第2話 見るなの姫

どうして……。


 一目で気に入った茶色と黒の縞模様の毛皮を選び、颯爽と向かった姿見の前で彼は途方に暮れていた。

フワフワで太陽の匂いがする毛皮、足裏についたピンク色のクッション。ビー玉のようなきらきらで大きな青い目。光が当たると瞳が三日月みたいに縮むのもいい感じだ。口元の髭もピンと伸びてなんとも見栄えがいい。まさに可愛いと言われるために生まれてきたみたいな存在だと、彼は自画自賛した。

問題は耳だった。

茶色の虎柄になるはずだった耳は黒みを帯びた半透明で、動かそうとすると蛇腹じゃばらにパタパタ折り畳まれた。どう見ても川魚のヒレにしか見えなかった。


「ナナシの可愛い子は、魚の魂と混ざってしまったのだな」


 彼のことをナナシと呼ぶ男が、首回りの毛を切りそろえながら言った。

ナナシと似た生き物の顔が筆で書かれた紙のお面をつけていた。


「お前はまだいいよ。オレなんてこんなんだよ」


鉄錆てつさびみたいな色の毛皮を着た奴が音もなくやってきて、ナナシの傍に座った。

彼らは縦に瞳孔が割れた目を持つ生き物のはずだが、錆柄さびがらの顔からはマッチ棒の先のような真っ黒い目が突き出していた。


「この目さあ、後ろまで見えるんだけど酔うんだよなあ」


もとはチャボというらしい錆柄はぐにゃりと床に寝転がった。


「元チャボは船乗りの猫だったが、嵐にあって海に投げ出されたのだ。そして蟹の魂と混ざってしまった。でも元チャボの毛皮が三毛だったから船乗りは皆助かった。今は皆で元チャボの死を悼んでいる。元チャボ、君もとてもよい猫だ。前の毛皮も、今の毛皮も、そしてその次の毛皮の君もよい猫なのだよ」


ねこ、という響きは心地よかった。

多分それが自分を表す生き物の総称なのだろう。


「ナナシの可愛い子は、猫に生まれてすぐに袋に詰めて川に落とされたのでまだ名前はないのだよ。私は名前をつけてあげることができないから、そういう子はみんなナナシの可愛い子と呼んでいる。君ももちろん良い猫だ」


「オレが良い猫なのはオレが一番よく知ってるよ。で、これ、直るの?」


元チャボが黒い楕円の目をぐるりと回した。


「君たちに混ざった水の生き物の魂が満足すれば自然と直るのだよ。申し訳ないが、それが明日か10年先かは、私にはわからないのだ」


10年先!?10年もこの不格好な耳と付き合えって?あまりの宣告に、ナナシは目の前が真っ暗になってしまったように感じだ。酷すぎる。他はこんなに可愛いのになんという仕打ちだ。

でも、元チャボよりはマシかな……。

ちらりと横を見ると、あまり気にしているように見えない元チャボは寝転がったままあくびをしていた。蟹の目がぐるりと回った。


 男は「毛皮番けがわばん」、または猫面ねこめんといい、ここは「毛皮屋敷けがわやしき」ということをナナシは学んだ。そしてこの土地の名前は「宵闇横町よいやみよこちょう」ということも知った。

ナナシと元チャボに課せられたのは、猫面の男の手伝いだった。

 毛皮屋敷には毎日透明な客がやってくる。なんせ透明なので、いつ入ってきたのかわからない。

彼らは座敷に並べられた様々な柄の毛皮の上を這い回って気に入りを探す。

気に入ったものが見つかったら、その上で盛大に転がり回る。あっという間に彼らは猫の姿になった。ナナシと元チャボは毛皮を変えたての彼らのそばに行って、苦しいところはないかとか、毛の長さはちょうどいいかとか、目の大きさに不満はないか、鼻はどうか、肉球の色や固さはどうかなど訊く。

もし不満があればそれを猫面に伝えた。

猫面は猫を膝に乗せて餅でも捏ねるように丁寧に優しくこねくり回し、彼らが望む姿にしてやった。

「猫の魂は液体なのだ。とても綺麗な透き通った液体なのだよ。毛皮の中にそれが流れているから、良い猫である君たちはどんなに小さな隙間も通り抜けることができるのだな」


 中にはナナシのように猫として生まれてすぐに死んだものもいた。そういう場合は猫歴の長い元チャボの出番だ。猫の生活とはどういうものかとか、猫の言葉はどういうものかとか、光に合わせて瞳の大きさを変えるコツだとか日当たりの良い場所のを教えてやっていた。ナナシも講義に参加して、猫とはかくあるべしということを学んだ。要約すると、猫とはとても自由で気ままで、可愛くて素晴らしいということだった。


 毛皮を手にした猫たちは屋敷の裏庭からどこかに消えていった。彼らはどこかの猫の胎に宿り、産まれてくるのだという。産まれるときに毛皮屋敷のことを忘れ、そして死ぬときに再び思い出す。

9回毛皮を取り替えた猫だけが、猫の楽園である猫浄土にいけるのだ。


 ある日、ナナシは猫面に呼ばれた。


「そろそろ屋敷の外に出てみるとよい。身軽に動く猫の体を満喫しておいで。気が済んだら戻ってくるのだよ」


 猫面に抱えられて、ナナシは初めて屋敷の外を見た。ぼんやりとした闇が辺りに満ちている。猫の目は闇を照らすから、暗がりなのは問題なかった。

地面に下ろされるや否や、ナナシは駆け出していた。挨拶などしている暇はなかった。

闇の中を漂う匂い、風の流れ、魚の耳が捉える水の音、見たことのない者たちの囁きがナナシを駆り立てていた。


 ナナシは自分の体がしなやかに動くのを感じた。

地面を蹴れば蹴るだけ風のように体が前に進む。石垣の僅かな凹みも吸い付くように登れる。

夢中で駆け回っていると、急に足が地面から浮いた。


「混じり物のぼん、随分はしゃいでるな」


 ナナシの首根っこを摘んでニヤニヤと笑っているのは、やけに鼻面の長い赤銅色の獣だった。

ナナシは早速元チャボから教わった、「喧嘩を売られたら体を丸めて毛を逆立て、シャーと低く唸れ」を試したが、目の前の巨大な獣は底意地悪く楽しそうに笑うだけだった。二股に分かれた芒のような尾がふさふさと揺れている。一目でわかった。こいつは嫌な奴だ。

「怒るなよ。坊は新入りだな。この辺りを歩く時は気をつけた方がいい」

「あんたにか?」

「勇ましい坊ちゃんだ」

 赤銅色の獣はぐっとナナシに顔を近づけた。

鋭い牙の中で、一際光る犬歯が見えた。

ナナシくらい頭からバリバリと買ってしまえるような大きな口だ。

大鷺だいさぎに気をつけなよ。あいつらはなんだろうと食ってしまう悪食あくじきだ。賢くはないが浅知恵の働く奴らだから捕まらないよう用心することだね」

獣の口の端からぼうっと青白い炎が漏れ、ナナシは息を呑んで体を遠ざけようとした。

途端にぽいと空中に放り出され、ナナシは、全身でバランスをとってなんとか地面にしがみついた。

 向こうの暗がりに狐火が灯り、けたけたと笑う声が遠ざかる。

忠告なのか、それとも馬鹿にされたのかわからないまま、赤銅色の獣は闇に紛れてしまった。


 怒りに任せてうろうろしていると、白い漆喰しっくいの壁が続く場所に出た。

見上げるほど高い壁がこちらと向こうを隔てている。登るのは無理そうだ。風の流れに集中してみると、向こうからひと筋漏れてくる風がある。僅かなせせらぎの音を捉え、半透明の耳がピンと立った。

壁に沿って進むと、角のところに細い割れ目があった。耳を近づけると、せせらぎの音が大きくなった。念のため塀に沿って一周してみてから、ナナシは体を小さくして隙間へと滑り込んだ。造作もない。猫の魂は液体なのだ。


 塀の向こう側は広い庭になっていた。

玉砂利が敷かれ、塀のすぐ内側を沿うように水路が走っている。蛍が飛んでいるから、あたりはやけに明るい。

水の流れるサラサラという音がなんとも心地よい。心地よいと感じているのは自分の中の魚の部分なのかもしれない。

水路の近くには菖蒲しょうぶが植わっていて、たおやかな紫の花と対照的な鋭い葉を茂らせている。水芭蕉の白い花も闇に浮いていた。蛍袋ほたるぶくろに金魚草、女郎花おみなえし芍薬しゃくやく、山茶花。

種類も咲く季節もてんでバラバラの花が一斉に咲いていた。

どこかで水が湧いている音がする。

ナナシは水路に沿って歩いた。

水路の底には、蛍火の微かな明かりを受けてきらきら光る青とか緑の石が沈んでいて、ナナシの影が水面に写るたびに小魚がひゅっと水草に隠れるのも見えた。猫の本能はそれらを捕まえたいと訴えたが、魚の魂がそれを押し留めた。


 誰の家だろう。

今まで歩いてきたところだけで毛皮屋敷が丸ごと5つは入るんじゃないだろうか。水路はだんだんと太くなっていく。このままだと歩くところがなくなってしまうと心配になったとき、目の前に屋敷が現れた。合流した水路は池になり、その真ん中の浮島に豪奢な寝殿造の屋敷が建っていた。

池の真ん中を突っ切って赤い欄干のある渡廊下が伸びている。水路の脇の砂利を敷いた小道は渡廊下に繋がっていて、他に道はなさそうだった。

ナナシはその渡廊下を渡っていった。

辺りを夥しい数の蛍が舞っている。

欄干から池の様子を見ると、僅かな風に水面が揺らいでいた。


 屋敷には誰もいなかった。

いくつかの部屋を通り抜けた。

たくさんの菓子が置かれた無人の部屋があった。

囲炉裏に鉄瓶がかけられ、しゅんしゅんと音を立てている部屋もあった。しかしここにも誰もいない。

西瓜に梨、桃、桜桃、枇杷、杏など異なる季節の果実を山盛りにしたものが部屋の真ん中に置かれた部屋もある。何竿もの箪笥だけが置かれた部屋、なにもない部屋。



 部屋だけはたくさんあったけれど、どこにもだれもいなかった。


 ここまでくると鈍感なナナシも奇妙なことに気がついた。

塀の隙間を通り抜ける前にナナシは壁に沿って一周していた。だから大体の広さの検討はついていた。屋敷の中がこんなに広いわけがない。

ここは奇妙な町だけれど、群を抜いてここは変な所だ。風の流れを捉えようにも捉えられず、音もない。いい匂いがするけれど、なんの匂いかはわからない。


 辿り着いたのは、ひとつの寝台が置かれた部屋だった。広い部屋には他になにもなく、寝台の周りを天蓋てんがい御簾みすが囲んでいる。

御簾の向こうで誰かが動く気配がした。


「誰?」


声を発したのはおそらく同時だった。

聞こえてきた声は、ナナシの心臓をギュッと掴んだ。懐かしいような、初めて嗅ぐような、でも、とても素敵な匂いだ。

ナナシはできるだけ尻尾をピンと立てて見栄え良く立った。


「オレはナナシ。ここは君の家?」


ほんの少し御簾が揺れたが、返事は返ってこなかった。御簾も開かない。

痺れを切らしたナナシは御簾に歩み寄る。

なんだよ。こんなところに隠れて、名前くらい教えてくれたっていいじゃないか。


「駄目っ!見たら死んじゃうよ!!」


あまりの大声にナナシは毛を逆立てたまま固まった。なに?死んじゃう?


「驚かせてごめんなさい。わたしのことは見ちゃ駄目なの。見ると死んじゃうから」


「なんで?なんで死んじゃうの?」


「わたしがとても醜いから。見たものは死んでしまうくらい醜いの。だからあなた死んじゃうよ」


向こうにいるのも子どものようだった。

言葉は足りず、しかし懸命にこちらに注意を促してくる。切迫したような声音から、言っていることは嘘ではないようだった。


「うーん。死んじゃうのはちょっとなあ」


ナナシは川に落ちた時のことを朧げにおぼえている。目も開かないまま、他の兄弟と一緒くたに頭陀袋ずたぶくろに詰められて落とされた川の水は冷たくて、なにがなんだかわからないまましこたま水を飲むことになった。川底の岩にぶつかり、ようやく首の骨が折れるまでは随分苦しかったことだけが鮮明だ。

今だって生きてるのと死んでるのの中間だと思うけれど、この状態から死んじゃうこともあるかもしれないしなとナナシは思った。


「君、ここに一人で住んでるの?」


「うん。でも、じじさまが来てくれるのよ。爺さまはわたしのお世話をしてくれているの。いつもご馳走を持ってきてくれるのよ。お魚とか」


魚と聞いてナナシの耳が意志とは関係なくビクッと動いた。今はお前の話をしてないし、たぶんこの子はお前を食べないよ。ナナシは自分の中にいるらしい魚の魂をなだめてやる。


「爺さま、今はいないの?」


「今はいない。もう少ししたら帰ってくると思う。あなた、もう帰ったほうがいいよ。屋敷に入ったのがわかったら、あなた怒られちゃう」


ナナシは怒られても平気だったが、声の主がなんだか泣きそうなので従ってやろうという気になった。


「今日は帰るけどまた来るよ。それから、オレはナナシ。君の名前は?」


「ナナシ?それが名前なの?」


うふふ、と御簾の向こうから笑う声がした。

ナナシは心臓がまたキュッと絞られるような感覚を覚え、慌てて平静を装って応える。


「まだ名前はないんだ。世話になってる奴がナナシって呼んでくれてるから君もナナシって呼んで」


「わたしも名前はないの。爺さまは、『見るなの姫』って呼んでる。ナナシ。本当にまた来てくれる?」


「わかったよ。また来るからな。絶対」



御簾の向こうで「見るなの姫」が息を呑むのがわかった。

「早く!御帳台きちょうだいの裏の襖からまっすぐに外に出て!爺さまが帰ってきた!」

 姫の言葉を背に、ナナシは駆け出した。

さっきは壁だったと思う場所に襖ができ、スルスルと開いていく。

風の流れをヒゲに感じたと思ったら、ナナシは玉砂利が敷かれた庭に飛び出していた。

目の前の塀には見覚えのある亀裂が。


 頭がふわふわしていて覚束ないが、寝台のある座敷で聞いた声が、ナナシの心を掴んでしまっていた。


「可愛いナナシの子。迷いマヨイガに行ってきたようだね」


ナナシの毛を梳いてくれながら、猫面が言った。


「ふうん。あそこ迷い家って言うんだ」


「迷い家はとてもとても古い場所なのだな。もてなしてくれたかい?」


「なんか食いもんはたくさんあったけど、食べなかったよ」


「それは勿体のないことをしたね。可愛いナナシの子は生者と死者の間だから、あの家のものを食べても平気なのだよ。生者がものを食べればあの屋敷の一部になってしまうのだ。そうやって形を保つ、大きな大きな屋敷なのだな」


女の子に会ったよ、そう言いかけてナナシは口を閉じた。自分と彼女だけの秘密にしておきたい気がしたからだ。猫面のことは信用していたけれど、彼にも教えられないことが自分の中にあるのが不思議で、ちょっと誇らしかった。


 宵闇横町はいつも暗いので、どのくらい時間が経っているのかわかりにくい。しかし最近は慣れてきて、見知らぬ人間が祭囃子の社で足がいっぱいのやつに狙われたり、あのクソ狐がやっている古今堂で金を巻き上げられる頃になると1日が過ぎているということも見当がつくようになっていた。

 そのくらいの時を見計らってナナシは迷い家をおとない、姫と話をした。

最初は庭の菖蒲が綺麗だとか、今日の池の水はいつもより緑だなとか、差し障りがないことから始まった。そうして座敷に迷い込んでくる蛍を二人で眺めた。暫くするとナナシは毛皮屋敷のことを話してみた。

 代わりに姫はこの屋敷のことを話してくれた。

いつ爺さまが帰ってくるかわからなかったから、2人で遊ぶことはできなかったけれど、話すことが増えるにつれて会話は打ち解けていった。

お互いのことを話した。

姫と爺さまは顔を合わせることなく、御簾の前に食事を置いていくのだという。

驚くことに姫はナナシに会うまで日がな一日屋敷から出ず、御簾の内側で眠っていたらしかった。

姫がいうに、姫の顔があまりに醜かったので、彼女を産んだ母親がまず死んだ。その後に彼女の顔を見た父親も死んだ。捨てられた彼女をこの屋敷に運び、誰派も姿を見られないようにと整えたのが爺さまなのだという。


「ここは迷い家っていうんでしょ。猫面が言ってた」


「知らなかった。爺さまは外の話をしてくれないから。わたしは外に出てはいけないから、知らない方がいいんだって」


「庭に出るくらいしてみたら?」


「お庭には水がたくさんあるんでしょ?もしそこにわたしの姿が写ったら死んでしまうわ」


「それはそうだけどさ。毎日この部屋にいて退屈じゃない?」


「退屈ってことば、最近わかったの。ナナシが来てくれない時は退屈。でもここにはたくさんの部屋があるから、私、ナナシが来てからお屋敷の中を歩くようになったの。いろんなお部屋の話をできたらいいなって。見て歩くだけで楽しいのよ。馬の首が下がった怖い部屋があるの知ってる?」


 打ち解けた姫は、よく笑うことがわかった。

元チャボの見た目の話をしたら、ごめんなさいと言いながらもずっと笑っていた。

見たら死ぬっていうくらいだから本当に恐ろしい姿をしているのかもしれない。

でも姫の心ははきっとかわいい形をしている。

ナナシは彼女に恋をしていた。


 姫に会おうとするには、屋敷の中を姫の匂いを頼りに歩くしかない。

姫の匂いはなんだか懐かしくて、そして胸をドキドキさせた。いつも迷わずに辿り着けていたのだが、その日はどういうわけか迷ってしまった。

姫のものではない匂いがするのだ。なんだか生臭くて、ちょっと美味しそうな匂いが混ざっていて、それ以上に嫌な臭いもした。

はずれの部屋に行き着くばかりで、そのうちに耳が囁き声を捉えた。


 猫は足跡を立てない。

ナナシはそっと音の出所に近寄り、ふすまに耳を当てた。


「ーー食い頃になっただろう」

「そろそろ肉もついてきた。よかろう」

「私は腑を食いたい」

「私は足を」

「私は目玉がいい」

「尾はいらぬよ」


 気づかれないように、ナナシは細く襖を開いた。

座敷の真ん中に魚籠びくが置いてあって、まだ小魚が跳ねていた。

そしてその傍らで、首の長い大きなものが、額を寄せ合って不穏なことを囁き合っていた。


 最初は侵入がばれていて、ナナシのことを食う算段を立てているのかと思って総毛立った。

だが、車座の真ん中に置かれた魚籠を見て、ナナシはもっと恐ろしいことに思い当たった。

姫は爺さまは魚を運んできてくれると言っていた。


姫が食べられてしまう!


 ナナシは素早く踵を返すと駆け出した。

いくつもの座敷を抜ける。まだ姫の部屋に着けない。首長の匂いが邪魔をする。

気は急いていたが、頭の芯が冴え渡っていた。

あの首長たちが魚を運んできたのは、姫を太らせるためだ。


 それから、迷い家は、迷い込んだものが大人か子供かしかわからないのだ。だから菓子や果物で持て成した。ナナシも姫も子どもだから。

だが、猫は菓子も果物も食わない。


 もし、姫を見たものは死んでしまうということだけは本当だったとしたら。ナナシは首を振り、考えを振り払った。どうか半分死んでるんだ。構うものか。


 今度こそ屋敷はナナシを姫の部屋に案内した。

ナナシは部屋に飛び込み、御簾の中に転がりこんだ。


ほら、やっぱり。やっぱりかわいい子だった。


姫は声を出せないくらい驚いていて、喉の奥で「ナナシ」と小さく言った。


「逃げるよ!」


 ナナシは叫んだ。

「ナナシ、死なないの?」

「死ぬもんか!」

ナナシは姫の顔に自分の顔を近づけ、覗き込んだ。

鼻先が触れ合う。


「オレの目を見て!オレの目に君が写るだろう!見て!!君はどんな形だ!?」


姫の体からごろごろいう音が聞こえた。ナナシの体もこんなふうに遠雷みたいな音が出せる。


「ナナシと、同じ」


「そう!耳以外はね!君は猫だよ!さあ!走って!!」


 2匹の猫が屋敷を疾走する。

不思議な耳をした黒茶の縞猫と、雪のように白い猫が。


 屋敷の縁を飛び降り、玉砂利の庭に足がついた瞬間、複数の羽ばたきが聞こえた。闇の中に金色の目が光る。

「我らは翼を持つもの。地を這うものには遅れを取らぬ」

「我らは翼を持つもの。塀など意味を持たぬ」


「爺さまの声だ……」


 姫の声は震えていた。

2匹を取り囲んで舞い降りたのは、4羽の大鷺だいさぎだった。鋭く尖る嘴。爪を備えた細長くも頑丈そうな足。折り畳まれた長い首が蛇のように伸びた。


「猫は美味い」

 一羽が笑った。真っ赤な口の中が見える。

「迷い家に子猫が迷っていたのでな」

「あっさりと騙されてくれたのでな」

「食い頃になるのを待つことにしたのよ」

「私は肉はいらん。毛皮を裂くのが楽しみだ」

4羽が口々に言う。

逃げても無駄かもしれない。

奴らには翼があるし、力も強い。

ナナシは震える姫を背後に守り、それでも大鷺を睨みつけた。できるだけ背中を丸めて大きく見えるようにし、精一杯毛を逆立てる。いつでも飛びかかれるように後ろ足に力を入れた。


 大量の羽が舞った。ひときわ体の大きな大鷺の嘴を裂いて、山茶花の枝が飛び出した。流れ出した血が水路を染めていく。


困惑した3羽が後退るのと、彼らの嘴から断末魔が迸るのもほぼ同時だった。


花が。

嘴から、眼窩から、爪の付け根から。

菖蒲、水芭蕉、女郎花、野菊、布袋草、蛍袋、椿に蝋梅まで。この庭に生えていた花たちが大鷺の体を突き破って咲いていた。

骨を肉を裂き、血肉を吸い上げながら花開き、大鷺の命が尽きると地面に落ちた。

玉砂利の上を花が飾り、水路を溢れた花が流れてゆく。美しかったが、同時にその全てが恐ろしかった。


「に、逃げよう……」


 ナナシは屋敷を振り返った。

屋敷にとって、大鷺は招かれざる客だったのだろう。だから排除されたのかもしれない。

2匹は震えながら走って、壁の割れ目に辿り着いた。

「姫、先に行って」


 後ろをしっかり着いてきた姫は、壁の前で困ったように尾を下げた。


「わたしは外に出れないみたい。壁に割れ目が見つからないの」


ナナシの目には、壁の向こうに繋がる亀裂がちゃんと見えていたし、向こうから吹いてくる風も感じ取れた。


「ナナシ。あのね。さっきのもわたしがやったみたいなの」


 生きたものが屋敷のものを食べると屋敷の一部になる。猫面の話が脳裏に浮かんだ。

姫は生きてここに迷い込んだ子だったのだ。

大鷺が運んでいた魚は、おそらくこの水路にいたもの。あれも「屋敷のもの」だ。


「ナナシと初めて会った時気がついたの。どうやって家に声をかけたら部屋が変わるのかって。そのあとはどんどんできるようになった。多分その前も、私が誰にも会いたくないって思ったから、屋敷に誰も来なかったんだと思う。ナナシが来たからもっと色んなことができるようになった。さっきも、ナナシを食べられたくないって思ったら花も、水も動かせたの。見てて」


水路の流れが逆向きに変わった。

姫の足元に蛍袋が茂り、蛍たちが集まり始める。


姫は、もう屋敷の一部なのだ。


「そんなのやだよ……。オレ、もっと姫といろんなとこに行きたいよ。毛皮屋敷に連れて行ってやりたいし、それにいろんなものも一緒食いたいし、姫と一緒にいたいよ」


「できるよ」


屋敷を背にして姫が笑った。


「ナナシは毎日ここに来て、いろんな部屋を回ろう?まだ見たことない部屋をたくさん作れるよ」


「オレもここで暮らすよ」


「それは駄目。猫面さんが困る。猫はどこかにとらわれては駄目だって、ナナシが教えてくれたでしょう」


姫はナナシに近づき、鼻先を合わせた。

姫の目にナナシの姿が写っている。


「ナナシ。あなたの耳が戻って宵闇横町を出ていくまで、わたしに会いに来てね」





 それからもナナシは迷い家に通い続けている。

元チャボは目が元に戻り、緑色の綺麗な目になって猫屋敷を出て行った。

ナナシは今ではたくさんの猫に猫はかくあるべしということを教え、猫面の仕事を手伝っている。

ナナシの耳は戻る気配がなかった。

姫と約束してしまったからかもしれない。

それを話したら、姫は困っていたけれど。


ナナシは今では、この耳にそこそこ満足している。










































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