春のたんぽぽスタンプラリー

加藤 航

春のたんぽぽスタンプラリー

 通勤に使う、最寄り駅までの細い街路。その端に一輪のたんぽぽを見つけた。

 温かいこの時期では何ら珍しくもない、風に揺られるそれに目を引かれたのは、西倉の命日が近いからかもしれない。


          *


 西倉真奈にしくらまなは小学校の同級生だった。

 僕と西倉が初めて同じクラスになったのは四年生に進級した時だ。しかし、僕らが初めて顔を合わせたのは四年生の夏休みに入る少し前だった。

 西倉は重い持病を抱えていたからだ。

 子どもだった僕にはよくわからない、難しい名前の病気だ。

 入院と自宅療養、調子が良い時でも保健室登校が多かった西倉と会う機会が無かったのは必然と言えた。

 一学期も終わろうかという頃になって「はじめまして」と挨拶されて、こちらもぎこちなく「はじめまして」と返したことをよく覚えている。


 西倉は静かな女の子だった。

 休み時間に女子生徒たちがグループで昨夜のテレビ番組について話題を広げていても、騒々しい男子生徒が教室の中でボールを投げ始めても、窓際の自分の席から楽しそうにその様子を眺めていた。

 積極的に会話に入ってくるタイプではなかったが、決して孤独だったわけではない。不思議と西倉の周りには必ず誰かがいた。

 西倉と話す時、誰もがいつもの話し方を忘れる。普段は乱暴な言葉遣いの多い男子も、好きな話題で興奮すると歓声を上げがちな女子も、西倉の前では少しだけ神妙な面持ちになって穏やかに話した。

 

 西倉は同じクラスのどの生徒とも違う笑い方をし、違う話し方をした。

 大人びているというのが、近い表現だろうか。僕も西倉と話す時は不思議な緊張感に包まれていた。僕よりもずっと達観した大人の女性を相手にしているような、そんな感じだ。もしかしたら重い病気が彼女をそのように成長させたのかもしれない。


 ある日の休み時間、僕は西倉に言った。

「外では遊べないの?」

「うん」

「じゃあ、他の女子のところには混ざりにいかないの?」

「うん」

「つまんなくない?」

「いいの。みんなが楽しいところを見てるのが楽しいから」

 そう言って、校庭でドッジボールに興じる男子たちのほうへ顔を向けた。

 その儚さの混じった嬉しそうな横顔。僕はそれを見てどうにも説明をしがたい感情を抱き、困惑した。今になってみれば、その時から西倉に惹かれていたのだろう。


         *


 夏休みが終わっても、西倉は登校しなかった。

 以前から西倉のことを知っていた生徒たちにとっては、いつものことだった。病気と共に生きている西倉は学校に来る日のほうが少ない。しかし、僕にとっては初めてのことだ。


 西倉がいないまま、クラスの時間は過ぎていった。夏の暑さが去って、秋の涼しさが来て、クラスのみんなはすっかり夏以前と同じ様子になった。しかし、僕の心だけは夏休み前のどこかに置き忘れてきてしまったようだった。


 冬になり、久しぶりに西倉が学校に来た。といっても、午前中だけの保健室登校だった。

 僕は休み時間に保健室へ行った。友達にからかわれるのが嫌で、こっそりと。

 保健室の清潔なベッドに座った西倉は、以前よりも少し痩せたように見えた。


「久しぶりだね」

「久しぶり、西倉さん」

「来てくれてうれしい」

 久しぶりの会話に、僕の心臓は高鳴った。なんでもない世間話ばかりだ。それでも、友達とゲームや漫画の話をしている時よりも楽しかった。

 休み時間も終わるころ、珍しく西倉は少しだけ寂しそうな顔を見せて言った。

「明日もここに来るんだ。午前中だけだけど。よかったらまた話に来てくれる?」

「うん。いいよ」

「みんなの話、なるべくたくさん聞いておきたいんだ」

「どういうこと?」

「私、あと半年くらいしか生きられないんだって」


 その時は心臓が凍り付いたようだった。さっきまでの嬉しさも楽しさもどこかに吹き飛んでしまった。

 西倉は夏休み後の検査で余命宣告を受けていた。どうやら来年の夏まではもたないだろうとのことだ。今の保健室登校ができるのもあと少しだけで、その後はずっと入院生活になるらしい。しかも、今までのようにたまに学校へ顔を出すことも困難になるとのことだった。


 僕はその日の午後、どうやって授業を受けてどうやって帰ったのかよく覚えていない。

 家に帰ってから自室でめそめそと泣きだした僕を、両親はさぞ不思議に思ったことだろう。


          *


 僕にできることなど無いまま時間は過ぎ、西倉は入院した。容体は芳しくなく、見舞いには行けなかった。

 クラスはすっかりいつも通り、僕はまだ置いてけぼりだった。


 春になって急展開があった。なんと、西倉に一時的な退院が認められたのだ。

 病状の進行を考えれば、これが最後の外出になると思われた。最後に思い出作りくらいは、そういった意図があったのかもしれない。

 一時退院を数日後に控え、面会が認められた病室へ僕は見舞いに行った。


「もうすぐ出かけられるよ。嬉しい」

「うん。よかったね」

「ねえ」

「なに?」

「私も外で遊んでみたいな」


 それは難しい相談だった。激しい運動や長距離の歩行などは医師から禁止されていた。それでもこれは西倉の最後の頼みだ。僕はなんとか知恵を絞って考えた。


 トイレへ行くために席を外した時、病院の待合室に貼られた一枚のポスターが目についた。

 【春のたんぽぽスタンプラリー】と題されたそれは、地元の私鉄が毎年春に開催する小さなイベントの案内だった。

 専用の台紙を手に各駅をめぐり、特定期間中だけ設置されているスタンプを集めるという、ささやかなイベントである。

 スタンプを集めても台紙を景品と交換できるわけでもなく、運賃の割引に使えるなどの特典もない、需要がいくらあるのか怪しい残念な催しである。

 しかし、僥倖であった。


 僕はポスターの近くに置かれていたスタンプ台紙と開催案内のチラシを引っ掴むと、病室へ駆け戻った。


 突然駆け戻ってきた僕に驚く西倉の両親や看護師に向けて、必死に説明した。

 鉄道スタンプラリーなら、移動の間はずっと電車の中で座っているだけだ。歩きも走りもしなくていい。

 元々人気の少ないイベントであるうえに、開催期間も残り僅か。平日の昼を狙って参加すれば人混みに巻かれる心配もなく、病気の西倉でも安全に楽しめるイベントのはずだと。


 僕の説明にどれほどの効力があったのかはわからない。しかし、看護師が一人同行することを条件にイベント参加が認められた。

 それを聞いた僕が当事者の西倉を差し置いて喜ぶものだから、西倉は呆気に取られて、そして笑った。


          *


 いよいよイベント参加の日。といっても、僕と西倉、看護師の三人で電車に乗るだけだ。

 平日の空いている時間を狙うために、僕は両親に無理を言って学校を休ませてもらった。一生のお願いの使いどころとしては間違っていなかったと思う。


 僕の目論見通り、車両は貸し切り状態だった。

 春の陽気の中、桜やたんぽぽの群れが車窓を流れて行った。西倉の目がいつもより力強く感じられたのは、最後に景色を目に焼き付けようとしていたからだろうか。


 スタンプ集めは簡単だった。

 駅構内に設置されたスタンプ台は固定式だ。スタンプと受け台の隙間に台紙を差し込み、取っ手を掴んでガチャンと下に押す。これで一丁あがりだ。

 駅ごとに変わる草花の絵の下に、駅名と西暦の開催年が付記されたシンプルな図柄のスタンプ。春のたんぽぽスタンプラリーと銘打っているのに、ひまわりやあじさい等の夏らしい花が登場することもあり、イベントの頓珍漢さに思わず笑ってしまった。西倉も「変なの」と言って笑っていた。それがとても楽しかった。


 イベントの進行中、珍しく西倉の体調は良かった。

 このまま病気が治ってしまえばいいのにと思った。


 電車での移動中、蛇腹折りのスタンプ台紙を広げて、二人で眺めた。

 季節のばらばらな草花が躍る鮮やかなスタンプ台紙。僕とお揃いで進行していくスタンプ台紙。空欄はいよいよ一つを残すだけとなっていた。


「たくさん集まったね」

「あーあ、全部集めたら病気が治ったらいいのに」

 西倉が言った。

 僕はなんと返せばいいか戸惑ったが、西倉は返事を期待していたわけではないようで、そのまま話をつづけた。

「今日はありがとうね。学校まで休んじゃって」

「いいよ。このくらい」

「優しいんだね」

 もっと気の利いたことを言えたらよかったのに、僕は照れてしまって西倉の顔も見ずにぼそぼそと喋るばかりだった。それでも西倉は本当に楽しそうだった。

 楽しそうなクラスメイトを眺めていた西倉とは違う、自分が楽しんでいる西倉だった。


          *


 最後の駅に到着した。

 そこは普通電車しか停まらない小さな無人駅で、やはりというべきか、客は僕たち三人だけだった。

 目的のスタンプ台もすぐに見つかった。スタンプ台の横にはたんぽぽの図柄が見本として飾られていた。春のたんぽぽスタンプラリー、最後を飾るのはたんぽぽだった。


「よーしっ、じゃあ私からいい?」

「うん」

 西倉は意気揚々と台紙をスタンプ台にセットし、力強くガチャンと押した。これでスタンプ全制覇だ。

 西倉が台紙を引き出すと、そこには――



 しね

 バーカ



 西倉は台紙を広げたまま唖然としていた。僕も看護師も同じだ。

 たんぽぽの図柄が押されるはずだった最後の空欄に刻まれていたのは、あまりにも稚拙で、そして酷い言葉。素人が彫った芋版のようにカクついた文字で、スタンプの幅いっぱい二行に分けて書かれていた。


 看護師が「ちょっと、なにこれ……」と呟く。

「あはは……、いたずら、かな?」

 西倉はぎこちなく笑った。僕は何も言えなかった。

 こんなときはどういった反応が適切なのだろうか。混乱、驚き、悲しみ、恐怖。いろいろなものが心の中では浮いては沈んだ。不思議と怒りは覚えなかったように思う。あまりに不可解な悪意を唐突に浴びると、怒りは出てくる暇もないのかもしれない。


 台無しになってしまったスタンプ台紙を眺めたまま、僕と西倉はしばらく立ちすくんでいたが、看護師に促されて駅を後にした。

 西倉は泣きも喚きもしなかった。努めて平静を装っていたのか、僕と同じように混乱の最中にあったのか、本当に応えていなかったのか、それは分からない。

 帰りの道中、誰も何も言わなかった。

 別れ際、僕は辛うじてさよならの挨拶だけを絞り出した。西倉もさよならと返した。それだけだった。


 その後、西倉の体調は悪化の一途をたどり、見舞いには行けなくなった。

 もともとイベントの日だけが奇跡のように体調が良かったと言えるので、あの日の事件が西倉の体調に影響を及ぼしたのかはわからない。


 西倉は闘病を続けたが、最後は医者が宣告した通り、夏を迎える前に亡くなった。

 僕はそのことを両親づてに聞いた。


          *


 後で知ったことだが、最後のスタンプ台には何者かが細工を施していたとのことだった。

 件の文字を刻んだゴム板が、正規のスタンプの上から接着剤で貼り付けられていたらしい。

 駅に設置されていた監視カメラに顔を隠した犯人らしき人物が映っていたのは、僕らがイベントに参加した前日のことだったという。


 僕は理解に苦しんだ。

 そんなことをしても、罰せられるリスクがあるばかりで犯人が得られるものは何もない。

 いくら簡素とはいえ、わざわざゴム板を買って文字を彫り、人のいない時を見計らってスタンプ台に工作を施す。大変な手間だ。

 当時の僕は、その意味不明な悪意に身震いするほどの恐怖を感じた。


 学校を卒業し、社会に出て、様々な人間模様とあらゆる感情を経験した今、僕はそう言った悪意を少し理解できるようになったと思う。

 そして、そのことに恐怖も驚きもない。


 あの日、ほとんど話すことができなかった西倉は、何を思ったのだろうか。理不尽な悪意を理解できたのだろうか。そして、最後を悪意で塗りつぶされたスタンプ台紙を、西倉はあの後どうしたのだろうか。


 今年も、春のたんぽぽスタンプラリーの時期が来る。


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