第7話
公卿部
○永楽左大臣運動会御愚弄の事
昔、関白殿小学校といふところに通はれけるに、運動会と申すこと毎年候しが、綱引きてふ見世物のありて、諸人広場に入りにけるを、如何に思はれけん、永楽前左大臣の、ゆゆしう小股にて歩行せられけり。左府運動会をばいぶせく思はれけるにも、かかる穏便の御行ひによって侮りを示されし事、殿下いといたく興に入りて御腸(おんはらわた)を切りたまひけるとぞ。
○永楽左大臣蜜柑を取りて献ずる事
関白殿十五歳のある秋に、永楽左大臣と御忍びにて、中学校といふところより桜町殿へ御徒歩にて帰り給ふことあり。永楽殿の近くのあばら家に、大きなる木に蜜柑のなりけるが、遥かに石畳をのぼりて行き給ふに、左大臣殿、御手づから取りて関白殿に献じ給ふ。左府「これは空き家なれば、我が物に同じ。聞し召したまへ」とのたまひければ、関白殿聞し召すに、甘露の味あれば、「枝には金鈴(きんれい)をかけたり秋の雨の後」なんど、うちずんじ給へり。左大臣殿はかく気宇の広き方にてましましけり。
○舟橋内大臣越中の別墅の事
関白殿十六歳の夏に、舟橋内大臣、越中国新川郡(にいかわのこおり)富山の里に別墅(べっしょ)の侍りて、「殿下(てんが)も、蛍見などにや、下らせ給へ」とのたまひければ、御共に御下向あり。富山の里に城郭のありて、関白殿「これは何城といふぞ」と問はせ給へば、内府「富山城にて候」。関白殿「富山城は、神保か、或は一向宗か」と御尋ねあれば、内府「かつて一向宗とは、僅かに聞き知りたることあり。さすが殿は、博洽(はっこう)にてわたらせ給ふ」といたく讃嘆し給ひけり。
○中宿権大納言文盲の事
直廬(じきろ)にて御物語など侍りける折、中宿権大納言、「それは平将門(へいしょうもん)の祟りにや候やらん」とのたひまければ、花井権中納言、「平将門(たいらのまさかど)は、門の名にはあらず」とうち笑ひ給ひて、権大納言殿御顔うち赤らみて、御恥をかきたまへるに、関白殿「げに門にはあらねども、将門を「しょうもん」と読むこと、将門記(しょうもんき)の例によるか。また、平を「へい」と読むことは、平相国(へいしょうこく)に引かれてならん。古くは藤原家成卿(ふじわらのいえなりのきょう)をば、藤中納言家成卿(とうちゅうなごんかせいのきょう)とも言ふなり。「へいしょうもん」の読み、必ずしも誤りたるには非ず」とのたまひけり。
○朝霞右大臣新座復讐騎士団の事
朝霞右大臣、武蔵国新座郡てふ所に別業(べつごう)ありて住み給ひけるが、ある時関白殿に、「当世の下郎どもが狼藉に報いんために、新座復讐騎士団を作らんと思ふ」と申し給ひければ、関白殿いみじく笑はせ給ひて、「よきやうに計らひ給へ」と仰せあり。
○塩竈権大納言清酒を以て諫言の事
塩竃権大納言、ある時戒石銘(かいせきめい)てふ陸奥(みちのく)の清酒を関白殿に献上あり。関白殿、その名の由来ゆかしく思召して、人を以て問はしめ給へば、「昔二本松の地頭たりし丹羽何某が、下司どもの戒めに、「爾俸爾禄 民膏民脂 下民易虐 上天難欺」と石に刻みたりしによりて、この名あり」と申しければ、「塩竃殿は文盲にておはせしかど、諫言などするは、家中に儒者などの侍らんか」と御感心あり。
○筑後権大納言江戸の媼の事
筑後権大納言「江戸のあえかなる小さき媼(おうな)、帽などかぶり、靉靆(あいたい)などかけたるが、三万人ばかりや侍らん」とのたまひければ、法厳寺関白殿ゑつぼに入り給ひて、毎朝笑ひながら目覚めて御起床なりけるとかや。
○筑後権大納言博多松囃子に御憤りの事
筑後権大納言、若くてまします頃、筑前国那珂郡(なかのこおり)わたりの別墅(べっしょ)に住み給ひけるが、博多の里の甲乙人(こうおつにん)ども、松囃子てふことをしいだして毎年上を下に返して騒ぎののしることあり。余りに鳴り高ければ、権大納言高殿の窓より「あなかま、雑人(ぞうにん)ばらや」と叫び給ふ。されば松囃子の事、その年は沙汰止みて、宰府(さいぶ)、国司、郡司の役人どもみな糾問せられけり。
○筑後権大納言罪人糾明の事
関白殿、ある時筑後権大納言に、「十余年の以前、鎮西にて、男が妻(め)とその親などを縛(いまし)めて殺しけることあり」などと語り給ふ。後に権大納言殿、その事につきて御糾明あって、松永何某といふ下手人を面白がらせ給ひて、「松永が、手鎖(てぐさり)をつけて、スタジオパークとかやの花道を歩みける有様、眼前に浮かぶこそ、心も言葉も及ばれね」とのたまひければ、関白殿もいたく御入興ありけり。
○深溝頭中将寵幸の事
深溝(ふこうず)頭中将(とうのちゅうじょう)は若やかに心まめなる人にて、関白殿にも忠節深ければ、殿いたく御眷顧(おんけんこ)あって、常々「頭中将や、いづら」などと仰せあって御物語などあまたあり。踏歌(とうか)節会も、中将まうけなど細やかに差配せられければ、殿ますます愛でおはしましけれども、「このごろ愛敬の甚だしき事、犬に似たり。人を以て畜生になぞらふる事、無礼なれども、犬を愛するに同じき情けを以て頭中将を愛すること、確かなり。さればこれは我が罪なれば、愛執の根、断たんと思ふなり」と仰せなって、その後はややよそにして扱ひ給ひけるとぞ。
○飾磨中将漢字を読まざる事
飾磨中将、十三の歳に、「改良」「雑談」てふ字を読むことあたはざれば、人々をこがりて、「飾磨の人は、恋をのみして物思ひの絶えざればや、文盲にこそ」と言ひけるを、関白殿、「紫式部は、一の字をも知らざるやうに過ぐすと日記にいへり。されば中将もさあるらん」とて、ますます時めかし給ふ。
平民部
○桜井冠者の事
関白殿いまだ十歳にておはします頃、下総国葛飾郡(かつしかのこおり)の小学校てふ所に通ひ給ふことあり。その裏の門より常々入り給ふが、鉄の階(きざはし)を下りて庭に至るを、階の四段目、六、九段目など、様々の禁忌ありて、童子ども踏むこと非はざりき。しかるを、桜井冠者(さくらいのかじゃ)と申す者、階の最上段にのぼりて、下に尿(しと)をしてんげれば、全ての階、穢れにけりとて、童子ども階を上下すること能はず、鉄柵をよぢのぼりて、築地より飛び降りてしばらくは通りにき。
○土崎偸盗の事
関白殿十四、五にておはしますそのかみ、葛飾の郡の中学校といふところにて、庭球をし給ひけることあり。その供奉に、土崎といふ熟根(じゅっこん)卑しき下郎あり。この者片足の萎えたれば、退化(たいか)と呼ばれけり。この者、或書肆(しょし)の景品を盗みてそれを関白殿に申し奉りしが、殿大きに憤り給ひて、「栴檀(せんだん)は双葉より香ばしと本文(ほんもん)に見えて候。下賤といふとも、人品に上下あるべし」とて、鈴木悪七兵衛(あくしちびょうえ)と申す大力のつはものを召して散々に之を痛め問ふ。かねて抗ひ申さぬ上、鞠訊(きくじん)は厳しかりけり。白状の上は是非もなしとて、関白殿、退化を書店に引き据ゑさせ、懺悔せしめたり。聖アウグスティヌスの言に曰く、悪を犯さぬといふとも、人の悪を犯すをとどむる者少なく、罪をとどめざるもまた罪なりと。時は濁世末代、所は粟散辺地(ぞくさんへんじ)の境とは申しながら、未だ若くして悪の芽を摘みける関白殿の御志こそ、有り難きことにはんべりしか。
○麺麭に執心の者の事
庭球部にて、別の中学校と仕合(しあい)などすること度々ありけるが、ある学校に、小早川てふ下郎ありて、莫大なる麺麭(めんぽう)を負ひ来りて、毎度人々に配ることあり。関白殿、「如何なる故にて、かかることをするぞ」と御下問あれば、「慈悲の心にて候」と申しけれども、家司ども「家にて麺麭(めんぽう)を作りて売れるが、余りたるを持ち来れるならん」と申す。しかるを、鈴木悪七兵衛、ある時小早川の来りけるを見て、とらまへ殴りて麺麭をことごとく奪ひにけり。関白殿、「剽掠(ひょうりゃく)せずとも、自づから施しとて配りけるものを」とのたまへば、悪七兵衛、「かかる不思議の事をしい出す者、必ず悪意あり。只に授かれば乞食になりたる心地して腹の立つが、奪ひ取れば胸も腹もすき候」と申しけり。関白殿笑はせ給ひて敢て御咎めの事もなかりけり。
○理科室炎上の事
中学校の理科室てふ所に、炎出づる器具などのありければ、悪童どもさし集ひて、筒の口を手にて抑へ、活栓(かっせん)を緩めて瓦斯、空気などを溜めて火を摺りて、「めらぞうま」などと申して火炎を放ちて笑ひ転げたることなどありけり。さるを、活栓を緩めたるままに放ち置きけるが、しばらく後に火摺りける者のありて、爆発してんげり。されば悪童ども直講(じきこう)に引っ立てられて殴られけるとぞ。
○平民ども関白殿に雨乞を乞ふ事
中学校の部活動と申すは、夏暑くして冬寒ければ、童子ども倦み飽きて、「雨降らばいか程かは楽しかるらん、とく帰りて皮遊牝(かわつるみ)などせんに」などとののしりけり。関白殿も心憂く思召しければ、ある時祈雨(きう)を行はれければ、青空に暗雲兆して、やがて雨降りにけり。凡類ども手をあはせて喜びて、「毎日行はせ給ふべし」と申しければ、殿、「毎日はしかるべからず。常に雨降らば、稲腐りて百姓どもの憂ひとなるべきに」とて、毎日はせられず、殊に飽きておはしける時に、雨乞はれけるとなん。
○不良入寇の事
ある時、庭球部に不良の来ることありて、場を奪はれて庭球をなすこと能はざれば、皆下心には喜びて帰りけり。されば、関白殿、「多雨は百姓の憂ひあるが、不良の入寇はそのことなし」とて、不良来寇を祈られければ、度々来寇ありて、皆とく帰りて、萬のよしなし事をしけるとぞ。
○霊鑑寺門跡の事
関白殿、霊鑑寺(れいがんじ)門跡(もんぜき)に御忍びにわたり給ふを、鹿ケ谷のあたり道込みければ、迷ひ給ひて、普請の宰領(さいりょう)と思しき翁に、「これ、霊鑑寺はいづこ」と問ひ給へば、翁「身どもは土地の者にては侍らねども、霊鑑寺とは、この突き当りの寺のことか。但し碑(いしぶみ)ありて、霊鑑寺門跡(もんあと)と刻まれたれば、今は滅びて跡のみにこそ」と申しければ、礼物賜って参られにけり。碑のわたり更地にて、広くてありければ、奥に堂宇のありつれども、翁、別の寺と思ひけん。殿「凡下(ぼんげ)は徒(いたづら)に文を学ぶ要あらじ。人に道を教ふる心だにあらば、神妙(しんびょう)なり」とのたまひけり。
○御原と申す者の事
あるとき筑前国に地侍ども合戦の事あるを、折ふし筑後権大納言当地に御下向あれば、御忍びにて戦見物あり。さて片方の後陣(ごじん)につゆも動かざる雑兵どものわだかまりてをれるが、戦慣れたるつはものども怒りて、「あがれや己(おのれ)ら」と罵りける。中にも背(せい)短(たん)なるある足軽、ゆゆしく鼻白みて、何と思ひたるやらん、権大納言のまします御桟敷にあくがれきたりて、「あがれやとは、如何なる義にて候やらん」と申せば、大納言殿「申すはかりもなき痴れ者の、かく世にありつる珍しさよ」と打ち笑ひ給ふ。この足軽、後に御原(みはら)と申して、大納言殿の御酔狂に、召し使はれけるとなん。
○御原善知鳥安方の事
御原、「我は昔、サブカル疎男(うとお)と人に呼ばれしぞ」と常々申しけることあり。ある時、筑後権大納言、関白殿の饗宴の御戯れに「御原、己を「うとお」と呼ばせけり」とのたまひければ、関白殿、「善知鳥(うとう)とは、安方(やすかた)の事か。世を貪る下郎(げろう)とばかり思ひたれども、猿楽師にて侍れば、さすがその道の古事(ふるごと)は存知(ぞんち)しけるよ」とて、御感(ぎょかん)あり。「されば安方の心は如何に」と人をして問はせ給ひければ、御原、「やすかとは、鈴々木保香(すずきやすか)のことか。定かには知らねども、可愛げなきグラドルにこそ」とさかしらがりて申しければ、殿の御勘気に触れて、訊杖(じんじょう)にて強(したた)かにうちしらげられて、御懲らしめ蒙りけり。
○御原疱瘡の事
御原、人まねに竹輪(ちくわ)てふ物を喰らひて肌(はだえ)に疱瘡(もがさ)の出で来にければ、化転(けでん)して薬師に見せんとて、かねて午刻と約しけるが、誤りて巳刻に着きにけり。「されば一時(いっとき)を所得(しょうとく)したるよ」とて喜びけり。これを聞く人、「竹輪をまほりて疱瘡の出でけるだに苦しからんに、薬師の許(がり)にて一時を徒(いたずら)に待ちて過ごすことの、如何に所得(しょうとく)ならんか。但し腹立ち怒るよりは勝れるか。粗忽(そこつ)なる人の処世はかくのごとし」と、却って感じけるとぞ。
○御原時計の事
御原、常より際離(きわはな)れんことを心にかけて、有無をしいだし居(お)れば、権大納言殿、「されば、うぬは時計になるべし。衆人の目を留むること、これに勝れるはなし。あまりさへ、賤しげなる慰みにはあらで、世間の用に立つことなり」とのたまひけるとぞ。
○御原変成女子の事
御原、「我は転生することあらば、女にならばや」と申せば、世の人、「見目よき陰間(かげま)などのかく申すだに、物狂と人は言ふべきに、無下に見にくき男の、如何なる物の憑きたれば、かく不思議の事を申すぞ」といへれば、ある僧、「女人は五障ありて成仏あたはざるに、提婆品(だいばぼん)に、竜女変成男子(へんじょうなんし)によって菩提に至れる事見えて候へば、このところを読みて生(なま)悟りして、一度女人になって後、再び男子になりて、得仏(とくぶつ)せんと思ふか」。筑後権大納言これを聞きて笑み給ひて「この者は内典(ないてん)など読む程の者にては候はず。ただその性(しょう)怯懦(きょうだ)にて候へば、かくは申するなり」とのたまへば、僧俗も笑ひにけり。
○田原町の事
田原町(たわらまち)てふ女の、歌詠みとて雑人ども頻りにもてはやすことのありけるが、関白殿遥かに聞し召して、その詠む歌を三つ四つ近習の者に書かせて参らせられければ、「大きければいよいよ豊かなる気分東急ハンズの買物袋」などとあって、物をもえのたまはずなりにけり。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます