11_SHE DRAWS

 ――私が次に目覚めた時、天井は無く、空は四角く切り取られていなかった。

 いつか最後に絵を描いた屋上に私は横たわっていた。

 体を起こして辺りを見渡すと、有る筈の地上は全て赤い海水で覆われていた。この建物はこの街で一番高い。

 僅かに残ったサンドボックスの跡から、一時期はこの建物も全てサンドボックスに埋もれていたようだ。

 海を見渡すと、黒い箱がいくつか見える。蓋の空いた箱からは水蒸気が立ち昇っていた。植物園の水が外に漏れているんだ。水はやがて雲になり、循環を始めるだろう。この世界に再び、雨が降る。

 その日は遠くない。


 ……私は人間だったようだ。

 ファンクションλによれば人間だった。

 そして、私の近しい人は狼で、私の愛する人も狼だった。サンドボックスが伝える情報に、私の頭は混乱の坩堝となっていた。


 私はこれから何をすればいいのか分からない。目的も世界も全て赤い砂の海に奪われてしまった。

 生きる目的が今の私にはない。


 でもいずれ、私のするべきことが見つかるような予感がする。そう感じるのは、サンドボックスに触れた所為だろうか。

 それまで私はどうしよう。何かをしていなければ、ロストをしてしまいそうだ。


 ……そうだ。

 海を描こう。

 私が本当にやりたかったことは海を描くことだ。青くて、理不尽で、朝日を浴びると虹色に輝く海。


 私は屋上の片隅に放置した画材を探す。

 ……あった。

 サンドボックスに攫われなかったのは、幸運なのか皮肉なのか。答えは誰も知らない。


 絵の具の封を開けると、懐かしい匂いがした。蓮花が居た時間の匂い。

 私は夢中で筆を動かした。悪夢の中で筆を動かした。

 そうして出来上がった絵の中には嘘が混ざっていた。

 海は青く塗られていて、黒いシノメニウムだけが本物だった。今まで描いた失敗作と何も変わらなかった。シノメニウムはどうしても海に入り込んでしまう。でも、出来上がった瞬間に、私の中から何かが抜け落ちるような感覚があった。


 私は描いた。

 彼女に見せる為の海を描いた。

 ついに完成したんだ。


「どうして、こんな絵を描きたかった? 不定禊」

「……私は、自分の画家としての才能の無さに絶望していた。だから、海に自分を捨てに行ったの。崖から落ちれば、死ぬことは無いし、拒死である体は残るけど、私という存在は記憶と共にロストする。葛藤に囚われてゆっくりとロストするなんて真っ平で、早く解放されたかったから……。そして、自分を失うはずの海で、鉦吾蓮花と出会った。彼女に救われた。私にとっての海は、大事な出会いの風景。だから、青かったあの頃の海を描いた」


 かつて、海を描くたびにシノメニウムが邪魔だと思っていた。でも、今はあの頃の海の面影を残しているのはシノメニウムだけ。あの黒い箱が、青い海と今を繋げている。


「なるほど。願いは叶ったみたいだね。それでは、本題に入ろう。あと数日でこのサンドボックスは引いていく。引いたらネームドキャラクター『ハッピートリガー』を探すんだ。場所はサンドボックスが教えてくれる」

「……それからどうするの」

「言ったはずだよ。『狼を討て』と。君は人類を救うために、平和喪失者を倒さなければならない」


 天使はそこまで言うと、陽炎のように揺らいで消えていった。


 問い。

 私はこのまま鉦吾蓮花を失った悲しみに背を向けて。人生を続けても良いのだろうか?


 答え。

 いいえ。私は、彼女と決別して前に進まなければならない。

 彼女が最後まで、人類の為にコンテンツを作り続けようとしたように、人類を救うために動く。


 私は自分が書いた絵と、現実の風景を見比べた。まるで違う世界に来たようだ。今の世界では、人間はどのように定義されるのだろう。

 平和喪失者として、化け物になってしまった人類の引き算が、人間なのだろうか?

 ……いや、この問いに答えなんて無い。世界が再び今日のように大きく変われば、また人間の条件が書き換わるのだろう。

 常識なんてものは無く、その瞬間に当てはまる最適解があるだけ。

 きっと、人間函数の答えは永遠に定まらない。

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ファンクション・λ ミスターN @Mister_N

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