第6話
和歌部
○新続千載和歌集の事
第二十二の勅撰和歌集の事は、後花園院の御宇(ぎょう)に東山義政執奏(しっそう)せんとしけれども、動乱ありて沙汰やみにけり。その後五百年が間、勅撰の事なし。関白殿、山柿(さんし)の道を歩み給ひて久しければ、執奏の御所願あり。しかれども、冷泉の家につてもなければ、御自ら歌を精選し給ひけるとぞ。博陸公のかかる先蹤(せんしょう)なけれども、花山院は拾遺集を、光厳院は風雅集を親しく撰ばせ給ふことあれば、苦しからずとて、行はれけり。
○ながらへばの歌の事
関白殿、藤原清輔の「ながらへばまたこの頃や偲ばれむ憂しと見し世ぞ今は恋しき」の歌を殊に賞し給ふ。御忍びに飛行機てふものに乗り給ひて、欧州へ御出(ぎょしゅつ)なりし時、機内にていたく御感ありて、「この歌は、時の本義に迫れるにぞ。昔より今を打ち眺め、今より行末を見はるかすなり。この歌は百人一首に入れられければ、はやくより知るとも、これまで心に染まざるは如何に。昔の歌を読むにも、時と処を得てこそ」。
○中宿権大納言和歌を讃ずる事
中宿権大納言は文盲の人にて侍れども、殿下の御歌を好み給ひて、度々家集を乞ひ願はれけり。
○殿下自賛の歌の事
ある公卿の「殿下の御歌のうち、最も重く思召さるる御歌は如何に」と問ひ奉れば、殿下、「いくめぐり花の台(うてな)に洩れにけむ身は末の世の果てに流れぬ、これぞ我が最も珍重とする歌」と仰せありけり。末代に輪廻の心を詠ませ給ふなるべし。
○埴生の歌の事
筑後権大納言、関白殿はにふのゆづるてふ舞人(まいうど)に体貌いと似給ひける由申されければ、面白がらせ給ひて名を詠み給ひける、
旅人にはにふの小屋のかやむしろ譲る月夜の明けまくも惜し
○飾磨中将の歌の事
飾磨中将の姓名を物名歌の如くに折りて詠み給ひける、
あながちに飾磨の浦の黒松の待ちわびけんと誰か知るらん
○当時の歌の事
殿下「この頃は御製にも俗語などを使はれける、如何に。但し桃山院、後仁孝院の御製には、丈高き御ところ多くましますと見奉る」。
○中務の御の歌の事
中務の家の集に「たくなはの夏の日暮らし苦しくてなどかく長き命なるらん」とあり。「夏のいぶせき日暮らしを詠める、当時にはいにしへに勝りて暑ければ、この歌の心、殊に深く侍る」となん。
○万葉集の歌の事
ある公卿、「万葉集が内に重く思召さるる歌は如何に」、殿下「麻続王(おみのおおきみ)の、うつせみの命を惜しみ波に濡れ伊良虞(いらご)の島の玉藻(たまも)苅り食(は)む、これならん。物を喰らひ命つなげることの苦しさを詠めること、類なく幽玄にて」。
○古今集の歌の事
同じき公卿、「古今集が内には如何に」、「躬恒(みつね)の、今更に何おひいづらん竹の子のうきふししげき世とは知らずや、これなど、ルーマニアてふ国の、シオランてふ人の厭離の心にもかなふべきの名歌にや」。
○京極中納言の歌の事
同じく、「京極中納言の歌は如何に」、「見るも憂し思ふも苦し数ならでなど古を偲びそめけむ、拾遺愚草(しゅういくぞう)に侍りける、鬱勃の果てに懐古の心、云ふはかりもなし」。
○述懐歌の事
同じく「述懐歌の中に、殊に尊ばせ給へるは」、「藤谷黄門(ふじたにこうもん)の、憂しとても憂からずとてもよしやただ五十(いそじ)ののちのいくほどの世は、風雅集にあり。老後の諦観を詠めるも、まことに心のうちの涼しき体にて侍る」。
○歌の事
殿下、当世の人の詠歌の心構へとて「歌はあひかまへて心のままには詠まで、先例に従ひて古き道を辿りて、昔の跡を踏み外さぬやうに詠むべし。古き言の葉よりぞ、新しく丈高き歌もひこばゆるらん。されば三代集、八代集、二十一代集と、常にこれに親しみ、先規なからん姿を詠まざるやうに思ひ励むべし。」
○恋歌の事
「恋歌は殊に先例に沿ひて詠むべし。ゆめにもこれを実(じち)に行はんと思ふべからず。色に一つとなる人は、色分くるを得ず。色欲を離れざれば、恋を詠むことかたきなり」。
○精神現象学竟宴和歌の事
ヘーゲルと申す泰西(たいせい)の賢者ありて、精神現象学てふ書を残したり。関白殿これを学ばんと思召して、御自ら講筵(こうえん)を設けられて、昔の日本紀(にほんぎ)の講筵にならひて竟宴(きょうえん)和歌も詠ませられけり。
○蝉の事
関白殿蝉の歌をあまた詠み給へる又の日に、関白殿の御衣(おんぞ)の肩に蝉とまり奉りて、離れざることあり。鳴くにもあらざるが、下部(しもべ)を召し、取らせて空に放ち給ひけり。
陰陽部
○天文密奏の事
時と処との吉凶は、古来陰陽師の掌りて判ずるところなれども、末代には陰陽寮廃絶せしめられて、その道の博士もなかりければ、公事を行ふにも障りあり。されば、殿下これを憂へて、花井権中納言に、天文密奏(てんもんみっそう)の下文(くだしぶみ)を下し給ひて、陰陽道を学び、天地異変ある時は勘申(かんじん)せよと命じ給ふ。しかれども、権中納言万に懈怠(けたい)の人なれば、一度も勘申の事なくして、御勘気に触れて逼塞(ひっそく)したりけり。
○隠陰陽師の事
天文密奏なかりければ、民間に隠陰陽師(かくれおんみょうじ)とてあるを奉仕せしめんと思召されけれども、おぼつかなきによりて止みにけり。
○泰山府君祭の事
桜町中納言成範卿(しげのりのきょう)は、泰山府君(たいざんふくん)に御祈りあって桜花の齢を延ばされければ、関白殿も家の名のゆかりにや、泰山府君祭をば陰陽師どもに行はせられんとは思召されけれども、なければ、その事なし。
○怪光の事
平成廿六年閏九月のある夜に、鎮西の上空に怪光出来す。色は緑なれども、尾は橙色なり。割れ裂けて二つになりて後に、即ち消失しけり。凡下大いに動揺すと云々。蚩尤旗(しゆうき)か彗星か、陰陽家不在の間、分明ならずして止みぬ。その後さしたる凶事なし。
○吉動の事
殿下「地震には吉動と凶動とあり。但し如何に判ずるかを知らず」。執事「暦注を調べ動土に吉たらば吉動とし給ふべきにや」。
○御嶽山御神火の事
平成廿六年の秋、木曾御嶽山(おんたけさん)にて御神火(ごじんか)あり、凡下数十人焼死すと云々。以て僉議(せんぎ)あり。
別当「長保元年、富士の御神火の際は、法成寺殿、神祇官並びに陰陽寮を召させ給ふ。天仁元年、上野国浅間山の噴火の時は、軒廊卜(こんろうのうら)を行はる。今度は、明治に女人禁制を破りたるによっての虞(おそれ)あり。以て再び禁断を命ずべきか、蔵王権現に鎮謝し奉るべきか」。
執事「天仁度の噴火の際は、上野一国の田畠滅亡すと中右記に見ゆれども、今度は甲乙人(こうおつにん)の多少亡失したるのみなり」。
以て軒廊卜は行はれず。
○口永良部嶋御神火の事
大暦元年の夏、薩摩潟の南方海中、大隅国熊毛郡口永良部嶋(くちのえらぶじま)てふ小嶋にて御神火あり。黒煙天を衝き、炎流既に海浜に達すと云々。以て評定あり。この島僻遠たるによりて、この度も軒廊卜は行はずと決したり。
○死穢の事
大暦元年の夏、常陸国久慈郡南高野郷の鹿島社に死穢(しえ)出来す。凡下、境内にて妻(め)を殺害せりと云々。「小社と雖も、鹿島社の触穢(そくえ)なれば、甚だ不吉なり」と仰せあり。
○五体不具穢の事
平成廿六年の秋、福原の林藪(りんそう)に女童の死体の欠片ありて世人騒動することあり。殿下、附近に浄域の有無を検ぜしめ給ふに、神戸水天宮間近にありと。「五体不具穢(ごたいふぐえ)なり、甚だ畏れ多きことなり」と仰せあり。
○女人穢の事
家女房の、月の障りありと言ひければ、召し給はずとなん。また殿下のたまはく「破瓜の穢れは諸書に見えねども、慎みあるべきことにや」と。
○坂者穢の事
坂者に触るることは触穢なるか、御尋ねあり。別当「坂者の穢れは、殺生等のことによるなれば、そのことをせぬ坂者は穢れざるか」。執事「坂者の穢れは地に流す他の血によらず、身に流るる己が血によるなれば、その末の者まで穢れたりと覚ゆ」。されば御用心のために、坂者には成程(なるほど)触れざるやうに心しらひすべしと定められけり。
歴史部
○法成寺殿外寇に御応対の事
長徳三年、高麗人(こまびと)西海道に来寇あり。十月朔日、都督の官使、上洛して急報あり。折しも旬政(しゅんせい)を行はれけるが、時に一上(いちのかみ)法成寺殿、右大臣悪霊堀河殿、内大臣仁義公なり。法成寺殿いたく驚き思召して、直ちに簀子(すのこ)より下り給ひて、官使より書状受領なって、御手づから開かせられけり。右大臣、内大臣も左大臣に続き給ひて、法成寺殿の御後より読み給ふ。小野宮右大臣殿、この時は未だ参議にて候はれけるが、「三公の所作見苦し。人を以て殿上に注進せしむべきにや」と小右記にあり。殿下、「小野宮殿ののたまふことはさることにて候へども、大事のある時は、法成寺殿の如くにこそあらまほしけれ」とのたまひけり。
○富家殿御若道の事
富家(ふけ)殿は、或る美しき殿上人を愛で給ひけれど、その後(うしろ)緩しと仰せありて、臥所に召さるること少なし。さて年ふりて、かの殿上人の嫡男元服しけるに、容顔父に異なりよろしからざれども、召されて愛で給ふ。これは、親よりも後厳しと仰せありて、度々夜殿に召さるるとなん。
○普賢寺殿春日神鹿の事
普賢寺殿は清らに美しき人にておはしましければ、後白河院御寵愛なのめならず、四代の摂政関白になられけり。ある時春日社に御参籠なりて、神前におはし給ひけるを、社殿につと神鹿の入り立ち、殿の御許へ歩みて、御顔をねぶり奉ることあり。人々、「殿は大明神の御心にかなはせ給ふ」とくちぐち誉めきこえけるとぞ。
○後普光園院殿天下独歩の事
後円融院の御宇、後普光園院(ごふこうおんいん)殿、太閤にて権勢類なく、天下独歩と言はれけり。応安年中、興福寺強訴に、神木入洛などの事ありけるを、院も太閤も容れ給はざれば、南都怒って太閤を放氏(ほうし)とす。後深心院(ごしんしんいん)殿、その時関白たりしが、太閤との御なからへは悪しくてましましけれども、「藤氏長者は春日大明神の御名代、長者たりし人を放氏となすこと、如何に」と仰せありける。されば太閤、思し消ちて日頃院参し給ひけるを、後光厳院、俄に崩御なりぬ。以て大衆(だいじゅ)勢つきて、春日大明神の神罰たるべき由ののしりければ、太閤強訴を容れ給ひて、続氏(ぞくし)となりにけり。
○成恩寺殿御述懐の事
成恩寺(じょうおんじ)殿、博陸(はくりく)にてましましける頃、大樹(たいじゅ)には鹿苑院(ろくおんいん)殿とて、その威勢尤も甚だし。ある公卿、成恩寺殿のもとに参りて曰く「主上の御母代(おんははしろ)の定めに、室町殿に御出なって御談合あるべき由、大樹仰せあり。「御母代には、女房の北山殿と思へども、憚りあり。崇賢門院(すうけんもいん)を御准母(じゅんぼ)になさしめ奉るべきか」と」。成恩寺殿「崇賢門院(すうけんもいん)は主上の実の御祖母にてましませば、准母の儀しかるべからざるを、不思議の事をのたまひけることよ」とのたまひけれども、やがて御悟りあり。室町殿に参ってのたまはく「御准母は北山殿たるべしと存じ候」。大樹「思ひもよらざることなり。御准母には崇賢門院をなさしめ奉るべし」。成恩寺殿「崇賢門院は、主上の実の御祖母にてまします。実の御祖母を御准母になさしめ奉ること、先例なし」。以て御准母は北山殿に定まりぬ。北山殿は大樹の妻室、かかるただ人を御准母に定めたる先例こそなかりけれども、鹿苑院の力を憚り給ひて、かくはのたまひけるなり。成恩寺殿御日記に、「末代至極、かへりてその興あるものなり」と書き給へるぞ、せめてのことにこそ。
○後大染金剛院殿御零落の事
後如法寿院(ごにょほうじゅいん)殿薨去の時、御嫡子後大染金剛院(ごだいぜんこんごういん)殿、未だ二歳にておはしましけり。如法寿院殿の北政所ぞ、御祖母とてただ一人親類におはしませば、下男一人ばかりを召し使はれて、ただ二人にて二条殿に住み給ふ。築地(ついじ)崩れ、遣水(やりみず)渡る橋なども朽ちて、夜露も月影もきほひて床にもれにける邸の有様、心ある人は眺め奉りてあはれがらざることもなし。昔は罪なくして配所の月を見むことをば、風友(ふうゆう)の願ひとはしけれども、都のうちにてかかる御目にあひ給ふこと、いかが思召されけん。
○後大染金剛院殿山口にて御遭難の事
後大染金剛院、太閤にておはします時、都は荒れて住み憂かりければ、周防の山口に、大内義隆と申す守護のありて、その時勢威並ぶ者なくてありければ、頼み給ひて御下向あり。さるを、陶(すえ)何某とかやの謀叛起こって、義隆は腹を切って果ててんげり。太閤ある寺に逃れ給ひておはしけるを、凶賊(きょうぞく)乱れ入りて、左右(そう)なく殺め奉るとぞ。昔は松殿摂政の、都の大路に平家にゆきあひ給ひて御辱めありけるをだに、無下にうたてきことと世の人は歎きけるを、忠仁公、昭宣公の御末、太閤にてましましける御人の、兵乱にて薨御ありけること、末代の至極とこそは言ふべけれ。
○公弁法親王武陽の鶯訛りたるを咎め給ふ事
寛永寺の公弁(こうべん)法親王(ほっしんのう)は、武陽(ぶよう)の鶯の声を訛りたると聞し召しければ、都の鶯を取り寄せ給ひて、上野山に放ち給ひけり。かくて鶯の声優になりにければ、この地をなん鶯谷と後に申しけるとぞ。
○応円満院禅閣赤穂浪士の事
応円満院禅閣(おうえんまんいんぜんこう)、元禄の頃江戸に御下向ありて、神田に住み給ひけるを、時に赤穂浅野の浪士ども起こって、仇討と申して吉良上野介を殺してければ、大樹(たいじゅ)常憲院(じょうけんいん)殿、成敗に難儀して禅閣に御尋ねあり。大樹「浪士の事、幕閣、赦免か切腹か相論ありて定まらず。禅閣如何に思召され候や」。禅閣「武家の事は、大樹が成敗にてあるべけれども、愚老(ぐろう)が思ひにては、腹を切らするこそ、有り難き恩ならめ。浪士ども名を惜しみてこの挙に及ぶ、身命を惜しむにはあらず。この期に死なずとも、人身遅速こそあれみな程もなく死するべきに、命を僅かに繰り延べていかがせん」と仰せありければ、切腹と定まりたりけるとぞ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます