乾杯

雨野

乾杯

 私の姉がこの世を去って一ヶ月が経ちました。

 物静かで、どことなく存在が希薄であった人でしたから、葬式が終わってからも、もう彼女がどこにも居ないのだ、という実感が湧いてこないのでした。

 そのうち少しよれたスーツを着て、少し疲れた顔をして、少し定時から遅れた時間に会社から帰ってくる、そんな心持ちで私は今日まで過ごしておりました。きっとここ数日、数週間の間顔を合わせないのは、仕事が多くて中々帰れないのか、それか道にでも迷ったか、どこかお気に入りのコーヒーを出す喫茶店でも見つけたのでしょう。私はそんな心持ちでこの一ヶ月を過ごしていたのです。

 決して仲が悪かった訳ではありません。どちらかと言うと私たちは仲がよい方の姉妹だったでありましょう。朝はおはようの挨拶を欠かさず、出勤は途中の駅まで一緒に歩き、帰れば仕事の愚痴を言い合いました。禿げた上司は嫌な奴しかいないというのが私の持論であり、悪い上司だから禿げるのだというのが姉の持論でした。その話を聞くたびに父は悲しそうな顔をして広くなった額を撫でておりました。

 姉の死から一月たった今日、彼女がもうこの世に居ないのだとはっきり思い知ったのはふとしたきっかけからでした。それは我が家の玄関に、並べられた三足の靴を見た時であります。私達姉妹は両親と共に暮らしております。街から少し離れた土地にぽつんと建てられた一軒家は、見るたびに年老いた両親の顔と、姉のよれたスーツと、私の就活の時から使い続けている合成皮の鞄を思い出すのです。小さな我が家の小さな玄関には、夜になるといつも家族の靴が一列に並びました。父の革靴、母のスニーカー、姉の革靴、私のハイヒール。我が家族が勢揃いしたその並びを見てから、私達は毎朝家を出ていたのです。

 姉の靴が無いと気付いたのがつい先ほどのことです。行きたくも無い職場で禿げた上司から理不尽な叱責を受け、帰ったのは家族の中で最後でありました。姉が帰ってきたら今日こそは禿げた上司は嫌な奴説を認めさせてやろう、と私は仁王立ちの体勢で玄関に並べられた靴を眺めました。そして感じた違和感に頭を悩ませたのです。おかしい、ここには何かが足りない。私はそんな芸術家の様なことをこぼしました。

 この家の欠けたピースは、下駄箱の中にありました。姉の靴です。主人を無くしたその靴は、寂しげに下駄箱の片隅に鎮座して私を見つめているようにも見えました。雨の中、『拾ってください』と書かれた段ボールの中で震える子猫の様にも見えました。

 そして今、私の部屋の片隅には丁寧に手入れがされた姉の靴が鎮座しております。部屋に持ち帰ったのには、特に深い理由があったわけではありません。本当に、本当になんとなくです。

 いつもどこかに皺のあるスーツを着て会社に向かっていた姉を思い出します。寡黙で、朝にはコーヒーを二杯飲み、ニュースで占いコーナーをチェックし、よく会社へ向かってから傘を忘れて戻ってくる人でした。喫茶店で本を読むことを愛し、食事は最低限に済ませて、その分の時間をお風呂に使い、二十三時には眠りについていました。特徴といった特徴がなく、それでいて欠点らしい欠点もありません。身だしなみにそこまで気を使わない人でしたので、靴だけが丹念に手入れされているように見えるのがいつも不思議でした。そしてその靴が下駄箱の隅に追いやられているのを見て、ああ、姉はもう居ないのだなという気持ちが、私の心のひび割れから吹き出たのです。

 私は、自分でも驚くほどの涙を流したのです。

 姉の死に、涙を流したのは初めてのことでした。

 

 数時間の間、さめざめと泣いた私は、さあアルコールを摂取しよう、と立ち上がりました。決してアルコールに逃避する訳ではありません。姉は何かあるとよくビールを飲んでいたからです。

 ビールというのは、全人類が見栄と意地を張るためだけに存在している苦い苦い飲み物です。何故そんなものを飲むのか、私の姉ともあろう人が、人類の同調圧力に屈したのか、と尋ねたことがあります。その理由として姉は「見栄と意地を張りたいから」と答えました。部屋の窓際で姉が飲んでいたのは、不気味な猫の絵柄が描かれた缶ビールでした。私はそのビールを『猫ビール』と呼んでいます。二十四時間営業のスーパーで猫ビールを見かける度に、あの時の姉は何に対して意地を張っていたのだろう、と逡巡したのでありました。その日々を繰り返すうちに、私はある法則に気付きます。彼女は何か嫌なことがあった日にはぬるいビールを飲むのです。あの苦い苦い液体が人肌にまで温められた時の味わいを想像して、私は酔ってもいないのに最悪な二日酔いの気分になるのでした。彼女は鼻歌を歌いながら頬を少し染め、窓の外を眺めて飲んでいたのです。それはいつも、無限の時間さえ与えられれば残さず数えられる様な、満点の空が広がる夜でありました。

 そしてそれは、今日もそうです。

 私はこの世界に対してふと『見栄と意地』を張りたくなったのです。


我が家でビールを飲むのは父と姉だけでした。私はまだ二十歳になったばかりでしたので、両親は私がお酒を飲むことに良い顔をしませんでした。姉も多量にお酒を飲む人ではありませんので、猫ビールは我が家に常備されているわけではありません。

 冷蔵庫のアルコールゾーンを覗きますと、銀と黒で塗られた缶ビールが何本か置かれています。これはすごく苦そうです。『見栄と意地を張る』には十分であるかの様に思えましたが、苦すぎるのはきっと体によくありません。仕事での嫌なことや、将来への不安だけでしたらこのとても苦い液体で充分代用がきくでしょう。しかし、今日の私には姉を失った一ヶ月遅れの悲しみがあります。この悲しみに対して、平気だぞ、なんともないぞ、と見栄と意地を張り、ファイティングポーズを取るためには、少しの妥協も許されないような気がしました。きっと姉もそうしたでしょう。苦すぎるビールを飲みたくない訳ではないのです。

 姉もそうしたでしょう、と考えるうちに、私の頭の中にもう一つの考えが浮かびました。

 彼女に、ビールを飲ませてやろうと。

 仏壇に備えられる果物の様に、墓に突き刺される煙草の様に。果物も煙草も、姉が喜ぶとは思えません。ですが猫ビールになら、きっと彼女は興味を示すでしょう。今日凄く嫌なことあったんだよね、などと言いながら、窓から外を眺めるのでしょう。その意地の張り方を、私は真似したくなりました。

 私は今夜、姉になることにしたのです。


 かつて姉のものだった部屋に忍び込んだ私は、少しくたびれたスーツを身に付けました。少し体が締め付けられる気がして、帰ってきたら体重計に乗らなくてはと思いました。黒いゴムで髪を留めました。何に使う訳でもない通勤用の鞄と、定期入れをポケットに入れました。

 こんなことをしているところを両親に見つかれば、まず間違いなく面倒なことになるでしょう。自分でも完全に説明ができないのですから当然とも言えます。だから私は、先ほど部屋に抱えてきた姉の靴を履き、静かに静かに、窓から外に出たのです。

 全身の毛が逆立つほどに星が綺麗な夜でした。私達一家の住まいは街から少し離れたところにありましたから、零れ落ちそうな星々と、存在を疑ってしまいそうな地面が、少し遠くにぽつんと見える街まで続いています。それは別の世界へと繋がるおどろおどろしいトンネルの様にも見えました。その恐ろしさを少しでも誤魔化すために、頼りなく電灯や自動販売機が光っています。私は人類の英知に感謝をしながら、夜の闇を泳ぎました。

 スーパーまでは意外な程に何の問題もなく着きました。どこか別の世界に紛れ込んでしまうこともなく、逆にこの世界に紛れ込んできたものもありません。ここには、あるべきものがただ並べられているだけであります。スーパーの中も同じでした。商品はそれぞれの居場所に置かれております。私が購入した『猫ビール』もいつもの場所にありました。

 家で両親の許可を得て飲むのも、この格好を説明するのも億劫でしたので、少し歩いた先にある小さな公園に入りました。くるくると回る遊具やブランコは危険と判断されたのか、骨組みだけが残っております。遊べない遊具は錆びていくだけの死体でありましょう。その死体は、誰にも座られない、これまた死体と化したベンチに囲まれています。私はその一つに腰掛け、ビールを開けました。ぷしゅっという音。ごくりと苦い液体を飲み込む音。缶が置かれる音。そして、猫の泣き声。

 唐突に聞こえた音に私はいささか肝を冷やしました。少し悲鳴と呼吸の中間の様な音を出したかもしれません。こんな時間に公園をうろついている生命体がまともな訳がないのです。

 漂白剤に数日漬け込まれたかと思うほど真っ白な猫が私の座るベンチに座っておりました。

「えーと。」

 私はその猫を見つめました。猫の白さは光を反射し、視線をそこに吸い寄せるかのようです。私はこの世界には私と、この猫と、猫ビールしか存在していないかのような錯覚に陥りました。

 かつんかつん、と音がします。猫が猫ビールの缶を叩いているのです。それはとても慣れている動作に見えました。

 アルコールを摂取すると変な回転数で回転することに定評のある私の脳は、この猫は姉の知り合いなのではないだろうか、という答えを弾き出しました。そして、向こうも私のことを姉だと思っているのでしょう。

 それならば、私は姉でいるべきでしょう。私は変な使命感を抱き、猫ビールをまた一口飲みました。

「ごめんね、久しぶりだよね」

 話しかけながら猫の喉を撫でます。猫は逃げません。

「色々あったよね」

 猫ビールはハーブを加えているせいか少しフルーティな感じがするビールです。ですが苦さが消える訳ではありません。苦いビールは無理やり喉の奥に流し込むに限ります。実行しようとして、私は吹き出しました。苦い。まずい。猫が喋った。

「あれ、随分と飲める様になったんだね」

 星のかけらのような瞳をこちらに向け、猫が流暢に話しました。猫が喋るという現実との齟齬と、アルコールの効き目で私の視界がふらつきました。


 ここに来ていたのは何かあったときだもんね、と言いながら猫は私の隣に座りました。猫の体からは不思議と、白シャツのような、よく乾かされた洗濯物の香りがしました。

「わ、私は、どんなこと話したっけ」

 猫が喋るという異常事態に飲み込まれないように、私は精一杯胸を張りました。視線が上を向き、ふと気付きます。星が一つも見えません。墨汁を溢したような黒が空一面に広がっています。

「色々話したよ。嫌なことがあったときだけ、ここに来た。仕事で怒られた話とか、財布を落とした話とか、風で傘がダメになった話とか、色々。で、あんまり飲めないそのビール、持ってくるのは、合図。」

「合図。」

「そう、私を呼ぶ、合図」

 猫の第一人称の私、が違和感なく聞こえました。

「猫ビール。この猫ビールは、苦い。不味い。」

「そう。その苦い液体は、見栄と意地のために飲む。そう言ってた。」

 今度は落とした視線に、今履いている靴が入りました。今の私は姉なのです。見栄と意地を張ることを忘れていました。

「そう。今日は、最上級の見栄と意地を張りに来たの。」

 街灯に照らされた猫の顔は、彫刻の様な白さです。その神秘的な雰囲気は、これはこの世のものではないことを直感で伝えておりました。

「ちょっと聞いて欲しいんだ。」

 猫ビールが残り三分の一になりました。

 

 私は自分でも驚くほど淡々と、近しい知り合いが死んだことを猫に話しました。今の私は姉ですので、話の全体像はややぼやけているかもしれません。それでも、私の心の中を表現することは十分に可能でした。話しているうちに、私の体にはわずかなアルコールと、多量の悲しみが回り始めていました。猫は一言も喋らず、私の話を聴いていました。

「その日だってね、いつも通りだった。行ってきますって言って、途中の駅まで一緒に歩いて。私とは逆方向の電車に乗る。午後から雨が降るって天気予報が言ってたのに傘忘れてきてさ、占いがどうとか、この前読んだ小説がどうとか、そんな話して」

 話を切るタイミングが見つからないまま、私は話し続けました。

「今日で人生が終わりだとか、こういうことがしたかったとか、何が食べたかったとか、あの人に何が伝えたかったとか、そう言うの一切無しで、交通事故で居なくなっちゃった。」

 私は自分の目が見えないことに気付きました。そして、そのことを驚くほど当然に捉えているのです。私も猫も、見えないだけで居るのです。公園を包む優しい暗闇に、少し同化しているだけなのです。その暗闇に向かって、私が抱く漠然とした思いを吐露しました。

「あの人は、それで良かったのかな」

 もう耳も聞こえません。遠くを通る車の音も、自販機の震える音も、季節外れに鳴く虫の声も聞こえません。

「日常がさ、ぷっつり切れちゃったせいで、ちゃんと悲しめないの。」

「あの人は、私は、何を考えていたのかな、あの時。」

 かつん、という音に気を取られ、私の独白はそこで終わりました。辺り一面の静けさは消え失せています。

 猫も、辺り一面を包んでいた暗闇もそこには無くなっていました。ベンチには二つの猫ビールの缶が置かれております。そう、二つです。猫ビールはついさっき買ってきたかの様な冷たさで残されておりました。

「もっと見栄と意地を張れってことなのかな、姉さんはそう言うのかな」

 もちろん答えはありません。

 私はそれを掴み、ふらふらともと来た道を歩いて家に帰ります。




 家に戻った私は考えを巡らせます。今私が眺める窓の外の景色は、姉が見ていたものと同じでしょうか。姉はあの猫に『見栄と意地』を張りながら、彼女は何を思っていたのでしょうか。

 残されたビールを近づけると、『猫ビール』の缶が窓ガラスに映りました。乾杯、と小さく呟きます。缶をつたって、窓枠に生温かい滴が落ちました。


 一本だけ残されたビールは、人肌の温度に温められておりました。

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乾杯 雨野 @mtpnisdead

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