番外編:エイプリルフール企画「春が来る」
春が来る
この世界の春は寒い。
俺がいた世界、いや俺の育った南の国では、春と言えばもう十分に暖かいものだった。
白い花が水辺にたくさん咲く季節で、水はまだ冷たいが、花を眺めるのにはいい季節だ。
そもそも年じゅう暖かくて、俺の覚えている限りある一年を除いては、冬でも寒かったことがない。
だがここでは、冬から春は暖かい格好をしておかないと寒いのが普通らしい。
広縁に座って、庭に咲く薄赤い花を眺めながら茶を飲んでいると、雪江がすとんと隣に座った。
さっきまで親類といろいろ話し込んでいたが、そろそろ一段落したらしい。
何かを片手に持っていた雪江は、それを俺の方に差し出してきた。
「ねぇザグ、この小説知ってる?」
「なんだ?『ボイドの手帳』…… これがどうかしたのか?」
「この小説の主人公がね、なんだかザグに似てるって叔父さんが貸してくれたの。ほら、いきなりここに来たらみんなびっくりするかもって話してたけど、あんまり驚いてなかったじゃない」
「ふうん、そんなに似てるのか」
「私もまだ読んでないから分からないけど、この人ってオークが出てくる話ばかり書いてるんだって」
雪江はそう言うと、庭に視線を移した。
ぽかぽかと陽の当たるこの広縁は暖かく、俺でも過ごしやすい場所だ。
俺が寒がりだと知っていた雪江の叔父という男は、到着するなりここへ俺を案内してくれた。
会った事もない俺の事を多少なりとも知っていたのは、この本のお陰らしい。どこの誰だか分からないが、俺たちの話を書きたがるような物好きな人間もいるのだ。
「アンズが咲いてるわね。この花が咲くともう春だって気がするわ」
庭を眺めていたユキエは、囁くようにそう言った。振り向くと、雪江はどこか懐かしむような、少し寂しそうな、遠い目をしていた。
「アンズ? あの薄赤い木の花の事か?」
「そう。小さい頃からあった木でね。よく父が手入れをしてたから、毎年すごくたくさん咲いてたの」
「オヤジさん、木が好きだったのか?」
言われてみれば、この家の庭はさほど他の家より広いというわけでもないが、そこかしこに草木が茂っていた。
まだ枝の先に芽が出ているだけの木も多いが、すでに緑の葉が地面を覆っているし、小さな花が咲いている木もある。
「うん。木も草も、花が咲くものはみんな母が好きだったの。父は母が植えたがったものは何でも植えてたわ」
「そうか。仲が良かったんだな、いい夫婦じゃねぇか」
「仲が良すぎて、逝く時も一緒だったけどね」
「……そうか」
突然の一言に、俺は何と言っていいのか分からなくなってしまった。
雪江の両親は十年以上前に、二人同時に事故で死んだと聞いている。
彼女がその寂しさを忘れたくて、受け入れられずにずっと苦しんで来たことも。
「あっごめん、別に変な意味じゃないのよ。たださ、最後の瞬間は苦しかったのかも知れないけど、天国では離れ離れにならなくて良かったのかも知れないって、最近は思うのよ」
「雪江」
名前を呼ぶと、ずっと庭を見ていた雪江は驚いたように振り向いた。
俺はいつも、雪江のことは「ユキ」と呼んでいる。俺の育った村での習慣で、名前をそのまま呼ぶのはどうしても憚られたからだ。彼女はもちろんそれを知っている。
だがそれではいつまでも、彼女の心の深いところに言葉を届けることが出来ない。最近、俺はそう思うようになっていた。
「誰かに側にいて欲しいなら、俺はちゃんとここにいる。お前より先には死なない。でも同時にも死なない」
「ザグル……?」
「俺もお前を見送ったら寂しいと思う。でも雪江とこうやって過ごした時間は一生なくならないんだ。俺にとって大事なのは、そこにお前がいたってことなんだよ。俺はそれを、死ぬまで大事にしながら生きるつもりだ」
俺はぐっとこぶしを握り締めて、雪江の胸にそっと当てた。
相手に心を、信頼を、願いを預ける時の、俺たちの村でやっていた習慣だ。
雪江に通じるかどうかは分からなかったが、視線をそのこぶしに落とした彼女は、ややして不意に顔を上げると涙を浮かべた。
「ごめん、ごめんザグ。また心配させて……!」
「うおっ!!」
いきなり飛びつくように胸元に抱き着いて来た雪江に、俺はひっくり返りそうになった。
何とかその細い体を受け止めると、彼女は泣きながら子供のように顔を押し付けて来た。
普段は滅多に自分から甘えにこない雪江が、完全に身を委ねてくるその姿に、俺は一瞬で頭が沸騰しそうなほど熱くなる。
そのまま両手でかき抱きたくなるのを堪えて、なるべく柔らかく抱き返し、彼女の頭をぽんぽんと叩いた。
「お前がまだ辛いのは分かる。けどまぁ、もう春なんだ。雪は解ける季節だろう?」
そう言うと、雪江は少し身じろぎして俺の顔を見上げ、そして庭に視線を戻した。
花の盛りのアンズの木は、なにか言いたそうに風に枝を揺らしている。
彼女の両親が植えて育てた木だ。その大切な子だと知っていて、動けない身でずっと彼女を案じてきたのかも知れない。
家に着いた時から俺は、その木が久しぶりに帰って来た雪江を歓迎して花を咲かせているような、そんな気がしてならなかったのだ。
「そうね、そうだった。私には両親と過ごした記憶もあるし、この庭だってある。もう春が来る、ってまた教えてくれる人もいるんだわ」
うん、と一つ頷くと、雪江は俺の手の中で少し笑った。
涙の伝った頬を両手で拭い、体を起こした彼女に合わせて、俺は少し腕を緩める。けれど雪江はそれ以上離れようとせず、温もりに浸るように体の向きを変えて俺の膝の間に座った。
その肩に腕を絡めて、俺も庭に視線を戻す。
少し暑いほどに温かくなってきた広縁で、俺たちはそのまましばらくアンズの花を眺めていた。
稀人オークと三十路の乙女 しらす @toki_t
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