宝石の蒸発

夏木郁

宝石の蒸発

 スチカという女神がいた。夜空を変幻自在に飛び回る活発な神であった。彼女の飛翔した痕跡は、光となって宵闇の大空に輝いていた。

 百五十年前、勇猛の戦神アダシアとの間に子供を身ごもった。しかしアダシアには妻がいた。不貞の子であった。

 この不義にアダシアの舅は激しい怒りをあらわにした。スチカは天上の世界から追放され、アダシアはしばらく暗闇に閉じ込められることになった。


 スチカは地上を彷徨い続け、やがて子を産むに相応しい小さな洞窟を発見した。産み落とすや否や、赤子はたちまち岩にへばりついて増殖を始め、壁一面に広がった。透き通った美しい金剛石ダイヤモンドである。

 そのまま、女神は力果てた。その時、女神の体は実体のない煌めきとなって洞窟の外まで散らばった。その輝きは月よりも明るく、海を隔てた遠い王国の宮殿から目視出来るほどであった。

 宮殿の窓からその光を眺めていた王は、天変地異の予兆を疑った。すぐさま軍隊を派遣し、洞窟を発見した。

 美しき宝石あり、との一報を伝えられた王は自ら洞窟へ赴いた。そして洞窟の入口に立った時、幻と見まごうような光景に息を飲んだ。わが物にしたいと思った王は、宝石を新たな宮殿に飾り立てた。また、その宮殿を誰でも自由に出入りできるようにすることで、肥大な顕示欲を満足させた。

 その宮殿は、今では《宝石の館》と呼ばれている。




 王都から歩いて一月かかる沿岸の町で、カエカは生まれ育った。この地域では一般的な栗色のくせ毛を、短く切り揃えている。青い瞳をした、十六歳の少年である。


 幼い頃、祖父に「宝石を神々から貰う方法」を教えてもらって以来、彼は宝石に目が無かった。

 宝石は神々の子供である。

 人間が食物や草花や詩を献上すると、機嫌を良くした神々が子供を預けてくれることがあった。与えられた宝石は、人間が一生手元に置くことができ、世を去ると同時に神の元へ返される。

 宝石の貰い方は地域や相手によって千差万別である。祖父が教えてくれたのは、この町で受け継がれてきた方法だった。

 この町の豊饒を司る女神は、新月の夜にだけ、宝石を分け与えてくれた。



 ある新月の夜、カエカ少年は浜辺に向かった。農業を営む両親の仕事を手伝った褒美に貰った一掴みのオリーブと、二月かけて集めた桜貝を海水に浸す。どちらも女神の大好物だ。

 少年はその場に座り込み、女神の美貌を称える詩を朗詠した。

 すると、風が起きた。風は少年の周りをぐるっと一周し、煌々と桜色に輝いて海水に溶け込んだ。風と波が溶け合い、底の土がかき混ぜられる。その激しい動きが収まる頃には、オリーブと桜貝が消え、代わりに青く清らかな藍玉アクアマリンが置かれていた。

 カエカはしばらくの間、波に衣服が濡れるのも気にせず宝石を眺めた。こんな風に、宝石を貰う夜が至福の時間であった。



 かつて祖父が言っていたことを思い出す。

「都には、《宝石の館》と言う建物があって、そこには女神様の御子が眠っているんだよ。おじいちゃんは、若い頃一度だけ都に行ったことがあってね、その金剛石をこの目で見たんだ。それはもう、本当に美しかったんだよ。」

「どんな風だったの?」

「《館》に入った途端、海に潜ったような気分になった。海中に陽の光が差し込んだように、そこら中キラキラ輝いていた。それに、世界中の美しい色を閉じ込めた箱のようにも感じたよ。ある宝石は薄い黄色、ある宝石は鮮やかな赤紫、とにかく数えきれない種類の色があるのだけれど、お互いに喧嘩せず調和しあっていた。」

「凄いなあ……ボクも見てみたい。」

「カエカは、宝石を貰うのが好きだから、いつか見られたら良いね。」

「たくさんの宝石に囲まれて暮らしたいんだ。毎日貰った宝石を見つめていたい!女神様の子供も、ボクのお部屋に置けたら良いのに。」

「あの宝石は王様の物だから、いくら何でも無理だろう。……でも、都に住む人は毎日あれを見られるのだから、羨ましいと思ったよ。」

「じゃあ都に住む!」

「……大人になったら旅で訪れれば良いさ。そのためにも、お父さんたちの仕事を頑張って手伝わないとね。」

 祖父の言葉は、カエカの耳には届かなかった。少年の頭は金剛石でいっぱいだったのだ。その日から、都に住むことが彼の目標になった。



 本来、カエカは両親の仕事を引き継いでオリーブ農家になるはずだった。しかし、詩の才能があったため、詩人になる道が用意された。

 詩人は神に仕える要職で、カエカは土地の神々に豊年満作を願う詩を奉納する仕事を任されていた。祭祀で朗詠される詩の出来栄えは神々の機嫌を左右し、ひいてはその一年の命運を決定づけるものである。カエカはその詩才を如何なく発揮して、人々の生活に安寧をもたらした。

 やがて彼は評判の人となって、一帯に令名が聞こえた。峠を三つ越えた町の母親が、我が子を叱る文句として「カエカ様を見習いなさい」と口にするほどであった。 

 そして、ついには神官の娘との縁談が持ち上がった。

 神官一族は神々と直接やり取りできる数少ない存在であり、事実上の町の指導者である。当代の神官には娘しかいない。すなわちこの縁談は、カエカが次代の指導者になることを意味した。オリーブ農家の息子が、高位の神官に成り上がるのである。この上ない誉れに、周囲の人々は諸手を挙げて喜んだ。町行く彼に祝いの言葉を述べない者はいなかった。

 しかし、彼の心は虚しかった。下手に地位や妻子を得てしまったら、この土地から離れられなくなる。彼の心配は、もっぱら都に行けなくなることにあった。権力も財宝も足かせにしかならない。

 詩人とは言えまだ若く位の低いカエカが、この縁談を断ることは出来ない。「十七の誕生日まで返事を保留にしたい」と伝えてはいるが、それも半年の猶予である。カエカは焦った。

――都に仕官すれば良い。

 大義名分を用意すれば、さすがの神官も手を引かざるを得ないだろう。

 そう画策したカエカは、考え得る限りの伝手に当たった。いつか都に行くためにコツコツと築いてきた人脈が役に立った。すると、オリーブと材木の交換に訪れた行商人に、親戚が都で王族に仕えているという者がいた。行商人の手に、詩人の地位を利用して得た宝物をありったけ持たせてやって、その親戚に推薦状を書いてもらうよう頼み込んだ。それから三か月経った頃、都から「神職に任命す。春に都へ参上すべし。」との王命が届いた。カエカは、今度こそ天にも昇る気持ちであった。

 目論見通り縁談は取り止めになり、町総出で彼の栄転を祝福した。カエカの生家には連日連夜人が集まりお祭り騒ぎになった。

 そして都へ出発する日がやって来た。見渡す限りの快晴、前途洋々の門出であった。



「カエカ様は、どうしてそこまで都へ行きたいのですか?」

 案内人として、従者が一人付き添っていた。名はサテラスと言う。カエカより十歳年上の純朴な男である。道すがらカエカが語ったこれまでの経緯に、サテラスは純粋に疑問をぶつけた。彼は都にも宝石にも大して惹かれなかったから、カエカのこだわりが理解出来なかった。

「町の神官になれば、いくらでも欲しいものが手に入りましょう。」

「私が見たいのは《宝石の館》に納められた宝石だって言ったろ。いくら権力があっても、王が所有する宝石を奪うことは出来まい。」

「宝石をご覧になるだけならば、旅行で十分では?神官の長になれば、それこそ思いのままにどこへでも行けるはず……」

「全く、君は分からず屋だな。」

 なおも食い下がるサテラスに、カエカは苛立ちを禁じえない。少し語気を強めて彼の言葉を遮った。

「良いかい、都に住むことに大きな意味があるんだ。そうすれば、いつでも宝石に会いに行ける。あたかも自宅の庭に宝石があるような生活が送れるんだ。」

「金剛石を"手に入れた"としても、また更に欲望が生まれるかもしれませんよ。」

「上等じゃないか。そのために再び努力するまで。」

 辺地に生まれた者が、都で職を得るなど普通は不可能である。しかし、彼は己の才能に揺るぎない自信を抱いていた。土地の神からもらう宝石、詩人の要職、そして都の宝石、得ようと思えば得られない物は一つも存在しないと信じている。事実、全てを手に入れられる実力があったからこそ、カエカの欲望には歯止めが効かなかった。欲望の小さい者ならば、どこかで諦めて折り合いをつけられたかもしれない。

「都へ行くことが、私のたったひとつの望み。私にとって幸福を射止める唯一無二の方法なんだよ。」

 都へ着いたら、真っ先に《宝石の館》へ向かうと決めている。そして生涯の伴侶として誓いを立てよう。宝石との甘い結婚生活を夢想して、カエカは悦に入った。


――百年に一人の詩才と謳われたあのカエカ様が、こんなにも地に足つかないご様子をお見せになるとは……

 サテラスは不安に駆られた。カエカと話すのは初めてだったが、噂は昔から耳に入っていた。祖父譲りの好事家で、来る月も来る月も宝石に熱中していると。オリーブ農家の子供であるから、将来は収穫したオリーブを全て宝石につぎ込みかねないなどと冗談を言う人もいた。やがて有智高才ぶりが見い出されて詩人となったと聞いた時、きっとその才を仕事にも趣味にも活かしていくのだろうと思った。しかし、カエカはその程度では満足できず、都の宝石を渇望している。都に対する異常なまでの執着。

 サテラスは、挫折を経験した年長者の務めとして、忠告を伝えずにはいられなかった。

「その望みが叶わなかったら、どう生きるのですか?」

「叶わないも何も、今こうして都に歩みを進めているではないか。」

「明日どうなるか分からない世の中です。天上の神々が争いを起こして、地上に天変地異が訪れるかもしれない。そして都に行く道が閉ざされるかもしれません。そうなった時、貴方様はどう生きるか考えておられますか?」

「どうしてそう後ろ向きなんだ?出来なかったらどうしようではなくて、どうやったら出来るかを考えたほうがよほど建設的だと思うが。」

 これだから辺境の人間は向上心が足りないと、カエカは小さく舌打ちする。

「この瞬間、神が嵐を起こしたとしよう。しかし、それが何だ?止まない雨はないのだ。嵐を耐え凌ぎ、再び都を目指せば良いだけのこと。」

「……」

「それに、そういう不安定な世界だからこそ、人間は最大限自分の能力を伸ばし、活かそうとするものではないのか?私はそうして生きてきたし、これからもそうだ。」

 カエカは自分が作りだした幸福な物語に浸り切っていた。今さら現実に連れ戻すことは不可能であった。サテラスはただ、十歳年下の少年を心配していた。

 空が俄かに曇り、いつもより暗くなるのが早かった。





 その日、カエカは雷の咆哮で目を覚ました。外を見やると、早朝から曇り模様で、不気味な雰囲気が漂っている。とりわけ都の方角には、黒々しい暗雲が立ち込めていた。

 一人で朝食をとる。サテラスとは昨日の朝に別れを告げていた。ここまで来ればもう迷わずに都に行ける。


 パッと閃光が見える。やはり、どこかの獰猛な神が暴れているらしい。二十秒ほどすると、神の雄叫びが聞こえた。やれやれ、朝から騒がしいことだ。

 カエカは今日の予定について考えていた。雷雲はこちらに向かっているから、道中は確実に嵐に巻き込まれてしまう。今日中に都入りする予定だったが、特に困ることもないので明日に延期することにした。急がずとも、宝石は逃げないのだから。


 この天候では観光するわけにもいかず、暇つぶしに宝石を貰うことにした。宿の主人に教えてもらった方法は、故郷のそれとは全く違っていて、好奇心が刺激される。

 この土地には二十もの神々が住んでいて、いつでも宝石を得ることが出来ると言う。今日は水の女神が地上近くに降りてきているらしい。主人に故郷との違いを教えると、

「新月にしか宝石が貰えないなんてこと、あるんですか?」

と、目を丸くしてとても信じられないという表情を見せた。

 カエカは白い水瓶を借りて雨雲の下に置くと、材料を手に入れるため外出した。横殴りの雨にさらされながら、梅の花びらを籠一杯になるほど摘んだ。それから行商の家を訪ねて、糸杉の木片を譲り受けた。これは無くても構わないが、あった方が女神が格段に喜ぶそうだ。

 宿に戻ると、水瓶の半分くらいの高さまで雨水が溜まっていた。それを部屋に持ち込み、梅と糸杉を浸す。部屋の窓を衣服などで覆って暗闇の空間を作り、水瓶の前に腰を下ろして目を瞑る。それから梅を摘みながら考えたとっておきの詩を朗詠した。

 朗詠し終わって目を開くと、雨水が薄紫と黄緑の光を放っていた。うっとりと真上から覗き込むと、突然、水が噴水のようにあふれ出し、顔に直撃を食らったカエカは咳き込んでしまった。反射的に閉じた目を開き再び水瓶を覗くと、そこには薔薇と同じくらいの大きさの、強い緑を帯びた翠玉エメラルドがあった。

 あまりの美しさに、カエカは陶然として宝石に見入った。自ずから放つ輝きが、水瓶の内部に反射している。

 主人の言葉を忠実に再現しただけであったが、今まで見た中でも十本の指に入るほどの出来栄えである。さすが都に近い町では、宝石の貰い方がよく研究され、洗練されていると感心した。都はこれ以上なのだと思うと期待に胸が膨らんだ。宝石を眺めれば眺めるほど有頂天になって、嬉し涙さえ浮かべながら喜びの詩をしたためた。



 翌朝、嵐は過ぎ去り、空には晴れ模様が浮かんでいる。

 カエカは翠玉を懐に納め、都に向けて出発した。ぬかるんだ地面がベタベタして気持ち悪いが、あれだけ待ち望んだ都が目と鼻の先にあるという喜びが勝った。

 

 たったひとつの望み。都に住みたい。この願いさえ聞き届けられれば、もう他には何もいらなかった。そしてついに、夢が叶う瞬間がやってきた。




 しかし、彼の目に飛び込んできたのは、想像していた都の姿とは似てもつかないほど荒れ果てた土地であった。

 

――おかしい。

 どこもかしこも屋根や壁が破壊されて地面の砂が舞い上がっている。宮殿に近づけば近づくほど破壊の程度が大きくなり、怪我を負った人にも遭遇するようになった。カエカはますます不安を感じた。

 人々が集まって慌ただしく動いている一角があった。身なりから高い身分の者たちであると察せられた。

「あそこは何をしているのですか?」

 地面に座る中年の男に声をかけた。右腕には布が巻かれていて少し血が滲んでいる。

「宮殿が跡形もなく消えちまったから、貴族たちが騒いでいるんだろうよ。」

「あれが宮殿?」

 信じられなかった。何本かの柱が立っている以外には、何もかも壊れてしまっている。

 しかし壮麗な装飾がわずかに残っており、男の話は嘘ではないと理解した。

「あんた、よそから来たのかい?」

 カエカが呆然と宮殿を凝視していると、突然男に話しかけられた。

「随分と狼狽している様子だね。」

「今日から都で暮らす予定でした。……一体、都で何が?それに、《宝石の館》はどうなったのです?私は宝石が見たいのですが……。」 

 カエカがそう言うと、男はそりゃ気の毒だなと首を横に振った。

「蒸発したよ。」

「蒸発……?どういうことですか、宝石が蒸発するわけがない……嘘だ、本当のことを言え!」

「知らないよ、本当のことなんて誰にも分からない、ただ確かなのは宝石が霧のような物に変わり果てて、天に吸い込まれていったことだけだ。」

「天に……?天上の神の仕業ですか?」

「《館》に神が現れたらしい。嵐を起こした神と同じだろうって話だ。」

 昨日はやけに激しい嵐だった。あの神が狂気に駆られて都をこんな目に遭わせたのか。

「神の名はアダシア。勇猛の戦神だよ。」

「アダシア……。宝石の父親か……。」


 女神スチカが天を去って百五十年経ち、アダシアの罪は許されて自由の身となった。彼はすぐさまこの王都に降り立った。目的は、自分の子供を人間の手から取り戻し、復讐することであった。アダシアは、スチカを放逐した天上の神々を恨み、子供を奪取した人間たちを憎んでいた。

 突然宮殿に出現した苛烈な戦神に、王族たちは恐怖で身震いした。

「必ずや王に大禍をもたらさんと誓った。今がその時である。」

と叫ぶや否や、雷光一閃、宮殿を破壊した。

 

 カエカは、その場にうずくまり、頭を抱えた。

 宝石は、もう存在しない。現実に打ちのめされ、失意と同時に怒りを覚えた。

 アダシアをこの手で殺してやりたい。しかし、神を殺める方法など知らない。それに復讐を遂げたとて、宝石が戻ってくるわけでもないだろう。

「これから都に住むんだっけか?大変な時に来ちまったなあ。まあ、再建出来ないわけではないし、しばらくの辛抱だな。」

「……そうだ、私は都に来た。それも宝石のために。ただそれだけのために……。」

 男は変な顔をしてカエカを見た。

「他にも宝石はある。あんた、宝石を貰うのは好きじゃないのか?」

「……。」

 懐に入れた翠玉に思い至る。しかし、心にぽっかりと空いた穴を満たしてはくれず、ますます虚しさを感じた。

「あの金剛石のようなものを貰えば良いじゃないか。幸い、都には色んな神々がおられるのだから、探せば何とかなるかもな。あの綺麗な宝石をまた見せてくれよ。」

「そういう話ではない……。あの宝石の代わりは無いのに、勝手なことを言うな……。」

 ぶつぶつと何かをつぶやく少年を心配して男は声をかけたが、カエカにはこれ以上誰かと話す気力が湧かなかった。「あの綺麗な宝石」という言葉に、カエカは惨めな思いをした。こんな男でさえ見られた宝石を、自分は一生見ることが叶わないのだ。


――宝石の無い都に、一体何の価値があると言うのか。故郷の家族、地位、名誉全てを捨てここまでやって来ておいて、抜け殻のように一生暮らさなければならないのか。

 行く先には絶望しかない。どうすれば良いのか分からない。



――その望みが叶わなかったら、どう生きるのですか?

 サテラスの言葉が、脳裏にこだました。


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宝石の蒸発 夏木郁 @Natsukiiku

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