第17話 でも、誰も報われない

「私の名前はアリサ。ここから北に数キロ離れた街で夫と息子、ローズと三人で暮らしていたわ。

 生活は恥ずかしながら裕福ではなかったわ。でも、愛する夫とローズと、三人で毎日楽しく暮らしていた。

 ローズは少し内気な子だったんだけど、友達にも恵まれて、毎日とっても楽しそうに遊びに出掛けてた。

 あの日、までは」


 あの日。

 ローズとアリサが離れ離れになった日。

 理由は恐らく、


「あの日、夫が旅立った」


 夫の死別。それもきっと、疫病のせいだ。


「私達の生活費を稼いでいたのは夫だったの。夫がいなくなって、私達の生活は一変した。毎日の食事にもありつけないような暮らしをずっと送っていた。貸家は所有者に差し押さえられて、橋の下で野宿した日だって少なくなかった。

 決断は迫られていたわ。ローズ、みるみる体重が痩せていってね。皮と、骨だけのような風貌になってしまったの。

 私はそんなあの子を見て、自分の無力さに絶望して、でも息子を不安にさせないために気丈に振舞って。そんな生活を続けていたら、おかしくなってしまったの。今でも後悔している。どうして狂ってしまったんだろうって。どうして逃げ出してしまったんだろうって」


 小高い丘に風が吹き抜けて、アリサの髪を揺らした。


「雨の日だった。私、おかしくなっていたの。

 傘も差さず、ローズの手を引いて、この街に来たわ。

 私、ローズに行ったの。

 あの食べ物を盗んできてって」


 アリサの頬に、涙が伝った。


「あなたも私も、このままでは永くない。でも、私が盗みをすれば犯罪なの。

 だから、盗んできてって。

 あの子、戸惑っていたけど、私の言うことを聞いてくれたの。幸い店番はいなかった。うまくいくと思ったのよ。

 でも、うまくいかなかった」


 僕は思わず、目を閉じた。彼女とローズの当時を想像すると、それだけで言い様のない絶望感に襲われた。


「『なにやってんだ』って、それはもう凄い剣幕で店主がローズの腕を掴んだの。その時、ローズと目が合ったわ。

 気付いたら私は、最愛の息子を置いて逃げ出していた。

 しばらく全速力で走ってから、背中に聞こえたわ。

 『助けて、ママ』ってね。でも私は、ローズに助けに行かなかった、怖かったの。裁かれることが。

 その後、あの子がどうなったかは、知らない」


「……そして、疫病に感染し、死を悟って、ローズを探しにこの街にまた訪れたのか」


「ええ、そう」


「その店には行ったのかい」


「行ったけど、もうつぶれていたわ。多分店主も他界したのね」


「……それで孤児院か」


 一連のアリサの行動に合点がいった。といってもほとんど予想の範疇だ。人が死ぬのが当たり前になりつつあるこの世界では、こういった事例は少なくないのだろうと考えていたが、正解だったらしい。あまり、嬉しくはないのだが。


「ええ、でもこの街には孤児院はないんでしょう?」


「孤児院はない。でも、身寄りのない子供を保護する場所はあるそうだ」


「本当?」


 アリサの瞳が変わった。生気のなかった目から、藁にもすがるような、たぎる瞳だった。


「うん。ごめんなさい。意図を汲み取りきれなくて、昨日は悲しい思いをさせちゃったよね」


「いいえ。私の方こそ」


 自らの無礼な態度を思い出したのか、アリサの歯切れは悪かった。


「とにかく、教会に行きましょう。ローズ君、いるかもしれない」


 そう言って、僕達はリリー案内の元、この街の教会にやってきた。教会は、木造で建てられていた。築年数が長いのか、あちこち木の板が傷んでいる。随分前に人が去ったと言われても、驚きはしないような有様だった。


「司祭様は?」


 リリーは黙って首を横に振った。


「今は先代様が復帰されたわ。でも、もう七十近いから、修繕なんて簡単に出来る状態じゃないの」


「街の人達は手伝ってくれないのかい」


 そう尋ねると、リリーはとても暗い顔をした。


「色々とあるんだ」


 含みのある言い方で誤魔化した彼女に、僕は詰問することはなかった。こういう時の家主が頑ななのは、短い間だが共に暮らして理解していた。

 

「よし、入ろうか」


「待って」


 話を変えるべく、教会への訪問をしようとした僕だったが、今度はアリサに制止させられた。


「何?」


「待って。少し、物陰から様子を見させて」


 アリサは向こうの茂みを指差した。あそこから教会の様子を観察しようと持ちかけているのだ。


「おいおい、いるかいないか確認すれば済む話だろう」


 そう僕は言ったが、アリサは頑なだった。まったく、この世界の女性陣は我が強くて困る。


「お願い」


 結局僕達は、アリサの剣幕に押し切られて、まるでやましい感情を持った変質者のように、茂みに隠れて教会の様子を伺った。

 ただ、待てど待てど誰かが教会に入る様子はなかった。出る人もいやしない。本当に、あの教会に人は住んでいると言うのだろうか。

 そうして待っている内に、昼が過ぎた。


「お腹減ったし、ご飯にしようか」


 そう言ったのはリリーだ。

 本来、今日はアーニャの四十九日。昼過ぎまで色々とする予定だったので、昼食の準備も行っていた。


「ほら、アリサも」


「それは元々二人の物でしょう? 私はいいわ」


「大丈夫。私食が細いから。ほら、食べて」


 こういう時、リリーは気が利く。

 明らかに栄養失調気味なアリサは、受け取ったサンドイッチをそれはもう美味しそうにほおばった。


「ありがとう」


「ううん。全然」


「……僕の分も食べるかい?」


「いい」


「それはオリバーが食べて」


 気が引けてアリサに勧めたが、二人に拒絶された。非常に食べづらいことこの上ない。

 そうして昼飯を取って、数時間張込みを続けた。ただ、成果はない。老若男女問わず、誰も教会に足を踏みいれる気配はなかった。


「……ローズ、ここの教会にはいないのかもな」


 長いこと待ちぼうけを食らって、恐らくこの場にいた三人が共通の見解を抱いた頃、僕は言った。

 二人は、俯いて何も言わなかった。答えはわかっている。しかし、諦めきれない、ということなのだろう。


「ごめんなさいね」


「何が」


「二人の貴重な時間を奪ってしまって」


「いいよ、そんなの。好きでやったことだし」


 そう言うと、アリサは小さな声で「ありがとう」と呟いた。

 葉の隙間から、木漏れ日が差し込んだ。陽の光も赤くなり始めている。もう夕暮れも近い。


「……うっ。っ」


 アリサから嗚咽が漏れた。

 最愛の息子との再会も果たせず、彼女は逝くことになる。なんて、惨いのだ。

 その時、向こうの通りから子供達の声がした。楽しそうにはしゃぐ声が、した。

 無邪気なものだ。

 何の罪もない子供達を、僕は内心皮肉った。酷い大人だ。でも、この感情の行き場を僕は見失っていた。

 子供達の声がどんどん大きくなってきた。


「教会の子供達みたいだね」


 リリーが言った。

 ああ、本当に子供達がいたのか。

 半ば疑問だった事実が証明された。

 子供達が教会に入っていく様子を眺めながら、僕はそんなことを考えていた。


「……オリバー」


 その時、アリサが呟いた。

 教会内に入る子供の一人に、息子を見つけたのだ。


「ど、どれ」


「あの金髪の子」


 震える手で、アリサは男の子を一人指差した。その先には、金髪で周りの男子よりも一回りくらい背の高い男が立っていた。あれがオリバーか。

 身振り手振りを見る感じ、彼は年長者で小さい子のお守りをやってあげているように見えた。


「って、アリサ。早く」


「そ、そうよ。オリバー君に会わなきゃ」


「え……あ……」


 言われて気付いたのか、アリサは立ち上がろうとした。

 膝を伸ばして、腰を起こしたその時、彼女の動きが止まった。


「アリサ?」


「おい、早くしないと……」


 ガシャン

 オリバーの姿は教会に飲み込まれて、重い扉は音をたてて閉められた。


「アリサ」


「ずっとわからなかったの。どうして死を悟って、ローズにもう一度会いたいと思ったのか」


「何が」


「それがようやくわかった」


「え?」


「ありがとう、二人とも」


「ま、待てよ。アリサ。ローズはあそこにいるんだろう」


 逃げ去ろうとするアリサを静止するために、彼女の腕を掴んだ。彼女は微動だにもしなかった。


「アリサ」


「いいの」


 アリサはきっぱりと言い放った。


「私、怖かったんだ。ローズに憎まれているんじゃないかって。自らを犯罪者に仕立て上げて、あまつさえ置いて逃げていった私を憎んでいるんじゃないかって。

 あの子、あんなに幸せそう。

 私、今あの子の笑顔を見て、安心しているの。どうしようもなく、安心しているの」

 

「あの子の親だから、とか、そんなの関係なかった。この世を去る前に、私はただ自分の犯した罪が許されないかとずっと考えていたの。

 それはきっと、叶った。

 だってあの子、あんなに幸せそうなんだもの。

 ……だから、もういいの」


 頑ななアリサの意思に、僕達はもう口を挟むことは出来なかった。

 教会から帰る道中、僕達の姿を振り返りたくないのか先導して歩いているアリサの背中を、僕はずっと眺めていた。

 安心した、と彼女は言っていた。でも彼女の背中は、そうはとても見えなかった。亡霊にでもとり付かれたようにフラフラと歩く姿は、何か大切な物を失った人が見せる、悲しみのような物を感じさせた。


 アリサは、それから三日後に光となって消え去った。ローズに別れも告げられぬまま、一人寂しくこの世を去った。


 リリーは彼女の死を憂いて、小高い丘に彼女の墓を建てるよう取り計らった。

 無事、彼女の墓が立つと、彼女を弔うため、僕達は朝早くに家を出た。


「……あ」


 彼女の墓には、先客がいた。


「あなた達は?」


 ローズだった。


「知り合いだよ、アリサさんの」


「そうですか」


 機転を利かせてローズに言った。ローズは疑う素振りを見せなかった。

 ふと、ここで彼の素性を聞かねばならないのでは、と僕は思った。僕達は初対面。彼がローズであることを、僕が知っているのはおかしい。


「君は?」


 言ってから、恐ろしい質問をしたことに気がついた。

 アリサは最期、ローズを見捨てた罪を許されたと信じてこの世を去った。もしここで彼の口から、アリサに対する恨みの言葉でも漏れたなら……。


「僕、ですか」


 ローズは、少し困ったように天を仰いで唸った。しばらくして、彼は少しはにかんで、


「アリサの最愛の息子、ですよ」


 照れくさそうにローズは言った。

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