第1話 祭囃子の神社
いつもの通学路を通って帰ったはずだった。
この道を抜ければ酒屋さんの前に出るはずが、目の前には見知らぬ
今日は木曜日で、放課後に委員会があった。
だからいつもよりも帰りが1時間近く遅いかった。
秋の太陽は気が短い。
あっという間に沈んでしまって、もう辺りには夕焼けの色も残っていなかった。
道を間違えたのだと思って引き返そうとしたが、進んできた方の道は消え、袋小路になっていた。
どうしよう……。
5年間通い慣れた通学路が、見知らぬ場所になってしまった。今日は新しく靴下を下ろして気分が弾んでいた。水色の糸で猫が刺繍されたかわいいやつだ。その気持ちは今はぺしゃんこに潰れ、陽菜は泣きそうになっていた。
遠回りしても
こぼれ落ちそうになった涙を堪え、陽菜は歩き出した。誰かに道を聞こう。
恥ずかしいけど、この家のチャイムを押して、出てきた大人に道を聞くのだ。
ランドセルにつけた防犯ブザーを握りしめ、陽菜は歩き出した。
辺りには闇が漂っていた。
漆喰の壁に沿って歩けば、いつかは家の正面に辿り着くだろうと考えていたが、壁はぐるりと大きく巡って同じところへと陽菜を誘った。
このお家、入口がない……。
陽菜の背丈の2倍ほどある白い壁を見上げると、内部に屋敷があるのはわかる。
黒い瓦屋根の一部が覗いているし、耳をすませば水が流れる音が聞こえた。
しかしどこにも扉はなかった。
2周して見つけたのは、壁に開いた細いひび割れだけで、子どもでさえ到底通れるような幅はなかった。
ムーなら通れたかな。
ムーというのは夏まで陽菜が飼っていた猫で、陽菜よりも年上だった。クリーム色の毛並みに黄色い目をしていて、いつも陽の当たる窓辺で眠っていた。寒い季節になると陽菜の布団に入りたがった。
ムーを部屋に入れるとお母さんが怒るので、陽菜は時々こっそり細くドアを開けておいた。
こうすれば、「私がドアを閉め忘れたからムーが入ってきちゃったの」と言い訳ができた。
どんなに細くしかドアが開いてなくてもムーは部屋に入ってこれた。
そんなムーも夏の
今はお骨になってピアノの上で小さな壺に収まっている。
「ムー……」
ムーのことを思い出したらもっと心細くなってきた。一人ぼっち。迷子。奇妙な屋敷。
怖い。
ついに涙が頬を伝って落ちた。
しゃくり上げながらも再び歩こうとして、躓いた。解けた靴紐を踏んだのだ。足元見えないくらい辺りは暗くなっていた。
靴紐を結ぼうとしゃがみ込むと、塀のひび割れからこちらを見るものと目が合った。
円形の黄色い目玉。
小さくて丸い瞳孔はじっとこちらを見据えていた。
人のものではない。
足元を何かがかすめ、陽菜はバランスを崩して倒れた。ぶつけた肩が痛い。それから足も痛い。
靴下に血が滲んでいた。壁の割れ目からこちらに向けて何か細長くて尖ったものが素早くまた突き出された。
悲鳴を上げて陽菜は後ずさる。
尖った錐のようなものがヒュッと壁の中に戻った。
壁の向こうからギャアギャアと何かが喚く声がした。
赤ん坊の鳴き声のような、発情期の猫のような。
陽菜は知らなかったが、それは
なに!?なに!?あれ、なに!?
頭の中が真っ赤で、何も考えられなかった。
陽菜の体を本能が動かしていた。
一刻も早く危険から逃れろという脳の指令により、陽菜は駆け出し、闇雲に走った。
足の痛みも忘れ、解けたままの靴紐を何度か踏んで転びかけ、また走った。
どこをどう走ったのか、曲がった角の数さえわからない。陽菜の耳が捉えたのは、陽気な
笛の音、太鼓の音、鈴の音。
それから人々のざわめき。
誰かいる!!
音を頼りに走って、ようやく屋台と
頭がくらくらして吐き気がする。
それでも、あそこに見える祭りの明かりが背中を押していた。
近づくにつれ、そこが神社だと分かった。小さな石の鳥居から、境内へと参道が伸びている。参道の両脇に、屋台が立ち並ぶ。
陽菜は参道の石畳に沿って進んでみた。
炭火で音を立てて焼かれる焼き鳥からは脂が滴っている。タレを塗られて艶々と光るイカ焼き、鮮やかな色をした金平糖、鳳凰を象った飴細工、氷の上で
「すみません。道に迷ってしまったんです。電話を貸してもらえませんか」
陽菜は近くにいた親子連れに声をかけた。
ここの住所を教えてもらって、母に迎えにきてもらいたかった。
親子連れは陽菜のことを無視して通り過ぎていく。
陽菜は片っ端から大人に声をかけて回った。屋台の香具師にも声をかけた。
誰も応えてくれなかった。
陽菜のことが見えていないようだった。
とうもろこしが網の上で焼かれていく。
香具師の男が刷毛で醤油を塗り、とうもろこしをくるりと回した。醤油が滴り、じゅうっと香ばしい音をたてた。
その瞬間、陽菜は全身の毛穴が泡立つのを感じた。
匂いがない!
これだけ食べ物があふれているのに、この場所からは何の匂いもしてこなかった。
さっきまでは必死で気がつかなかった。
あたりを包む祭囃子が、急に
スピーカーも演奏者もどこにも見当たらなかった。
少しも途絶えることなく祭囃子が響く。
逃げたつもりが、罠に誘い込まれてしまった。
何かとんでもなく怖いものが、罠の中心で待ち構えている気がした。
逃げよう。
鳥居を振り返ると、そこにいた。
鳥居の上からぶらりと垂れ下がったそれは、ちょっと蜘蛛に似ていた。蜘蛛よりももっと手足が多くて、真っ赤な目も多くて、手足は関節に関係なくグニャグニャと曲がった。
足がぞわりと動いて、胴体の真ん中にある口が見えた。鋭い歯が取り巻く、円形の
既に何かを食べているように、口が動いた。
神社って神様のお家じゃなかったの?
こんな時になにを考えているんだろう。
膝は立っていられないくらいガタガタ笑っているし、両の目からは涙が止まらない。鼻水だって出ているのに、頭の片隅だけは冷静でそんなことを思った。
「陽奈」
声がした。男の人の声。
声は確かに陽菜の名前を呼んだ。
足元に柔らかい毛皮の感触を感じた。
「ムー?」
足元には灰色の毛並みをした小さな猫がいて、それはムーとは似ても似つかなかった。でも、確かにムーだ。陽菜には分かった。
「この子は食べてはよくないよ」
男の声がまたした。
鳥居からぶら下がるものの隣に、浴衣みたいな着物を着た男がいた。
顔を白いお面で覆っている。狐のお面かと思ったが、狐よりも鼻先が短くて目が大きい。犬?違う。縦に割れた瞳孔は猫のものだ。
鳥居にぶら下がるものと会話しているようだった。
男の声だけが、「そう」「それは無理」「それならよいのではないか」と聞こえた。
「陽菜。元の道に返してあげよう」
足元の灰色猫もニャーと鳴いた。
鳥居にはもうなにもいなかったが、参道の向こうでまだ蠢く気配がしていた。
「ここは
男と陽菜は並んで歩いた。男は変に堅苦しい言葉で喋った。人の言葉を話し慣れていないみたいに。
陽菜の腕の中に灰色の猫がいた。
ムーよりずっと小さな子猫だけれど、ムーがよくしたように鼻を陽菜の腕に押し付けて丸まっていた。
「この子はムーなんですか?」
「
「毛皮を脱ぐ?」
「猫は死ぬたびに9回毛皮を脱いで新しい毛皮に着替えるのだ。毛皮を脱ぐと何もかも透明になってしまうのだから、本来はいろんなことを忘れてしまうのだが、稀にこういう義理がたいのがいるのだ」
義理がたいという意味を陽菜は知らなかったが、自分のことを覚えていて助けてくれたのが嬉しかった。できるならこのまま一緒に帰って、またムーと名前をつけて一緒に暮らしたい。怒られてもいいからずっと一緒のベッドで寝たい。
でもそれはいけないことなのも何となく分かった。
ムーはもうムーじゃない。
新しい毛皮に着替えて、新しい猫になったんだ。
「この辺りが横町の終わりなのだ。このまま真っ直ぐ行くといいのだよ。でもその前に約束」
猫面の男はずっと人差し指を立てた。
内緒話のように声を潜める。
「不思議な神社と神様の話を寺子屋……いや、がっこう、で広めるのだよ。陽菜が体験したとは言わなくてもよいから、祭囃子の神社の話を広めておくれ。あの子は子どもの肉も好きだけれど、たくさんの子どもが自分の話をして怖がる気持ちがもっと好きなのだよ。さっきも陽菜の怖い気持ちをちょっと食べていた。でも足りないから陽菜も食べようとした。まだお腹が空いているのだよ。お腹が空いているのは悲しいからね。噂を広めてあげてほしいのだよ」
お願いね。と猫面は小さく首を傾げた。
陽菜は頷く。
腕の中の子猫を猫面に返した。
猫は目を開け、にゃーと鳴いて目を細めた。
さようなら、ムー。ありがとう。
また涙で視界がぼやけて、涙を拭っているうちに陽菜はいつもの酒屋の前に立っていた。
ビール瓶を運んでいたおじさんが、陽菜ちゃん今日は随分遅いねと声をかけてきた。
「委員会で遅くなっちゃったんです」
「気をつけて帰りなよ。どうしたの?転んだのかい?うちで手当てしていく?」
「ありがとうございます。大丈夫です」
陽菜はお辞儀する。
破れた靴下と足の怪我が、あの出来事は夢でないと証明していた。
猫面さんとの約束、守らなきゃ。ね、ムー?
陽菜は明日学校で誰にあの不思議で怖い神社の話をしようかと考えながら、いつもの通学路を歩き出した。
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