名ばかりの妻

笠緖

元和三年――帰郷する夫を見送る、江戸屋敷にて

 日頃はさほど大きな物音があるわけでもない屋敷が、ガヤガヤとした喧噪に包まれていた。

 流石にこの屋敷の女主である満天姫まてひめの目の届く範囲で見苦しいほどにそれらがあるわけではないが、それでも屋敷全体を包む雰囲気はただただ忙しない。


(まったく……家中みな、夜逃げか城落ちかと思うほどの大騒ぎだわ……)


 今日は、夫・津軽信枚つがるのぶひらが江戸での参勤を終え、任国である陸奥国むつのくに弘前藩ひろさきはんへと就封する日である。どこの屋敷でも、当主の上京と帰郷の日には、こうして上も下も大わらわなのかもしれないが、それでも満天姫にはその喧噪がただひたすらに煩わしい。

 ちらり、上座へと視線を流せば、目の前の上座に腰を下ろす夫のおもては、真っすぐに自身へと向けられている。けれど、彼女は、もはや夫の瞳は自身を見てはいないだろう事を嫌というほど知っていた。


「さて……、名残は尽きぬが、そろそろ参らねばならんな」


 椀の中に入った茶を一気に喉へと滑らせると、信枚はしとねの横へとそれを置く。焦るような素振りはないが、けれど先ほど出立前に、と満天姫自らがたてた茶を、恐らくまともに口の中でそれを溶かし、味わう事はしていないだろう。


(……いいえ。殿にとって、最初からこの屋敷での一年はあってないようなものなのかもしれない)


 帰郷の日を迎える随分前から、既に彼は心を遥か遠くの空――側室である辰姫たつひめの許へと飛ばしているのだから。

 満天姫が信枚へ嫁したのは、今から五年前の事――。

 互いに初婚でもなく、満天姫には前婚家での子さえもあった。参勤交代が示すように、当主は一年おきに任国と江戸を行き来しなければならず、側室を持つことを否定すれば家の取り潰しの原因ともなりかねない。

 大御所であった徳川家康とくがわいえやすの姪であり養女であるという矜持があるからこそ、側室のひとりやふたりで悋気を起こすほどの狭量でもないつもりだ。事実、この屋敷にも信枚の手のついた女が数名おり、その全てを側室として認めている。

 けれど――。


(辰姫は……、彼女は、違う……っ)


 紅を刷いた唇が、ぎゅ、と硬く結ばれ、膝へと置かれた手のひらに爪が食い込む。

 辰姫――、彼女は、満天姫よりも先に信枚へと嫁ぎその正室となった石田三成いしだみつなりむすめである。満天姫の輿入れにより、徳川を憚った津軽家が彼女を側室に降格させたが、世間では異例の事と受け止められた。

 徳川を憚るというのならば、辰姫を離縁した上で満天姫を迎えればいいだけの話である。けれど、信枚はそれをしなかった。当初は、実家が既に滅んでいるために、帰る家もない彼女を憐れんだのかと思ったが、それは違った。

 違うのだと、そう思い知らされたのは、満天姫の輿入れと同時に津軽家の江戸屋敷を出て行く辰姫を見た時だ。


  ――於辰おたつ……っ!


 嫁いだ満天姫の視界に入るその前に、と、逃げるように籠に乗り込こもうとした辰姫の腕を引き、信枚がその胸の中で彼女の黒髪を抱くその姿を、見た。


  ――なりませんっ、殿……! なりません……っ!

  ――行かせたくはない……、於辰……、そなたを、行かせたくはないのだ……!


 細い身体を捩ってその腕の中から離れようとする彼女を抱きしめながら、苦し気に顔を歪めた信枚の姿を、見た――。


  ――いいえっ、大御所さまの姪御めいごさまをお迎えなさるは、津軽家の御為ではありませんか……! あなた様は、津軽家のご当主なのですよ……!

  ――わかっておる! わかっておるが、そなたは我が妻ではないか……!!


 新たな夫となった信枚の腕の中にいる辰姫は、誰もが振り向くほどに美しい女ではなかった。やや丸い双眸は目尻が垂れており、なるほど可愛らしさはあれど、恐らく単純に顔の造作のみでいうのならば、ス、と涼やかな目元を持つ満天姫の方を美しいと思う人間の方が多いだろう。

 しかし、夫の心を掻き乱す存在は、時の権力者である徳川の血を引く美貌の自身ではなく、敗者の血を引くあの女のようである。


(存外――、情に厚い御方なのね……)


 関ヶ原の折、津軽家は親と兄を東西に分けた家のひとつである。それ故に、信枚も利己的な一面が大きいのかと思っていたが、石田家の息女を未だに手放さずに執着しているところを見る限り、情に左右される感情的な人間なのかもしれない。

 けれど――。


「では、また一年ほど不在になる故に、正室たるそなたには様々な苦労をかけると思うが……屋敷の事、よろしく頼む」


 信枚は、傍に腰を落としている満天姫へとゆっくりとおもてを下げた。それを受け、彼女も「畏まって御座います」とゆっくりと同じ所作を返す。

 彼は、満天姫の前ではどこまでも品行方正な夫だった。

 彼女の前では、あの日辰姫に見せたような激情は出す事なく、こうして正室として立て、敬い、気遣い――けれど、それらを見えない壁とでもするように、必要以上に心を添わせようとはしなかった。

 この屋敷で数多くの側室を抱えるのも、満天姫を屋敷のただひとりのおんなとしない為であろう。


「うむ。では、そろそろ参ろうか」


 穏やかに、そう言の葉を落とした夫は、衣擦れと共に立ち上がる。ミシ、ミシ、と畳の軋む音を置き去りにするかのように、彼は部屋を何の躊躇いもなく出ていった。


(正室として、あの方はわたくしをこの上なく大切にして下さる)


 津軽の家の内々は、全て満天姫に一任されている事からも、間違いはない。

 正室として、大切にされている。


(でも)


  ――わかっておる! わかっておるが、そなたは我が妻ではないか……!!


 あの日見せた激情こそが、彼が思う「妻」に向けられる感情ならば。


側室たつひめこそが、殿にとっての「妻」ではないの……!)


 喧噪の中、去っていった夫へと満天姫は心の中で罵った。

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