君が居なくなった世界を今はまだ愛せそうにない

詩一

嫋やかな温みだけに、生かされている

 君が居なくなった世界を今はまだ愛せそうにない。

 空港のラウンジで手を擦る。

 たおやかなぬくみを思い返す。

 大きな窓の向こうを見る。もう夜を迎える空に消え行った、君を乗せた飛行機の尾翼を思い出す。



※  ※  ※  ※



「ねえ」

「なに?」

「どうしても」


 そこまで言って口を噤む。こんなことを言っても多分困らせるだけだ。けれども、その続きがあまりに簡単に想像出来るものだから、彼女は既に眉を困らせていた。


「ごめん」


 俯いた。黒塗りのテーブルには自分の顔が映っていた。

 とても綺麗なラウンジだ。掃除の手が行き届いている。でも今は少しくらいテーブルが汚い方が良かったなと思った。


「大丈夫」


 それは僕が? それとも君が?

 少なくともこれからの僕たちは、大丈夫じゃないように思える。


「そっか」


 なのに僕は知ったような口振りで、笑顔を向けるしかない。多分、人生で一番不細工な笑顔だろうけれど。

 僕らが夫婦なら一緒に付いていくのに。でもそういうわけにはいかない。そもそも恋人同士ですらないのだから。

 せめて僕が君の彼氏なら、これからのことも話せただろうに。

 帰ってきてからのこととか、向こうに行ってからのこととかをつまびらかに出来ただろうに。

 あいにく僕らは友達かどうかも怪しい。それでも——


「愛してるよ」

「うん」


 僕が愛を放てば、受け止めてくれる人だ。

 僕の愛の形を、この世で唯一知っている人だ。

 だけれど僕らは、セックスをしたこともキスをしたことも、どころか手を繋いだことすらない。

 はたから見てこれほどおかしい関係があるだろうか。

 それでもこの関係が至上なのだ。お互いがお互いを思い合う。お互いがお互いの幸せを願い合う。


「奥さんにも言ってあげてね」

「そりゃ言うよ。毎日言ってる」

「さすが」


 不倫とか浮気とか、そういう言葉を簡単に使う世間が名前を付けるなら、彼女は愛人だろう。セックスもキスもしない。プラトニックな愛人。

 でも、それは違うのだ。

 彼女は、世間が忌み嫌うような存在ではない。僕がどれだけ世間に叩かれようがそんなことは別にどうでもいいことだが、彼女の存在を傷付ける者がいるのならば、たとえそれが神であっても許さない。

 彼女は僕の生命の恩人だ。

 彼女は景色の見方を教えてくれた。

 草木花には名前があること。季節によって空気の匂いが違うこと。また重さも異なること。時刻には季節ごとに数字ではない言葉が当てはまること。

 つるべ落とし。彼女に教えてもらった言葉。

 秋の夕暮れは一気に陽が傾いて暗くなることを表した言葉なんだそうだ。

 彼女との時間はまさにそれだ。

 とても楽しい時間があっと言う間に過ぎる。

 彼女と出会う——夜明け前はあれほど進みの遅かった時間だと言うのに、なんとも理不尽なもので、陽が上ると同時に落ちてしまった。


「だから、大丈夫だってば」


 彼女の手が僕の手の甲の上に重ねられた。ドキリと心臓が跳ね上がる。僕は彼女を見た。にっこりとしたその笑顔を見ると、心がふわふわと宙に浮く。

 たおやかなぬくみが僕の手に温度を戻していく。ああ、僕の手はこんなにも冷たかったのか。


「手が冷たい人は心が温かいって、本当なのかな?」

「あんな俗説」


 信じるに値しない俗説だと思っていたが、今を持って唾棄だきすべき俗説に変わった。だってこんなにも人に安心を与える温度が、冷たいわけがないじゃあないか。


 それから二人はなにも言わなかったが、なにも言わないでいる時間の方が、何倍も彼女を感じられた。


 僕は今まで、彼女を肯定するために何度も何度も愛を訴えた。僕が君に辿り着いた人生を否定しないためにも、自分の人生を否定してくれるなと。けれども彼女は答えないで、寂しそうに笑うのだ。それがたまらなく辛かった。

 言葉の数ほど彼女を悲しませたようにも思う。彼女の笑顔は僕の「愛している」の何万回分に値するのか。この手の温みは僕のつたない優しさの何億倍の温度になるのか。彼女の手の中でなら火傷してみたいとすら思える。


「あなたの心は温かいよ」

「君が温めてくれたからだ」

「また、そういう」


 クスクスと笑う。ああ、好きだ。愛してる。


 愛していると好きだと言う言葉しか知らない僕はバカだ。そう思って昔、彼女を思う言葉に専用の言葉を創ろうとした。

 幾重にも重なり合って二人で時間を紡ぎあったことから『ほう』がいいかなと言うと、「お互いにつむぎ合って行こうね」と言われた。さっそく訓読みにして崩してしまう彼女のおおらかさがとても好きで、「音読みに統一しようよ」とは言えずに曖昧に頷いてしまった。それ以来、僕は僕たちの間に発生するこの感情を、新たに創らないで来た。ただの愛として何度も言葉を重ねてきた。思えば『ほう』だろうが『つむぐ』だろうがなんでもいいから合言葉のように使い合っていれば良かったのになあ、なんて今更思う。


 彼女が不意に時計に目を向けた。17時を指している。ラウンジを出なければいけない時間だ。


「そろそろ行くよ」


 僕が口を開け、でもなにも言えないでいると、彼女の指がそろそろと離れて行った。


「最後に会えて良かった。わざわざ来てくれてありがとう」

「こちらこそ、旅立つことを教えてくれてありがとう」

「それじゃあ、行くね」

「ああ」

「さよ——」

「いってらっしゃい」


 ギリギリ自分を納得させるための言葉だ。彼女は帰って来ないかも知れないのだから、いってらっしゃいはおかしい。わかっている。


 彼女はゆっくりと息をついて立ち上がった。

 いってきますの言葉はない。

 代わりにふふっと笑って掌を広げた。振らないでくれと思った。

 通じたのかはわからないが、くしゃりと掌を閉じて、曖昧な表情で笑った。

 僕が席を立ち上がろうとすると、彼女の言葉が遮る。


「いいよ」

「なんで」

「その……」


 俯き影が落ちる。そっか。ごめん。困るよね。


「わかった」


 席に座り直すと、彼女に再び笑顔が灯った。

 こんなにも分けて貰った。温かさを、世界を。

 僕は彼女に報いることができただろうかなんてばかばかしいことを考えてしまう。出来ているわけがないのだ。彼女は僕の救いを必要としない。ただたまに、ふっと寂しくなったときに言葉が欲しくなるときがあっただけだ。僕はそれに最大限の祝福を込めただけだ。


 彼女はカツカツとハイヒールを鳴らしながら、搭乗口のある方へ向かって歩いていく。淀みなく一直線に。振り返ることもない。ないんだ。


 僕は視線を落として、また不細工な僕と対面した。不意に視線を感じて慌てて顔を上げたが、見えたのは遠くを行く彼女の背中だった。あんなに細い背中に、たくさんのものを背負っていくんだ。だったらせめて両手に乗せられる思い出は、明るい方がいい。僕の辛気臭い顔や、言葉なんかではなくて、楽しかった思い出を持って行った方がいいだろう。


 僕は多分しばらく立てない。全身が痺れたようになっているし、つま先が凍ってしまったように冷たい。冷房が効き過ぎているなんて言うのは理由にはならないだろう。


 手の甲を擦る。あのたおやかなぬくみがまだ残っている。もうしばらくここに居よう。この温みが全身に行き渡ったら立ち上がって帰ろう。もしも温みが消えて体が凍えてしまったら、そのときは諦めよう。この世界に居ることを。世界を愛することを。


 アナウンスが掛かる。搭乗が締め切られたようだ。


 君を乗せた飛行機が、この国を去る。その事実は今もなお重い。最後に君と面会出来たからと言って、ふわりと軽くなるようなものでもない。けれども、それでも、僕たちの出会いになんらかの意味が有ったように。そう、僕の生命が救われたように。君のこれからの人生になんらかの意味をもたらすような最後だったんだと思う。例えば飛行機の中で、一番初めに思い浮かべる顔が僕の顔ならどうだ。僕はそれだけで、ここに来た意味が有るし、出会った意味が有るんじゃあないのか? それを否定できる人物は僕以外に居ないのだから、僕が否定しない限りは、意味を信じることが出来る。それに——。


 飛行機が滑走路を走り出す。ああ、あれだ。あれに乗っている。


 ……僕らの出会いを否定しないでくれと、あれだけ彼女に言って聞かせたのだ。愛しているって言葉を何度も重ねて。


 飛行機が離陸した。タイヤは完全にこの大地から切り離された。この瞬間から彼女は空に居て、僕は地に居る。スラッシュを引かれた気分だ。でも、違う。この地の上で、この空の下で僕たちはお互いを思っている。君は今僕のことを思っているだろう。そりゃあたくさんのうちの一人かも知れないけれどさ。


 それだけで、それだけで、もう……。

 もう、なんだ……。


 急に窓が曇った。いや、歪んだ。蕩けた。

 温度が出ていく。

 君が温めた温度が僕の瞼の裏側から抜けて行く。こんなにも熱かったんだ。君が勘違いするわけだ。僕の心は温かいって。


 へだたりを拭って、彼女を乗せた飛行機をしっかりと見つめた。


 君が居なくなった世界を今はまだ愛せそうにない。だけど、君がいつまでも愛し続けているこの世界をいつか愛せるようになるよ。


 そう願って僕は、空を切り開く飛行機の尾翼を見送った。

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