最初から最後まで、徹底して描かれなかった「私」

 ホームレスとしての生活を送る主人公が、他人の免許証を手に入れたことをきっかけに、逆転のためのひと勝負に打って出るお話。
 しっとりとした手触りの、シリアスな現代ドラマです。あらすじからして上手いというか、綺麗に要約されているのにしっかり読みたくなるポイントが盛り込まれていて、その上でこのキャッチコピーというのがまた最高でした。ちゃんとあらすじとは違う仕事を担っている感じ。いきなり本文以外の枝葉について語ってますけど、でもこの辺は作品の顔にあたる部分というか、のっけから期待が高まった状態で読ませてくれるお話って本当に好きっていうか人間は顔が八割だと思います。
 この先、思いっきりネタバレになりますがご容赦ください。物語の核心、きっと一番美味しいところに触れてしまっているのですが、でもそこが一番好きなので。
 結末というか物語の帰着点というか、つまりは母の顔と月に象徴される部分なんですけど、その答えが本当に好きです。このお話は主人公が別人になりすまし、それは自分の利益のための行動とはいえ悪意をもって他者を騙そうというつもりではなく、むしろ誠実に接することで少しずつ認められていく物語なのですが。最終的に正体が明らかになってなお受け入れてもらえる、その理由がもう本当に最高でした。
 彼の積み重ねた努力や誠実さは、もちろんまったく無意味ということはなくそれがあればこそというのはわかるんですけど、でも直接の要因では決してない、という点。ただ彼が善良でもうひとりがそうでなかったからと、そんな単純な話には終わらずもっと深くてどうしようもない、まるで切っても切れぬ縁のような何かに最初から支配されていた関係性。加えて、その上で下された母の決断。本当に自分の利益ための共犯関係。その嘘のなさと覚悟の深さに、ただただ痺れるばかりでした。
 最後の一文。はっきり捨てられたばかりか、実は最初からずっと曖昧だった「私」の存在。もしかして彼は幸せを得るよりもまず、ただそれを失いたかったのではないかと、なんだかそんなことを思わせる強い幕引きでした。