第8話

官職部

○悪童民部卿任権中納言の事

 関白殿より飾磨殿任権中納言の御内意ありければ、別当と執事論議をなす。執事「飾磨殿は未だ齢十四、三位宰相だに過分也。また殿に御対面の事さへなし」 別当「元徳二年、花山院長定公は十三にて任官あり。これ摂家に非ず、凡人(はんじん)也。また御夢にて度々御対面あり」と。以て任官あり。しかれども飾磨殿素行よろしからざれば、権中納言とは言はれず、幼弱兼官を以て悪童民部卿と呼ばれけり。天暦の悪霊民部卿にかけたるなるべし。


○悪童民部卿任権大納言並に官打の事

 後日飾磨殿任権大納言の御内意あり。執事「十四にて権大納言は摂家にても先蹤少なし。況や凡人に於てをや」 別当「悪童民部卿は殿の猶子の儀にてましませば、摂家の儀に准ず」。以て任官あり。しかしながら素行改まらず。その頃播磨国に暴走族と申す悪党ども蟠踞しけるが、これにくははらんとすれば、御失寵あって、忽ちに解官せられぬ。世人官打とぞ申しける。



公卿部

○永楽左大臣バルログの事

 ある時関白殿御出なりて永楽左大臣が邸第にとぶらはせ給ひけり。昔話などせさせ給ひけるを、左府いにしへの年賀の書状など取り出だし給ひける中に、左府が家僕からの名宛に「何某頓首誠恐謹言、バルログ左大臣殿」とありければ、「かのストリートファイターとかやの人形(ひとがた)に、これを好んで用ひ給ふ故に、かくは名宛し奉りけるか」と問はせ給ひけるを、「さは候はず。昔この者のバルログの真似をしけるに、下官の腸を切りて笑ひ伏したれば、家僕どもかくは称し候」と。関白殿「兼好法師の強盗の僧正の話の如し」と興に入らせ給ふ。


○永楽左大臣西洋熨の事

 永楽左大臣は長年ものやみとて自邸に逼塞して閑居し給ひければ、ある時関白殿御見舞あり。関白殿、「我が閑寂(かんせき)にして家僮(かとう)の倦んじければ、装束をしたたむる者もなし。北野天神が御詩にはあらねども、家人を待ちて著(き)んとすることだにも得ず」と述懐せられければ、左府「西洋熨(ひのし)は我が一の才(ざえ)とするところに候。殿へ参って御装束したため奉らん」と口説き給ふに、関白「如何に御得手(えて)といへども、位蓮府(れんぷ)に至りし仁の我が装束をしたたむる有様、余りにつつまし」とて用ひさせ給はざりけり。


○塩竃権大納言の犬の事

 ある時関白殿、塩竃権大納言の邸に御忍びに御出ありけり。権大納言、家の犬の事をこたつと呼びければ、関白殿「何の心にてこたつとは呼び給ふぞ」。権大納言「ある時、こたつの近傍に居ればなり」。関白殿「「近日はいかでか獣炭(じゅうたん)のほとりを離れむ」より採れるにあらざるか」。権大納言「文盲には力及ばず候」と。



凡下部

○梁の縄の事

 殿小学生の比、飯田何某てふ大力の雑人ありけるが、往時縄跳びてふ遊び業ありて、講堂にて閑のすさびにその縄を中空に投げ上げければ、五丈ばかりの高さに至りて、梁にかかりて留まりき。余りの高さなれば見る人悉く驚嘆す。膂力優る直講(ちょっこう)の毬を投げなどしても一向に届かず、いかな長き棒も丈足りず、如何にしても外すことあたはざりき。童子ら頭上の縄を珍しがること限りなければ、関白殿「これは唐土に鮑魚(ほうぎょ)神とて、梢にかかりける草鞋なんどを崇め祀るに異ならず。陋俗といふべきか」とのたまひけるとぞ。


○土崎妄語の事

 庭球部は人性虎狼(ころう)の者多くして常々心に荊棘(けいきょく)を抱きければ、土崎堪へずして時折休まんとしけるを、口実に「羽後の祖父なる人の葬礼あり」とて三度まで用ひけり。されば同輩ども「羽後の翁は二度まで蘇りしか。大己貴命(おおなむちのみこと)の化生(けしょう)なるべし」とて笑ひあへり。


○丸太の事

 庭球場に黒木の丸太ありて、童子ども鍛錬もせずして常に座り、臥せりなどしてはかなき物語のみしをれば、直講(ちょっこう)来りて丸太を取り遣りけり。それより後は童子ども直土(ひたつち)に臥せりながらうちさるがひて笑ひをれり。直講見あさみて二度と来ずなれれば、童子ども手を叩きて喜びけり。


○隠れ帰投の事

 庭球部は童子ども皆渋げにて集ふのみにて、勇ましく来る者一人もなし。偶々所労などにて出でずして帰る者あれば、萬の罵言を浴びせ、球を投げつけなどすること限りなし。されば誰も隠れて密かに帰るなり。庭球場の横に窪みたる小川流れけるが、早く帰らんとする者は小川の上に腹這ひて、身をこごめてうちそぼちながら行き過ぎぬ。げによしなきことなり。



恠異部

○寛永寺御所縁の事

 関白殿幼弱の砌、大政所と武蔵国寛永寺に御参詣なりけり。是は徳川柳営菩提寺にてありけれども、常憲院【綱吉】が御台所浄光院【鷹司信子】は一致院左府【鷹司教平】の御女なれば、御所縁あり。さてこの寺は薩長凶賊の兵火にかかって炎上の後は、一山苑池となりて凡下に供されけるを、曾て本坊のありし所、国立博物館とて建てられけるが、殿大政所の御手を離れて彼方へ走られけり。門扉などありけるが、すり抜けて通られき。大政所番役に仰せあって殿を連れ戻されけり。殿は性温雅にしてかくの如き振舞はかねてしたまはざりけるを、大政所不思議の事に思し召し候。御因縁のあるにや。


○東照宮御夢告の事

 関白殿、夢にて壺の碑(いしぶみ)てふ森に入られけり。其処にて猿に邂逅し、手を触れられけり。翌日の夢にては、東照宮に御参詣あり。黄門の後赤門を通り、上に三猿を見給ひき。これ如何とて、あくる日に上野山の東照宮に御参詣なりけり。傍らの媼の呟くやう、「この宮に詣づるは、日光社参に同じき験あり」と。帰投の後、日光の祭神をたづねたまへば、東照大権現、相殿に鎌倉殿と豊太閤なり。このこと別当にのたまひければ、夢を判じ奉りて、「壺の碑は鎌倉殿の歌に名高き歌枕。猿は日吉山王の神使、豊太閤幼名は日吉丸也。この夢解きは東照宮の夢なければ分明ならず。東照大権現の御示教ならん。さて猿に御手を触れ給ふは、豊太閤或は山王より御信託あるか。瑞夢なり」。


○五条天神境内に天狗出来の事

 別当「上野東照宮の南に五条天神あり。出雲の大己貴命と少彦名命の二柱を、医薬祖神とて祀る也。北野天神は相殿なり。さて文化の頃かとよ。ある小童、この境内にて薬売の翁にかたらはれ、毎日常陸国岩間山へ飛行し往反しけりと。翁は天狗の変化なり。この小童は寅吉と申すが、後に平田何某とかやに不思議の事どもを語りけりとか」 関白「本朝には幼童は神明異類に通ずと云ふ。然れどもそは巫蟲の呪(まじな)ひの如し。聖アウグスティヌスは、嬰児にも原罪の根を見給ひき。女子供は片生(かたな)りなれば、奇異のことしいだすとも見るべきほどのことには非ず」。


○彰義隊士亡霊の事

 ある深更、関白殿湯島第の後架に入らんとすれば、鎰かかりて開くことあたはず。家僕もなくして独居し給ひ、門扉も堅く閉ざされけるに如何。殿うち驚き給ひて、戸を叩き「さはこれはいかな物か、開けよ」とのたまへどもいらへもなし。泉貨にて鎰口をこじあけ給へど、中は誰もおらず。殿再び就褥しての夢に、ある姿もなき者の「我は彰義隊士よ」と声ばかり聞こえれば、殿「余は惣己百官、二条摂政の後継たり。摂関幕府ともども薩長凶賊に空しうされし事、余これを最大の遺憾となす」とのたまへば、「非礼仕りけり。御寛恕を賜はるべし」とて又夢醒めぬ。殿、上野山に彰義隊の墓所あれば後日弔ひ給ひけりとぞ。


○山人の足跡の事

 ある冬に関白殿雪の歌など詠まれける余興に、別当と四方山話などせられけり。別当「遠江国風土記伝に曰く、遠州奥山郷白鞍山てふところに山人ありて、あさましく大きなる足跡を雪中に残すなるが、この跡を見る者は夭折すと」。関白「さらば余も行きて実見せばや、言ふ甲斐なき命ながらへて何かはせんに」。別当「無念に候へども今山人は絶えて候」。関白殿うち笑はせ給ふ。



飲食部

○庖丁道の事

関白殿の庖丁書(ほうちょうしょ)の序に曰く、

「事々成すことなくして身また老いんたりと雖も、身体髪膚(しんたいはっぷ)は父母の重恩によりて受くるとなれば、強ちにこれを毀傷(きしょう)して宿命を損ふべからず。身を捨てざれば、又物をくらふを去ること能はず。現世は仮の宿りなれば、恥ぢても恥ぢでも何ならずといへり。惣己百官(そうきひゃっかん)の顕職を汚すといへども、手づから庖丁を取りて糊口を凌ぐも宿運の拙きによつてなれば、詮方なし。

 抑々吾朝に庖丁道の事、必ずしも卑賤の生業たるのみにあらず。堂上に四条流あり。仁和の昔、四条中納言山蔭卿(やまかげのきょう)、小松の御門の御諚(ごじょう)を承りて初めて庖丁式を定め給ひしより此の方、藤中納言家成卿(とうちゅうなごんかせいのきょう)が嫡男、権大納言隆季卿より後代に至るまで、四条の家には嫡々の家職とて代々相伝す。その庖丁書、当時に及べり。しかれども、時流末代に降って、往古の食材尤も求め難し。その式の伝授なんども今には万の障りあれば、四条流に依る能はず。現今の式によらざれば一鉢のまうけを作り出だすことをも得ず。

 今には五十音図第三の行を以て、さしすせそと申す調味の具あり。各々の頭の文字を取れるなるべし。砂糖は鑑真和上大唐より渡海して扶桑に戒壇を興し給ふついでに招来し給ひき。塩は西晋の武帝の御代、後宮美人の謀(はかりごと)に、羊の歩みをとどめ奉ると聞えし。酢は八幡大権現の、百済よりもたらしめ給ひ、爾後(じご)造酒司(みきのつかさ)専らに之を造る。醤油は法燈円明国師の、紀伊国湯浅郷に誤りて偶々造りいだされけるとかや。味噌は聖武皇帝の、よつの舟を以て唐朝よりもたらしめ給ひてより此の方、光禄勲(こうろくくん)の製するところなり。かくの如く、当世の調味の具といふとも、みな先聖古賢、百寮有司(ひゃくりょうゆうし)の所縁あり。

 然れども執柄の臣たる者の、庖丁を弄び己のまうけを致すこと、古来先蹤なし。治承寿永の内訌(ないこう)の砌、或ひは応仁文明の干戈の頃、数多の月卿雲客、玉敷き平の都を焼け出だされて、辺陬(へんすう)の野原、雲濤煙浪(うんとうえんろう)のまにまに迷ひ給ひし古も、その例を聞かず。

 澆季(ぎょうき)の至極、かへりてその興ありといふこともあんなれば、ここに余調理とかやをし出だして、記さんと思ふ。人間の栄耀(えいよう)は因縁浅ければ、林下の幽閑気味(きび)深しといへども、一鉢のまうけを得るだに、いつならはしの事なれば、苦しきことのみなん多かるべし。しかはあれども、かくばかり憂しと見し世も、後には恋しく懐旧の思ひを巡らすべき折節もありなん。さればかく、虚しき消光の暇に綴るなり。」


○調理実習の事

 殿下中学生の砌に学窓にて調理実習といふことありけり。御祖母扇橋殿、「昔は凡下の寺子屋たりといへども、男は工芸、女は家芸を専らにす。今は男女の差別なし。末代のこと、咸以て椿事なり。驚くべし、悲しむべし」と仰せられければ、雑掌悉く五障に任せられて、何事もしたまはで、歌など高吟せられき。


○貝の事

 昔王莽、凶賊赤県に迫りけるに、鮑と酒のみを口にすと云々。殿下ののたまはく、「我は逆賊にはあらねども、熟根卑しき下郎に囲繞せられて危殆に瀕すること、垓下の項羽、常安の王莽に異ならず。されば鮑、酒よりほかは口にはすまじく思ふぞ」。


○銀鱈の事

 銀鱈(ぎんだら)と申す魚は、深海の魚にて、本朝に広く食するは昭和の事なり。鱈といふとも笠子の類なり。鱈は身白きを以て、或は初雪の頃に漁りするを以て日本にて作りたりける字とかや。別名なみあらと申す。羅語には、アノプロポマ・フィムブリアと申す。

 鱈は馬の鼻息で煮るとみちのくの俚諺に申すとかや。鼻息は弱火の義、火力要らざるを言ふ。又老子に曰く、大国を治むるは小鮮を烹るが如くせよと。小鮮は強ちに煮たれば崩るるを以て、政道の淳素に背けるを戒めたるなり。当今の衆愚は更改を専らにし、禽獣に異ならずと言ひつべし。関白殿の御歌に、「音もせぬ海の底よりすなどられて何思ふらん浪荒き世に」とあり。

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法厳寺関白 古言悲嘆集 @rexincognita

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