変だった。本当に間に合ってよかった。そのおかげでキスも――。


「~~っ!」

「日結花?震えているけれどどうかしたの?」

「な、なんでもない!」

「…日結花ちゃんの震えがものすっごくこっちまで伝わってくるんだけどね」

「き、気にしないで!」

「おーけー」


 さっきのことを思い出して、いっきに顔が熱くなった。今の状態で顔をぶんぶんと振るわけも行かず、結果ぷるぷる震えることになってしまった。

 郁弥さんと顔を合わせていないのが不幸中の幸いね。もし顔なんて合わせてたら、絶対唇とかばっかり気にしちゃうもの。


「そう。ならいいわ。もう一つ、彼――郁弥さんとは私が多くを、それはもうたくさん話させてもらったけれど」

「僕はそこ強調しなくてもいいと思うよ」

「事実は事実として認めないといけないわ」

「…はい」


 そんな郁弥さんと知宵のやり取りを挟んで、改めて親友の視線があたしに向かう。


「話が逸れたわね。日結花、あなたの方では決着がついた?」

「ん、大丈夫」

「そう」


 一言二言、交わしたのはそれだけ。それだけなのに、あたしの気持ちは十分に知宵に伝わった。そっけない返事ながらも、表情は嘘をつかない。ふっと浮かんだ微笑がすべてを表していた。


「ありがと、知宵」

「どういたしまして」


 短いお礼の言葉に返事だけして、くるりと背を向けた。

 もう一度心の中で"ありがとう"と伝え、知宵の気遣いを無駄にしないよう意識を引き戻す。これからはあたしと郁弥さんの時間。


「もうお話は終わった?」

「うん。終わったわ」

「僕がありがとうって言ってたこと伝えてくれた?」

「うん、今知宵も聞いて喜んでるわ」

「そっか。ならいいかな」


 ちらりとカウンター席を見れば、肩を震わせている親友の姿があった。見なかったことにして郁弥さんとの会話を続ける。



「ねえ郁弥さん」

「なに?」



「嘘をついてごめんなさい」

「…うん」



「ちゃんと言えなくてごめんなさい」

「…うん」



「振り回しちゃってごめんなさい」

「…ん」



「わがままばかりでごめんなさい」

「―――」



「悲しませてごめんなさい」



「甘えてばかりでごめんなさい」



「わかってあげられなくてごめんなさい」



「素直になれなくてごめんなさい」



「泣いてばかりでごめんなさい」



「信じてあげられなくてごめんなさい」



「―――日結花ちゃん」



 何かがこぼれるように続いた"ごめんなさい"は、郁弥さんがあたしの背中に回した腕を解いたところで止まった。


「あ…」

「ほら、また泣いちゃってるよ」


 優しく笑って、あたしの左頬に手を添える。あふれた心の雫が彼の指に沿って流れていった。


「泣いて、ないもん」

「そっか」

「…ん」


 くしくしと目をこすってから顔をあげると、郁弥さんは小さく笑ってあたしに言う。


「目が赤くなっちゃってるね」

「…んぅ」


 何も含むものがない、優しさだけの笑顔を見せられて何も言えなくなってしまった。


「日結花ちゃん」

「な、に?」

「僕のためにいっぱい悩んでくれてありがとうね」


 あたしにそんな顔を向けてくれる理由がわからなくて、言葉を探して俯いていたところに温かい言葉が降ってきた。

 目の前には柔らかく微笑む郁弥さんがいる。


「僕はね。怖かったんだよ」


 こちらに手を伸ばして、ぽんと頭に手を乗せる。そのままゆっくりと撫でてくる。くしゃりと自分の表情が崩れてしまい、涙がこぼれそうなのを懸命にこらえて耳を澄ませた。

 あたしが返事をしようとするのを首を振って止め、一人話を続ける。


「日結花ちゃんと恋人になることが怖かったんだ。恋人になって、結婚して、家族になって。そうやって変わっていくことが怖くて、咲澄日結花という女の子の人生を背負うことが怖かったんだよ」


 あたしの頭を撫でる手が止まって、そっと自分の前に持っていき手のひらを見つめる。何かを恐れるように、手が揺れていた。


「笑えるよね。恋人一歩手前まで来てそう思っていたんだから。今さら怖気づいて、ずっと逃げてたんだ」


 震える自分の手を見て、苦笑して手と手を合わせてさする。


「日結花ちゃんと一緒に幸せになるだなんて、できるのかなってさ。こんな僕が、自分一人幸せにできない僕が、人を幸せにできるのかなと思って。まして相手が日結花ちゃんだ。…ううん、これは言い訳だね。誰が相手でも、僕はきっと歩かなくなっていたよ」


 これまで話してきた、あたしの知っている郁弥さんを考えるとよくわかった。ひとりぼっちで、寂しがりで、臆病な人。

 あたしは何も言ってあげられないから、せめてと彼の手に自分の手を重ねた。すっと視線が絡み、彼の瞳が温かな光を湛えた。ぎゅっと重ねた手に力が込められ、それを返すように手を握った。


「だから、かな。僕が日結花ちゃんと恋人になってからもずっと変わらなかったのは」


 "ごめんね"と、改めて目で伝えてくる郁弥さんに首を振って答えた。

 手を繋いでいるおかげで、彼の気持ちがさっきよりも伝わりやすくなったような気がする。気のせいでもいい。あたしがそう思って、郁弥さんがそう思ってくれているから、それだけでいい。


「自分ではちゃんと距離を縮めているつもりだったけど、実際は友達だった頃と同じまま。一年間も近づくことを避け続けて、キス一つしなかった。その結果が今の僕らだ。日結花ちゃんも僕も、わあわあ泣いちゃったよね」


 後悔したような言い方なのに、表情にはその後悔がまったく見えない。明るく笑って言葉を続ける。


「僕たち、これまでも間違いだらけだったよね」


 問いかけてきた郁弥さんに、あたしも口を開く。


「そうね。失敗だらけだわ」


 間違えて、失敗して、躓いて、立ち止まって。上手くいっているようで全然上手くいっていないのがあたしたちだった。


「表面だけはそれっぽかったのかな」


 なんて、笑いながら言う。

 あたしもちょうど同じことを考えていたため、軽く笑って頷いた。


「あたしは、少なくともそれぞれのデートはちゃんと楽しんでいたわよ」

「それは僕もだよ」

「じゃあどうしてこんなことになったのよ。あたしたち、二人揃ってばかみたいじゃない」

「あはは、そうだね。僕らがもっと賢かったら、こんなすれ違い起きなかったかもね」


 ぎゅっと手を繋ぎ話しながら、今までの自分たちがどれだけばかだったのかを二人で笑い合う。

 ふぅっと一度息を吐いて、郁弥さんは話を続ける。


「これからもいっぱい問題が起きるかもしれないけどさ」

「できるだけ起こさないように努力はするわ」

「ふふ、僕も努力はするよ」


 繋いだ手を一度解き、彼の動きに合わせて正面で指を絡めて繋ぎ直す。


「だからまた、日結花ちゃんの恋人として過ごさせてもらえないかな」

「――うん。よろしくお願いします」

「こちらこそ、よろしくお願いします」


 ごく普通の会話の流れでも、"あぁそう言われるかな"とは思っていたから、なんとなく敬語で返事をしてしまった。郁弥さんも同じく敬語で返してきて、見つめ合って二人で吹き出した。


「ふふ、なによもう。いきなり敬語なんて変なの」

「日結花ちゃんこそ、すごい珍しい敬語だから僕も敬語になっちゃったよ」


 指を絡めて、顔を合わせて。そんな大袈裟な雰囲気でもないけれど、これが今のあたしたちだって思える時間が流れる。


「日結花ちゃん」

「なに?」

「ちょっとだけ目を閉じてもらえる?」

「ん」


 瞼を閉じて、リラックスしたままほんの少し顔を上向きにした。


「ちゅ」


 柔らかな触れ合いはほんの少しの間だけ。

 温かな身体が離れて、ゆっくりと目を開けたら照れたようにはにかむ郁弥さんがいた。


「どうだった?」

「そんなのあたしに聞かないでよ。郁弥さんの方こそどうなの?顔赤いわよ」

「日結花ちゃんだって顔赤いよ。でもまあ僕は、嬉しいかな。照れくさいけど」

「あたしもよ。嬉しいわ。すっごく恥ずかしいけど」


 にやにやと上がりそうな口角を抑えようとして、抑えきれずに笑みをこぼす。自分の顔が満面の笑みになっているのを自覚しながら恋人の顔を見て、別の意味でもう一度笑った。


「郁弥さん」

「日結花ちゃん」


 声をかけたタイミングは同じで、それでも言葉は止めない。だって、今から伝える言葉は同じだから。

 ぎゅっと繋いだ手に力を込めて、返ってくる感触に頬を緩めながら"その言葉"を伝えた。


「好きよ」

「好きだよ」


 改めて二人で"好き"を伝えあって、あたしと郁弥さんは示し合わせたように笑顔の花を咲かせた。




 それから少しして、こんな話もあったのだけど――。


「そういえば日結花ちゃん。旅行の話だけど」

「ん?え、もしかして一緒に行ってくれるの?」

「はは、まあそんな感じの話をね」

「行くわよ絶対行く。今度あたしの家で計画立てましょ?ね?」

「うん。了解。楽しみだね」

「うふふ、楽しい旅行にするわよー!」


 ――それはまた、別のお話。





 どこにでもあるありふれた一日の出来事は、彼女が成長しただけじゃない。僕が、藍崎郁弥が成長したものでもあった。

 自分しか見えていない。いいや、見えているようで見えていなかった自分のことを見て、彼女からもらったものに気づいて、そうして止まっていた足を動かし始めた。

 確かにある人との繋がりを胸に、僕は僕の道を歩いていく。躓いて、転んで、立ち止まって、間違えながら二人分の幸せを追い求めていくのだ。


 この短い一幕で、僕は、藍崎郁弥は咲澄日結花に二度目の恋をした。それはきっと、本当の意味での恋なのだろう。

 間違いも、失敗も、問題も。何が起こるかわからない未来だけれど、隣に立って歩けるように、手を繋いで進めるように、離れず離さずいられるように、人生を賭けて愛していこうと、そう心に刻んだ。

 これは、僕と彼女が前に進むためのお話。傷ついて、傷つけて、そうして手を取り合って。二人一緒に前に進むためにあった大切な、とても大切な日の出来事。

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恋よりさきのその先で 愛の花編 坂水雨木(さかみあまき) @sakami_amaki

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