居酒の太宰
男は、仕事が上手くいかず、異性との出会いもなかった。趣味は酒くらいで、その日も終業後、1人、行きつけの居酒屋に入った。
カウンター席に座り、酒を飲んでいると、テーブルの端に、誰かの忘れ物があるのに気が付いた。太宰治の短編集だ。
「た…だ、しん、じ…おさむ、か」
彼は学生以来、活字とは、とんとご無沙汰だった。
「誰か、酒を飲みながら本を読むのか?酒が進むとは思えないのに」
そう独り言ちたが、
男は酒が回って、回らない頭で、文章をなぞっていくが、酔いと、慣れない活字に、内容の理解ができなかった。
諦めて、本を閉じると、すぐ横から女の声がした。
「太宰治、お好きなんですか」
彼は驚いた。いつの間にか隣に女が座っていた。彼女は若く、少し影の掛かったような美人だ。それが、まさに男の好みだった。
「だざい。そう、太宰治、好きなんですよ。貴女もですか」
「ええ。そうですよ」
「酒場で同じ趣味を持つ女性に出会えるなんて、なんともロマネスク。ここにはよく来るんですか」
「初めてです。普段は飲まないのですが、ふらっと入ってみました」
口だけは達者な男は、出会いのチャンスと、先の短編集の目次に書かれた、小説の題名を引用したり、もじったりして、会話を盛り上げた。
また、女は酒を勧めるのが上手かった。
ひとしきり会話すると、女は、
「お帰り、電車でしたっけ。夜も遅いですし、駅まで送りますよ。ちょうど家がそっちの方なんです」
「そうなんですね。じゃあ、駅までお願いします」
居酒屋を出ると夜のせいか、女の顔が暗くなった。
先程までとは打って変わって、会話が無くなった。何を言っても、彼女は「ええ」や「そうですね」など、短い一言で会話を切ってしまう。
2人が、川に架けられた橋を通りかかった時、女は久々に、口を開いた。
「あまり、人に。まして、会ったばかりの人に、こんな事を言うのも、どうかとは思うんですが。私、死のうと思ってるんです」
「えっ」
「でも、1人では嫌で、もし気の合う人と、心中できたらなって。お嫌でしたら、無理は言いません。心中していただけませんか」
「気が合うなんて、嬉しい…。じゃなくて、この川に飛び込むんですか。駄目ですって。ここ深いし、流れは速いし、なにより俺は泳げないんだ」
女の表情は変わらない。男は、もし次も入水心中をする事があれば、このボケはするまいと、心に誓った。
男は酒のせいで判断力を欠いたためか、太宰治に影響されたためか、好みの異性と死ねるならと、あっさり自殺を決めた。
翌朝、川底に男女の死体があったが、重りにした大きな石の所為で、深くに沈んだままだった。その自殺に気が付く者はいなかった。
なぜ、女は自殺を決意し、一緒に死んで欲しいと、頼んだのか。
その心中は、誰にも分からない。
よしなし小噺 橋元ノソレ @UtheB
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