5
数日後、子猫はけろりといなくなった。
あれほどヒロコに懐いて、いなくなれば鳴いて呼んでいたのに、少し目を離した隙にいなくなっていたと言う。ヒロコは酷く心配していたが、数日後母猫と思わしき猫と共に庭にいたと侍女から聞いた。鳥にでも攫われたかと危惧していたから母と再会できていたことに安堵すると共に、ようやく自分にも懐いてきたころであったから、いなくなったことへの落胆も少なからずあった。
それでもこれで良かったのだと日常を過ごす中で、昼下がりにヒロコが部屋の柱の傍らから覗くように庭を見ているのに気付いた。
「どうした、こんなところで」
傍に来た私に、ヒロコは庭の方を指差した。
「見て」
促されて見やった庭。小さなナイルの泉が作られた端の茂みに、親子と思われる灰色の猫が二匹いた。親の傍であの黄色の瞳は間違いない、ここで踏ん反り返っていた、幼い猫がこちらを見ている。
あ、と思って足を踏み出すと、見知った猫はギャアっと鳴いた。
小さな身体を震わせながら発せられた仰々しい声に母猫はびくりとしたようだが、それは一瞬でそのまま物陰に進み、子猫もその後を追って消えた。
「きっとあなたに言ったのよ」
きっとそうだ。あの猫のあの鳴き声は、私にしか向けない。
「別れの挨拶だったに違いない。返事をし忘れてしまった」
もうここに来ることはないかもしれないが、またどこかで元気にあの声を響かせて生きていくのだろう。
「これで良かったんだって分かっているんだけど、どうしても寂しくなるわ」
悲し気に笑うヒロコの髪を撫でる。あれだけ可愛がって世話を焼いていたのだから仕方がない。
「まあ、このまま私とヒロコの二人だけという訳でもないだろう」
「え?」
きょとんとするヒロコに笑いかけた。
「子が産まれれば、そのような寂しさもなくなろう」
こちらの意味を飲み込んだヒロコは「そうね」とだけ答えて口元を綻ばせた。二人並んで庭の空を仰ぐ。
流れ込んでくる風が心地良い。テーベへの遷都まで残り数日。
どうなっていくか見えないこれからの中に、自分たち二人の間に子が産まれ、ヒロコがその子を抱く姿があれば良い。その二人の姿を眺められたならば、自分はどれだけ幸せだろう。
今彼女とこうしていることに幸福を感じていながら、これ以上を望んでしまうのは強欲だろうか。
彼女は私の未来を知っていると言う。だが、私にとってはそれはまだ見ぬ未来であり、いくらでも変えられていく気がする。
どうしても限りある命の中で、少しでも、ほんの一瞬でも長く、彼女の笑っている姿を傍で見ていたい。
空に息を吐く。
晴れ渡る空を、素直に美しいと思った。
傍にいることを選んでくれた彼女のためにも、私は願い続けている。周りの者たち、国の民、そして彼女の、何よりの幸せを。
ただ、ひたすらに。
悠久なる君へ~3300年の記憶~ 番外短編集 雛子 @hinako0424
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