第3話 からすのうた1
階段を静かに登ってくる足音がした。
祥太、祥太、ごめんな。よくやったよ。お前はお兄ちゃんだから。
ひどく震えた父親の声がした。
かつて「ごめんなさい」なんて言うくらいならやるなと彼が自分のことをひどく叱ったことだけが頭の中をぐるぐる回った。
気がついたら祥太は布団の上に立っていた。
階下に降りたら、でかい変なものがいて、両親を食べていた。
ゴワゴワの毛が生えていて、瞳孔がない満月みたいに丸い目をしていた。頭は丸くて耳は見当たらない。全身に毛が生えたゴリラみたいだ。ずんぐりむっくりした体型は愛嬌があったけれど、太い両腕の先についた鉤爪で父親と母親を刻んで、交互に口元に運んでいる姿は何もかわいくなかった。
「こどものゆうれいよくないからおいしくないいらないよ」
祥太の方をチラリと見た黒い化物は、5倍速で見た動画みたいな聞き取りにくい高い声でしゃべった。満月の目がこちらに向いたが、すぐに興味をなくしたようにまた食事に戻ってしまった。
父と母はただ呆けた顔で食われていった。頭や腕がスパスパ切り刻まれるのに血が出は少しも出ていない。柔らかいスポンジみたいに千切れて化物の口に収まっていった。母親の胸には包丁が刺さったままだったし、父親の首にはロープがネクタイみたいに垂れ下がっていて首がやけに伸びていたので、彼らも死んだんだなということがわかってしまった。化け物は最後まで両親の頭を残していたので、彼らの口が自分の名前を呼ぶ形に動くのを見続ける羽目になった。
黒い化物は両親をきちんと髪の毛の一本も、服の一切れも残さずに食べ尽くした。ゲップをひとつすると「おいしかった」と膨れた腹をさする。そして乱食歯を剥きだしてにいっと笑った。
「おまえまだよくない」
また甲高い声で化け物は祥太を指さした。
「わすれてる。わすれてるやつあまくない」
黒い化物はのそりと立ち上がり、壁をすり抜けて消えてしまった。
こうして祥太はひとりぼっちの幽霊になった。
幽霊になったらふわふわ飛んで移動できたり、誰かに取り付いたりできるのかと思っていたが、そんなことはなかった。移動するには生きていた時と同様に歩かなきゃいけない。しかも、足元はやけにふわふわしていて、小さいころにイベントで入ったエア遊具の中みたいだった。唯一できる幽霊らしいことは、壁やドアをすり抜けることだけだった。
最初は家の中を歩きまわってみた。自分の死体や両親の死体があるんじゃないかと思ったが、見つからなかった。
次に外に出てみた。壁がすり抜けられるのはその時に気が付いた。
壁に手を突こうとしたら、そのまま外に出ていたからだ。初めて出た真夜中の住宅街は、変なもので溢れていた。
街灯の下で蹲る真っ黒な影、電柱に絡みつく蛇のようなもの、地面をごろごろ転がっていくのはタイヤの中央に目玉がついたようなものだった。
驚いて逃げ込んだ向かいの家にも誰もいなかった。
いつも、「祥太くん、おやつ食べてく?」と誘ってくれる世話好きなおばさんもいなかった。よく吠えるがかわいい犬のポメもいない。
おばさんの家の中はきれいに片付いていて、夕飯だったらしいカレーの匂いが漂っていた。でも誰もいない。
部屋の隅には、かさこそ動き回る小さな生き物がいて、真っ赤な目で祥太のことを見上げた。
恐る恐る壁を抜けてまた外に出て、まだ街灯の下にうずくまる影の隣をそっと歩いた。
壁の上を、ゴミや埃を纏った何かが駆けていく。
マンホールの蓋の隙間、黒いカビのように蟠るものには無数の目がついていた。
それらのものをどんどん怖いと思わなくなっている自分がいた。夜の空気に慣れていく。僕の名前は
ドーナツみたいな穴が体の真ん中に開いていて、そこから夜が入ってくる。
ドーナツ。言葉にしてみて、何かが引っかかった。そうだ、僕は何かを忘れている。
お兄ちゃん。舌足らずな声が頭の中に反響する。けれど、声は夜の闇にからめとられて消えてしまった。
踏み切りに行ったのは、数週間前にそこで人身事故があったことを思い出したからだ。
踏み切りに飛び込んだ人も幽霊になっているかもしれない。
幽霊になった人となら話ができるのかもしれないと思った。幽霊になっていた父も母も、あの黒いお化けゴリラに食べられてしまったから、確かめる術はない。
幽霊になったらどうしたらいいんですか。
僕の体はどうなったんですか。答えてくれるかも知れないし、わからないかもしれない。
でも聞いてみたいなと思った。
踏み切りは静かに街灯に照らされていた。今が何時かわからないが、電車はまだ走っているのだろうか。どうせ死んだんだし、電車に当たっても死なないはずだ。祥太は踏切の上を歩いた。スタンドバイミーみたいだ。お母さんが好きだった映画。でも一緒に線路を歩く友達はいない。
レールは冷たいはずだが、足の裏には何の感覚もなかった。飛び込んで死んだ人の幽霊は見つからない。
レールの上を牛とカエルを混ぜたみたいなものが何匹かぺたぺた這っていたくらいで、一人の幽霊にも会えなかった。
——幽霊になったら、幽霊だけが暮らす町に行くんだよ。
そういえば、クラスで一番怖い話をたくさん知っていた笹浦くんが話していた。もしそれが本当だったとしても、祥太は幽霊の町の場所をしらない。
「親より早く死んだ子どもはさあ、賽の河原に行くんだよ」これも笹浦くんが言っていた。賽の河原で石積みをする。積みあがるところで鬼が来て石を崩してしまう。子どもは何回も何回も石を積む。
鬼でもいいから、誰か話せる人はいないだろうか。
悲しいとか心配だとか言う気持ちは今はほとんどなかった。ただ、このままずっと一人でいるのはつまらないなあと思った。夜が体に馴染んでいく。
線路はどこまでも続く。
それがあまりに大きかったから、前から電車がやってきたのかと思った。
違った。巨大なひし形の甲羅。そこに足がいっぱいついていて、足には節があって目がなくて、人間みたいな黒い長い髪を振り乱した……。
甲羅の真ん中にぐわっと空間が開いた。
肉色の内部が見えた。これは、口だ。いくつもの口。人のものに似た、唇があるものも、虫のようなものも、単に穴が穿たれたようなものもある。無数の口。
意思を持っているというより、目の前に何かがあると自動的に開くようになっているように感じた。ただ線路に沿って直進し、何かにぶつかるとそれを飲み込んでいく。線路の上をのたのた歩いているカエルのお化けが食われていった。
とっさに身を躱して路肩に飛び出したのは正解だったのだと思う。
祥太の目の前で、ちょうど子ども一人くらい吞み込めそうな口が、ぐわっと開いたからだ。
幽霊って、もしかしてすごく弱いのかもしれない。
祥太はまた線路を歩きながら考えた。夜はちっとも明けてくれない。
食物連鎖だ。祥太はまた声に出した。
小さな生き物はそれよりも大きな生き物の餌になり、大きな生き物が死ぬと小さな生き物がそれを分解する。自然はそうやって回っていると理科で習った。だから、飼っていた文鳥が死んだときに、庭に埋めてあげようと言ったら、母親にひどく怒られたのを思い出した。あんたには心ってものがないの?ちゃんとお弔いをして、みんなでお祈りしなきゃならないの。
今更その言葉を思い出した。僕は心がないんだろうか。だから、あんなこともできたんだろうか。
あんなこと?あんなことってなんだ?
祥太は足を止めた。体の真ん中に開いている穴がちょっと縮んだ気がする。
「おや、子どもの幽霊だ」
煌々と明かりを放つコンビニにも、人はいなかった。
分かってはいたけれど、祥太はちょっとがっかりして開きっぱなしの自動ドアの前に座り込んだのだった。そんな時だ。
ずいぶん久しぶりに人間の形をしたものを見た。
色の褪せたデニムに白いTシャツ。大学生くらいの男が自転車を押していた。
背中にはフードデリバリー会社のロゴが入った箱型のリュックを背負っている。
「こんばんは、子どもの幽霊。なにしてんの?」
自転車を乱暴に倒して置くと、やけに気さくに男は話しかけてきた。背が大きい。蹲った祥太に視線を合わせるように男は体を折る。
「僕のことが見えるんですか」
「見えるよー」
「お兄さんも幽霊ですか?」
男は祥太の問いに鼻を鳴らして笑った。笑うと口の端から八重歯がのぞいた。
襟足にかかるまで伸びた髪が鬣みたいだ。草原を駆ける狼を連想する。
そういえば、瞳の色も狼みたいになんだか薄い。
「子どもは欲が少ないから、普通は幽霊にならないんだよね。わかる?まだ生きて時間が経ってないから、執着とか執念とかが全然ないわけよ。稀にいるけど、そういう子たちはもっと見た目がぐちゃぐちゃでさあ」
男はリュックを下ろして体の前で抱えると、祥太の隣に腰を下ろす。
「君みたいにきれいに死んだ子が幽霊になるのは珍しいんだ」
男は祥太の首に目をやった。紐の痕でも残っているのかもしれない。
祥太はそっと腰を浮かせようとした。この人はなにかいやな感じがする。
「僕、もう行きます。話してくれてありがとう」
「いいじゃん。もっと話そうぜ。みんなももっと話したいってよ」
リュックサックの蓋が開く。
男がまた笑った。切れ長の目が細められるのと。祥太の体がリュックに向かって引き込まれるのは同時だった。
顔半分がつぶれたもの、手足が変な方向に曲がった者、ミイラのように痩せて倒れたまま動かない者もいる。頭にゴミ袋をかぶった小さな子が、ゴミ袋を押さえて呻いている。
皆、小さな子どもだった。
「知らない人に声かけられても話しちゃダメだよ」
外から男の声がする。
「子どもの幽霊は高く売れるんだ。君は特に高く売れると思うよ。何に使うかっていうと、まじないだね。俺はできないけど、強い幽霊を作って相手を呪うんだよ。もう遅いけど気をつけなね」
闇の中で、祥太の周りの子どもたちがざわめいた。
顔にゴミ袋をかぶった子どもがうめき声をあげる。首のところで袋が結ばれ、ガムテープで何重にも巻かれている。袋の下に赤黒い血が溜まっていた。
「俺はそういうのを集めて売ってるんだよ。その子は頭をゴルフクラブで潰された。血が床に着くと面倒だから、袋を被せて放って置かれたんだ。痛い痛いって思いながら、だんだん死んでいった子だよ。きっと良い悪霊になっていい仕事をするよ。楽しみだなあ」
幽霊は弱いのだ。祥太はまた蹲った。痛いよと隣に倒れている子が呻く。
死んだらいいのに。別の子が絞り出す。膿と血の匂いがする。ひしひしと満ちている暗がりはさっきまで浸っていた夜のものとも違っていた。もっと重く、のしかかるようだ。死ね、苦しい、痛い、なんでお前がここにいるんだ。音ではない。思念のようなものが体の境界を突き抜けて入ってくる。
子どもたちが吐く呪詛から逃れようと、耳を塞ぐ。それは何の意味もなかった。体に空いた穴に、真っ黒で真っ赤なものが流れ込んでくる。
「コドクって知ってる?壺の中に蛇とか百足とか入れてた共食いさせて最後に残ったやつを使うまじないなんだけど、かっこいいじゃん。俺もやってみよって思ってこれ作ったわけ」
男ははしゃいでいるようだった。男が鼻歌交じりに自転車を起こす音がする。それはひどく不釣り合いなラブソングだった。不意に歌が止んだ。
「烏の旦那」
はっきりと聞こえた。男の声はひどく不機嫌になっていた。今までのヘラヘラした、半笑いの声ではない。怒りを滲ませ、そして焦ってもいた。見え見えの嘘をついて、それを追求されたみたいな。
舌打ちがしたとたんに、祥太の体が何かに引っ張り上げられた。
幾本の赤黒い細い腕が祥太を追いかけたが、どれもつかめずに終わった。
祥太はアスファルトの上に放り出され、尻もちをつく。
痛くはなかったが、体の中にまだ子供たちの吐いた血まみれの言葉が残っているような気がして、祥太は荒く息をついた。
「知ってますよ。横町の境界での人さらいは禁止。はい、これでいいでしょ。拾ったのはこの子だけ。後はちがいます。あー、もうせっかくレアな幽霊だったのに」
男は肩をすくめると、苛立ちまぎれに自転車のスタンドを外した。黙り込む。そしてそのまま自転車は遠ざかってしまった。
「立てるかね」
ひどくしゃがれた声がした。
延ばされた腕を反射的に掴み、その柔らかさに驚いて顔を上げる。
そこには、黒い外套を纏った巨大な烏が立っていた。
「私は大鴉。横丁で外套屋をやっている」
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