第3話 からすのうた2
烏の歩みはひどく遅かった。
足を引き摺ずり、左の翼の先に携えた杖に体を預けて歩く。鳥のものにしか見えない枝のような足に、無理やり足袋と草履を履いているのだ。そのせいでわずかな段差に躓き、倒れそうになるのを何度か祥太は支えた。烏に触れられることに驚きはしたが、それどころではなかった。
「あの子はアタシの弟子だったのだが、ああして良からぬことを働くようになったので放逐されたのだ。だがまだあのように罪深いことを続けている。幼子を集めて食らい合わせるなど……ひどく……残虐だ……」
大きな黒い嘴から漏れる声はしゃがれていて、聞き取るのが難しい。だから祥太は口を挟むことなく、ただ耳を傾け続けた。
「すまないね」
烏は詫び、その丸く黒い目にどこか寂しそうな光を浮かべた。
白い壁が続く通りを折れ、竹林のざわめきが包む小道を歩いた。白くて小さな砂利が、足に触れる感触がした。空気が何か外とは違ったものに変わっていることに、祥太は気がついた。
「ここは宵闇横丁。どこにも繋がっていて、どこにも繋がらない宵闇の町だ。ここは何も拒まない。だから幽霊もここでは自由に動ける。そこの角を右に曲がるよ」
烏が翼で指し示す先には、小さな家があった。
瓦屋根を乗せた、平屋の日本家屋だ。
屋根の上から、黒い翼を持つ者たちが祥太を見ていた。
烏は家の引き戸を開け、翔太を招き入れた。
扉が開いた途端に、屋根の上からけたたましく烏の鳴く声がして、翔太は身をすくめた。
「心配ない。みな、君を歓迎している。すまないが少し静かにしてくれないかね。この子はまだ横丁に慣れていないのだ」
大烏が屋根の上に声をかけると、黒い翼の持ち主たちはぴたりと泣き止んだ。
玄関は広い土間になっていて、その先のわずかな段差を上るとその先に廊下が伸びている。
大烏はよたよたと家へと上がり、突き当りのドアを開けた。
廊下は暗く、ドアの開く音が寂しく響いた。
「さあ、お上がりなさい」
祥太は声に従ってその部屋へと進んだ。
広い部屋だった。
そして奇妙な部屋だった。
大きな平たい机がひとつ、部屋の真ん中に置かれている。
机の横の壁には大きな窓がひとつ。
そして、光の粒が部屋中に散っていた。
光は床を、天井を、壁を揺れながら舞い踊り、揺れ、ぶつかっては弾けて踊り回る。
小さな魚が部屋の中を泳ぎ回っているようにも見えた。
その正体が天井からつるされたランプの灯が同じように天井に吊るされたガラクタに反射した光だと気が付くまで、祥太は部屋を泳ぐ光を見つめていた。
天井の梁からは欠けたガラスの瓶、おもちゃの指輪、なんだかわからない物の部品の歯車、剥がれかけたホログラムのシールなどが紐に結えて吊るされている。
ガラクタのだれもがぴかぴかに光を跳ね返すので、その度に光の粒が舞い踊るのだ。
「これは対価なのだよ」
大烏がまた不自由な足を引きずって窓辺に寄った。
窓を開けた途端に、黒い影がひとつ、部屋へと飛び込んでくる。
それが祥太の眼前を掠めたので、わっと小さな悲鳴が口から出てしまう。
「口は利けるようでよかった」
大烏は黒い影には驚きもしなかった。彼の言葉は皮肉には聞こえず、純粋に祥太の体を案じていることが聞き取れた。
羽ばたきがした。
さっきの黒い影の正体は太い嘴を持ったカラスで、テーブルの上に静かに着地した。
祥太が黙っていたのは、自分の喉から滑らかに言葉が出てくることが後ろめたかったからだ。大烏の絞り出すような不自然な声は生体のどこかに故障があるようだったし、そんな者の前でべらべらと喋ることはよくないことのように思えたのだ。
――……は上手にお喋りできないんだから可哀想でしょ
耳の奥で金属を擦り合わせたような音がして、ヒステリックな女の声が祥太の頭蓋を震わせた。その幻聴は瞬く間に消えたが、頭に棘を差し込まれたような鋭い痛みが残った。
「やはりどこか痛むかね?」
頭を押さえて呻いた祥太は、ゆるゆると首を振る。
「子どもが誤魔化すものではない。そこに椅子がある。座りなさい」
祥太は、小さな丸い椅子に腰を下ろした。
そうしている間にも、窓から次々とカラスが飛び込んでくる。カラスたちは大きな平机に舞い降りると、ぴょんぴょん跳ねて大烏のもとに集まっていった。
「待て、その羽は欠けている。そちらの羽は若すぎる。うん。そうだね。それになさい。それなら君は傷付かず、さりとて外套の質にも足るだろう」
大烏は一羽ずつ、丁寧に話しかけた。
その声はさっき祥太に語りかけていた時よりもずっと嗄れていて、烏の鳴き声に近い。
祥太はカラスの動きをじっと見つめた。
黒い羽のカラスたちは、大烏に従って自分の羽を引き抜くと咥えて大烏に渡した。
「ありがとう。キミはビー玉を集めていたね。キミは新顔だ。これはどうかな?」
大鴉は部屋にぶら下がる、あのキラキラ光るガラクタの中から好みに合うものを引き抜いて羽と交換に渡していく。
それが延々と続いた。
全く飽きなかった。
手渡されるのは、どれも光を受けるとピカピカに光る小さなガラクタだったが、カラスによって好みやこだわりがあるようだった。
ホログラムシールを好む個体、形は問わないが、お菓子のおまけのようなアクセサリーを好む個体、同じ色のシーグラスをねだるカラスもいる。
それに迷わずに、大烏は的確に手渡していく。
カラスたちは満足げに手にした小さな光るものを羽の中にしまって、窓から外に出ていった。
「やあ、待たせたね」
最後の一羽を送り出して、大烏は窓を閉めた。
建付けの悪い窓は滑車の引っかかる音がひどい。
「彼らは、羽を売りに来るのだ。もうすぐ抜ける羽の中で一番良いものを私は買い取っている」
大烏は部屋の隅から丸椅子をもう一つ引っ張ってくると、祥太の斜め向かいに腰を下ろした。
「カラスが光るものを集めるのは知っているかね?」
翔太は頷いて、頭の隅に何か嫌な靄のようなものを感じた。
――どうしてそんなこと言うの?かわいそうだって思わないの?
――お前はどうしてそんなに自分勝手なんだ。
裏返ったヒステリックな高い声と、低く怒りを込めた声。それがまた蘇る。
翔太は大烏に気づかれないように顔をしかめた。
頭の隅が痛い。針で突かれて、ほじくり返される。何か、思い出したくないものが。
しかし、大烏はそれに気がついていた。
どこか悲しそうな目を一瞬祥太に向け、彼はすぐに明るい声を出した。
「光るものをたくさん貯めると、烏は次に生まれる時により美しい黒い羽を得ると言われているのだ。だから彼らはこういうものを集める」
吊るされている、角が取れて丸くなった瓶のかけらを羽毛に包まれた手で摘む。羽毛の中に、短い人の指があることに祥太は気がついた。
大烏は内緒話をするように、そっと声を潜めた。
「実はね。これらはずっと巡っているのだ。カラスの誰かの魂が空に昇ると、空になった巣から回収してもらうんだよ。幻灯屋の丁稚子狐に駄賃をやって、取ってきてもらう。こちらは楽なものだ」
「ズルじゃん!」
思わず翔太は声を出してしまった。
大烏は人の声とカラスの鳴き声の混ざった笑い声を上げた。
「よかった。緊張も解けたようだね。キミのような若い幽霊は珍しい。名前は覚えているかね?」
「山尾祥太です。大川南小学校の4年生です」
踏む、と大烏は唸った。
「名前を覚えているのか。キミはまだこの世に縁が繋がっているのだね」
「えにし?」
祥太の知らない言葉だった。
「こちらとあちらを結ぶ糸のようなものだ。幽霊はその糸が切れないうちは名前を保っていられる。生者と同じ形を保てるのだよ」
戸が叩かれる音がしたのはその時だった。
「ごめんください」
誰かの声もする。
「ごめんください。外套を借りに来ました」
声がまたした。
「祥太くん。すまないがそこの扉を開けてくれんかね」
烏は杖を支えに椅子から立ち上がった。
「そこの、机の後ろの真鍮の取っ手がある扉だよ」
祥太はぱっと椅子から立ち上がって取っ手に駆け寄った。さっきは気が付かなかった。壁だと思っていたそれは、壁一面に添えつけられた衣装箪笥だった。
祥太は取っ手を引いた。
蝶番が軋む。
どうっと顔に風がかかった。
夜の匂いがする風だ。そして、空の高いところを通ってきた風だと思った。一瞬、体が宙に浮いたように感じた。
風切り羽が鳴る。耳元で風が唸る。
夜の匂い。日が落ちていく匂い。差しかかる残光の匂い。行こう。行こう。風が歌う。
光景は静かに薄まり、祥太の目の前には、艶々とした光沢を纏う外套がいくつも吊るされていた。
「ごめんください」
「はい。はい。今行きますよ。そう急きなさるな」
大烏は、引き戸を握ったまま呆然としている祥太の肩をぽんと叩いた。羽毛がふんわりと首筋に当たる。
「これを仕立てるのがあたしの生業さ」
大烏が連れてきたのは、背広を着た男だった。
背広は皺だらけで、ネクタイは曲がり、途中で千切れていた。
足首から下が反対についている。つま先の方向に踵があるのだ。スラックスの腿のあたりは、血で汚れて真っ黒になっていた。
ごろんと首が落ちた。
「すみません。すみません」
男は慌てて頭を抱えようとして、腰のあたりから千切れて倒れた。断面からもろもろと大腸だか小腸だかが零れ落ちる。男はまた、すみませんすみませんと腕を動かすが、頭も転がっているので見えていない。
「キミ、そりゃいかん。謝るのはいかんよ」
大烏が首を拾ってやろうと腰をかがめたが、体の構想上無理らしく、翼が全然床に届かない。
だから祥太がまず胴体を拾って、大烏と力を合わせて腰の上に乗せて、その後に頭を首の上に乗せてやった。
重労働だ。人間の頭って重いのだということを祥太は初めて知った。
「すみません。ご迷惑を…………」
男は土気色の顔をすまなそうに歪ませた。また頭を下げようとするのを大烏が慌てて止める。
「謝りなさんな。あんたが悪い悪いと思っているから、死んだままの形になってしまうんだ」
大烏は肩で息をしながら男を諌めた。
「あれか。電車か」
「はい」
「仕事かね」
「はい。私のミスで大事な取引先を一つ失いました」
「死ぬほどのことだったのかね」
「はい」
「ふむ。そうかね」
背広の男は、また、はいと頷いた。
「私が死ねば、社員に退職金は出してやれるのです」
「そういう責任の取り方もあるわいな」
大烏は嘴に翼を当ててまた唸った。
「あの」
祥太はやっと男に声をかけた。
「あの、おじさんも幽霊ですか?」
「はい」
男は頭が落ちないように押さえると祥太を見下ろした。
「君も幽霊かい?外套を借りにきたのかな?」
「外套って……」
「その箪笥の中に吊るしてあるのが外套だよ」
大烏が、祥太の開けた箪笥に近寄って、中から黒い衣を取り出した。風の匂いが濃くなる。
僅かに空気に触れただけで、黒い衣は風を起こした。
風は飛び方を歌っている。
茜色に染まる空の中を、どうやって空気をつかんで浮くのか、風を捉えるにはどうすればいいのかその歌に従えば分かる。
「現し世の者と会いたいなら、大烏を訪ねろと風が教えてくれました。何故でしょう。風の声がわかったんです。だから来ました。外套をお借りできますか?」
「お天道さんが空の高いところに昇るまでに返しに来る決まりだ。もしも、返したくなくなった時は、アンタの羽をもらうよ」
「わかりました。社員たちがどうしているかを見て、必ずお返しに来ます」
男は大烏の手から衣を受け取ると、バサリと振った。
それまで黒く見えていた色がゆらりと揺らめいた。
緑、紫、青。どれも深く、夜を構成する静かで密やかで美しい色だった。
「羽だ」
祥太は驚いた。そのコートのような衣は全てカラスの羽からできているのだ。全ての羽が違う個体から集められ、しかし最も美しく輝き、美しく空を駆けるように織り込まれている。
「カラスの目は彼岸と此岸両方を写す。外套はその力を一時的に身につけたものに借すのさ。長く着ていればカラスになって何もかも忘れてしまう。それが良ければ、皆、それを選ぶ」
「幽霊はやっぱり、生きてる人を見れないんですね」
「そうだ。あちらとこちらは別れている。稀に波長が合うものを見ることはできるが、見ることがいいのか悪いのか、アタシにはわからん」
羽ばたきがした。
さっきまで背広の男だったカラスが開け放たれた窓の柵にとまってぺこりと頭を下げた。丸くて黒い目が、艶々と光っていた。
さっきよりも強い羽ばたきを残して、カラスは飛び立った。
薄闇の向こうに羽音が消えていく。
鳥の、羽の音。鳩を追いかけて走り回る、祥太よりずっと背の高い人影。小さい子どもみたいに声を上げている。
――おにいたん、おにいたん!
周りの人々が奇異な視線でこちらを見る。
――おかしいよ。お母さん。暁くんはぼくのお兄ちゃんなのに……。
――暁くんは頭の中は赤ちゃんなの。だから、弟よ。お兄ちゃんは暁くんを守ってあげないといけないのよ。
――でも、おかしいよ。
――祥太は一人で話せるしお勉強もできるだろう?でも暁くんはできないんだよ。かわいそうだと思わないのか?薄情な子だ。
――どうしてそんな冷たい子になったの?暁くんがかわいそうだって思わないの?
――でも……変だよ。
こんなのは、おかしいよ。
頭の中に靄がかかっていく。
違うのかもしれない。靄みたいに見える、とても恐ろしい現実が蘇ってきているのかもしれない。
「お兄ちゃんがやるんだ」
「お兄ちゃんの責任があるだろう。祥太」
「お父さんはお母さんをやったんだ。だから、暁くんをやるのは祥太だよ」
「大丈夫。最後まで祥太は、暁くんを守ったんだ。だから、お父さんもお母さんも暁くんも天国に行けるよ」
暁くんの、薬を飲んでぐっすり寝ている暁くんの太い首に手を回す。すぐにお父さんが、古いテレビから外したコードを持ってきた。古すぎて売れなかったテレビのものだ。家にもう電化製品はそれしか残っていない。
コードを暁くんの首に巻き付けて、そして、僕は
「僕が、暁くんを殺した」
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