第3話 からすのうた3
「僕の名前は山尾祥太です」
大烏と祥太は向かい合って座っていた。
翔太は話し始めた。名前を口にしたことで、自分の輪郭がさっきよりも鮮明なものになった気がした。
そして、話すほどに過去がはっきり輪郭を持ち、形を強固なものにしていく感覚があった。
「僕には、
暁が産まれたのは、夜から朝に変わる、空の色がとてもがきれいな時間だったそうだ。
弟は、祥太よりも3歳年上だった。
今までずっと忘れていた弟の顔が、頭の中に浮かんだ。
いつも薬のせいで浮腫んている丸い顔。引っ張って抜いてしまうので、丸刈りに近く刈られた髪。
大烏の顔がわずかに動いた。
人間ならば、眉を歪めるような顔の動きで、何を言いたいのかわかった。
学校の先生に話したときと同じだ。
それはお兄さんってことじゃないの?
あの時は、うまく説明できなかった。
そのせいで、1年生の時の優しいハルナ先生は先生を辞めてしまった。
僕が上手に話せなかったから。だからお母さんはハルナ先生が僕にひどいことを言ったと思って校長先生に言いつけた。毎日学校に「障害者差別だ。こどもの権利を理解しないひどい教師だ。教育者として学校に置いてはいけない」と泣きながら電話していた。
お母さんが泣いたのだから、きっと僕の話はすごく悪い風にハルナ先生に伝わってしまったんだ。
祥太はそう理解していた。
「えっと、暁くんは、産まれてすぐに大きな発作を起こして、頭の中が赤ちゃんのまま止まってしまう病気になりました。でも、暁くんは、とてもジュンスイで他の人にはないギフトを持った素晴らしい男の子なんです。ひとりでごはんが食べられなかったり、字がかけなかったり、怒ると自分のことが上手にコントロールできなくなったりするけど、心のやさしいステキな子です。そういう子は、本当の年齢じゃなくて、心の年齢で考えて守ってあげないとならないんです。だから、暁くんは僕の弟なんです」
祥太は、暁のことを訊かれたらこう答えなさいと言われていたことを一生懸命漏らさないように口にした。
結局、ハルナ先生が辞めてから誰にも説明することはなかったけれど、ちゃんと覚えていてよかった。
大烏の顔は相変わらず険しかった。
間違えたことを言ってしまったとかもしれない。
祥太は不安になったが、口からこぼれ落ちてくる言葉を止めてはいけない気がした。
「僕の名前は、幸せなこと、おめでたいことという意味があるんだって、お父さんが言っていました」
祥太という名前は父親がつけた。
五体満足で、不自由なく産まれたからだという。
きっと、暁のことを守るために産まれてきてくれたんだと、父も母も喜んだのだそうだ。
大烏の喉から、うめき声が漏れた。
どうしたのだろう。また不安が湧き上がる。
しかし祥太は止まれなかった。言葉がどんどん喉から滑り出してくる。
暁は、ほとんど言葉を話せなかった。
「ごはん」「パパ」「ママ」それから「おにいたん」が暁の喋ることができる意味のある言葉のすべてで、あとは、遠い国の外国語のような不思議な抑揚で囁くように喋った。
暁と母と散歩に行くと、体の大きさに反して幼い言葉遣いをヒソヒソと笑われた。
そんなとき、母は必ず笑っている人間に近づき、「何か?」と低い声で威圧した。
ほとんどの人間はそれだけで遠ざかった。
たまに、分厚い本を抱えたり顔の前で手をかざしてお経を唱えたりする人たちはニコニコと笑いながら近づいてきた。母はそういう人たちのことは無視して早足に歩いた。
祥太は、母の姿を見るたびに相手にしなければいいのにと呆れ、そう思ってしまう自分を恥じた。
母はいつも言っていた。
暁くんみたいな人たちのお母さんが戦ったから、暁くんは産まれてこれるようになったの。だからお母さんも戦うからね。お母さんが戦えなくなったら、祥太が暁くんを守るんだよ。お兄ちゃんなんだからね。
母がやけに潤んだ熱っぽい目で祥太の肩をつかんで言い聞かせている時、祥太は暁の手を固く握っていた。腕が引っ張られて痛い。手を離したら、暁は鳩を追いかけてどこかに行ってしまう。
父は、暁にいろいろなものを買い与えた。
母が暁を学校には入れず、家で教育すると決めた頃から、両親の暁にかける金額は跳ね上がった。
絵とひらがなが書かれているボード、世界地図、ジグソーパズル、200色揃ったクレヨン、小さいけれど本物みたいに音が出るピアノ。リビングは数え切れないほどの知育玩具やおもちゃに溢れ、壁には様々な学習ポスターが貼られていた。暁はそれらよりも、海で拾ったシーグラスを電気に透かして見ることや、ケーキの箱にかかっていたリボンを目の前でヒラヒラさせることに夢中だった。ピアノは癇癪で床に叩きつけられて壊れ、クレヨンは歯型でぼろぼろになって捨てられた。祥太は暁が読まずに放った英語の本から英単語を覚え、世界の国旗を覚えた。
褒めてもらった記憶はないが、それで当然だと思っていた。だって、僕は普通に産まれて、発作もないからものを覚えることも簡単で、お薬がなくても毎日よく寝て朝は起きられるんだから、こんなことは普通なのだ。
お母さんが戦わなくても、お父さんが、たくさんお金を使わなくても、僕は生きていける。勉強だってできる。学校に行って、友だちと遊べる。それは幸せなことなのだ。祥太はそう信じていた。
様々な記憶を祥太は語った。
父と母と暁と行った湖畔の町。
水面が反射する様をずっと見つめていた暁の横顔を思い出す。とても遠くを見るような、光の中に祥太には見えないものを見通しているような真剣な目だった。
あの旅行も、途中で暁の発作が起きてどこにも泊まることなく帰ってきた。
暁が通っていた施設の対応に母親が激怒して、施設の職員が謝りに家に来たことも思い出した。
頭を深々と下げる若い男が、姿勢を戻すほんの一瞬に見せた母への怒りの視線がフラッシュバックする。
その横に立つ、初老の施設長が祥太に向けた憐れみの目をどうして忘れていたのだろう。
記憶は、その日に近づいていった。
「夏休みが始まる前、お父さんの仕事がうまくいかなくなりました」
今思えば、あれが始まりだった。
祥太の父は、経営コンサルタントをしていた。
職業名と仕事内容は祥太に理解しきれないものだったが、いつも忙しくて、その見返りにかなり多くの収入があることは子どもでもわかった。
数年前、父が独立というのをして、前よりも羽振りがよくなったことも、生活の変化から理解できた。
車は1台増えて、父が手首につけている時計は派手ではないがびっしりと歯車が並んだ質の良いものへと変わっていた。
祥太には最新のゲーム機を買ってくれたし、暁の所には有名な言葉の先生という人が家庭教師に来るようになった。
クラスメイトの親はお金がない、食費が大変など笑いながら愚痴をこぼすらしいが、祥太は家でそんな話を聞いたこともなかった。
生活に陰が落ち始めたのが、今年の夏のはじめである。
最初に、家族で出かけるときに使っていた大きな車がなくなった。
次に、母の持っていた艷やかな革のハイヒールや、バッグが姿を消した。玄関の隣にあるウォークインクローゼットはあっという間に隙間だらけになった。
夏休みが終わる頃には、父は仕事場として所有していたマンションの一室を売り、自宅で仕事をするようになっていた。
祥太が異変に気がついたのはその頃で、既に家には深くて修復ができないくらいの亀裂が生まれていた。
やがて父の外車もガレージからいなくなった。
暁の通院には、残った母の小さな軽自動車が使われるようになった。車が変わると、事情を理解できない暁は暴れ、大声で泣き喚いた。それを車内に押し込む母が舌打ちをしたのを祥太は初めて聞いた。
そして、学校に行っているうちに祥太のゲーム機が売られた。ゲーム機がないことを両親に尋ねると、父親に殴り飛ばされた。
怒りで声を荒げるでもなく、凍りついてしまったように無表情で、父は祥太を殴った。
右手がしなって、気がついたら祥太はリビングの床に倒れていた。
祥太はごめんなさいと泣きながら謝った。
父はもうこちらを見なかった。
母親が青い顔で、暁を抱きしめていた。
「お父さんの仕事が、うまくいかなくなったみたいです。今までお父さんにお仕事をお願いしていた会社が、別の人にお願いするようになったんだって。それで、家にお金がなくなっていったんです。暁くんの言葉の先生だけは最後まで来てくれてたけど、来なくなりました」
祥太はそこまで話して沈黙した。
大烏は、祥太が話している間に一度も質問を挟まなかった。彼は何か考えるように目を閉じたり、祥太を促すように頷いてくれてはいたが、意見を言うことはなかった。
「助けてくれる人はいたかい?」
大烏は問いかけた。初めての問だ。
「お母さんが、お家のことは話しちゃだめだって言っていました。でも、タケちゃんはゲームを貸してくれた。お兄ちゃんが新しいのを買ったから、もういらないんだって。充電してもすぐ電池なくなるけど、それでいいなら貸すから、一緒にスプラやろうって貸してくれたんです。ネットも繋がらなくなってたから、一緒には遊べなかったけど、嬉しかった」
「そうか……」
大烏はまた何やら考えていた。
「お母さんは誰かに相談していたかね?」
祥太は思い出す。母は何度か暁と同じ病気の子が集まる会合に出かけていた。しかし、どれも長く続かなかったようだ。
――あんな人たちはダメ。程度が低いのよ。文化レベルが違う人たちと話すと疲れるし、あんな程度の低い人たちの子どもと暁くんを一緒にさせたくない。
祥太に聞かせているわけではなかったのだろうが、母は確かそう呟いていた。
「お母さんには、友達がいなかったんだと思います」
「孤立していたのか」
コリツという言葉の意味はわからないけれど、大烏の顔が悲しそうに歪んだことは確かだった。
「弟さんは、家の雰囲気が変わっていってどうだった?君の話では、大きな変化に対応できるような子ではないだろう?」
祥太は頷いた。
「前買ってたお米が買えなくなって、お米が変わったら、暁くんはご飯を食べなくなりました。お皿を投げて怒るんです。怒るとまた発作が出て、お母さんは飛び散ったご飯を泣きながら片付けてました」
祥太は気がついた。そうだ。暁くんの薬も、お金がないからもらいに行けなくなっていたのではないだろうか。
前より頻繁に暁は痙攣を起こしていた。
「お父さんは、暁くんにも怒るようになりました。前にはそんなことなかったのに、泣き声がうるさいとか、お仕事をしているときに足音がうるさいとかで怒鳴るようになって、お母さんとけんかするようになりました。お父さんがお金がないって怒って、お前も働けってお母さんに大声で怒鳴るんです。お母さんいつも、子どもがいるから働けないって言い返して、それで……」
父親は毎晩酒を飲むようになった。コンビニで買えるような安酒だ。そして、ずっと何かぶつぶつと言っていた。そうでなければ怒鳴っていた。金が無いと嘆き、母に怒鳴り、母は、障害児抱えてどうして働けるのっ!と怒鳴り返して、時々お皿とかコップを壁に投げた。どちらかがリビングにいる間、祥太は自分の部屋に隠れていた。
タケちゃんから借りたゲームを、祥太は布団に潜って遊び続けた。布団の中は暗くて暖かくて、守られている気がした。毎日宿題もやった。
いつもと同じ行動を取れば、いつもと同じ日常が戻ってくると信じようとしていたのかもしれない。
もしかしたら、母も同じだったのかもしれない。
母は機械のように毎日同じ献立を作り、洗濯物を片付けていた。おかげで祥太は着るものにも食べるものにも困らなかった。毎日用意される生姜焼きの味付けがやけに濃くなって、塩気が舌を刺すようだったことは口に出せなかった。
暁の食事は、彼が唯一好んで食べていたファストフードのポテトばかりになった。
ゴミ箱を開けると折り重なった赤い紙容器と、父が皿のままゴミ箱に捨てた食事があった。豚肉の脂が染みて滲んだファーストフードの黄色いマークを見て、祥太はもうダメなんだと気がついた。家族を繋いでいたいろんなものが、一緒くたに捨てられたように感じた。
「それで、昨日の夜、僕が宿題をしてたらお父さんが部屋に入ってきたんです。お酒の臭いと、鉄棒を触ったあとみたいな臭いがして、お父さんの服は真っ赤でした」
――祥太。お父さんもう全部やめることにしたんだ。もうやめよう。お父さんはお母さんをやったから、お兄ちゃんは暁くんをやるんだよ。それがお兄ちゃんの責任だ。
父は独り言みたいに言って、祥太の腕を掴んで立たたせた。
――暁はもう寝てる。薬が効いているから起きない。
そうして、父は祥太の手を暁の首にあてがった。
ぶよぶよした肉の感触がした。
――子どもの力じゃだめだろうな。これを使うんだよ。こことここを力いっぱい引きなさい。
暁の首にコードを巻いて、父は促した。
祥太は何も言えなかった。終わるのだと思った。
何もかも終わるのだ。
そして、祥太はコードを引いた。
手のひらにコードが食い込む痛みばかりが蘇ってきて、暁がどんな顔で死んたのかは覚えていない。
そして、祥太は部屋に戻った。
布団の中に潜り込んで、タケちゃんが貸してくれたゲーム機をスリープモードから解除した。
いつも通りのことをしていたら、悪い夢が終わるんじゃないかと、まだ信じていたのかもしれない。もうダメなんだとわこっていたけれど、心のどこかは頑なにそれを否定した。
父が階段を降りていく音がした。
祥太は暗い部屋の中で明滅する画面に集中した。
そうしているうちに、夏の終りころから起きていたことは全部夢で、さっきまでのこともやっぱり夢なんじゃないかと思えてきた。遊んでいるゲームのプレイヤー名がタケちゃんの名前になっていることは見ないふりをした。なんだ。夢なんだ。起きたらきっといつも通りの朝が来るんだ。
――階段が軋み、祥太の部屋のドアが開いた。
「そして、僕はお父さんに殺されて幽霊になりました。お母さんとお父さんの幽霊は、黒い猿みたいなのに食べられて消えちゃったんです」
「黒猩猩か。成り立ての幽霊を食べて生きているモノだ。奴は横丁には入れないから君が襲われることはない」
大烏の翼が、ばさりと大きく広がった。
広げられた羽が辺りを覆う。
ふわりと柔らかな胸の羽毛の中に抱きとめられる。
息を吸う。風の匂いがした。これは、町を走り抜けてきた風の匂いだ。風が記憶した音が流れ込んてくる。木々のざわめき、虫の鳴き声、ねぐらへ急ぐ鳥の群れが放つ声。耳の奥で聞こえるものがあった。
――夕焼け小焼けで日が暮れて
――山のお寺の鐘が鳴る
歌はない。柔らかなメロディの連なりだ。公園のチャイムが鳴らす音だと祥太は気がついた。音は少し割れているが、そのノイズも心を揺り動かす。
帰ろう。空が赤くなったら、おうちに帰ろう。早く帰ろう。ううん。もうちょっと遊ぼう。もうちょっと。ちょっとだけ。だめだよ。早く帰らないと夜が来るよ。
キラキラと子どもたちの笑い声がさざめいて、子どもを促す親の声がそれに応える。諌めてはいるが、怒声ではない。柔らかく、穏やかな声だ。
さあ、帰ろう。お家に帰ろう。
あたたかくて、安全なおうちに帰ろうね。
もうすぐ夜が来るよ。
夕闇の間に帰ろうね。夕焼けが消えぬ間に帰ろうね。
――お手てつないでいざ帰ろう
――カラスといっしょに帰りましょう
夕焼けに染まった風の匂いは夕餉の香りを含み、甘く、柔らかく、そしてわずかに夜の匂いを滲ませている。
大烏の翼は家路の匂いだ。
祥太は大烏の羽に顔を埋めた。
大烏は翼で祥太を包みこむ。胸の柔らかな羽毛が少年の涙で濡れていくのをわかっていながら、彼は何も言わなかった。
この哀れな小さい幽霊の話を誰が聞いてやったのだろうか。だれか、この子が泣くことを許してくれたのだろうか。
誰も、こうなることを止めてはくれなかったのだろうか。
なってしまったのだ。こうなってしまった。差し伸べられた手は、この子に届くことはなかった。
終わったのだ。
かつての大烏と同じように、全ては終わってしまった後なのだ。
大烏は両の翼で祥太を抱きしめ、天井を仰いだ。光の欠片が部屋を飛び回っている。順番を待つカラスたちは、声を潜めてみな頭を垂れていた。
衣を返しに来た幽霊たちも、しんと静まり返ってカラスたちの中に並んでいる。
屋敷を取り巻く黒い羽の主たちは、少年の述懐を邪魔せぬように、少年の嘆きを遮らないように佇んでいた。
そうして、長い時間を経て祥太は顔を上げた。
大烏へと向き直り、涙を服の袖で拭う。
「外套を貸してください。最後に家の様子を見て来たいんです」
こうして、幽霊の少年はカラスの外套を貸し出す【濡羽亭】の客となった。
「からすのうた 終」へ続く
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