金色の雨の降る湖で
蒼草太
プロローグ
シュッ、シュッ、シュッ・・・
夕暮れの中、空中にいくつもの弧を描く銀色の光の筋。
それは、一本の糸でありながら、あるときは八の字に見えたり、巨大な円のようにも見えた。
新斗は、彼女の凛とした後ろ姿にただ見惚れて立ち尽くしていた。
水面には、ポツッ、ポツッと、いくつもの水滴が落ちて波紋を広げるような様子が見てとれる。まるで、雨が降り出したばかりの時のような光景だ。その下には何かの魚が忙しく動き回っているのが陸上からでもはっきりと確認できる。
「んんっ!」
彼女は、小さな声でそう叫ぶと竿をびしっという鋭い音を立てながら、体を弓の字にのけぞらせた。無駄のない素早い動作で、糸を手で手繰り寄せる。数分の格闘ののち、その手には、五〇センチメートルほどの長さを持つ、金色の美しい魚が抱かれた。魚体は、キラキラとした光を周囲に放った。彼女は、腰をかがめて水面のすぐ下でその魚体を支えながら、少しだけ後ろを振りむいて、声を発した。
「何か用?わたし、入漁券なら買ってるわよ」
他に人気はないので、新斗に対して言っているのは明らかだった。完全に振り向いて新斗の顔を見て、彼女は、表情を少し変えた。
「君、昨日も見ていたでしょう?」
「あ、いや、きれいだな、と思って・・・」
自分が彼女を見ていたことに気付かれていないと思っていた新斗は、あわてふためいた。うろたえる彼の口からは、思っていたことがそのまま言葉として出てきた。
遠くに見える深緑の山々を背景にし、夕陽を浴びながら透明な湖面に浸かって、周囲に広がる水面に広がるたくさんの雨のような波紋の中、りりしく仁王立ちし、巧みに、そして複雑に長い糸を操る彼女の姿は、一枚の絵のように美しかった。
「きれいでしょ。見る?」
そう言って、彼女は魚を水上に出さないように丁寧に支えながら、陸の新斗の方にゆっくりと近づいてきた。どうやら魚を見たいと思ってくれたようだ。新斗はほっと胸を撫でおろすと、自分も柵を乗り越えて水際ぎりぎりのところまで歩み寄った。
確かに、魚も美しい。実際に見てみると、金色といっても黄金色とは少し違っていた。背は、少し緑がかっている。その色は、金緑色とでもいった方が適切なのだろうか。全体的には---頭部付近や背から腹に至る胴の部分は---、黄金色とまではいかないが、茶色に近い見事な金色---あるいはシャンパンゴールドとでもいうべきか---をしており、その上には、淡い乳白色の斑文が無数に散らばっていた。
「これ、なんていう魚なんですか?形はサケか何かのようだけど、違いますよね。本当に綺麗な魚ですね」
「まあ、サケの仲間と言えばそうね。マスだよ。これ、アメマスっていうの。中でもここ阿寒のアメマスは、金アメ、とか、あるいは、黄金のアメマスって呼ばれていてね、実際、こんなふうな色に見えるの」
彼女は、岸近くまで寄り、ラバー製のネットを水に漬けると、その上に魚を横たえて、新斗に観察を許した。
「そろそろ、いい?放すから」
頷く新斗の顔を確認すると、彼女は魚を両手で支えて、水中で手を離した。魚は、しばらくの間、えらを動かしながらたたずんでいたが、次の瞬間、あっという間に沖の方に一直線に帰っていった。
「逃がしちゃうんですか」
「そうね。食べられるんだけど、食べるために釣っているんじゃないの」
「聞いたこと、あります。キャッチアンドリリースってやつですね」
「そうよ。初めて見た?これ、フライフィッシングっていうの。この釣りをする人たちは、釣りや漁ではなく、これはゲームだとかスポーツだと言い張って、魚を大事に逃がすよの。そして、他人にも同じことをするように強制する向きが強いわ。まあ、魚が大事ならそもそも魚を針で引っ掛けて引っ張り合いっこして楽しむような釣りなんかするな、とか、自分が遊ぶだけのために釣って逃がすなんて命に対する冒涜だ、とかいう見方もできる訳だから、わたしは、乱獲さえしなければどっちでもいいと思うんだけどね。人にとっては遊びだけど、魚にとっては命がけのやり取りなんだし、言ってることおかしいわよね。でも、持ち帰ろうとする人を見ると目くじら立てて怒ってくるおじさんも多いから、煩わしいからね、とりあえず逃がすの。この魚、簡単に言うと大きなイワナなんだけど、そう美味しいものでもないの。サクラマスっていうのもたまに釣れるんだけど、それは美味しいわ。わたしは、そのときはこっそりと持ち帰って、食べちゃったりもするわ」
彼女は、片目をつぶって、新斗にそう言った。新斗は、彼女の話をあまり聞いていなかったので、無表情で、そうですね、としか答えられなかった。彼は、間近で見る彼女の美貌に改めて驚いていた。目鼻立ちがはっきりとしたその彫の深い顔立ちは、彼が卒業旅行で訪れたばかりのローマで見た美しい女性を模った石像を連想させた。どうりで、あんなに遠くからでも美しく見えたわけだ。
自分から関わってきたようなものなのに、新斗の素っ気ない態度に少し腹を立てたのか、彼女は尋問を始めた。
「あなた、どこから来たの?」
「さ、札幌です」
「なんだ、道民じゃない。フライ、見たことなかった?」
「はい。大学でこちらにきているだけで、出身は内地なんです」
それ以上の興味はなかったのか、彼女は質問を止めた。
新斗は、会話が止まった気まずさを打ち消そうと、
「それって、難しいんですか」
と聞いた。
「そうねえ・・・。どんな趣味でも極めようと思ったら簡単ではないんだろうけど、少なくともフライは、初めての人には難しい部類に入るかもね。スタートラインに立つのが大変だから。釣るためには、魚が何を求めているかを考えて、自分で巻いたフライを魚が飛びつくように、プレゼンテーションしてあげなきゃいけないんだけど、まずは、その前に、まともに投げれないと思うから」
「そうなんですね。ぼくも、そのうち、挑戦してみようっと」
「誰かに教えてもらわないと厳しいかもよ。わたしは、小さい頃に兄貴に教わったの。そうでないと、できなかったと思うわ。あと、内地では、なかなかこの釣りができる湖はないそうよ。足場がなかったり、狭かったりして。そもそも、サケやマスは少ないしね。この道東では、そこら中でできる釣りだけど・・・」
「やってみる?教えてあげてもいいわ。ただで、とは言わないけれど」
「はい。ぼくも・・・私もやってみたいです。教えていただけないでしょうか」
新斗は、就職活動を通じて、ようやく使えるようになってきた『私』という主語を使い、丁寧に教えを乞うた。何かが始まりそうで、高揚してくる気分を抑えるかのように。
「いいわ。わたしは、割とこの時間帯に釣りをしているわ。君、いつまでいるか知らないけど、明日は空いてる?今、モンカゲロウが飛んでいて、釣りやすい時期なの。道具は貸してあげる」
「わたし、秋辺紅葉---あきべ・くれは---よ。紅葉でいいわ」
「私は、大城新斗---おおしろ・あらと---です。大学四年生になります。よろしくお願いいたします」
「なんだかやりにくいから、そんなに仰々しい言葉、使わなくていいわ、新斗くん」
「はい。分かりました。秋辺さん」
「紅葉でいいって。わたし、自分の苗字、そんなに好きじゃないのよ。まあ、君の気持ちも分からないでもないわ。会ったばかりの年上の女に対して、下の名前では呼びかけにくいものだわよね。彼女さんとかにも誤解されちゃうかも知れないし。いるかどうか知らないけどさ」
そう言うと、紅葉は、いたずらっぽい笑みを浮かべた。
そうやって、笑うんだ、新斗は、我知らず頬を染め、しばしの間、彼女の顔を見つめていた。
金色の雨の降る湖で 蒼草太 @AoiSota2
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