隣の歌声

延暦寺

約束

 午後五時。昼の拷問よりかは少し涼しいものの、依然として蒸し暑い。

 じっとりと汗ばんでいる。一刻も早くお風呂に入りたい。


 なのに、私がまだお風呂に入らず、部屋でボーっとしているのは、それよりも大事なことがあるからだ。この時間だけが、私が生きていることを感じさせてくれる。そんな気がする。


 じっと、耳を澄ます。やがて、微かだけど、確かな歌。


 隣の家から聴こえてくる。私を満たしていく。深く。深く。


 彼は、今日も歌っている――





 4分33秒。きっかり。





 ふう、と私はため息をつく。純度の高い静寂。


 ドアがノックされて、開いた。母だ。


「早く、お風呂入りなさい」

「うん。今入る」


 それから母は、ちょっと躊躇して、それから言った。


「今日も?」

「今日も……明日も、明後日も、その次も」

「そう……」


 母はまた何か言おうと口を開きかけて、でも止めた。悲しそうな眼を残して、母は部屋を出て行った。


 どうしたのか。なんていうつもりもない。でも、それが本質でもない。


 彼は私に歌を作ってくれるといった。とびっきりのラブソングを。


 私は待っているといった。約束した。


 それが、全てだ。

 それが、本質だ。

 それが、生きる価値だ。


 だから私は、明日もあの沈黙を聴く。

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隣の歌声 延暦寺 @ennryakuzi

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