武蔵野子育てネットワークへようこそ!
成井露丸
👩👦
ICカードのICOCAを読み取り機に当てると、地元の改札機と変わらない電子音が鳴って
――でも、今日からここが「地元」なんだよね!
自分を奮い立たせるように息を吐く。
美月はスマートフォンを開いて地図を確認すると、新座駅の構内を見回した。慣れない駅はいつも方向に戸惑う。
北口の表示を見つけると腰の後ろを叩いて「よし」と気合いを入れた。まだ幼稚園の子供は両親に預けて一足先に現地入り。夜に両親が一緒に来てくれるはずだからそれまでに色々な手続きを済ませてるのだ。
――それにこの街のことを少しでも知らなくちゃいけない。
「――おまたせ! 萩原美月さんよね?」
「はっ……はい! よろしくお願いします! わざわざお迎えありがとうございます!」
目の前に止まった空色の軽自動車から降りてきたのは黒縁メガネの少し大柄な女性だった。メールでは「私、アラフィフのおばさんだから! お婆さんじゃないけれどね!」と書かれていたので、自分より二十歳近く年上の女性のイメージを作っていたけれど、とても若くてエネルギッシュな風貌で驚いた。
「良いって、良いって。遠くから大変だったでしょう? 乗って乗って!」
「――あ、あっはい!」
彼女は颯爽と歩道まで来るとスーツケースをひょいと持ち上げ、トランクへと入れてしまった。美月は流されるがままに助手席へと乗り込んだ。
「ごめんねー、バタバタしちゃって。駅前は駐禁も厳しくてさ〜。あまり長く停めていたくなくてね」
「いえ、こちらこそ、ありがとうございます。駅前まで迎えに来てくださるなんて、恐縮です――えっと」
「
ステアリングを握って前を見たまま、そう言ってくれる坂崎さんの一言。見知らぬ街で生活を始める美月の胸に広がっていた不安が少しだけ和らいだ。
信号が赤になって止まり、また青になって車は走り出す。
車内には美月も聞いたことのある、最近の流行歌が流れていた。
☆
市役所で転入届を出してから、不動産屋さんに移動。
担当の人と合流して、鍵の受け渡しをしてもらった。
それから引越し業者からの携帯での連絡を待つ。
トラックの到着時間が分かったから、「それまでの間に昼ごはんでも食べに行く?」と坂崎さんが言うので、美月はコクリと頷いた。「じゃあ、ついでにこの辺りの買い物スポット教えるね」と、アフラフィフ先輩の王子様みたいなエスコートに美月は惚れ惚れしながら頷いた。
車を駐車場へ停めて、ショッピングモールの中へ移動。
4階建てのショッピングモールは奈良の郊外にあったイオンみたいに大きくはなかったけれど、百円均一の店や子供服の店もあって便利そうだった。
「徒歩だとちょっと距離あるけれど、萩原さんの立地だとヘビーユーザになるかもね! 車があれば他の選択肢も広がるんだけれど、無いんだっけ?」
「――はい。あったほうが良いって聞くんですけれど、ちょっと維持費とかも不安で……どうしても必要になったらって買おうかと」
首を竦める美月に、「心配ない、心配ない。困ったらまた相談して!」と坂崎さんは笑った。
それからイタリアンバイキングのレストランでお腹いっぱいのランチを二人で食べた。
新居となるアパートへ戻ると、ちょうど引越し業者が到着するところだった。
手際の良い搬入作業を邪魔しないように見ていると、、荷物も少なかったからか、あっという間に荷物は降ろされた。威勢よく「ありがとうございました!」と挨拶をした男性二人を乗せたトラックはブロロロロと去っていった。
「――簡単に開梱しちゃう? 最低限、今夜寝る場所がないと困るでしょ?」
「ええ? 悪いです坂崎さん! そんなことまでお手伝いしてもらうなんて」
「いいって、いいって。今日は私が萩原さんの助っ人だから。何だってやっちゃうよ!」
逡巡している間に坂崎さんは「まずは寝具関係だよね?」と呟いて、颯爽と開梱作業に取り掛かる。その背中を「ハイ!」と美月は追いかけた。
持つべきものは人生の先輩だろうか。驚くべき手際の良さで開梱作業と簡単な掃除を終えた二人は昼下がりには一旦休憩出来る状態まで到達した。それにしても軽自動車に掃除道具一式まで載せているとはさすが子育てネットワークの代表――恐るべしである。
美月は胸の中で先輩への憧れを膨らませた。
開梱作業を半分終えて、少し埃っぽい部屋の扉と窓を全開にしていると、涼しい風が吹き込んできた。
☆
萩原美月は小高い丘に立っていた。少し時間があるからと坂崎綾子に連れてこられたのだ。そこからは新座の街が一望できた。この辺り一帯は――武蔵野とも呼ばれる。
「ゆく末は 空もひとつの 武蔵野に 草の原より 出づる月影」
歴史の向こう側にある武蔵野をイメージして、そんな和歌が唇から溢れた。
「へー。
振り返ると自動販売機で買ったミルクティーを二つ持った坂崎さんが立っていた。
聞かれているとは思わなかったから、思わず美月は赤面してしまう。
そのうちの一つを受け取る。温かかった。
「坂崎さんも、ご存知なんですね」
「ま〜ね〜。地元民だし、あと、こういう仕事柄、観光案内とかもするから。風土記的な知識は豊富な方よ? でも、そういうの知っている人が来てくれるのは嬉しいな。萩原さん、大阪だっけ、引っ越してきたの?」
「えっと、奈良です」
「奈良か〜。大仏? こっちじゃ鎌倉のイメージかなぁ?」
「あはは、奈良市はそうかもですけれど、私の住んでいたのは大阪の近くでみんなが大阪に通勤するベッドタウンでしたよ」
「あ、じゃあ、新座と同じだね。埼玉で東京のベッドタウンだし」
そう言って可笑しそうに笑った坂崎さんが紅茶の缶を「乾杯!」と、近づけて来たので美月はそれに自分の缶を当てて「乾杯」と応じた。
「ねえ、萩原さんは、どうして新座に来ようと思ったの? お子さん一人つれてシングルマザーで独り立ちは大変でしょう?」
繊細な話題だったけれど、美月はそうやって踏み込んでもらえるのが、なんだか嬉しかった。親身になってもらえてるって分かったから。
「えっと。こっちで仕事を紹介してもらえたからっていうのもあるんですけれど、ちょっと向こうで色々あって――心機一転したかったのもあるんです」
一年前に夫が死んで、その会社の社宅に住んでいた美月には、それからも色々なことがあった。傷心の上に、辛いことや悔しいこと、それから人間関係。
「――それに、昔から好きだったんです。武蔵野って風景が。和歌に詠まれたり、随筆に描かれたりする、武蔵野の風景が」
そう言って美月は目を細める。でも丘から見える景色は、そんな物語の武蔵野ではなくて、典型的なベッドタウンだった。
「がっかりした? この風景に? きっと百年前から武蔵野は変わっちゃったからねー。典型的なスプロール化現象。武蔵野らしい武蔵野は無くなっちゃったって言う人もいるの」
「――そうなんですか?」
「うん。まぁ、首都圏だし、いつまでも長閑な風景は残らないよね。でもね。そういう土地の記憶って大切にしたいよね? 萩原さんみたいに、そういう記憶を好きでいてくれる人もいるんだから」
美月は「そうですね」と頷いた。
すると坂崎さんは「あ、そうだ!」と言ってショルダーバッグの中をごそごそ探ると、一枚のタブレットを取り出した。
画面をスワイプしてロックを解除すると、画面をタップして一つのアプリを起動する。
そしてそれを坂崎さんは新座の街に向けてかざした。
「あ――綺麗――!」
見せられた液晶画面を美月が覗き込むと、そこには黄金の穂が揺れる武蔵野の原野が広がっていた。それはまるで時間を超えるタイムトラベルの窓みたい。タブレットの向こう側の武蔵野は、美月が描いていた武蔵野の世界そのものだった。
そんな美月の嬉しそうな顔を見て、坂崎さんはニンマリと笑う。
「これは国の助成金を貰って作った
美月は手渡されたタブレットをかざす。一面の
空にかざすと、東の空に綺麗な月が浮かんでいた。
荻の原と、美しい月。死んだ夫の姓と、自分の名前。
――それが武蔵野に恋した理由で、ここに住みたいと思った理由でもあったから。
☆
坂崎さんと別れて駅前で子供と両親の到着を待つ。
もう日は落ちている。あの子はきっと眠くなっているだろう。
電車の到着時刻になって改札口に人が溢れだした。
美月は柱に背を預けながら、今か今かと到着を待つ。
やがて階段口から少しおめかしした両親と、二人に手を引かれた子供の姿が現れた。
美月は思わず駆け出しそうになったけれど、我慢して改札出口でじっと待つ。それでも両手は大きく振りながら。
丘の上から武蔵野を眺めていた時に、坂崎さんがくれた言葉を思い出す。
『萩原美月さん――武蔵野子育てネットワークへようこそ! 困ったことがあったら何でも言ってね。私たちは新しい仲間を歓迎するわ!』
古い景色をイメージの中に抱えながら、新しい姿に変わり続ける街。武蔵野に抱かれたこの新座の街で――私は新しい生活を始めるのだ。
新しい街での生活は不安だらけ。でも子供と二人で生きていくこの街に、今はなんだか夢が膨らんだ。
改札口で背伸びをして切符を入れた子供が、美月に向かって勢いよく駆け出す。美月が両手を広げて受け止める。
そんな姿を改札口から美月の両親が微笑ましそうに眺めていた。
武蔵野子育てネットワークへようこそ! 成井露丸 @tsuyumaru_n
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