12. 泣き虫な二人

「日結花ちゃん、どうしてここに?」

「だ、だってあなたの思い出が詰まっているのはこのカフェだから」

「そっか」


 まずはそう、状況の整理をしましょう。呼吸を整えて現状確認よ。

 郁弥さんと知宵のやり取りを見て聞いていて、途中で音声が切れたでしょ?片方の画面も切れて、そのままつかなかったから知宵のつけ忘れね。一応カフェ内のカメラからも音声取れていたけど、話し声はあんまり聞こえなかったから曖昧な感じだったし、それでこっちに来たのよ…。

 知宵には"思い出の場所"とか連絡入れておいて、そのまま二人でカフェにいてもらおうと思ったらこれ。

 ちょうど郁弥さんが"ルミネ"を出ようとしていて、あたしもドア開けようとしたらばったりと。


「――日結花ちゃん?」

「ん、な、なに?」


 声をかけられて我に返る。走ってきたから全身熱いし、頭も熱くて考えがまとまらない。

 画面越しではなく、目の前にいる郁弥さんを見て今さらながら身体に緊張が走る。手先がきゅっと痺れるような感じがした。


「ぼうっとしてたからさ。大丈夫?」

「だ、大丈夫よ。ええ、大丈夫」


 心配そうな目に心が痛む。

 途中までしか話は聞いていないけれど、それでもこの人がどれだけ悩んでいたのかわかるから。自分が悪いことをしたってわかっているから、つい目をそらしてしまった。


「とりあえず座る?急いで来たみたいだから暑いよね」


 あたしの内心を知ってか知らずか、自然な笑顔で席を進めてくれた。カウンターの近くのテーブル席。汗を拭う時間もなく、額に滲む汗をそのままにしてきたため遠回しに汗拭いた方がいいよと言われた気がした。

 郁弥さんにそのつもりがあるかどうかは置いておいて、あたしが汗をかいているのは事実で恥ずかしいのも事実なので、そそくさと座らせてもらった。ついでに鞄からタオルを取り出して汗を拭う。

 お化粧はさっき泣いたときに崩れてしまったので、軽く手直ししただけ。もともとガッツリファンデーションやクリームを塗り重ねているわけではないため、その点は問題ない。


「お水飲む?」

「…うん、もらうわ」


 いつの間にか水の入ったコップを手にしながら聞いてきた。気遣いがすごすぎてあたしの中の申し訳なさ度が上昇していく。

 断るのもあれなので、好意には甘えてお水はもらった。冷えた水が火照った身体に心地いい。


「外はどう?晴れたままだった?」

「え?ええ、晴れたままよ」

「冬晴れの空は綺麗だよね。冬は乾燥して水蒸気が少ないから空が綺麗に見えるらしいけど、この辺じゃあんまり変わらないよね」

「そう、ね。星を見たいなら標高の高いところに行かないといけないってテレビで見たわ」


 満天の星空が広がる景色を見るために、冬の夜中にどこかの山の上に集まるって聞いたわ。星は映像にも映らないからその場でしか見えないし、あたしも行ってみたいなぁって思ったのを覚えてる。


「そうそう。日結花ちゃんはそういう、こう、どこか遠出までして天体観測とかしたことある?」

「ないわよ。郁弥さんは?」

「僕もないよ。プラネタリウムなら行ったことあるけどね」

「ふふ、それならあたしもあるわよ」


 冗談めかして言うので、あたしも軽く笑って伝えた。


「そう?普通そっか。でもいつか行ってみたいんだよね。海外とまでは言わないからさ」

「海外?」


 突然出てきた単語を聞き返す。なんとなく聞いてほしそうな雰囲気も出していたので尋ねてよかったと思う。尋ねてすぐに嬉しそうな顔でうんうん頷くのでやっぱり正解だった。


「うん。知ってる?ウユニ塩湖って」

「あー、有名なやつよね?」

「たぶん日結花ちゃんが思ってるので合ってるかな。全面水が張っていて、空の景色を地面が写し取るんだ。どこだっけ?ちょっと調べるね」

「合ってたわ。場所はあたしも覚えてないかも。かなり遠かったと思うけど」


 ちょこちょことお水を飲みながら目の前に座る人を見つめる。携帯を取り出してさっと調べるのにかかった時間はごくわずかで、こちらを見て目が合ってしまい慌ててそらした。


「ボリビアだって。南米だね」

「そっちの方だったのね。時間はどれくらいかかるの?」

「えーっと…ここには書いてないな。アメリカを経由するからそれなりじゃないかな。僕はアメリカも行ったことないからわからないけど」

「あたしもアメリカ行ったことないわよ。どっちにしてもあれね、遠いってことね」

「だね」


 ほどほどに会話をしていたら、徐々に暑さも引いてきた。コートは智美たちがいる場所に置いてきたから熱の引きが早いのかもしれない。


「写真見る?」

「見たい見たい」

「はい」

「ありがと」


 すいっと渡された携帯をスライドさせて、いくつかの写真を見る。どうやら郁弥さんが見ていたのは旅行サイトのようで、ウユニ塩湖ツアーや旅費から写真までと色々載っていた。

 写真はどれも美しく、星々輝く夜空だけでなく雲一つない青空も目を引いた。それに加えて説明文の"天空の鏡"という言葉が印象に残る。


「すごく綺麗だったわ。携帯ありがとう。でも"天空の鏡"って、一回見てみたいものね」

「そうだね。だいたい五十万くらいで行けるみたいだよ?」

「らしいわね。あたしもそこ見たわ」

「日結花ちゃんなら行けるんじゃない?」

「それはそうかもだけど、遠いし怖いし絶対一人じゃ行かないかな」

「ま、そうだよね」


 頷きながら携帯を鞄にしまって、郁弥さんもあたしと同じように手元のコップを口に持っていった。

 彼の動きを目で追っていたため、つつっとそのまま視線が絡む。


「……」

「……」


 さっきまで変に緊張していたのに、今ではそれもなくなっている。目を合わせて、何も言わない優しい人に自然と口が動いていた。


「何も、言わないのね」

「うん」


 ただ頷いて、あたしの言葉を待っていてくれる。ここまで雑談を続けてくれたのは全部あたしのため。もしまだ言えないなら、きっといくらでも日常会話に付き合ってくれる。そう思うと、重たい口が嘘のように軽くなった。


「ごめんなさい」

「いいよ。許します」


 至極あっさりと、短い返答だった。まさかと思って下げた頭をあげてしまったくらいには緩すぎる声音だった。


「あなたは、それでいいの?」

「いいよ。その代わりと言うのもなんだけど、隣に行っていいかな?」

「う、うん。構わないけれど…」


 相手の対応に拍子抜けしてしまい、戸惑いを抱えたまま返事をした。

 郁弥さんは席を立ってするりと歩いてあたしの左隣に座る。


「こっちを向いてもらえるかな」

「いいけど、なにをすりゅ!?」


 少し椅子を引いて、向き合うような形を取ったら急に抱きしめられた。抱きしめられた!


「日結花ちゃん。好きだよ」

「あ…」

「もし今もまだ僕が好きなら、目を閉じてくれないかな」


 そっと身体を離して、あたしの肩に手を置いたまま問いかけてくる。瞳からは"拒んでくれてもいい、離れてくれてもいい、好きにしてほしい"という想いが伝わってきた。

 何も言わず、彼の言葉に従うようにぎゅっと目を閉じる。この後何が起きるかわかっていて――。


「――ちゅ」


 ほんのりと、柔らかな温もりが唇に触れる。触れ合うときに聞こえた小さな音が頭の片隅に残り、あとはすべて別のことで埋め尽くされた。

 優しく丁寧に背中へ回された腕に包まれ、行き場のない自分の手をおそるおそる相手の身体に回す。

 触れ合っていた時間はどれだけか。息が苦しくなることもなかったため、きっと十秒にも満たない時間。それなのに、長く長く、永遠のように感じた。


「ふぁ…あ、え…な、なんで?」


 柔らかな感触が離れて、身体を包む温もりも離れて、そこまできてようやく目を開けた。もしかしたらと思っていたことでも、実際にされたら動揺して声が上ずってしまった。


「待たせてごめんね」


 頬に手を添えられて、ただそれだけを言う。

 それだけ、それだけの言葉なのに、彼の言いたいことのすべてが詰まっていた。


「あ…や、やだ…だめ…っあ…」


 言いたいことはあるのに、言わなくちゃいけないこともあるのに、全部全部言葉にできずに消えていく。言えない言葉の代わりのように涙がこぼれてしまった。


「ごめんね」


 ―――ぎゅっ。


 謝りながらぎゅぅっと抱きしめてくる。

 彼の首元に顔を埋めながら、どうしようもなくあふれる気持ちを無理やり声に出した。


「ぅう、ぐすっ…なん、で。なんでっ、あ、あたし…あなたのことっ、ぐす…」

「待っていてくれてありがとう。我慢させたよね。時間はかかったけど、ちゃんと好きだから。日結花ちゃんが大好きだから。僕を好きでいてくれてありがとう」


 語りかけるように、抱きしめて撫でながら言葉を紡いだ。

 言葉の一つ一つが心に染み渡り目元が熱くなる。


「うぅ…ぐす、ひっく…おそい、おそいわよばかぁっ」


 こんなことを言うつもりはなかったのに、本当はもっと言いたいことがあるのに。大好きだって伝えたいのに、いっぱい謝らないといけないのに。

 全然違うことしか言えなくて、まともに返事もできなくて、だからせめて抱きしめることだけには精一杯力を込めた。


「ごめんね、ありがとう」


 優しく、優しく声をかけてくれる。大好きな人の、大好きな声が、優しい手の温もりと一緒に降りてくる。固まっていた心を解すようにゆっくりと撫でられて、その分だけ涙があふれてしまう。


「ひぐ…ぐす、っすん…ずず…ぐす」


 抱きしめないで、撫でないで、優しくしないで。もっと怒って。

 何一つ伝えられないことがもどかしくて、口に出せない自分が悔しくて、気持ちが伝わるようにと顔をぐいぐい押し付けた。


「落ち着くまで待つから大丈夫。側にいるから」


 ふるふると首を縦に振って、泣きながら意思だけを伝えた。

 彼の声が震えていて、あたしの髪が濡れて冷たくなっていることに気づいてまた涙があふれた。まだ少し、時間がかかりそうだった。

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