もしもあなたが星ならば

いいの すけこ

それは金貨よりも尊いもの

 雨上がり、湿度100%――かどうかはわからないが、まとわりつくような湿気の中――、森林公園で。

 君は石造りのベンチの傍らに、急にしゃがみこんだ。

「ねえ見て、カタツムリの歩いた跡」

 乾き始めた石の座面には、カタツムリが這った後に残る跡が観察できた。波のようにうねったきらきらとした道筋。

「カタツムリは歩かないだろう」

 我ながらつまらない返答をすると、君は機嫌を損ねることもなく、変わらず明るい調子で言った。

「這ってるんでも歩いてるんでも、前に進んでるなら同じことよ。どこまで伸びてくのかしら」

 君はカタツムリの形跡をまじまじと見つめ、視線でたどった。

「触っちゃだめだよ。汚いから」

 再び君の気分を台無しにするようなことを僕は言う。でもカタツムリは寄生虫がいるから、その這った跡にも素手で触ってはいけないのだ。君が興味深そうに見つめるそれも、カタツムリの粘液だと思うと正直気持ちが悪い。


「いいね、カタツムリは」

 その気色悪い粘液の跡をじっと見つめながら、君は言った。言葉の意味を図りかねて瞬きすると、君は微笑んだ。

「だって、自分の歩いてきた跡が残るんだもの」

「それって、そんな羨ましいこと?」

 僕は自分が何かを行ったという形跡が、そこかしこに残るのが好きじゃない。部屋や仕事机はいつでも片付いていないと気が済まないし、スマホやパソコンの履歴もすぐに消す。自分の形跡が残ることを嫌う僕を、君は『生き急いでるみたい』と評していたっけ。

「羨ましいよ。自分が歩いてきた形跡や生きてきた証を残せる人なんて、そんなにたくさんはいないもの」

 しゃがみこんだまま、君は瞼を伏せる。

「私みたいなちっぽけな人間は、自分の足跡なんてきっと何一つ残せはしないわ。大半の人が、そういうものなんでしょうけど」

 ――何かを残せるということは、とても価値のある事よ。

 君は淡い笑みのまま言った。

「それはきっと金貨を積まれるより、価値のある事だと思うの」

「そういうものかな」

 金貨だって、財産として誰かに残すことはできると思うけどな。

 僕はまた夢のないことを思う。

「それとも、金貨を稼ぎ出すような人間こそが、何かを残せる人かしらね」

「そうかもしれないね」

 何一つ気の利いたことを言えない僕も、きっと何も残せない側の人間なのだろうなと、そんなことを思った。


「私、お仕事もへたくそで、お金稼ぐ才能もないからなあ」

 君はゆっくりと立ち上がる。

「もし私が、遠いお空のお星さまになったとしても、この世界にはやっぱり何も残せないんだろうな」 

 目線の近づいた君は、ずっと寂しい笑顔のまま。

「もし君が、地上に何も残さずに星になったとしても。僕はその星を頼りにして進むと思うよ」

 その星が描く軌跡は、足跡みたいなものじゃないかな。

 それはこの世界に痕跡を残すことを好まない僕が、きっと唯一道しるべに出来るものだと思う。

 そんなようなことを言うと、彼女は目をぱちぱちとさせて。

「あなた、私よりも長生きするつもりなのね」

 僕のことを『生き急いでるみたい』と評価した彼女は、意外そうに口にした。

「そういうことに、なるかな?」

 独りで残されてもいいなんて、そんなことは思っていないつもりだけれど。

 おかしいな、小さくつぶやく。

「それでいいと思うわ」

 そう言って、君は湿った森の中を再び歩き出した。 

 

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