第3話 からすのうた 終


「空を思うように飛ぶには、体に合った羽がなければならない」

 大烏は祥太の寸法に合わせて外套の裾を詰めていった。

 外套は羽からできているはずなのに、滑らかで、光があたったところだけ黒の表面に緑や赤の光がほんのひと時浮かび上がる。

 大烏の羽の先は人の指のように器用に動いた。

 糸巻きから黒い糸を引き出し、針に通す。顔には拡大鏡のレンズが入ったメガネをかけていた。

「この糸もあの子たちの羽からできている」

 裾を縫いながら大烏は言う。簡単にはほつれないように、丁寧に縢る。

「カラスの羽は、別々の子たちから集めたものでも、相性の良いものたちが自然と集まる。それを紡いで糸にしたものがこれだ。この糸を機織りで織れば布になる。カラスと幽霊だけが触れることのできる布だ。手を当ててみるといい」

 祥太は布の表面を撫でた。

 また、頭の中で風が鳴る。

 橙色の空と、黒い影になった街並み。家路に伸びる影が風の匂いになって体に満ちてくる。

「カラスの羽は、みんな夕焼けの匂いがするんですね」

 祥太は布地の上に指を滑らせた。

 切ない夕暮れの風の匂いをもう少し感じていたかった。

「カラスの羽は、夕暮れの風をよく食むのだよ。塒に帰る時、羽と羽の間に夕暮れの風はたっぷりと絡みつく。昼と夜の間の空気が羽の中にいつも満ちているから、カラスの目はあちらとこちらも見通せるのだ。特別な鳥だ」

 大烏の声は愛おしげだった。

 祥太は目を閉じて今度は手のひらを外套にそっと押し付ける。

 あちこちの家から漂う夕食の香りが、少しずつ冷たさを増していく風に乗って漂ってくる。

 帰ろう、帰ろうと風が歌う。皆が羽を寄せ合って眠る場所に帰るのだ。昼と夜の間の、ほんの一瞬の夕空の中をカラスは飛ぶ。そこに、ふっと悲しみの匂いをまた風が運ぶ。

 これは、前にこれを着た幽霊の心だ。

 もう会えない、生きる人たちの姿を見たくてカラスの姿を借りたのだろう。

 悲しみと、別離の痛みと、そして現世に残された人たちへの声にならない思いが夕闇の香りになって羽に包まれている。

 ねぐらへ。塒に私も帰りたい。でも、もう帰れない。

 ねぐらという言葉の優しさが、祥太の心の深いところをちくりと刺した。

「ねぐらってなんですか?」 

 大烏は糸を引く手を止めずに

「夏が終わると、カラスは皆でひとつのところに集まって眠る。その場所を塒というのだ」

「家族じゃなくても一緒にいるんですか?」

 大烏は外套の肩が祥太の体に合っているのを確かめて糸を縫い留める。

「家族ではなくとも、私たちは共に眠り、風の強い日は共に寄り添って耐える。塒はそういう場所だ。さみしい秋が来ると、皆が申し合わせたように塒に集まるんだよ」

「お母さんは、家族にしかわからないって言ってた……」

 祥太は小さく呟いた。

 血の繋がりがない人に、お胎を痛めてもいない人に何がわかるもんですか。家族にしかわからないのよ。

 母は何と戦っていたのだろう。孤独だろうか。

 母はひとりだった。父もひとりだった。あの家では、みんながひとりだった。

 でも、カラスは違うのだ。

「大烏さん。カラスって人間よりも優しいてすか?」

 止まることなく針を滑らかに動かしていた大烏の手が止まった。祥太の目が、底なしに深く昏く見えたのだ。

「どうだろうか。優しさという人の作った評価は当てはまらないかもしれないね。カラスとして生きるのは大変だ。病にかかることもある。猫や狸には狙われる。番を持てるとも限らない」

「――うん」

 祥太は小さく頷いて、また尋ねた。

「外套を返しに来なかった人はどのくらいいますか?」

 外套を纏えるのは、現世で太陽が一番高いところに登るまでで、それを超えてしまうと幽霊は自分の名前を忘れ、人てあったことも忘れ、街頭に包まれてカラスになってしまう。大烏はそう言っていた。

「半々だね。しかし皆が人であることに嫌気が差したのではないと思う。残した人や残したものを見ていたいがあまり、時間が来てしまった者もいるだろう」

 どうして自分はこんなことを口にしているのだろうとカラスは動揺していた。人も悪いものではないなど、この子に言い聞かせるような真似をしているだろうか。

「あの人は、返しに来ると思いますか?電車に飛び込んで死んだ幽霊のおじさんです」

 祥太はまた尋ねた。

「アタシにはわからんね」

 しつけ糸を引き抜く。

 外套は祥太の背丈にぴたりと合った。

「うん。僕もわからない」

 祥太はまっすぐに腕を伸ばした。

 黒い外套に包まれた腕が、風を切る音を立てた。

「ありがとうございます。全部確かめて、暁くんに謝ったら返しに来ます」

 子どもには似つかわしくないほど丁寧に頭を下げた祥太の体が黒い羽に変わる。

 まだ小さな、巣立ってすぐのカラスが窓から羽ばたいていく。

「待ちなさい!」

 呼び止める大烏の声は届かない。

 もはや夕焼けも空にない永遠の宵闇に黒い羽が溶けていく。

 大烏はその場に力なく膝をついた。


「あの子は……」


 あの子はアタシに似ている。


 人の世に弄ばれて、あまりに短い生涯を終えた子どもだ。子どもの幽霊はほとんどいない。

 彼らは日々を生きることが全てなのだ。その瞬間を全力で生きていて、次の瞬間が来ることと、それが幸福であることに全幅の信頼を置いている。だから塊根もなければ強い恨みもない。

 それらがないということは、この世にしがみつく理由もないということだ。あっという間に彼らはこの世でもらった名前を忘れ、風の中に消えてしまう。その後のことはわからないが、別の形になって産まれてくるのかもしれない。

 だが、虐げられた子どもや喜びを享受することを許されなかった子どもは残る。痛みや苦しみが鉤爪のように現世に食い込む。

 大烏は、かつてこの店に居候していた少年を思い返した。あちらとこちらを見通す目を持つ子どもだった。


 彼もまた、大烏に似ていた。


 何がきっかけだったのかはわからないが、店に来た子どもの幽霊を、彼は捕まえた。大烏に黙って彼は幽霊を捕まえ、喰らい合わせる遊びに夢中になり、そして破門されたのだ。

 彼に会ったのも久々だった。

 背が伸び、体つきも青年のものになって、更に残酷な目をするようになっていた。店にいた頃に小さなクッキー缶に隠していた幽霊たちよりも、祥太を閉じ込めようとしていた箱の中にいた幽霊たちは凶悪さを増していた。

「アタシは、また間違えたのかもしれないねえ……」

 祥太に外套を貸すべきではなかったのかもしれない。

 大烏は両の翼で自分の肩を抱いた。

 翼の中には、人の腕が埋もれている。

 羽毛の下には人とそう変わらない骨格がある。

 しかし内臓は歪み人のものとも鳥のものともつかない形に捩れていた。

 それは大烏の罪の形であり、彼に与えられた罰でもあつた。


「ああっ!大丈夫ですか!?どうなさいましたか!?」

 ばさばさと慌ただしい羽音がして、不器用に回転しながらカラスが飛び込んでくる。

 カラスは、テーブルの脚に翼をぶつけて唸っていたが、すぐに立ち上がり、背広の男の姿に変わった。

 背広はくたびれているが、血で汚れてはおらず、男の体のどこにも損傷はなかった。

「戻ったのかい?」

 大烏はよろよろと立ち上がろうとしたが、足がもつれてテーブルを支えにやっと体を起こす。

「どこか痛むのですか?医者に行きますか?医者……ですよね?」

 男は脱いだ外套をそっとテーブルに置いて、大烏に肩を貸した。

「獣医にでも連れて行こうと言うのかね。――どうだったね?現世は」

 背広の男は、堰を切ったように話し始めた。

「葬式をしてました。会社のみんなが金を出してくれたみたいで、私は自分の体が煙になっていくのを見てきましたよ。それがね、みんな怒ってるんですよ。こんなことして責任取ったつもりか!って。でもねえ」

 男はこらえきれなくなったのか、ケラケラと笑った。捨鉢な笑い方ではなくて、本当に愉快なものを見たというような、湿っぽさのない笑いだった。

「それが、みんな、ちゃんと仕出しの助六はバクバク食べてるんですよ。これ美味しいなんて、受付やってくれてた子は泣きながらスマホで弁当屋調べてて、私もう、それを見ながら笑っちゃって、そしたら別の社員はカラスも泣いてくれてるよなんて」

 男は笑いすぎて目の端に滲んだ涙を拭うと、今度は息を吸い込んだ。

「それで、ああ良かったって思ったんですよ。私がミスして怒らせた取引先の社長、この人とは長い付き合いだったんですけど、彼がうちの会社を買い取ってくれていました。私は彼の心の傷になってしまったのかもしれません。何も死ぬことはないだろって、彼だけはずっと泣いてました。でも、でもねえ……。全部丸く収まったんですよ。もしかしたら、死ななくても関係は修復できてたのかもしれませんねえ。でもね、これでよかったなあって私は思ったんですよ。みんな、私が死んでもちゃんと飯が食えるくらいには前向きで、働けるところが残って、私の保険金で少し金も出してやれた。私が飛び込んで止まった電車は回送電車だったのも知りました。誰も怪我をしなかった。烏さん、私は幸せな死に方をしたんですねえ」

 男は深々と頭を下げた。

 もう頭が落ちることもない。

「自ら死を選ぶことが幸せだなんて言っちゃいかんよ」

 大烏は吐き捨てた。男の言葉がやけに気に障った。

 男はすみませんと謝ったが、やはり顔は晴れやかだった。

「アンタが外套を借りに来たときにいた子どもは、親に殺された子だ」

「あの子が?」

 男は部屋を見回した。祥太の姿を探しているのだろう。

「外套を貸したんですね。誰に会いに行ったんでしょうか?」

「可哀想な子なんだ。アンタ、まだ極楽やら地獄とやらに行く気がないならアタシの話を聞いてくれるかね?ここには話し相手がいなくてね」

「成仏してもいいと言われても、未練がなくなっても消えないんですからしょうがないでしょう。聞きますよ。私には時間はたくさんあるようです」

 男は丸椅子を勝手に持ち出して座った。

 気が晴れたら、すいぶん図々しくなったようだが、その図太さが大烏には有り難かった。


 大烏から祥太の話を聞いた背広の男は、神妙な顔で唸った。

「家庭の中だけで世界が出来上がってしまっていたんでしょうね。金かあるうちは何とかなっていたものが、金がなくなったことで一気に破滅に向かっていったわけか」

「アタシは今の現し世のことには詳しくないんだがね、祥太の家みたいなことはあるのかい?」

 ありますよ、と男はさらりと肯定した。

「私も小さいとはいえ会社を経営してましたから、色んな人を見てきました。障害のある子どもの兄弟は、割りを食うことも多いんです。親御それを見越して次の子を拵えるなんて言うのは、そんなに珍しくないですね。なんだかんだ言って親は先に死にますから、その後の面倒を見るためにもう一人産んでおこうみたいな打算で生まれてくる子はいますよ。祥太くんなんて、まさにそれなんでしょうね」

「人は昔から変わらんのだね。だが、その不具の子のほうが可愛いなんていうことはあるのかい?祥太の話じゃ、両親は兄――、祥太が言うには弟なんだそうだが、そっちの方に随分期待をかけてたみたいじゃないか」

「いや、変なことじゃないです。どこかに障害があるから、何か突出した才能があるって人も多くて、そういう人を見てしまうと親も隠された才能に賭けちゃうもんなんじゃないでしょうか」

「それじゃあ、祥太があんまりに可哀想じゃないか」

 大烏は思わず声を上げた。

 男は可哀想ですよねえ可哀想ですよねえと頷いたあと。

「うーん、親御さんも別に最初は祥太くんをほっとこうと思ったわけでもないでしょうし、憎くてお兄さんの世話を押し付けたわけでもないんでしょうけどね。ただ、祥太くんはお兄さんに比べたら手のかからない子だから、それが普通になっちゃったんでしょうね。聞いてる限り賢い子だからわがままも言わなかっただろうし、言っても否定されちゃったかもしれませんねえ」

 普通になっちゃうと、それを変だと思わなくなりますからねえと男は自分で言ってまた頷いた。

 そして続ける。

「でも、彼の父親がした決断は許されることではないです。逃げたんだ。まだ年端もいかない自分の子どもに押し付けて逃げた」

 声が低くなる。そして、眉をしかめて何か考えているようだった。

 大烏は、話したことで少し胸のつかえが取れた気かした。

 頭が回らないものの中に、天候を読むことや暦を読むことに長けている者が稀に出ることは大烏も知っていた。それを祥太の親が期待していたということも、わかる気がした。自分の子どもを掛け値なしに可愛がることは、言うよりも難しいだろう。優れた者であれ、何かに秀でてあれと親が願うのはそう罪深いことでもあるまい。

「――なんで、翔太くんは幽霊になったんでしょうね」

 男がぽつりと口に出した。

「そりゃアンタ、弟を殺した罪悪感が……」

「殺した兄弟の顔なんて確かめたいですか?」

 男は険しい顔をしていた。

「祥太くん、あなたに一度も両親に対する不満を漏らしてないんですよ。事実だけを淡々と話している感じがある。彼の中の不満や、遣る瀬無さはどこにいったんでしょうね?親を恨んだことはないんでしょうか。弟を恨んだことは?」

 大烏は胸を強く殴られたような気分になった。

 かつて大烏の弟子だった青年は、なぜ祥太を狙ったのかわかったのだ。


 あの子は、悪霊になる素質のある幽霊しか狙わない。


 大烏は勢いよく箪笥の扉を開けた。

「なんです!?」

 男がたじろぐのも構わず、外套を引っ掻き回し、最も奥に吊るされている外套を掴みだす。

 大きな外套だ。この店で唯一、ただ一人のカラスの羽から作られだ特別なもの。

 それを脇に抱えてから、大烏は男が脱いで机に置いていた外套を彼の胸に押し付ける。

「何です!?えっ!?」

「キミもついてきてくれ!このままだとまずい!」

 狼狽する男に大烏は怒鳴る。

 喉が引き攣れて傷んだ。血の味が喉からせり上がる。

「それ!あなたもいるんですか!?」

 男は大烏の手にした外套を指さした。

「アタシは人間の幽霊なんだよ!理由があってこんな姿になってるけど、中身は人間なんだ」

「はあ?」

 大烏は男に構わず、窓に「臨時休業」の木札を掛けた。

「アタシが頼んで外套を着てもらっているから、アンタに条件は適用されない。昼日中を過ぎてもカラスの姿を保てる!」

「落ち着いて!祥太くんの家わかるんですか!?」

「祥太は大川南小学校に通っていると言っていた。家もその近くのはずだ。近づけばわかる!」

 久々に羽織る外套の違和感はすぐに消えた。

 翼が体に馴染む。重い人の骨がカラスの軽くてしなやかな骨に変わる。風切り羽の香り、夕暮れの香り。

 翼が風を巻き起こす。その風に乗ればいい。

「留守を頼んだよ!」

 屋敷の周りに集まるカラスたちが答えて鳴き声を立てる。

 2羽のカラスは、宵闇横丁の薄藍色の空へと飛び立った。



 祥太は風を捉えて舞い上がり、宵闇横丁の空を駆けていく。

 横丁は上空までも薄闇が漂っていた。

 普通なら薄闇と同居するはずの残光さえどこにも見当たらず、昼と夜が切り替わるほんの一瞬を切り取った空気が広がっている。宵闇横丁には、あちらとこちらの境界が蟠っていた。

 白い塀の中に建つ水路を巡らせた屋敷の上を飛ぶ。

 屋敷には幾重にも水路が張り巡らされ、時折銀の小魚が跳ねた。小さな猫が水路の脇を走り抜けて、屋敷の中に消えていく。

 飾り彫りが優美な、赤い手すりを備えた楼閣を越える。

 広縁でしどけなく煙草を吹かしている女たちが、祥太を捕まえようと手を伸ばす。赤や紫に艶々と塗られた爪が羽をかすめ、美しいがやけに肌のぬらりと光る女たちがさざめき合った。

 翼を翻して白い手から逃れると、女たちは赤く光る唇でキャハハハと華やかな笑い声を立てた。女の口の中には、鋭く細い牙が並んていた。

 捕まらない。地を這うものに翼を持つものを捕まえることはできない。祥太は翼を動かし、まっすぐに飛んだ。

 祭囃子の聞こえる無人の社の上を舞う。鳥居の上から、気配だけがじっと祥太を見ていた。

 薄闇に住まう人ではないものたちを飛び越して、祥太はその場所を目指した。

 そこに、境目がある。風が歌っていた。横丁の綻びから現世を目指せと風が歌う。


 不意に空気が変わった。横丁を抜けたのだ。


 朝日の眩しさに、祥太は目を細めた。

 朝日だ。まだ低い太陽が辺りを照らしている。

 この朝日が、祥太が死んだ翌日の陽の光なのか、あるいはもっと時間が経っているのかわからない。

 宵闇横丁にいる間は時間の感覚がないのだ。

 どこかで雨戸の開く音がする。

 マンションのベランダが開き、洗濯物を抱えた男が目をこすりながら出てくる。

 開きっぱなしのガラス戸から、朝のテレビ番組の音が漏れ出していた。祥太は旋回して、その真上の部屋のベランダに降り立った。

『今日は2月16日。午前7時になりました。今日も寒い一日となりそうです!』

 女性アナウンサーの声がする。

 祥太は胸をなでおろした。次の日だ。

 僕が死んだ、次の日だ。

 手摺から飛び立ち、さらに高い建物の屋上に舞い降りた。

 見下ろしてみると、このマンションは通学路の途中にある建物だとわかった。

 古い文房具屋とミニストップに挟まれた細い通りの先のマンションだ。

 それなら、祥太の家は近い。飛び立とうした祥太の足が止まった。

「待ってよ!」

「早くしろよ!早くしないと一番に着けないぞ!」

 ふたりの子どもが、ランドセルを背負って歩道を走っていくのが見えた。

「でも重いんだもん!走れないよ!」

 青い通学帽をかぶった少年が口を尖らせて両手に持ったバッグを掲げた。

 前を走る、黄色い帽子の少年がわざとらしくため息を付いた。

「まったく!1年生は体力ねえなあ〜!しょーがねーからオレが持ってやるよ!」

 黄色い帽子の少年が片方のカバンを受け取り、空いた手で手を握る。

「半分は持てよ。兄ちゃんが卒業したら自分で持たないとダメなんだからな」

 ふたりは顔立ちがよく似ていた。兄弟なのだろう。

 弟らしい黄色い帽子の少年は「ありがとう兄ちゃん!」と声を上げ、2人は肩をぶつけ合ってふざけながらまた走り出す。何が面白いのか、クスクスと笑い合う。笑い声は次第に大きくなっていった。朝の通学路に朗らかな歓声が通り過ぎていく。犬を連れたおばさんが、おはようと声をかけ、ふたりは声を合わせておはようございます!と挨拶を返した。ランドセルがカタカタ鳴る。ふたりを朝の太陽が照らしていく。




 ――僕の名前は山尾祥太だ。



 祥太はまた繰り返した。

 あのふたりを見ていると、なんだか自分が希薄になって、体に開いた穴に冷たい風が吹き込むようだった。

 胸騒ぎがする。何かが胸の底で蠢いている。

「早く、謝らないと……」

 祥太はがむしゃらに羽を動かした。

 雑居ビルとアパートの間の路地を飛び越える。

 なんだか羽が重い。

 遠くに祥太の家が見える。

 四角くて大きな3階建て。屋上もある。

 同じクラスの深谷くんが「広くていいなあ」って言っていた、祥太の家だ。

 あそこでは、暁が死んでいる。

 死に顔を見て、謝らなければ。

 なんでこんなに、羽が重いんだ?

 羽が水を含んだように持ち上がらない。

 よろよろと庭の一角に下りると、祥太は辺りを見回した。

 錆だらけのシャベルが転がっている。

 暁は、よくこれで庭を掘り返していた。

「なんで止めなかったの」

 母の声がした。

「暁くんは身体が弱いの。ばい菌が入って熱が出たら、また発作が起こるのよ。弟が苦しんでいてもいいの?」

 姿は見えない。それでも祥太を叱責する声だけは残っている。祥太は身をすくめた。

 庭は荒れている。夏に生え放題になった雑草が枯れてそのままになっていた。古い色褪せたゴミ箱は、蓋が浮いている。学校に行く前、このゴミ箱からゴミを出して捨てるのが祥太の役目でもあった。中身は暁のおむつだった。ゴミ捨ての途中に同級生には会いたくなかった。

 彼らはみんな祥太の事情を知っていた。それを原因にいじめるものはいなかったし、からかわれることもほとんどなかった。皆、祥太はよくやっていると褒めるか、可哀想な人を見る目でこちらを見た。

 ガイジの兄弟がいるとか、人生詰んでるとか騒いで祥太をからかった岡村くんは先生に呼び出されてひどく叱られ、それ以来祥太と口を利かなかった。でも、祥太はそのほうがマシだった。黙ってないことにされるよりも、岡村くんの方がまだ色んなことを話せる気がした。僕だってこんなのは嫌なんだよ。嫌なんだって、喧嘩になってでも、言える気がした。岡村くんなら、聞いてくれる気もした。勝手に「えらいよね」とか言ってくる奴らよりも話が通じるような気がしたのだ。あれだけ仲が良くて、祥太のことを心配してくれたタケやんも、祥太の本当の気持ちはわかってくれなかった。

「祥太はすごいよな。オレなら家出するかも」

 そうタケやんに言われた時、祥太は足元が崩れて深い穴に落とされたみたいだった。

 家なんて、出れないんだよ。タケやん。僕はお兄ちゃんだから、ずっと暁くんと家に縛り付けられるんだ。すごくなんかない。嫌で嫌でたまらないんだよ。


 誰か、僕の話を聞いてくれよ。  


 気がつくと、祥太の目の前に裸足の白い足があった。

 膝頭から赤い血が伝って足の甲に伝っていく。

 あっという間にそれは血溜まりになる。

 祥太は血の筋を遡って顔を上げた。

 頭に黒いゴミ袋を被った子どもが、立っていた。

 液体が揺れる音がしていた、ゴミ袋と細い首の境目にはガムテープが乱暴に貼られ、そこから滲み出した血が、線になって伝い落ちていた。

 着ているものは、白いシャツに黒いハーフパンツ。

 学校の体操服だ。白いシャツは血を吸って赤くなっていたが、名前が書かれているはずのゼッケンの部分だけ、執拗に血が滲みていた。まるで名前を隠すかのように。

 祥太は思い出す。

 この子は、箱の中にいた子だ。

 祥太を捕らえようとした青年が背負っていたリュックの中に捕らえられていた子どもの幽霊だ。

「あんたを連れてこいって言われたんだ」

 ゴミ袋の擦れる音と一緒に声がする。

「先生が、勝ったやつに祥太を連れてくる役目をくれるって言ったんだ。オレが勝った。強いんだよ。苦しくて痛くて怖い目に遭った子どもが一番強いんだ。他のやつなんてザコだ」

 オレが勝った。それがどういうことなのか、分かった。分かってしまった。頭の中に真っ暗闇が広がっていく。

 今は硬い嘴と化しているが、唇が震えた。

 羽毛全部が逆立つようだ。

 見える。見える。ゴミ袋の少年の中に、箱に囚われていた子どもたちがいた。

「他の子をきみは食べたの?」

 ゴミ袋の中からくぐもった笑い声がした。

「全部ザコだ。ザコだから死んだ。死んてからも負けた。オレはもう負けない。お前を連れてきたら、オレはもっと強くなって、フクシュウできるんだよ」

 ゴミ袋がボコボコと膨らんだ。

 苦悶に歪んだ子どもの顔が、いくつもいくつも内側でもがいた。

 祥太はおぞましさによろついた。飛び上がって逃げようとした。

「よう。山尾祥太くん」

 あの茶髪の青年が門柱にもたれて立っていた。

 フードデリバリー会社のロゴが入った大きなリュックを背負い、昨晩と変わらない格好でへらへらと笑っていた。

 明るいところで見ると、整った顔立ちなのがわかる。

 しかし、瞳は凍りつくくらい冷たい。

「山尾祥太くんだろ?外套を着たってわかるよ。見つけんの簡単だったよ。キミの家すげー真っ黒なんだもんな。俺、そういうのが見えるんだよ。家が歪んでるのが見えるの。そういう家の子どもはだいたい壊れかけだからさ、死んだらすぐに回収するようにしてんの。キミの家は俺の行動範囲から離れてたからたまたま見つからなかったんだよね。でも、見つかってよかった。ラッキーだね。さ、翔太くんもお父さんもお母さんに復讐しよっか」

 放課後遊びに行こうか?くらいの気軽さで、青年は片手をこちらに差し出した。

「復讐……?」

「そう。そんな幼くて死んで、嫌なことしかなくて、こんな風にした奴らを呪っちゃおうぜ」

「先生!」

 ゴミ袋の子どもが、イライラした様子で青年に詰め寄った。

「オレだってやれるよ!何人でも殺せる!」

「おー、そうだねえ。お前もやれるだろうねぇ。えらいえらい」

 青年はゴミ袋の頭を撫でた。ゴミ袋はおよそ人の頭の形ではない形に凹んでチャプチャプと水の音を立てた。

「先生?」

 翔太は動けなかった。縫い止められたみたいに翼も足も動かない。

「そう。立派な幽霊になるためのお勉強を教えてる先生。よろしくね。じゃあ、翔太くん、行ってきなよ。その目でクソみたいな現実を見ておいで」

 青年は、伸ばした手をすっと上にあげた。

「ドアは開いてる」

 微かに軋む音を立てて、玄関のドアが開いた。

 薄闇が、そこから溢れ出す。

 微かな血の匂いと一緒に。


 祥太はふらふらと歩き出した。

 羽は動かない。

 ステップを踏むように、上り框を跳ね上がる。

 カラスの足がフローリングに当たって音を立てる。

 リビングでは両親が死んでいた。

 だらりと伸びた母親の腕の内側には、細い傷がいくつも平行に走っていた。いつしか母親が長袖しか着なくなっていたことを思い出した。

 母親の顔は思ったよりも穏やかで、

 それが無性に腹が立った。


 父親は吹き抜けになった階段の手摺にぶら下がっていた。

 何でか、やけに仕立てのいいスーツを着ていて、足元にはビニールシートまで敷いてあった。首の骨が折れたらしく、キリンみたいに首が伸びている。

 すぐに死んだんだろう。

 僕は苦しんだのに。

 階段を一段ずつ上る。

 チャッと黒い爪が鳴る。


 チャッチャッチャッチャッ……


 階段を上りきり、祥太は廊下の先を見つめた。

 ここは、暁の部屋だ。

 また、扉がすうっと開いた。


 ベッドの上で、天井を見上げてガクンガクンと首を揺らしている暁がいた。

 不安になるとする、いつものクセだ。

 顔が仰向き、すぐに深く俯く。それをひたすら繰り返す。がくん。がくん。

 顎と頬の肉がぶるぶる震えていた。

 口からこぼれた涎が糸を引いている。


 生きている。

殺しそこねたのだ。気を失っていただけだったのだ。


 ベッドの上には、祥太が使った電気コードが落ちていた。蛇みたいにとぐろを巻いている。蛇ならいいのに。毒蛇ならいいのに。あいつを今すぐ噛んで殺してくれよ。なんで生きているんだ。なんで僕は死んだのに生きてるんだよ。

なんでお父さんはこいつもちゃんと殺して死ななかったんだよ。


「な?全部殺しちゃおうぜ」

 祥太の肩に細い腕が回された。

 外套のおかげでカラスの形をしているはずなのに、腕は外套をすり抜けて幽霊の体の形を捉えた。


 ゴミ袋が擦れる音がする。


「クソなんだよ。こんな世界、ぜんぶゴミだ。全員殺しちゃおうよ。オレたちみたいな子どもにはそういうケンリがあるんだって」


 外套を突き破って、細い指が入ってくる。

 滴る腐りかけた血と肉が、祥太の中に入ってくる。

 それは、赤くて黒くてあたたかくてつめたくて。


 心地よかった。


 あのゴミ袋の子が解けて真っ赤な水になる。


 祥太は、幽霊としての自分がドロドロと溶けていくのを感じた。

 僕が、幽霊になった理由……


 僕は全部が憎かったんだ。


 学校で、自分の前の由来を発表する時間があった。

 祥太の祥という字は、幸せのことだと両親は言う。

 なんの不自由もなく産まれてきたことを言祝ぐ名前だと言う。

 でも、ほの幸せは僕のためにない。

 暁が全部奪ったんだ。


 湖が見える町に家族で旅行したことがあった。

 暁が熱を出して、すぐに家に帰ることになった。

 写真を撮る時間も、お土産を買う時間もなかった。

 でも、祥太が熱を出した朝母親は「そのくらいなら学校に行きなさい」と言った。

「暁くんだけでも大変なんだから、あんたまで家にいたらたまらない」

 あの時の言葉の意味が、ゆっくりと染みてくる。


 お父さんは何も言ってくれなかった。

 何もしてくれなかった。

 お金はくれるけれど、欲しいのはそんなものじゃなかった。


 ……頭を撫でてもらったことはない。

 いいなあ。あの子は、先生に頭を撫でてもらっていた。


 どろりと、祥太の意識が溶けていく。

 ほどけて、とろけていく。液体みたいになった翔太を、大烏が仕立てた外套がかろうじて繋ぎ止めていた。


 夕焼けの匂いだ……。

 辺りがオレンジ色に塗り替えられて、建物は真っ黒な影に変わる時間。家路に向けて伸びる人の影。

 僕は、誰にも手を繋いでもらったことはない。

 暁の手をいつも握っていたから。僕を支えて、僕を守るように手を引いてくれる人なんていなかった。


 ……いなかった?


 ほどけていく。黒い羽が赤い血溜まりに舞う。

 外套の糸はほつれ、はらはらと羽が舞う。


 ……いなかったわけじゃない。


 これは、古い記憶じゃない。

 すぐさっきの、夕焼けの匂いがする羽を持つあと人の記憶だ。

 大きな翼で僕を包んでくれた。

 僕に支えられながら、あの人は僕を支えて歩こうとした。


 僅かな光を追うように動かした祥太の指もほどけて赤黒い水に変わった。


 ……僕の名前、何だった?


 祥太の意識がゴミ袋の子と混ざり合っていく。

 振り下ろされるゴルフクラブ。

 最初は足だ。骨を折らないように、しかし痛みは与えるように振り下ろされる。

 痛い。痛い。痛いと悲鳴をあげると、父親はうるせえと喚いてさらに彼を打った。

 母親は、スプーンの上で炙った白い粉を鼻に吸い込み、どろりと腐り落ちそうな眼差しであははぁと笑った。

 これは、この子の記憶だ。

 お腹が空いてたまらない。昨日もお母さんはごはんをくれなかった。太りすぎたら困るのはあんただからって言っていた。夜中に冷蔵庫を開けて、開けても音がしないだろうケチャップのチューブを吸う。

 胃が急に動いて吐きそうになりながら、赤い液体を嚥下する。後ろに気配を感じて振り返る前に、髪を掴んで引き倒される。「そんなに豚になりたきゃ食べたらいいでしょ」口に冷たいものが詰め込まれる。生の鶏肉のひんやりした感触と、生臭い肉の臭い。喉が詰まる。苦しい。胃の中身がせり上がる。苦しい苦しい苦しい。誰か助けて。

 食卓は自分だけ料理が並んでいない。机の上に投げ出された一万円を持ってコンビニに行く。そうしている間に玄関は鍵がかけられている。辺りをうろついて、夜になるとそっと家の扉が開く。あの人が、新しいお父さんがニヤニヤ笑いながら手招いて、そうしないと死んでしまうから仕方なくあの人の部屋に行く。痛いことをされる。嫌なことをされる。誰も助けてくれない。毎日毎日誰も助けてくれない。お母さんは助けてくれない。だから助かるにはもうこうするしかない。7階以上から落ちたら死ねるというからマンションに忍び込んで非常階段を上ったけど、警備員に見つかって死ねなかった。こんなにいい親御さんがいるのに死んではいけないよと説教されて、本当に誰も助けてくれないんだと思い知った。だから。電車がやってくる。まばゆい光の中でバラバラになる。よかった。これでよかった。誰も助けてくれなかった。全員死ね。


 ゴミ袋の子が食べてしまった、たくさんの子どもたちの痛みが記憶とともに祥太の中に入ってくる。

 クソだ。こんな世界クソだ。僕達は永遠に救われない。だから、壊してしまおう。

 いいよな?いいよね?一緒になろうよ。

 あたたかくて暗い腕が祥太を包み込む。

「祥太!」

 祥太が伸ばした腕は、羽に包まれた人の手に引き上げられた。

 全身が、柔らかいもので包まれて祥太は声を上げて泣いていた。

「僕だってこんなのは嫌だよ!助けてもらったことなんてない!毎日消えたいって思ってた!でも……!一個もいいことがなかったわけじゃないんだ!暁くんなんて死んじゃえばいいって思ってたけど、でも、そうじゃない時もあった!」

 泣きながら訴えたかったのは悔恨ではなかった。誰かに助けてほしかった。

「わかったよ。アタシがちゃんと聞いてやるべきだったんだ。わかってやらにゃならなかった。すまんねえ」

 大烏は祥太を胸に抱いた。

 カラスの姿の祥太は、全身を血で濡らしたまま大烏にすがりついた。

「お前たちは哀れだ。でも、この子はやらないよ。大翔ひろと。お前もこんなことはやめなさい」

 大烏は階段の踊り場に立つ青年に鋭い目を向けた。

「なんで邪魔ばかりするんだよ。俺が前に嘘ついたからか?俺も可哀想な子どもですってフリであんたに近づいたからか?」

 大翔と呼ばれた青年は、大烏を睨みつけた。

 そうすると、彼の冷たい目に少し熱が戻る。

「お前がやっているのはよくないことだからだよ。師は弟子を導くのが役目だ」

「破門にしたくせにぃ?ダルいな。そっか。あんたも幽霊なんだからやれるよな?頑張れよ。お前ら。こいつもやれたらもっと強くなれるぜ」

 大翔の言葉に、ゴミ袋の子どもが、勢いよく身を起こした。血溜まりが広がり、そこから幾本もの血まみれの腕が伸びる。大烏もろとも引きずり込もうと力を込める。羽か引き千切られて、大烏はうめき声をあげた。

「頑張れ頑張れ」

 大翔はまたあのヘラヘラ笑いに戻ったが、すぐに何かに気がついて顔を上向けた。

 黒い風が大翔に突進し、顔に向かって飛びかかった

 一羽のカラスが家の中を飛び回っていた。

 青年が腕で顔をかばうと、翼を翻して宙返りをし、再び爪で攻撃を加える。

「電車のおじさん……?」

 大きな大人のカラスの姿に、店で見た背広の男が二重写しに見えた。

「そうだ。キミを助けに来たのだ。聞け。子どもたち!あの男が君たちを助けたか!?互いに喰らい合わせることが救いか!?」

 引きずり込もうとする腕の力が緩む。大烏の言葉に怯んだのだ。

「強いやつだけが救われるんだ。強いやつだけが全部壊せる。俺はそれを助けてあげる。俺だけが」

 カラスの攻撃を避けながら、大翔は言った。声に奇妙な艶と甘さがある。引き込まれそうになる。

 再び腕が伸びてくる。

「なんで!お前はもう死んでるだよ!今さら遅いんだよ!今さら助けてもらっても!何にもできない!なんにも手に入らない!でも壊すことならできるんだ!」

 こっちに来いよと泣く声がする。

 この子も、泣いている。

 祥太は、顔を上げた。

「そっちには行かない。僕はいやだ」

 ぎゃっ!と大翔の叫び声がした。

 カラスの鋭い爪が、額を抉ったのだ。

「先生っ!」

 腕がまとまりを失い、少年の姿に戻る。

「こっち来るな!早くあのガキを引き込め!」

 額を押さえて、大翔が初めて焦りを露わにした。  

 その隙にカラスは外へと飛び出していく。

 ゴミ袋の少年が再び血溜まりの中に沈み、腕が祥太と大烏を引きずり込もうと力を込め、そして。

 ばちんと弾けた。

 血溜まりの中に落ちたのは、百足だった。黒い節のある体ををのたくらせている。

 蜘蛛、蛙、鼠、蛇――。

 血溜まりの中に、ばらばらになって散っている。

 どしゃ、と音を立てて、ゴミ袋の子どもが倒れた。

 薄い腹が膨らみ、はじける。

 大烏は祥太の目を覆った。

「え……なに……」

 腹の中から虫や獣、そして子どもたちの一部がもろもろと零れ落ちていく。

「いやだ……なにこれ……」

 ゴミ袋の少年は泣きそうな声で腹から零れ落ちたものを必死でかき集めた。

「あーあ、失敗。急拵えで蠱毒やってもダメだな。魂が馴染んでないから限界が早いや」

 舌打ちをして、大翔は血に濡れた前髪をかきあげた。

 額と右目に大きな傷が走っている。

「先生……た」

 助けてと言いかけたのだろう少年を、大翔は踏みつけた。熟れた果実が潰れる音がした。

「俺は弱いやつは嫌いだよ」

 あーあ、残念。こいつと喰い合わせて生き残ったら祥太くんを強い悪霊にできたのにね。

呟いて、大翔は階段を下りていく。

「じゃ、師匠。また会おう。今度はもっと上手くつくるよ。その時はご指導よろしく」

 やがて姿が見えなくなり、玄関の閉まる音がした。

 床には、虫や獣の欠片が散らばっていたが、もう子どもたちの幽霊の姿はどこにもなかった。ただ、すすり泣く声と先生と呼ぶ弱々しい声がしばらく残った。

 祥太は呆然としていたが、我に返って声を張り上げた。

「暁くん!大烏さん、どうしよう!暁くんが発作を起こしてるかもしれない!」

 大烏はさっと外套を羽織った。

 この姿のほうがこちらの世界では動きやすい。

 廊下を進んで、ドアが開いたままの暁の部屋に向かう。いない。

 隣の祥太の部屋で、暁は祥太の死体に覆いかぶさるようにしていた。

「おにいたん」

「おにいたん」

「おにいたん」

 何度も、何度も、おそらくずっとそうしていたのだろう。祥太を呼ぶ。

 時折、首ががくんと後ろに引っ張られるように揺れる。

「さっきからああなってた。発作の前触れなんです。5分以上続いたら危ないって言われてました」

 カラスの姿の祥太がドアから顔を覗かせる。

 がくんと大きく頭がのけぞり、そのまま暁が倒れた。

 両腕が痙攣し、やがて体が跳ねるように動く。

 祥太は動かない。

 おじいちゃんとおばあちゃんはきっと暁くんを引き取らない。このままだと暁くんはひとりぼっちだ。ここで死んじゃったほうがいいのかもしれない。

 ぞわりと黒い靄が体を満たそうとする。

 それに抗って、祥太は階段を飛び降りた。

 玄関を滑るように抜け、高度を上げると隣の家のベランダで声を張り上げた。

「隣のおばさんならきっと助けに来てくれる」

 太陽は、高くに上がろうとしていた。

 大烏が飛んできて、声を合わせる。

「あー!うるさい!」

 おばさんがガラス戸を開け、フロアワイパーを振り回して追い払おうとしてくるのを躱し、祥太は隣のベランダに飛んだ。カーテンは開けてきた。

 おばさんが身を乗り出して、隣の家を見つめ、その目が大きく見開かれた。

「あきらくん!あきらくんどうしたのっ!」

 おばさんが家から飛び出してくるのはすぐだった。

 人の家のことにすぐ首を突っ込む文化レベルの低い人だと母が陰口を叩いていたこの人は、お節介焼きないい人なのだ。

 玄関が開いていることに胡乱な顔をしながら踏み込んで、おばさんは悲鳴を上げた。

 それでも、取り乱しながら警察と救急を呼んだのは称賛に値するだろう。

 そこからは早かった。

 暁は救急車で運ばれ、祥太の家からは3つの遺体が運び出された。

 これで良かったのかはわからない。

 祖父母はやはり暁を引き取るのを拒んだ。高齢だからと言うのは建前で、面倒だったのだろう。暁がこれから幸せに生きていけるのか、祥太にはわからない。

 でも、幸せであってほしいとは思った。 

でも、もう会ってはいけない。ずっと時間が経たないとダメだ。この気持ちに決着がつくまで、会ってはいけない。もし気持ちが揺れたら、またあの青年みたいな者たちに利用されてしまうから。


 あの日から、祥太は大烏のもとで働くこととなった。

 太陽が中天を過ぎても、祥太はカラスとなることはできなかった。

 一度悪霊の子どもと混ざり合ってしまったからか、外套は祥太の体にぴたりと吸い付いて脱げなくなってしまったのだ。今の祥太はカラスでも幽霊でもない。

 祥太の背中には大きな翼がある。

 黒いカラスの翼だ。それでも体を持ち上げるには弱すぎる。あちこち引っかかるし、邪魔で仕方ない。

「その程度で済んでよかった」

 大烏は言う。あの日に翼を傷めた彼は、しばらく店に立つことはできず、代わりに祥太と、店にいついた背広の男――電車のおじさん――が店番を務めていた。

「塒だね」

 仕事を終えて寝床に潜り込む前、大烏が言った。

 血の繋がりもない者たちが共に暮らし、寄り添って眠る。

 祥太は目を閉じる。翼を閉じて横向きに眠ることも慣れた。

 夕焼けの匂いがする。

 塒に帰るカラスたちの羽ばたきを聞きながら、祥太は眠りに落ちる。

 ここではもう、誰かが扉を開けることはない。

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宵闇横町へおいで いぬきつねこ @tunekoinuki

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