水の中の記憶

Dr.龍蔵

大橋トリオ/Lady

 水底の砂が音を立てず舞い上がって、一匹の平たい魚が暗闇へ消えてゆくのを見た。それは身に迫った脅威からとっさに逃げ出すときような、的確で、俊敏な動きであった。潜んでいたところには筆ではらったような痕跡が残されて、砂埃はまだゆっくりと僕の下を漂っている。

 うっすらした記憶が循環している中心にいて、どこかで目にしたことがあるようなこの光景を見つめていた。うすい板のような魚はみな自らを砂の中に埋めて空腹を満たす瞬間を狙いつづけ、その上自分が砂になったと信じ切っているのだった。貪欲で狡猾な連中だと僕のまわりの奴らは軽蔑したけれど、それはいつもすこし妬みを含んだ調子で、つまり自分自身を騙すほどの頑固で強い信念をもつ彼らのしぶとい処世術がこの世界では一枚上手であることを意味していた。これもまたずいぶんと前から知っているはずのことだった。それでも平たい魚を罵倒する話を耳にするたび、僕は情けなく悲しい気持ちになった。それに砂の上にひょっこり飛び出た彼らの目はあまりに鋭くて力強いので、僕にとって彼らの居場所を見つけるのは簡単なことだった。だけど今日はなんだかぼんやりして、あのひたむきな殺気のこもった目線に気づかなかった。

 温かくも冷たくもない水流が体の表面を滑り去る。僕がまだ呼吸しているのは、彼もまた今日はぼうっとうつろな気分だったのだろう、と思う。

「今日が暗かったからかもしれない」

 下に目をうつすと彼の潜んでいた場所はもうわからなくなっていた。自分の来た方を振り返ってみても無気味な暗闇が拡がっているだけだった。

 僕はまた音の無いなかをゆく。




 太陽の下に立っている。若いみどりの葉をつけた背丈ほどの草が、たがいに心地よさそうに絡みあい、そのいくつもの隙間から空がのぞいて真っ青なパズルのよう。ところどころ葉の付け根に赤い実がちょこんとのって、葉脈を滑り落ちた露に控えめな光が反射する。灰色の道は緩やかなカーブを描いて空と草のつくる地平線へと吸い込まれるはずだけど、なぜだか遠くの景色は僕の目に入らず、ゆっくり揺れ動く葉っぱから逃れられず葉の呼吸ともいうべきかすかな振動に神経を支配されているかのようだ。それから僕の方からこの繊細なリズムに合わせるように呼吸を預けると、不意に、雨が降ってくることを知り、空を見上げようとするけれど僕の目は釘で打たれたように固定されて、それでも赤い実が光っているから陽が差しているのは間違いなく、おかしいな、おかしいな、と困っているうちにやっぱり雨が降りはじめて、僕はほっとする。

 やわらかな雨にうたれているうちに、僕の目は自由になっていた。しかし今度は雨の音が聞こえず、さらには葉っぱの擦れる音も消えてしまってあたりを見まわしてみるけれど、粉のような雨粒がまっすぐ落ちていくのが上書きされただけで、その背景は前と変わらない。そこで、僕は落ちてきた雨粒は必ず大地を打ち土壌の奥底へ浸みこんでまた空へと循環していくのを知っていたので、それさえ捉えることができればと、大きく息を吸いこんでから顔を下に向けると、足元はすでに地面ではなく水面になっていて、僕の膝から下は透き通った膜に消えて無くなっていた。




 重く、鈍い響きで目が覚めた。本当に眠りのなかにいたのかはっきりせず、相変わらず心地よいぬるい流れに全身の呼吸をまかせていた。ひょっとすると眠りに落ちたのはずっと昔のことで、目は開いているもののまだ覚醒していないとさえ思われた。僕は地上のことを忘れてから、自分がどういう姿をしているのか知らない。目は横についているから、僕らをエサにしているあの平たい魚とは違う体をしていることははっきりしているが、このとき遭遇したビワの葉のような形をした魚に僕はゾッとした。彼はぽつぽつ穴の空いた黒い大きな岩に銀色の小さな頭をぶつけ、まるでそれが自分に与えられた唯一の仕事であるかのように、ひたすら頭突きを繰り返していた。岩はびくともせず何度もゴツんと音を立てて、鈍い衝動を伝えて僕の体の芯まで揺らした。

「なぜそんなことをしているんだい」

 彼は僕の声が聞こえないみたいに、口をへの字に結んで、真剣な眼差しでしきりに頭突きしていた。僕がうかつにも口にした言葉の本当の意味を、僕の頭は理解できていなかった。しかし体は知っていた。この響きが地上の世界から逃げ出した罪深き者の受けるべき罰であることを覚えていた。

「やめたほうがいいよ」

 その声は体を掠めてゆくゆったりした水流にのまれて消えてゆき、単調に繰り返される頭突きと重い衝動は、自分の姿かたちを知らずにいることが普通で正しいのだと僕に宣告するかのごとく迫ってきた。思いがけず自分の真の姿を覗き見てしまったような心持ちで、さらにこの場に置いてけぼりにされる気がしてほとんど泣きそうな顔をしていた。いまは一刻もはやくこの衝動の届かないどこか遠くへ行きたかった。

 僕はこの恐ろしい衝動から逃れるように駆け出した。目を閉じ、歯を剥き出し、どこまでも追ってくる衝動を背後に感じながら頭を空にするのに無我夢中だった。遮るものがないのは知っていた。いまはあたりの流れの向きも温度もわからなかった。まとわりついて離れない自意識を拭い去るように、はやる気持ちのまま一心不乱に駆けていった。

 不意に思い浮かんだのは露を滑らせたあの若い葉っぱだった。必死の僕にわずかに残された感覚が周囲の変化を感じとったのかもしれなかった。目を開けるとあたりはほんのりと温かい色に変わり、直前までの焦りが嘘のように静まりかえっていた。薄明かりと静寂の光景のなかにいて聞こえてくるのは息を切らした自分の動悸だけだった。鎮火した炭が噴き上げる煙のように軽い気分だった。

 四方には何も見当たらず、ただぼうっとした明かりに包まれている。不思議となじみ深い色のなかにいて僕は息を落ち着かせてから、再び記憶を巡って甘く心地よい循環に身を預けようとする。すると突然、呼吸が途切れた。息ができず、僕は水のなかにいるのを思い出し、気づけば体じゅうに草が絡みついて、ひねって、もがいて、抜け出そうとするけれど、動けばますます窮屈に縛られ、叫ぼうとしても声は詰まって、いよいよ溺れるというときに見たのはあの赤い実ーーー




 中華街の大通りを抜けると、湾に沿って長い公園が伸びている。広場には松の木が等間隔に植えられ、敷き詰められた若い芝生はいかにも造られた感じを残している。老人が海を向いた緑のベンチに腰掛けて新聞を広げ、夕暮れを確かめるようにその目をやや上方へうつし、沖を見つめる。カモのつがいが互いの距離を保ちながら並行に飛んでいる。日没は見えない。

 この公園の北側では沖に向かって桟橋が突き出し、夜になるとおしゃれに着飾ったカップルたちがベンチに並んで座って港の夜景を眺める。いまぽつぽつと、中心街を歩き終えた男女が半ば逃げ場を求めているような表情を浮かべてこの広場へやってきていた。

 前田隆も逃げるような心持ちでこの見慣れた公園を歩いていた。前田はここに集まる若者たちを羨ましく思うような人間ではなかった。むしろ浅ましいものを見ているようで、静かな怒りを含んだ目は、遠い昔に投げ捨てた夢想への未練と、それを手放すよう強いた過去の自分の強固なプライドを見つめていた。

「あなた、時を超える湖って知ってる?」

 女のまっすぐな目線と無邪気な、それでいてかたくなな信念に裏打ちされた表情を思い出す。数時間前、前田は今とは反対方向からやってきて見知らぬ女の前で立ち止まった。日曜の昼下がり、女は青のワンピースを着て松の木に背を凭せ、かすかな微笑を浮かべながら細かく砕いたクッキーをスズメの群れに差し出していた。傍らに真っ赤な日傘を立て掛け、深い青と目の覚めるような赤の対照は、主張というには控えめで、脆く、どこか悲しげに映った。女は顔をあげると一瞬驚いた表情をみせ、すぐにまた柔らかくも頑固な顔をつくって話し始めた。

「その湖では毎年新種の魚が発見されるのよ。生き物が進化するのってそんなにはやくないでしょ?数万年、数億年、うんと長い時間がかかるはずなのに、似たような魚でもからだの斑点の模様が違ったり、ヒレが余計についてたり、シッポが大きくなってたり。環境に適応して進化するなんていうけど、斑点が変わる環境ってなんなのかしらね。専門家もお手上げ、さっぱりわからないらしいわ。不思議ね。でも時を超える湖って、なんかいいじゃない。すてき。私、たまらなく好きだわ」

 その話し方に何かを期待するような曖昧さは一切なく、ゆっくり静かでありながら、恐ろしいほど着実であった。ひとしきり話し終えると手のひらの粉屑を払い落とし、満足したように立ち上がった。そして奇妙な微笑を残したまま、赤い日傘をさして去っていった。

「くだらねぇ」

 いまはスズメもいない。姿の見えないカモメが鳴いている。すこし汗ばんだ、女の細長く伸びた白い腕が前田の網膜に浮かびあがってくる。

 前田は桟橋を越え、公園端の港まで来ていた。古びた漁船が一隻、緩やかな斜面に捨てられたように乗り上げ、波止場の淀みにはコンビニのビニール袋が揺れて浮かんでいた。沖に架かる橋はすでにライトアップされていが、その光が鋭さをもつにはまだ明るすぎた。夕陽がうっすらと染めた空は濁った大気に乱れ、目に入るあらゆる光は丸みを帯びた。

 前田はしばしこの光景のなかに佇んで、直ちにこの場を離れなければならないと感じていた。そして帰路の一歩を踏み出そうとしたとき、海面に弾ける音を聞いた。その音は何かの合図のように港に響き、一匹の魚がほの暗い宙を舞った。張り裂けんばかりに体を捩り、その強烈な姿勢はすべての目線を拒絶していた。それからもう一度ムチで打つような音を立てて、痛々しい、渾身の力を振り絞った姿のまま、魚は海面に叩きつけられた。波紋が広がり、穏やかな波がそれを消していった。

 夜が徐々に天蓋を覆っていった。前田はその場で固まったように動かずにいて海を見つめていた。

 魚が二度と跳ねることはなかった。

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水の中の記憶 Dr.龍蔵 @Dryu0528

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